2020年12月1日火曜日

「ひと隅」を描くワイエスとシーラー

Stairs,  Wyeth and Sheeler

ワイエスの絵だが、物置の開いたドアの向こうに階段がちょっとだけ見えている。ワイエスにはこのような家の中のひと隅を描いた絵が多い。


これは写真家であり画家でもあったチャールズ・シーラーの影響だったといわれている。この絵がそうで、やはり開いたドアの向こうに階段が見えている。こういうモチーフを絵にすることはそれまで無かったが、シーラーは写真的な眼をもって、技法的にも幾何的正確さで描いている。


シーラーにはこの種のモチーフがとても多い。これも開いたドアの向こうに階段が見える。あるいは階段そのものを描いた絵もいくつかある。直線だけで構成された建物の空間を表現するのがテーマで、シーラーがモダニズム絵画の先駆けといわれるゆえんだ。




2020年11月29日日曜日

チャールズ・シーラーの写真と絵画

 Charles Sheeler,   Photograph and Painting

写真家であり画家でもあったチャールズ・シーラーは、工場をモチーフを撮影し、同時に絵を描いた。1 9 3 0 年代に近代工業の中心地として繁栄していた、自動車のデトロイトや鉄鋼のピッツバーグなど(もちろんまだ「ラストベルト」ではなかった)を対象にした。それまでは絵のモチーフとして目を向けられていなかった工場や運河や鉄道といった「産業」をテーマにした。


後期になると、写真で工場の形を抽出して、それを幾何的な図形として構成していく絵になっていく。


ニューヨークの高層ビルもモチーフにした。やはり写真を材料に使って絵を描くが、ますます抽象的になっていく。しかしベースはあくまで写真であり、写真を撮るとき、すでに絵のことを意識した撮り方をしていることがわかる。写真を利用して絵を描くことは普通に行われているが、シーラーのやり方はとても参考になる。


2020年11月26日木曜日

究極の ”ピクセル絵画” 「吉村芳生展」

 Yoshimura Yoshio


吉村芳生は色鉛筆で超細密画を描いた。ポスターの藤の花は7mを越す大作だがやはり色鉛筆しか使っていない。その大きさに対して花びらは1cmくらいだから、小さいドットの集まりに見える。「ピクセル化した絵画」をさらに徹底したのが、「ジーンズ」で、8 0 号の大作だが、2mm 角くらいの微細なピクセルで埋め尽くされている。ただし小さすぎてピクセルには感じず、普通の細密描写のように見える。

工程はこんな感じ。まずジーンズの白黒写真を絵のサイズと同じ大きさに拡大する。その上に縦横線を引いて細かいグリッドを作る。各マス目ごとに色の明度によって0から9までの10段階の数字を記入する。ついで紙にも同じグリッドのマス目を作り、マス目の中に写真に記入した数字の本数の黒線を引いていく。少ない本数は明るくなり、多い本数は暗くなるから、写真と同じ明暗が再現されていく。

「ピクセル」は画面を細かい正方形に分割し、各マス目ごとに色を割り振って埋めていくことで画像を作るものだが、全く同じことを手でやっている。人間の感覚を介入させるところがひとつもない、ディジタルなプロセスだ。

「吉村芳生展」 横浜そごう美術館 〜12 / 6 


2020年11月24日火曜日

「ピクセル化」した絵画

"Pixel"  Painting

スーラの点描画の代表作「グランド・ジャット島の日曜の午後」の部分拡大図をさらに拡大するとドットの一つづつがはっきり見えてくる。この2mmくらいの小さな点が2m × 3mの画面を埋め尽くしている。現在の高精細画像モニターに匹敵する高解像度だった。スーラは絵画を「ピクセル化」した先駆けだった。


ヴィック・ムニーズという現代画家は、歴史的名作絵画をピクセル化した作品をたくさん描いたが、スーラの「グランド・ジャット島の日曜の午後」も描いている。スーラよりずっと粗いピクセルにしているが、ピクセルはジグソーパズルのピースの形をしていて、絵はパズルが完成した状態のように描いている。


ピクセルをさらに粗くしていくと、形が見えなくなるモザイク写真になる。サルバドール・ダリは「2 0 メートル離れるとエブラハム・リンカーンの肖像に変容する地中海を見つめるガラ」という長い題名のモザイク画を描いた。題名の通り2 0 mくらい離れて見るような小さいサイズで見ると確かにリンカーンの顔が見えて来る。


モネは筆触分割という手法で、スーラよりさらに早いピクセル化の先駆けだったが、そのモネの「ルーアン大聖堂」シリーズの一枚を、アメリカン・ポップアートのロイ・リキテンシュタインがピクセル化した。新聞の網点写真のように粗いドットで描いている。


ドイツの現代画家ゲルハルト・リヒターは、様々な手法を使って写真と絵画の融合を試みたが、この「アブストラクト・ペインティング」では、粗いピクセルで描いている。このモザイク画像から何の形が見えるか。答えは「無し」。ピクセルそのものをモチーフにしているが、具象的な形の無い単なる抽象絵画だ。カラー・チャートを並べただけのような反絵画的な絵画に行き着いた。



2020年11月22日日曜日

「階段を降りる女」の写真と絵画

「Go down the stairs」Photograph and Painting

1 9 世紀末に、エドワード・マイブリッジという人が写真の革命を起こす。感光材料の感度が低いため超スローシャッターでしか撮れなかった当時、高感度の感光材料を開発し、高速シャッター撮影を可能にした。その結果、連写ができるようになり、実験したのが有名な走行する馬の撮影だった。馬は常にどれか一本の脚が地面についていると思われていた通説を覆し、脚が4本とも宙に浮いている瞬間があることを証明した。

マイブリッジは人間の動きについても様々な連写撮影をする。「階段を降りて曲がる」(1 8 8 5 年)などだ。これらの各コマをパラパラマンガ式につなげれば動画になるが、まだ映画が生まれる以前の時代だった。


写真が捉える「動き」が絵画に大きな影響を与える。マルセル・デュシャンの有名な「階段を降りる裸体 No,2」(1 9 1 2 年)は明らかににマイブリッジの写真からヒントを得ている。連写の一コマづつを重ねることで、絵画という静止したメディア上で「動き」を表現している。


時代はとんで、2 0 世紀ドイツの現代画家ゲルハルト・リヒターは、マイブリッジやデュシャンと同じテーマの「階段を降りる女」(1 9 6 5 年)を描いた。しかしこれはデュシャンのように静止画像を重ねるのではなく、連写の一コマに、その前のコマの残像を浸透させる(階段とスカートが溶け合っているなど)ことで動きを感じさせている。再生している動画にストップ・モーションをかけた瞬間のような感覚がある。映画の時代の「動き」の表現だろう。

2020年11月20日金曜日

名画の遠近法 ⑧「曲がり角」

Perspective in Masterpieces  「Street Corner」

松本竣介は戦前日本の東京の街を寂寥感溢れる心象風景として描いたが、この「市内風景」は曲がり角を描いている。普通は画家自身が道路を歩いている視線で描くことが多いが、これは曲がり角を反対側から描いている。だから道路も家も2点透視になっているが、このような構図は比較的珍しい。


一直線に先まで見通せる大通りより、ちょっと脇へ入った小道の方が散歩するには楽しい。曲がり角が多く、この先に何があるのかといった期待感がわく。風景画でも、一点透視の絵よりも曲がり角の絵の方が変化があって面白い。これはユトリロの例。左側の塀に沿って歩いて来ると、左へ緩く曲がる曲がり角があり、そこを曲がると塀に隠れていた建物が道の両側に見えてきた。さらにその先は右に曲がる曲がり角があるようだ。ずっと歩いて行ってみよう・・・絵からユトリロの気持ちが伝わってくるようだ。

右側の建物の消失点(VP1)と左側の消失点(VP2)が異なるので、左側の家は曲がり角の途中にあることがわかる。塀は曲がり角の手前なので、さらに違う消失点(WP3)になっている。なお向こうを歩いている人物の頭がきちんとアイ・レベル上に乗っていることから、ユトリロの遠近法の正確さがわかる。

ポール・デルヴォーは不可思議な絵が多いが、この「人魚の森」は曲がり角を描いている。左側の建物は途中でくの字型に曲がっていて、それに沿って女性が並んで座っている。ここは狭い路地だが、その先は明るく広い道になっている。路地を通り抜けて明るい道に出た男が遠くに見えている。デルヴォーはマザー・コンプレックスだったそうで、母が死んだ時やっとそのプレッシャーから解放されたというが、その心理状態を描いているのかもしれない。

建物が曲がっているので消失点は二つできているが、女性たちの並びもそれぞれの消失点に向かっている。アイ・レベルは女性たちの胸のあたりで、かなり低い位置にある。だから両側の女性たちから見下ろされているような圧迫感を感じる。これもやっとのことでこの道を通り抜けたデルヴォーの心理状態の現れかもしれない。


キリコの「通りの神秘と憂鬱」は、暗い道から明るい道へ曲がる曲がり角を描いている。曲がると広場があるようだが、そこに何があるかは建物に隠れて見えない。ただ巨大な人間の影が見えていて、不吉な予感がする。そこに向かって少女が無邪気に駆けていく。この絵は第一次世界大戦が始まる1年前に描かれていて、キリコ自身の、先行きの見えない世界への不安感を描いているという。

左側の建物の消失点(VP 1)とは別のところに右側の建物の消失点(VP 2)があるのは、右側の建物が左の建物に対して 9 0 度の関係だから当然だ。しかしそれは左右方向のずれに関してで、絵は上下方向にも消失点がずれている。だから二つの消失点は同一のアイ・レベル上に乗っていない。こういうことは地面がねじれてでもいない限りありえない。歪んだ風景をあえて描いているのがこの絵のもたらす不安感のもとだろう。


2020年11月18日水曜日

「デジタル化」する絵画 筆触分割、 点描画、記号化

 Digitalization of painting   "Broken Brush Strokes"  "Pointillism"  "Symbolization"

筆の痕跡を残さないように、滑らかに塗りこめるのが良い絵画だったが、その伝統とは異なる絵画表現を試みたのがモネだった。細かい線や点で画面を分節化する「筆触分割」と呼ばれる方法だ。これによって、形が無く、動きながら刻々と変化する「水」や「大気」のきらめきを捉えることができるようになった。


スーラがそれをさらに極限化して、水や大気だけでなく固体までも全てを細かい「点」だけで描く点描画を始めた。代表作の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は2m ×3m の大作だが、全体を微細な点で埋め尽くしている。デジタル技術では、画面を小さな区画に細分化して、そこに色のドットである「ピクセル」を並べることで画像を作る。例えば 1 0 0 インチの高精細プラズマディスプレーでは、2 0 0 万個のピクセルによって画像が構成されているが、スーラの絵はそれに匹敵する高精細画像だという。(「絵画の進化論」より)


モンドリアンの「コンポジション No,10 埠頭と大洋」は、海の絵だが、水面のきらめきを短い縦線と横線だけで描いている。波のない平らな海面の白と、きらめく波の短い黒線とで構成している。中間調のない「0」と「1」のデジタル画像だ。線はプラス記号であったり、マイナス記号であったりして、海の表情を「記号化」してしまった。記号化によって、絵画は「非自然化」し「抽象化」していった。