2020年2月29日土曜日

モナリザが "振り袖" を着ているとは知らなかった・・ 「袖が語れば」が語る話

"Si on parlait de Manches"

「袖」という小さなアイテムの歴史が、古今東西の文化史になっていて、次々に連発で面白い話が出てくる。著者の竹原あきこさんは永らくパリでデザインの研究者として活動している。

15 世紀のイタリアで、日本の振り袖に似た長い袖のファッションが、男女問わず流行したという。袖は地面を引きずりそうなくらい長いが、振り袖と同じで、そこに腕を通すわけではなく、本当の袖の下にぶら下がっている単なる飾りだった。ダ・ヴィンチの「モナリザ」で、肩にかかっているマフラーのようなもの(そんなところは全然見ていなかった)は、実は振り袖で、邪魔なので普段はこのように肩にかけていたらしい。



2020年2月27日木曜日

映画「ジョーカー」とキリスト的人間像

"Joker"

すごい映画だった。今年のアカデミー賞の有力候補だったのに、東京都内でもたった3館しか上映しておらず、しかもガラ空き。某韓国映画に賞が行ってしまったせいか?

内容は控えるが、気付いたことがある。ラストで、市民の暴動に巻き込まれた主人公が、押しつぶされた車の中て死んでしまう・・・のだが、人々に引っ張り出されると生き返る。そして車の屋根に立って両手を広げると、デモ隊から大歓声があがる。この十字架のポーズから、監督は、主人公をキリスト的人間として描いていることが分かる。

カナダ人の聖書学者が書いた「ハリウッド映画と聖書」を読んでいたおかげで、それに気付いた。同書によれば、ハリウッド映画には「キリスト的人間像」の主人公がたびたび登場する。「キリスト的人間像」とは、虐げられた人々を「救済」し、自らは犠牲になって処刑される「受難」と、最後に再び生き返る「復活」、という聖書のキリストの物語を、形を変えてなぞっている主人公を指す。しかしそれは説明されるわけではなく、映像で視覚的に、シンボリックに表現される。それが両手を広げた十字架のポーズだという。そして多くの場合、主人公は一見、聖書やキリストとは無縁な人間なので、このポーズを見過ごすと、監督の意図に気付かない。この「ジョーカー」の主人公も映画の中で計7人も殺す ”悪人” だからなおさらだ。

同書は「キリスト的人間像」の主人公が登場する映画の例を3つあげている。彼らはいずれも、救済・受難・復活を経て、ラストシーンで十字架のポーズをする。

「グラン・トリノ」 誰彼構わず口汚く罵り、教会の牧師にも悪態ばかりついている頑固な年寄りが、最後に隣人の移民一家を救うために、自分の命を犠牲にする。

「ショーシャンクの空に」 無実の殺人罪で刑務所に入れられた主人公が、他の受刑者を援助し、喜びと希望を与え、最後に脱獄に成功する。

「主人公は僕だった」 執筆中の小説の主人公にされてしまった男に小説の通りのことが起こる。最後に死ぬストーリーにされ、実際に子供を救おうとしてバスに轢かれる。

2020年2月25日火曜日

「イミテーション・ゲーム」の意味  人間のふりをするコンピュータを見破る

Imitation Game

「イミテーション・ゲーム」はすごい映画で、繰り返しDVDで見てしまうが、かんじんの題名「イミテーション・ゲーム」の意味を誰も説明していないので、分からないでいた。

第二次世界大戦中、ドイツ軍の暗号を解読して、イギリスの勝利に貢献した天才数学者のアラン・チューリングの実話にもとずくドラマだが、当時まだ名前さえなかった「コンピュータ」を発明することで、それに成功した。しかし戦後になってチューリングは同性愛の罪で逮捕されてしまう。最近になって、イギリス政府がその非を認めて、名誉回復され、コンピュータの父と呼ばれるまでになった。

科学技術の進歩が人類の未来に何をもたらすかについて書いた「ホモ・デウス」を読んでいたら、偶然アラン・チューリングの話が出てきて、「イミテーション・ゲーム」の意味がやっと分かった。チューリングは、将来コンピュータが高度に発達して、人間と区別がつかなくなった場合、どうやってそれを見分けるか、その方法として「チューリング・テスト」というものを提案した。会話している A と B のどちらかがコンピュータで、それを別室で聞いている C が、どちらがコンピュータかを判別できるか、というテストだった。判別できなければ、そのコンピュータは人間に近いことになる。それは人間のふりをしているコンピュータを見破る方法なので「イミテーション・ゲーム」とも呼ばれた。映画の題名はそこからきている。(チューリングが同性愛者でないふりをしていたことと重ねている。) それにしても、 AI 時代の今ではなく、 1950 年代のことだからすごい。

そういえば「ブレード・ランナー」でも、見た目が人間と見分けがつかない犯罪ロボットを取り調べる捜査官が、感情を刺激する質問をして、「心」のある返事をするかどうかでロボットか人間かを見分けようとするシーンがあった。

2020年2月23日日曜日

カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの世界観

Casper David Fredrich

ある電機メーカーの広告に使われている写真だが、人物(たぶん合成)の効果で、「風景」が「人が見ている風景」に変わる。ドイツ・ロマン主義の巨匠カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの「雲海の上の旅人」を思い出した。

印象派などは特にそうだが、絵は自然を美しく優しいものとして描く。だがフリードリッヒは、崇高で畏れ多い、人間を超越したものとして自然を描いた。近寄り難い存在なので、第三者的に外から見ている。だから風景を見ている後ろ姿の人間を描いている。







代表作の「海辺の修道士」でも、暗くなりかけた空に向かって修道僧が祈っている。崇高な自然と、ちっぽけな人間が対比されている。

2020年2月21日金曜日

「ロベール・ドアノー展」

Robert Doisneau

1950 年代に活躍したロベール・ドアノーの回顧展。パリの庶民の日常生活をユーモア溢れる視線で撮っている。ほとんどがスナップ・ショットだが、時には演出もあったようで、有名な「市役所前のキス」は知り合いの学生カップルに演技してもらったそうだ。ソール・ライター(こちらはニューヨクだが)と共通して、鋭くやさしい観察眼が魅力的。(横浜そごう美術館)


2020年2月19日水曜日

映画「1917」

「1 9 1 7」&「They Shall not Grow Old」

第一次世界大戦の戦争映画だが、全編1カットで撮られている。カメラが主人公を切れ目なく追い続けるから、観客もリアルタイムで同じ体験をしているように感じる。塹壕の中を歩く長いシーンがあるが、1カットで撮るのに必要な数キロの塹壕を、本当に掘ってしまったというから驚く。しかもそれがリアルに出来ていて臨場感がすごい。(写真はメイキング映像より)

このあいだ観たばかりの、「彼らは生きていた」が、やはり第一次世界大戦の映画なので、両方を比較してしまう。こちらは当時の白黒の記録フィルムを編集したドキュメンタリー映画。こちらも塹壕のシーンが多いが、100 年前の未熟な撮影技術でも、本物の塹壕だから「作られたリアル」よりずっとリアルだ。(写真は予告編より)

2020年2月17日月曜日

「澄川喜一 そりとむくり」展

SUMIKAWA Kiichi

彫刻家 澄川喜一の回顧展。日本刀のような緊張感のある「そり」の形が美しい。東京スカイツリーのデザイン監修も手がけた。正三角形の基底部から正円の上端部へと断面形状を変化させていくことによって、微妙な「そり」が生まれている。(横浜美術館)

(写真は同氏ホームページより)

2020年2月15日土曜日

「バルセロナ展」を鑑賞

Barcerona

東京ステーションギャラリーで開催中の「バルセロナ展」は、ピカソ、ミロ、ダリ、などがパリで活躍する前の、バルセロナでの若い時代の作品を見ることができる。ピカソの素描「座る若い男」などもある。天才たちを育んだ芸術都市バルセロナの歴史と、そこで生み出された建築や工芸やポスターなど多彩。ガウデイの椅子を初めて見た。


2020年2月13日木曜日

「美しいテクスチャー」コレクション


直島(四国)の民家の壁や塀は、表面を焼いて炭にした板を使っている。黒々した家が珍しいが、近ずくと不思議なテクスチャーをしている。

東京駅内のステーション・ギャラリーの壁面に駅建設時のままのレンガが使われている。ところどころ意図的に打ち欠いていて、レリーフのように美しい陰影を作っている。

ランプシェード。銀糸を紙すきのような方法でシートにしている。密度が高いせいで、隙間から透過する光が柔らかい。

葉脈を接写。名前は知らないが、血管が浮き出たような動物的な感じがする。

サビて塗料がめくれた鉄格子。よく見かけるが、こんなに盛大なのは珍しい。

2020年2月10日月曜日

「永遠のソール・ライター」展を観た

Saul Leiter

街角で見かけたなにげない人たちを、比較的遠くから望遠レンズを使って、のぞき見的に撮っている。スナップ・ショットなのに、構図や色彩が、あらかじめ計算して撮ったように見事。”画家の目で撮った写真”というのが納得できる。今では死語になった白黒の「密着プリント」があったのも懐かしかった。( BUNKAMURA、ザ・ミュージアム)





2020年2月8日土曜日

「隣の芝生は青い」と「人の芝生に入るな!」の話

"The grass is always greener on the other side" & "Get off my lawn ! "

芝生の庭は、もともとはヨーロッパの金持ちがやっていたのがアメリカへ伝わり、庶民の憧れの的になったという。人をうらやむ時の「隣の芝生は青い」というのはアメリカが発祥の諺で、芝生が裕福な生活のシンボルになっていることが分かる。

芝生の庭はアメリカ映画にしょっちゅう出てくる。クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」で、リタイアした年寄りの主人公の家が、デトロイトの比較的貧しい人たちの住む地域なのに、芝生の庭がある。一日中ビールを飲んでいるばかりの主人公だが、芝刈りや水やりはしっかりやっている。近所のチンピラが敷地に入ってきた時「人の芝生に入るな!」と怒鳴るシーンがある。

アメリカ在住の映画評論家の町山智浩が面白いことを書いている。このシーンの「Get off my lawn !」で、観客から笑い声が起きたという。これは頑固爺さんが、庭に入った近所の子供を叱る時の決まり文句だからだそうだ。「コラ!  ガキども、わしの芝生から出て行け!」というニュアンスらしい。それだけ芝生は大事なものということだ。

そういえば、ロサンジェルスは雨がほとんど降らなく、ガソリンより水の方が高いのに、どの家にも芝生用のスプリンクラーがあり、一日中水を撒いている。贅沢なものだ。

2020年2月6日木曜日

水彩画家 K さんの個展

知り合いの Kさんの個展を今年も観にいった。光の美しい、水彩の魅力たっぷりの作品ばかり。現場主義だが、1枚に2日かけているそうで、1日目は2時間くらいデッサンだけやり、翌日にまた出かけて2時間くらいで彩色をするという面白いやり方をしている。

(写真:「小林征治・水彩画集」より)

2020年2月4日火曜日

映画のオープニング・シーン

Opening scene & Establishing shot

ある映画専門サイトに、傑作オープニング・シーンのランキングというのがあり、第1位は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」だった。確かにこのシーンは「絵」として見ても、なかなかうまかった。これから始まるストーリーへのワクワク感を盛り上げている。

ほとんどの映画で、冒頭5分ぐらいの間に、その映画のストーリーが展開する時代・場所・登場人物などの状況設定を説明するシーンがある。こういうオープニングでのショットは「エスタブリッシング・ショット」とよばれる。この絵コンテで、クラシックな車、ハイティーンの若者たち、背景の住宅街、をひとつの構図にまとめている。5 0 年代のカリフォルニアあたりが舞台の青春映画(「アメリカン・グラフィティ」のような)といった設定がこの場面だけで分かる。

ミヒャエル・ハネケ監督はエスタブリッシング・ショットを作らない。「隠された記憶」で、冒頭の 1 0 分位、監視カメラに写った家の映像を延々と流す。何か事件が起こるわけでもなく、その意味は最後までぼんやりしたまま。説明不能の不可解な世界がテーマのハネケ監督にとっては、映画も必然的に「説明しない映画」になる。

2020年2月2日日曜日

感染症の恐怖を描いた絵

Fear of infection

歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは「ホモ・デウス、テクノロジーとサイエンスの未来」で、人類の最大の敵は、飢饉、疫病、戦争、だったが、この3つは今では完全ではないものの、なんとか押さえ込んで、制御不可能な脅威ではなくなった、と言っている。疫病にしても、現在大騒ぎの感染症の死者は、かつてに比べればわずかなものになった。感染症の恐怖は、たくさんの絵画に描かれてきた。(コメントは同書より)



ウイルスの存在など知らなかった中世の人たちは、感染症は人間の理解を超えた恐ろしい魔物の軍団のように思っていた。この絵では骸骨の姿に擬人化した疫病神が大刀をふるって人間を刈っている。

ペストは皮膚に発疹を起こし、体が膨れ上がり、最後は全身黒くなって死ぬから、黒死病とよばれた。その恐怖をグリューネヴァルトは生々しく描いている。グリューネヴァルトは聖人と悪魔の闘いなどの絵で有名だが、自身もペストで死んだという。

1 4 世紀のペスト(黒死病)の死者は、アジア・ヨーロッパの全人口の4分の1を超えたという。通りには無数の死体が転がり、腐るにまかせていた。

2 0 世紀になっても、有名なスペイン風邪で全世界で 5 0 0 0 万人も死んで、第一次世界大戦の死者より多かったという。「死の島」で有名な 1 9 世紀の象徴主義のベックリーンは、戦争とペストの恐怖で人間の文明は滅びると考えていた。「ペスト」という絵で、コウモリのような怪物に乗ってペストを振り撒く死神を描いた。