2021年2月28日日曜日

絵の「センター・オブ・インタレスト」

Center of Interest

「センター・オブ・インタレスト」は直訳すれば ”興味の中心” で、その絵でいちばん伝えたい部分のこと。”見せ場”であるし、写真的に言うと焦点を合わせる 「フォーカス・ポイント」 のこと。焦点がはっきりしない 絵は、見る人にとって何を描こうとした絵なのかわからない。

そのために最もよく使われる手法は、「センター・オブ・インタレスト」の部分の「明暗コントラスト」を高くすることだが、例としてゴヤの「マドリード、1 8 0 8 年 5 月 3 日」で、それがよく分かる。民衆がナポレオン軍兵士に銃殺されるシーンで、白シャツの男の恐怖の顔が「センター・オブ・インタレスト」になっている。その部分が絵の中で最も明暗のコントラストが強いので、そこがフォーカス・ポイントであることが分かる。さらに顔の中でも白目をむいた目のコントラストが強く、恐怖の表情を強調している。一方、兵士達は暗闇に溶け込んでいて、アウト・オブ・フォーカスになっている。


2021年2月26日金曜日

遠近法のない構図、投影図的絵画

Paintings without perspective 

遠近法をベースにした「透視図」的な絵画が普通だが、そうではなく、意図的に図面的な「投影図」で描いた絵画がけっこうある。エドワード・ホッパーの「日曜日の朝」などは典型で、建物が水平線と垂直線だけで描かれている。真横からの光で道路上の影も水平になっている。遠近法がない分、建物のプロポーションを実物どうりに描けるので、建物を即物的に感じさせることができる。


人物画での例として、ホイッスラーの有名な「母の肖像」がある。カーテンや額絵や壁などがすべてが垂直・水平で、遠近法的な空間の奥行きがない。人物も陰影がなく、平面的に描かれていて、平面構成のパーツのひとつとして扱われている。副題が「灰色と黒のアレンジメント」であることからも、モンドリアンに通じるような、構成が意図であることがわかる。


静物画では、モランディが代表的だろう。容器を横一列で並べて、それをほぼ真横から見ている。動きや変化がない静的な構図によって、絵画の定石とされてきた空間感や立体感や陰影などを排除して平面構成の絵になっている。


2021年2月24日水曜日

商店街の入り口ゲートのデザイン

Gate of shopping street 

横浜の有名商店街の入り口ゲートのコレクション。街の個性が現れている。



伊勢佐木モール。「伊勢佐木町ブルース」の時代あたりまでは、横浜の中心的な繁華街だったが、みなとみらい地区の開発とともに ”場末” 的な存在になってしまった。せめてもと背伸びしているかのような、塔のように高いゲート。しかし高すぎて目に入らない。


明治時代に西洋文化が入ってきて、「日本初の⚪︎⚪︎」がたくさんある馬車道。パリのアール・ヌーボー模様をモチーフにしたゲートはレトロ感たっぷり。


居酒屋の密集地帯で有名な野毛は、昔ながらの庶民的な感覚のゲート。夜になると中の照明が灯り、赤提灯的な雰囲気をかもす。


おしゃれな街の元町のゲートは、高級感を出そうとしている。しかしどこかよそよそしいのは、欧米では権力の象徴である鷲のモチーフのせいだろうか。


中華街には周囲にいくつかの門がある。いずれもズバリ”中華” そのもの。


横浜ではないが、お隣の鎌倉の小町通り。寺社建築の屋根の「破風」の形をしたゲートで、その上に洋風の街灯が乗っている。古いお寺と今風な店が混在する街のイメージを象徴するような和洋折衷的なデザイン。

2021年2月22日月曜日

建物のスケッチ

 Architectural drawing

建物をモチーフにした風景のスケッチがよく描かれるが、その手本になるような例が建築家のドローイングにたくさんある。完成予想図的なレンダリングではなく、初期段階でのラフなイメージスケッチをあげてみる。頭の中のイメージを描いているのに、実物を写生している以上に実在感がある。手法はざまざまだが、いずれもラフでありながら建物の特徴を巧みに表現していて、建物の風景を描くときの参考になる。(画像は「死にまでに見たい名建築家のドローイング300」より)










2021年2月21日日曜日

「20世紀のポスター」展

 「Constructive Posters of the 20th Century」

ロシア構成主義やバウハウスを源流にして、戦後に「インターナショナル・スタイル」とか「スイス派」などと呼ばれる「構成的ポスター」が世界の主流になった。その流れを見ることができて、半世紀前の昔懐かしい作品が次々にでくる。(東京都庭園美術館、〜 4 / 11)


ミニマリズム的な最小限の幾何学的形態とタイポグラフィを、グリッドシステムで構成し、両者が響き合う、というのが構成的ポスターの特徴だった。(この作品では、黒色の同心円の太さが、2倍づつの割合で大きくなっていて、円の垂直の中心線に文字が整列している)また、このようなデザインに適したタイプフェイスが生まれたのもこの時代だった。「Helvetica」「Univers」「Grotesk」などで、現在でもデジタル・フォント化されて使い続けられている。

構成的ポスターの世界への波及にも触れているが、日本の作品が出てこないのが残念だ。田中一光や亀倉雄策などの作品が世界的にも評価されていた。この田中一光の日本舞踊のポスターは、3×4の正方形グリッドでの幾何的構成が見事。



亀倉雄策による、東京オリンピックのポスターはあまりにも有名だが、今度のオリンピックではポスターの話が出てこない。ロゴのデザインではあれほど大騒ぎしたが、ポスターはもう作らないのかもしれない。ビジュアル・コミュニケーションの重要なメディアだったポスターは、デジタル・メディアにとって変わられたということだろう。

2021年2月18日木曜日

建築家が主人公の映画

 Architect in movies

映画の主人公が画家の場合、だいたいが、才能があっても世に認められず、経済的にも苦しい孤高の人間として描かれる。それに対して建築家の場合は、知的で社会的な地位が高く、経済的にも恵まれているという役柄設定が多い。しかしそれは、主人公のイメージを表すために職業としての建築家を使っているだけで、建築の「仕事」そのものが映画のテーマと絡んでいるケースはほとんどない。

例えば「いつも二人で」は、若い建築家がだんだん認められていくにつれて、豊かになっていき、妻と二人で自由気ままな生活をエンジョイするというストーリーだが、彼の「仕事」は一切出てこない。それに対して、思いつく唯一の例外は「摩天楼」で、主人公がフランク・ロイド・ライトをモデルにした建築家で、彼の語る建築哲学が映画そのもののテーマになっている。

「幸福の条件」(1 9 9 3 年)は、その二つの中間的な映画だ。真面目で誠実な建築家の主人公は、愛妻家で、妻に裏切られても最後には許してまうというストーリーで、「真実の愛とは何か」というテーマの映画だが、主人公の建築の仕事ぶりのシーンがところどころに出てくる。建築ドローイングをしたり、建築模型をいじっていたりする。しかしそれは映画全体のテーマとは直接関係していない。ただ主人公の真摯な性格を示すために使われている。


大学の建築学科で講師も勤めているのだが、建築について熱く語る。そのシーンでスライドに写す建築に、巨匠ルイス・カーンの代表作として有名な「ソーク生物学研究所」が出てくる。カーンは人間も作品も真摯な建築家だったが、それを主人公に語らせることで、主人公自身の人間性を表現している。


ソーク生物学研究所(1 9 6 3 年設立、カリフォルニア州サンディエゴ)

2021年2月17日水曜日

アイゼンマンの「脱構築主義」建築と、映画「リトルマン・テイト」

 Wexner Center fore Visual Arts, 「LITTLE MAN TATE」

秋葉原にコイズミ・ライティング・シアターという、ルービック・キューブのような奇妙な形の建築がある。アメリカ人の建築家ピーター・アイゼンマンの設計によるが、彼は、近代建築の原理「形態は機能に従う」にとらわれず、現代彫刻のように自在な形を作った。構造の合理性を超えて形を作る思想は「脱構築主義」と呼ばれた。

アイゼンマンの代表作は「オハイオ州立ウェスナー視覚芸術センター」で、白い巨大な格子が建物全体を突き抜けている。工事現場の「足場」のようで、これからこの中に建築ができるかのような不思議な空間になっている。この格子は何かの機能があるわけでなく、設計者の頭の中の観念をそのまま形にしてしまったような建物だ。

この建物が「リトルマン・テイト」(1 9 9 1 年)という映画に登場する。7歳の天才少年が主人公で、プロ並みの絵を描き、ピアノを自在に弾き、詩を書き、大学レベルの数学の難問をあっというまに解く。 I Q は信じられないほど高い。少年に惚れ込んだ英才教育の学校の女性校長にぜひ入学をと誘われるが、子供を溺愛しているシングルマザーの母親は、それを断ってしまう。少年に母親のような態度で接する校長と、本当の母親が子供の引っ張り合いをする・・・

少年は頭が良すぎるゆえに、友達が一人もできない悲哀を抱えている。最後には超飛び級で大学に入学するのだが、大学に入っていくシーンで、この建物が使われている。監督がなぜこの建築を選んだのか。おそらく、現実と無関係な、観念的な建築のイメージを、「頭でっかち」の少年の頭脳に重ねているはずだ。

映画のラストは、もっと頭のいい子供が現れて、少年は2番になってしまう。その代わり、たくさんの友達ができて、初めて人生の幸せを味わう。張りあっていた二人の ”母親” も仲良くなる、というハッピーエンドで終わる。

2021年2月14日日曜日

イタリアの印象派「マッキアイオーリ」

 Macchiaioli

フランスと同じ 1 9 世紀中頃、イタリアでも「マッキアイオーリ」という印象派の芸術運動が始まった。「マッキ」とは、色の「斑点」のことで、光の粒で光を捉えようとした。外光のもとでの、明と暗のコントラストを強く対比させる表現は魅力的だ。




上の絵の一部を拡大してみると、「光の粒」を捉えようとしていることがよくわかる。


(画像は「イタリアの印象派  マッキアイオーリ」展(2010年 東京都庭園美術館)図録より)

2021年2月12日金曜日

キングの塔(神奈川県庁舎)のデザイン

The architecture of the Kanagawa prefectural government office 


「キングの塔」(神奈川県庁舎)は、日曜画家のスケッチポイントとして人気だが、たしかに重厚な外観は絵になる。昭和3年に完成した建築だが、設計コンペで当選した小尾喜郎という建築家の案に基づいている。当時の応募図面が残っていて、その中にパースもあるが、ほぼ原案の通りで完成していることがわかる。(神奈川県立歴史博物館所所蔵)


塔の最頂部の屋根が四角錐で、てっぺんに「相輪」のようなものが乗っている。これは五重の塔をイメージしたものだという。このような日本建築の要素を取り入れた和洋折衷様式は「帝冠様式」と呼ばれるようになる。


帝冠様式は、各地の県庁舎などに影響を与えた。愛知県庁舎はその顕著な例で、もろに寺か城のような和風の屋根が乗っている。「帝」は「大日本帝国」の「帝」で、ナショナリズムの時代に、建築においても国民的な様式を求める社会的な心情が背景にあった。


そして、設計者自身も言っていたそうだが、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルの影響を受けている。外壁に使われているスクラッチ・タイル(表面に細かい溝がある)もそうだし、ライト的アール・デコ造形があちこちに応用されている。そして面白いことに、五重の塔的な屋根の形は。そもそもライトが日本建築からヒントを得て、帝国ホテルに使った様式だったという。(神奈川県立歴史博物館編「キングの塔誕生」による)

2021年2月10日水曜日

絵画的な映画 アントニオーニの「赤い砂漠」

 Michelangelo Antonioni 「Red Desert」

巨匠といわれる映画監督には、絵を勉強していた人や画家だった人が多い。ミケランジェロ・アントニオーニや、アルフレッド・ヒッチコックや、アンドレイ・タルコフスキーや、テリー・ギリアムや、黒澤明などだ。彼らの映画はストーリーで語るのではなく、映像で語る。

ミケランジェロ・アントニオーニも絵を描いていた人で、例えば「赤い砂漠」(1 9 6 4 年)の映像はとても絵画的だ。1 9 6 0 年代は、フランスの抽象芸術運動である「アンフォルメル」の時代だったので、抽象絵画のようなショットがたくさん出てくる。すべての場面が無機的で殺伐とした工場を舞台にしているが、大気汚染で霞んでいたり、ゴミの山だったりで、産業化社会の負の部分の表象になっている。それは、社会における不安や孤独からくる神経症を病んでいる主人公(モニカ・ヴィッティ)の目で見た心象風景になっている。

排煙や水蒸気で霞んだ風景が何度も出てくるが、これは機械をソフト・フォーカスで撮っている。「アンフォルメル」は具象的な形の無い絵画だが、この映像も抽象絵画になっている。


この壊れた機械のショットも秀逸で、抽象構成主義の絵画のようだ。人物が機械の向こう側を歩いているが、カメラは
パンや移動で人物を追いかけることなく、このままで静止している。この場面を絵画として撮ろうとしている意図がわかる。


工場のそばにある産業廃棄物のシーンで、小さくて見えにくいが、画面右端に主人公の女性が息子と手をつないで歩いているのが見える。なんのために、なぜこんな場所にいるのか、の説明は一切ない。しかし、殺風景な風景を使って、主人公の心の中(題名の「砂漠」のような)を描いていることは確かだろう。


2021年2月8日月曜日

日本の印象派

 Japanese impressionism

日本の印象派画家はあまり知られていないが、大正時代の児島虎次郎と太田喜二郎のほぼ2人だけのようだ。二人ともヨーロッパに留学して、印象派絵画を学び、作品は高く評価された。しかし帰国すると、日本では全く受け入れられず作品は酷評された。印象派特有の筆触分割に対して技巧的すぎるとか、明るく鮮やかな色彩が装飾的すぎるなどと言われたという。それで児島虎次郎は帰国後もフランスの展覧会に出品し続けたという。
(図上:児島虎次郎「和服を着たベルギーの少女」、図下:太田喜二郎「田植」)


二人が学んだのは、フランスではなくベルギーで、ベルギー印象派の巨匠エミール・クラウスに師事した。クラウスは、逆光のもとで対象を捉え、まばゆいばかりの光にあふれた絵を描いた。「光」(ルミエール)を描く手法は「ルミニスム」と呼ばれた。日本の二人にもその影響が表れている。(「エミール・クラウスとベルギーの印象派」展(2003年)図録による)


2021年2月6日土曜日

ポストモダン建築と「未来世紀ブラジル」

 Post-modern architecture in 「Brazil」

ポストモダン建築は 1 9 8 0 年頃に、新時代の建築理念として鳴り物入りで登場したが、あっという間に廃れて、一過性の流行で終わった。モダニズム建築の合理性を否定して、あえて無駄だらけの建築を作った。日本でもバブルの頃だったので、ポストモダン建築が大流行したが、その代表が東京都庁舎で、「バベルの塔」ならぬ「バブルの塔」と呼ばれた。様々な建築様式をまぜこぜにして、ごった煮のようなデザインをしたが、東京都庁舎のツインタワーもパリのノートルダム大聖堂をモチーフにしている。また庁舎に隣接する広場を半円形に囲んだ列柱回廊があるが、ローマのサン・ピエトロ大聖堂あたりの引用だろう。

そのパリ郊外に、もっと大規模なポストモダン建築がある。「アブラクサス」という集合住宅で、中央広場の「凱旋門」や、古代の円形競技場をモチーフにした「劇場」や、1 8 階建ての「宮殿」などからなる。ローマ建築風の入り口や列柱回廊があったり、アール・デコ風の飾りがあったりと大げさな装飾だらけだが、圧迫感のある高層ビルや昼間でも薄暗い通りなど、閉鎖的で威圧的なデザインに批判が集中したという。

テリー・ギリアム監督の映画「未来世紀ブラジル」は、舞台にこの建築を使っている。政府による国民の情報管理が徹底した 未来社会を描いたディストピア映画だが、”未来的な情報社会” と ”未来的な建築” が、共通して非人間的であることを暴いている。(画像は同映画より


2021年2月4日木曜日

デジタル庁はどうなる? 「未来世紀ブラジル」の情報省

Information management society in the movie「Brazil」 

政府のコロナ対応で、助成金の申請データを、役所が改めて手書きで書き直していたというマンガのような話があった。役所の I T 化の遅れが明るみに出て、あわててデジタル庁を作ったりしている。

映画「未来世紀ブラジル」で、国による情報管理が徹底されている未来社会が皮肉たっぷりに描かれている。普通は暗いディストピア映画になるテーマだが、それをパロディ化している。テリー・ギリアム監督の腕が冴えている傑作だ。

デジタル庁ならぬ「情報省」が絶大な権力を持っていて、国民全員のデータを一元的に管理している。情報省は非人間的な組織で、国民の行動を監視し、”情報警察” が違反者を取り締まっている。しかしそれは、お役所仕事の見本のような組織で、その ”マヌケ” ぶりを徹底的に笑い物にしている。


街じゅうに情報省のポスターが貼ってある。「幸せを!  我々はみなさんの味方です」


役所の窓口へ来た市民を、ロボットカメラがしつこく付きまとって本人確認をする。


役所の情報端末がレトロで、キーボードはタイプライターのように旧式で、モニターは小さい画面をフレンネルレンズで拡大している。


退庁しようとしている上司を、職員たちが、サインしてくれと言って、書類を持って追いかけている。ペーパーレスも「脱ハンコ」もいっさい無し。


工場のラインのように職員がずらっと並んで人海戦術で情報入力をしている。アナログ感たっぷり。


情報セキュリティが甘く、夜中に職員が情報を持ち出してしまう。見つかって、情報警察の警官に取り囲まれている。