2018年8月30日木曜日

鎌倉建物散歩 檑亭

鎌倉山の檑亭(らいてい)は、有名なそば・会席料理の店。そもそもは昭和の初めに鎌倉山を住宅地として開発した実業家の菅原通済(わりと有名な人)が趣味としてここを作ったそうだ。建物は他の場所にあった古民家の移築で、門は鎌倉のある寺から移築したものだという。広大な庭園には、竹林の中に石塔、石門、石仏などがあり、日本趣味に徹している。ゆっくりと園内を散策するのが気持ちいい。(注:そばは味も値段も普通)


2018年8月28日火曜日

イサム・ノグチ展 -彫刻から身体・庭へ-

Isamu Noguchi   from sculpture to body and garden


個人的には若い頃にイサム・ノグチの照明器具を愛用していたのでその印象が強いが、彼の広い活動領域の全容が改めて分かる。彫刻、舞台美術、遊具、庭、ランドスケープ、などなど。また紹介されている経歴から、ドラマのように波乱万丈の生涯だったことを知った。(東京オペラシティ アートギャラリー、~ 9 / 24 )


2018年8月26日日曜日

鎌倉建物散歩 鎌倉文学館


戦前戦後にかけて鎌倉に在住した文人たちの作品を展示している文学館だが、もともとは侯爵前田家の別荘だった。鎌倉の3大洋館の一つで、三島由紀夫の「春の雪」のモデルににもなったそうだ。外観は左右非対称のアンバランスに違和感があるが、堂々とした豪邸だ。門を入ってからトンネルを抜けたりして、やっと建物に着くというくらい敷地が広く、全体が庭園になっていて美しい。


2018年8月24日金曜日

映画の中の絵画

Conversation Piece

妻が学生だったとき、映画会社のアルバイトをしていて、仕事はセットに使う絵を描くことだったのだが、なんでもいいから適当にたくさん描いてと言われて、どうでもいい絵を量産したそうだ。日本映画が面白くない理由がこんなところにも現れているようだ。

映画のなかの絵は、なぜその絵なのかという意味に注目して観ると映画の面白さが増す。

ルキノ・ヴィスコンティ監督の「家族の肖像」の主人公は過去に結婚に失敗して人間嫌いになり今は孤独に生きている。自宅で知人と食事をするシーンで、後ろに家族の日常生活の光景を描いた絵が飾られている。この種の絵画は conversation piece といい、!8 世紀に家族の記念写真がわりとして大流行した。この絵によって、主人公が虚構の家族団欒に慰めを求めていることを表現している。監督の美術への知識とこだわりがうかがえる。

2018年8月22日水曜日

国立新美術館を上から見ると

The National Art Center, Tokyo

六本木ヒルズてっぺんの森美術館から国立新美術館が見える。この角度から見ると、ガラスの巨大看板で四角い箱を隠してはいるが、文字通りの「箱モノ建築」であることがわかる。こういう形になるのは、所蔵作品のない公募展用の貸画廊だからで、英語名も「Museum」にできない。


2018年8月20日月曜日

イギリスの戦争画



今年も終戦の夏が来た。戦争中はどこの国も国民の戦意高揚のために画家に戦争画を描かせた。戦争画は戦闘シーンだけではなく、銃後の国民の姿を描いて「みんな頑張ろう」的な絵がたくさんあった。この有名なイギリスの作品では、国家総動員の戦時下で軍需工場で働く女性を描いている。同じような絵が日本にもあった気がして探したらあった。テーマも構図も判で押したように同じで驚くが、敵対国同士だからお互い相手の絵は見ていないはずだ。そして似た者同士のどちらも戦争プロパガンダのポスターのようで、絵画的な価値をあまり感じない。


2018年8月19日日曜日

鎌倉建物散歩 御成小学校



御成(おなり)小学校は、鎌倉駅から徒歩2分の近さだが、観光客で賑わう東口と反対側の閑静な住宅街にある。講堂の建物は約 90 年前の昭和8年の建設当時のままで、国の有形文化財になっている。小学校には珍しい純和風の建築で、門も小学校と思えない堂々たるもの。大木が生い茂った広大な敷地は静まり返っていて、子供達がいる気配がない。




2018年8月16日木曜日

フェルメールのカーテン

The curtain of Vermeer


「フェルメール  光の王国展」(横浜そごう美術館)にあったこの「窓辺で手紙を読む女」は不思議な構図をしている。手前のカーテンの大きさが上下左右とも画面の大きさとぴったり同じになっている。だからカーテンを閉めたとすると画面全体がカーテンで覆われるはずだ。少し隙間を開けてその状態を作ってみたが、こんな感じになり、カーテンの隙間
から女性を覗き見している感覚になる。これは極端に誇張したいたずらだがフェルメール自身にもこんな意図があったのではないか。

「恋文」という作品でも、カーテンとドアで区切られた隙間ごしに手前の部屋から見ている構図で、この絵はさらに覗き見的視点がはっきりしている。この絵も女性が女中から手紙を受け取っている光景で、どちらも手紙がキーになっている。当時の絵画では手紙は秘め事の象徴だったから、その情景を覗き見的な感覚で描いたのだろう。

2018年8月14日火曜日

「フェルメール展」にみるタイルの床

" Vermeer Re-create 37 "

「フェルメール  光の王国展」はフェルメールの全作品が年代順に並べられているので、いろいろと面白いことがある。(横浜そごう美術館)

フェルメールの室内画に多いタイルの床は、空間の奥行き感を出す効果があるが、それと同時にフェルメールは自分の透視図法の正確さを自慢しようとしたのではないか。幾何学的な正方形のタイルは狂うとすぐバレてしまうから。

「紳士とワインを飲む女」で、右下のタイルは長方形に見えている。透視図法的に正しいからこそこうなるわけだが、歪みをそのまま描いている。(写真上)

しかし消失点から遠い画面周辺では正方形が歪んで見えるから気をつけろというのは今では常識だが、フェルメールも気が付いたようだ。これはまずいと思った(?)フェルメールは対策をして、「二人の紳士と女」では、右下を人物の陰で暗くしてタイルを目立たなくしている。(写真中)

さらに次の「音楽の稽古」では、右下の床にテーブルクロスを垂らしてタイルを完全に見えなくしている。この手がいいと気が付いた(?)フェルメールは、以降の作品では何らかの物で隅のタイルを隠すようになる。(写真下)



2018年8月12日日曜日

「フェルメール 光の王国展 2018」

" Vermeer Re-create 37 "

「フェルメール  光の王国展  2018」を観た。( ~ 9 / 2   横浜そごう美術館) フェルメールの全作品 37 点全ての複製画を制作年代順に並べた展覧会だが、ただの複製ではない。

絵は変色していくし、修復も推測をもとにされるから、だんだんずれていってしまう。だから美術館の絵はある意味で「にせ物」になっている。そこでオリジナルを再現しようとするもので、それを「Re-create」といっている。

例えばこの月桂冠は、青と黄を混色した緑なのだが、黄の方が退色が速いため青味の方へずれていることが分かっている。しかし所蔵している美術館は、現状を維持する方針で修復したというが、この展覧会では、黄色を増して元の色に近ずけている。印刷技術+デジタル技術によって「本物」をもう一度創り直そうという面白い試みだと思う。

2018年8月10日金曜日

映画「バンクシーを盗んだ男」

Movie "The man who stole Banksy"

「どうやって?」と思いつつ観に行ったら、本当に電動ノコギリで壁ごと切り取ってしまうのにはびっくりした。億単位の値がつくバンクシーだから、やることが荒っぽい。


盗まれたのはパレスチナにある「ロバと兵士」。イスラエルが建てたパレスチナを分断するための壁には世界中のストリート・アーチストたちが集まり抗議のグラフィティを描いている。このバンクシーの作品はいちばん有名で、イスラエルの兵士がロバの通行証を調べている。ロバはパレスチナ人を表し、従順で平和的な人たちまで敵視するイスラエルを批判している。(イスラム教徒を差別し、エルサレムはイスラエルの首都だと言って分断をさらに深めようとするトランプ大統領への抗議にもつながる)

これもパレスチナのバンクシーの絵で、テロリストが爆弾の代わりに花束を投げつけている。絵で抗議する「芸術テロリスト」のバンクシー自身の姿だろう。彼は民衆に熱烈に支持されるが、同時に本物のテロリストと同じで、決して現実の政治を動かすことはできないだろう、ということも映画の中で語られる。


2018年8月8日水曜日

「藤田嗣治展」の皿

Foujita

「藤田嗣治展」に珍しいものがあった。皿やカップの食器など、晩年に没頭していた趣味の手仕事だ。皿の絵柄は猫が自転車に乗っている。


藤田の晩年の生活はこんな感じだったそうだ。(「藤田嗣治  異邦人の生涯」より)
「絵を描くのに疲れたとき、大工仕事や小物作りを楽しんだ。自作の食器、道具類、室内装飾、などで室内はあふれていた。細やかな趣向をこらした自宅の小さな空間で、その中を流れていく静かな時間を藤田は楽しんでいた。」
「桜が咲く頃には裏山で両手いっぱいの桜の葉を摘んできて桜餅を作った。薄いピンクの見事な桜餅が出来上がった。暖かな陽気の日だったのでベランダにテーブルを持ち出し、妻と二人で懐かしい日本の味を楽しんだ。」

日本に捨てられてフランスへもどり。片田舎で現実社会から離れて夢の中の世界に生きたという晩年の藤田の哀しさを感じる。

2018年8月6日月曜日

「藤田嗣治展」の戦争画

Foujita

「藤田嗣治展」に2つの戦争画が出展されている。「アッツ島玉砕」と、この「サイパン島同胞臣節を全うす」だが、これには圧倒される。崖っぷちに追い詰められて自害する民間人の悲惨な姿を描いている。軍からの依頼により戦意高揚のために描くのが戦争画なのに、この絵はどう見ても「反戦画」に見える。


藤田の戦争画は当時から評判が悪かったそうで、職人的なテクニックだけで描いた思想の無い絵だ、などと非難されたという。戦後はさらに批判が強く、ごく最近でも、ある有名な美術評論家が「野次馬の嗜虐的な興味にかられて、むごたらしい場面を偏執狂的に楽しんで描いている」とまで酷評している。(「美術と戦争」より)

しかしこんな話があったそうだ。戦争直後アメリカから戦争責任を追及されることを恐れた画家たちは藤田一人に責任を押し付けようとたくらむ。そして GHQ に藤田が呼び出されるのだが、そこで言われたのは戦争責任どころか、戦争画の美術的価値を認め、アメリカで展覧会をやるので協力してほしいという依頼だった。「藤田嗣治  異邦人の生涯」による)

2018年8月4日土曜日

「藤田嗣治展」の猫たち

The cats in  "Foujita,  A Retrospective"

「藤田嗣治展」は没後 50 年の大回顧展で、生涯描き続けた猫の絵も多数あった。さまざまな猫たちはその時々の藤田自身の姿を物語っているようだ。( ~10 / 8  東京都美術館)


白い布の上で優雅にポーズする猫。
乳白色の裸婦で「エコール・ド・パリ」の寵児だった時代。

闘争心むき出しで争う猫たち。
群像表現に関心のあった戦争画の時代。

女性の夢の中で踊るメルヘンの猫たち。
現実を離れ、心の中の世界を描いた隠棲の時代。

2018年8月2日木曜日

映画「ウォーリー」のメッセージ

Movie  "WALL-E"

10 年前のアニメ映画「ウォーリー」をもう一度 DVD で観た。大量消費社会とそれを煽るコマーシャリズムの結果、地球環境は完全に破壊され、地球に住めなくなった人間は巨大宇宙船に疎開して暮らしている。しかしそこは AI とロボットが人間を管理していている社会だ。・・・と現代の問題そのままなので、映画の主題は説明なしでも分かりやすい。

しかしこの映画にはもう一つの主題があって、そちらの方は気がつきにくい。カナダ人の聖書学者が書いた「ハリウッド映画と聖書」という本は、様々なジャンルの映画に聖書思想が隠されていることを作品例をあげながら解説している。「ウォーリー」もその一つ。

宇宙船の人間は人間性を失いロボット化しているが、逆に地球に取り残されたゴミ処理ロボットのウォーリーはプログラムミスで人間の感情を持っている。いろいろあって最後はウォーリーが大事にとってあった小さな鉢植えの草から地球上に植物を再び蘇らせ、人間は地球に戻ることができる。

以下は同書より。世界秩序の堕落と最終的な破壊という終末の後に、選ばれた人間は破壊を生き延び、平和と繁栄と善の復活を経験するという世界観が聖書の根本にある。命のあるものが皆栄えることができる世界へ帰還するという聖書の「創世記」に書かれている終末論ヴィジョンで、「ウォーリー」はそれをそのまま引用したストーリーになっている。だからウォーリーに協力する女の子ロボットの名前は「イヴ」になっている。そして最後のエンドロールのバックに人間の創造力と芸術を一覧する映像を次々に映し出すことでそのメッセージを明瞭に示している。

(上から、ラスコーの洞窟壁画風、マヤ文明風、ルネッサンス風、17 世紀の風景画風、ゴッホ風)