AzzurrA Mare Sajima
久しぶりに湘南へドライブして、葉山の少し先の佐島にある海辺のイタリアン・レストランで食事をした。相模湾に面していて、オーシャンビューが素晴らしい。海の向こうに伊豆半島がかすかに見えて、さらにその先の富士山が見える。
このレストランから隣の建物がよく見えるが、これは「ブリキのおもちゃ博物館」で有名な北原照久氏の別荘。
AzzurrA Mare Sajima
久しぶりに湘南へドライブして、葉山の少し先の佐島にある海辺のイタリアン・レストランで食事をした。相模湾に面していて、オーシャンビューが素晴らしい。海の向こうに伊豆半島がかすかに見えて、さらにその先の富士山が見える。
Yokohama - Ceramics
横浜駅近くに「真葛焼ミュージアム」という小さな博物館がある。 明治時代の陶工、宮川香山の作品を展示している。当時の日本の陶磁器は海外で人気があり、横浜では海外輸出用の陶磁器が盛んに作られ「横浜絵付」と呼ばれた。宮川香山はその代表的作家だった。日経新聞の「はじまりの横浜 10 選」で、前々回の「横浜絵」と、前回の「横浜写真」に続いて今回はこの「横浜絵付」が取り上げられていた。
香山のこの作品は、華やかな牡丹の花が浮き上がるように表現されていて、蓋部分にはリアルな猫がいる。香山の造形はこのように 3D 的な表現が独特だった。日本の陶磁器とは違った感覚で、香山は外国市場での受けを狙っていたという、
香山の窯は「真葛焼」といわれ、大人気を博して、明治時代の外貨獲得に大きな貢献をしたという。
Yokohama-Photo
開港間もない横浜で始まった写真の記念碑が馬車道にある。上に箱型のカメラが乗っていて土台には「日本写真の開祖 写真師・下村蓮杖 顕彰碑」とある。下村蓮杖は、居留外国人や外国人観光客を相手に日本初の写真館を開いた写真師だった。その写真は「横浜写真」と呼ばれた。日経新聞のコラムの「はじまりの横浜 10選」シリーズで「◯◯発祥の地」が多い横浜のさまざまな文化の「始まり」を取り上げている。そのなかで、玉村康三郎という、もう一人の「横浜写真」の写真師を紹介している。
玉村康三郎も下村蓮杖と同じ頃に横浜に写真館を開業したそうだ。彼も肖像や風景を撮って、外国人向けの日本土産用の「横浜写真」で商売をした。その中の一枚が記事に紹介されている。「鼓を打つ芸奴」という白黒写真に彩色をしたもので、なかなか美しい。
「Yokohama - E」
日経新聞の「はじまりの横浜」シリーズは、横浜で発祥したさまざまな文化を紹介している。そのなかで、歌川貞秀の浮世絵が取り上げられていた。浮世絵はあまり詳しくないが、同記事によれば、歌川貞秀は、広重や北齋が亡くなったあとの幕末に売れっ子の絵師になったそうだ。その貞秀は何度も横浜に足を運び、開港したばかりの港を取材したという。そして異人たちの暮らしや装いを色鮮やかに描いた。これらは「横浜絵」という錦絵の新ジャンルになり、人気を博したという。
歌川貞秀の他の「横浜絵」も調べてみたが、たくさんある。その中で「横浜鉄橋乃図」に興味を引かれる。この橋は関内の「吉田橋」で、日本人と外国人が入り乱れて橋を渡っている。この橋の左側は外国人の居留地区で「関外」と呼ばれた。橋の右側は今でも同じ名前の「関内」だ。「吉田橋」はその両側を結ぶ橋だった。橋の右側が現在の「伊勢佐木町」で、左側が「馬車道」だ。下の川は現在は高速道路になっている。橋は復元されたものだが、斜めの格子状のデザインはそのまま維持されている。
Cloude
数日前のニュースで、アンソロピック社が現在の AI アプリ「クロード」をバージョンアップした「クロード・ミュトス」を発表したと伝えていた。これはサイバー攻撃を防御するためのAI で、ネットワークに潜んでいる有害なアプリを見つけ出して、無力化するものだという。
4位のアンソロピックは最近よく話題になる。同社の「クロード」は、企業や組織の用途に特化した高性能 AI で、アメリカ政府が軍事用途に使っている。今度のイランへのミサイル攻撃でも、人工衛星や監視カメラなどから収集した情報をもとに、 AI が判断した攻撃目標にもとづいて、軍は攻撃した。ところがその標的になったのは小学校で、百数十人の子供が犠牲になった。 それで 同社の AI の非人道性が問題になった。
アンソロピック社は最近、日本に進出して東京オフィスを開設し、データセンターも作ると発表した。そして CEO が来日して高市総理と面会した。このことは、アメリカと同様に日本政府が同社と何らかの関係を持つことを意味するのだろうか?
Film Noir
前回書いたように、「フィルム・ノワール」は、1940 ~ 1950 年代に多く作られた殺人事件がからむ犯罪サスペンス映画だが、戦前のドイツ表現主義映画の影響を受けていた。人間の不安や恐れを表現するために、白黒映画の特徴を活かした独特の映像手法が発達した。
「深夜の告白」(1944 )は、ビリー・ワイルダー監督によるフィルム・ノワールの名作だが、この映画を事例にして。フィルム・ノワールの全般に共通する映像の特徴をまとめてみた。
この映画は、保険会社の外交員が、美貌の人妻と共謀して、夫を殺して保険金を詐取しようと企む、というストーリー。事故死と見せかける完全犯罪のつもりだったが、保険会社は疑念を抱き調査を始める・・・
Film Noir
「フィルム・ノワール」は、1940 ~ 1950 年代の白黒映画時代に多く作られた。「Film Noir」(黒い映画)のとおり、退廃的な都会を舞台にした犯罪映画で、人間の心の闇を暴く映画だった。光と影のコントラストの強い映像が特徴で、不安や恐れのイメージを喚起する。港で働いている平凡な鉄道員の男が偶然に殺人事件を目撃し、大金を手に入れてしまったことから彼の運命が狂っていく・・・
そのなかで、フリッツ・ラング監督の、連続少女誘拐殺人事件を題材にした「M」(1931)は、人間を衝動的な殺人に突き進ませる心の闇を暴き出した表現主義映画の傑作だった。
しかしやがてヒトラーが政権を握ると、表現主義の絵画も映画も激しく弾圧される。そしてフリッツ・ラング監督をはじめとしてほとんどの映画人はアメリカへ亡命する。そしてフリッツ・ラング監督はハリウッドでもドイツ表現主義映画の手法をそのままに映画を作り続けた。
Bruno Munari
ブルーノ・ムナーリ展(神奈川県立近代美術館、2018年)の図録を見返しているが、改めてグラフィック・デザインだけでなく、多方面にわたった造形活動の全貌を見ることができる。前回書いた子供のお絵描き教育のための本「木をかこう」もそのひとつだ。工業デザインにも携わっていて、灰皿のデザインは有名で、日本でもよく見かけた。シンプルなキューブの形は、オリベッティやアレッシのデザインと共通するイタリア的造形感覚が魅力的だった。
Bruno Munari
イタリアのグラフィック・デザイナーのブルーノ・ムナーリは、子供のお絵描き教育にも熱心だった。数年前に日本でも個展があったが、その時買った本「木をかこう」は、とてもいい本だ。表紙の絵は、木の形には規則性があることを気づかせようとしている。一本の太い幹が2本の枝に分かれ、その枝がまた2本の枝に分かれて、を繰り返している。そして枝分かれするたびに枝の太さが半分になっていく。幾何学でいうフラクタル(自己相似性)図形だ。
木の種類によっては、2本分かれだけでなく、3本分かれもある。直線的な木もあれば、曲線的な木もある。丸っこい木もあれば、一直線に上に伸びる木もある。枝が折れたりして不規則な木もある。
それらをよく観察して木を描こうと言っていて、大人が見ても役にたつ。
Ino Map & Siebold Incident
前回書いたホルムズ海峡の地図のように現在では、人工衛星によって軍事的に必要な地図情報を瞬時に得ることができる。それで伊能忠敬の地図のこと思い出した。
伊能忠敬の地図の原寸大のレプリカを見たことがある。あるイベントで、体育館の床に忠敬の地図の全部を日本列島の形どうりに並べている。観客はその上を自由に歩き回ることができ、細部まで間近に見ることができる。自分の住所のあたりを見ると、現在の地図とまったく変わらないことがわかり、忠敬の地図の正確さを実感できる。
この地図を国外へ持ち出した「シーボルト事件」は有名だ。オランダ商館の館員だった医師のシーボルトは、日本に生息する植物の調査などをしていたが、実は日本の情報を集めるスパイだったと現在では言われている。シーボルトが帰国するとき、伊能地図を持ち出そうとしたが発覚して没収された。伊能地図は国防上重要な国家機密だから、シーボルトに地図を贈った幕府の役人は処刑された。ところがシーボルトは写しを取ってあり、それを密かに持ち帰っていて、帰国後に「シーボルト日本図」として出版した。
当時のヨーロッパの地図に描かれていた日本は大雑把なもので、伊能地図の精密さは驚異的だった。だから喉から手が出るほどの価値がある地図だった。
Marine Traffic
ホルムズ海峡封鎖の TVニュースで、船の状況を示す地図がよく出てくるが、これは「Marine Traffic」(マリン・トラフィック)という地図アプリで、世界中の船の動きをリアルタイムで見ることができる。自分でも見てみたが、ホルムズ海峡に船が密集していることがよくわかる。
Danger of AI
AI が急速に進歩している最近、AI の危険性をテーマにした映画が作られている。その中から強烈なインパクトがあった3作をあげる。なおこの3作以前の映画で、殺人ロボットを題材にした名作「ブレードランナー」があるが、別格すぎるので割愛する。
「エクス・マキナ」(2015)
人里離れた山奥の研究所で、ロボット研究者がAI ロボットを完成させる。それは若い美人ロボットだが、本物の人間とまったく見分けがつかないくらい人間性を感じさせる。ある時そこへ研究者の友人が訪れて来るが、そのロボットを好きになってしまう。そして美人ロボットの方も男を好きになる・・・ロボットは好奇心があって、外へ出て人間の世界を見たいと思っている。そして男を誘って、2人で駆け落ちをする。しかし外へ出るとロボットは男が不要になり、殺してしまう。ラストシーンで、都会の人混みの中を人間に紛れて歩くロボットが映されるのが不気味だった。
「ザ・クリエーター/創造者」(2023)
AI ロボットが進化して、人間以上の能力を持ち、人類文明にチャレンジするというストーリーの映画だ。 AI による核攻撃でロサンジェルスが壊滅してしまい、報復としてアメリカが AI と戦争を始める。ところがこの映画では、AI ロボットはただの機械ではなく、人間以上に人間的な感情を持っている。だから優しい女の子のAI ロボットが主役になっている。
題名の「ザ・クリエーター/創造者」とは、キリスト教の、天地を創造した神を意味するが、映画では、これからは AI が「神」になって、新しい "AI 文明" を「創造」するだろうと言っている。AI が人間を超えるのではないかという、人々が 抱いている不安や恐れをベースにした映画だった。
「トロンアレス」(2025)
AI がすでに最新兵器として使われている現在、去年公開されたこの映画は、すでにSF 的な空想ではないリアリティがある。前回までの「トロン」が現実世界の人間がデジタル世界へ踏み込んで、バトルを繰り広げるという設定だったが、この第3作では逆で、デジタル世界の AI が現実世界へ襲来して人間と闘うという構図になっている。ある IT 企業の社長が業界の覇権を握ろうとして、強力な AI ロボットの開発に成功する。それは人間を殺すことも厭わない「AI 兵士」だ。一方でその「AI 兵士」を無力化するためのプログラムを開発している良心的なエンジニアがいる。その両者の壮絶なバトルが映画のストーリーになっている。
AI は人間が作ったプログラムに忠実に従っているだけなので、この AI 兵士も平然と人を殺す。 AI には倫理観などの人間性はない。だからこそ AI を作る人間・使う人間の人間性が問われるというということを改めて強調している映画だ。
AI & War
19 世紀最大の大量破壊兵器はダイナマイトだった。20 世紀最大の大量破壊兵器は核兵器だった。21 世紀の大量破壊兵器は AI である。・・・といわれている。この問題を議論する番組を昨日(4 / 17) の TV ( BS TBS の「報道1930」) でやっていた。TV でこの問題を本格的に取り上げたのはおそらく初めてだと思う。
今回アメリカがイランをミサイル攻撃をした時、ターゲットになったのが小学校で、百数十人の子供が犠牲になった。他にも数千人の一般市民が犠牲になった。その攻撃を決定したのは人間ではなく AI だった。その AI はアメリカ軍が普段から使っている「アンソロピック」という会社の「クロード」というAI だったそうだ。
すると、アンソロピック社は、そんな非人道的なことに自社の AI を使うなという抗議をアメリカ政府にした。それに対してトランプ大統領は怒って、アンソロピック社の AI はもう使わないという決定をした。
という話しから始まり、番組では「AI が人間を使うのか、人間が AI を使うのか」という問題設定で議論していた。その中で、あるアメリカの研究者がやったシミュレーションを紹介していた。それは、21 社の AI に架空の戦争の課題を与えて、核兵器を使うかどうかの判断をさせるというもの。すると21 社のうちの 20 社の AI が「使う」という判断をしたという。倫理観というものがない AI を戦争に使うことの危険性を示していた。
その時、ひとつだけ核兵器を使わないと判断したのが上記アンソロピック社の AI だった。同社には、専属の哲学者がいて、 AI に何が正しくて何が悪いことかを教えているという。それによって AI が倫理観を持つように育てていくことが目的だという。
しかしこれはあまり意味がないと思う。何が正しいかの基準は人によって違うから、人命よりも戦争に勝つことの方が正しいことだと思う人が AI のアルゴリズムを作れば、そういう AI ができてしまう。やはり AI がなんと言おうと最終判断をするのは人間であるべきだというのが正しい考え方だろう。
なおこの問題について以前にも書いたので参考まで→https://saitotomonaga.blogspot.com/2025/10/ai.html
Panorama
一時スマホでパノラマ写真を撮ることがはやったが、そもそもパノラマ写真の始まりはどういうものだったのかについて、美術評論家の中原祐介氏の「タブローとパノラマ. 二つの視座」という論考に詳しい。
もともと19 世紀のイギリスで、見せ物小屋の出し物として、「パノラマ」が大人気を博した。超広角の風景の絵を、360°ぐるりと観客を取り巻くように設置したのが「パノラマ」だった。布に風景の絵を描き、この絵に後ろから光を当てると、布を透かして絵が光輝いて、リアルで幻想的になるというカラクリだった。
下の3枚は、同書に紹介されている当時のパノラマ用絵画の例。上から、山岳風景、ドイツの街の風景、ロンドンの街の風景。画家は見る方向を変えて複数枚の絵を描きそれをつなぎ合わせるのだが、それぞれの絵ごとに別々の消失点があるから、つないだ時に遠近法的な矛盾が出てしまう。それを誤魔化すのに画家は苦労したという。
Perspective in "Last Supper"
「最後の晩餐」といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチが有名だが、他にも「最後の晩餐」はたくさんある。下の3つは、14 世紀、15 世紀、16世紀、の各時代の「最後の晩餐」で、それらを遠近法の発達という観点から比較してみると面白い。
16世紀のティントレットの「最後の晩餐」も正確な線遠近法で描かれている。天井、床、テーブルなど全てが画面左端のキリストの頭にある消失点に集まっている。しかしダ・ヴィンチと違うのは、画面の奥行きが強調されていることで、テーブルは画面に対して斜めに置かれている。また床の市松模様は、奥へ行くほど縮小していくから、遠近法空間を強調するのに役立っている。人物もキリストがいちばん奥に小さく描かれていて、手前の使徒が大きいのも奥行き感を強調している。さらにいちばん手前には晩餐と関係ない人物や犬が描かれている。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が、キリストを中心とした整然とした遠近法に対して、こちらはもっとダイナミックで、演劇の一場面を見るような劇的な絵になっている。
Phycogeography
日経新聞のコラム「不条理な現実を裂く」シリーズで、ギー・ドゥボールの地図を紹介していた。地図とは一般的に、地形や道路などの情報を客観的に視覚化した記録だが、この地図はまったく違う。
ギー・ドゥボールは、資本主義的な効率や管理に支配された都市空間を批判した思想家だが、その観点からこの地図を提唱した。都市を歩くときに迷ったり、偶然に何かを見つけたりする偶然性が奪われている現在の都市空間への批判だ。これを「心理地理学」と呼んでいた。
これは日本でもよくある。居酒屋などが並ぶ、親密感のある路地裏が、都市再開発で消えて、近代的なビルに変わったりする。
そして記事の筆者は、そういう都市を効率的に移動するための地図として使われているナビゲーションが、街を歩くことの偶然性を奪っていると指摘している。
Edit
去年亡くなった松岡正剛は「編集」ということの意味についてこう定義づけていた。
「編集とは、インプットされた情報を「知」へと変換し、新たな意味のつながり(関係性)を発見・構築するプロセスをいう。」
要するに、かき集めた情報をつなぎ合わせるだけでは価値のある新たな情報は生まれないということだ。編集されていない(新しい知見がない)情報が溢れている今のネット社会に対する批判にもなっている。
それを自ら実践したのが「松岡正剛の千夜千冊」という自身のブログだった。一回ごとに自分が読んだ本について書いているが、単なる書評ではない。本を出発点として独自の論考を展開している。取り上げる本のジャンルはさまざまで、題名の千冊を超えて 1800 冊に及んだ。そのうちの多くが独立した単行本として出版されている。
「1001 Grams」
4 / 11 はメートル法記念日だった。度量衡を尺貫法から世界標準のメートル法とすることを法定化した日だ。日本も含め世界中の国でメートル法が当たり前になっているが、ただアメリカ一国だけが メートル法でなく、ヤード・ポンド法をいまだに使っている。例えば買い物をする時に商品の表示がインチやポンドになっていて、慣れないと不便極まりない。車の運転でも、スピード制限速度の標識がマイル表示だ。車のスピードメーターもアメ車はマイル単位だからいいが、日本車などの輸入車は km 表示だからいちいち換算しなければならない。こんなところまで国際標準に従わない「アメリカ・ファースト」なのは(笑)メートル法を初めて定めて世界に提唱したのがフランスだからかどうか知らないが。
全世界のメートル法を管理しているのがパリにある国立計量研究所で、メートル原器やグラム原器はここで保管されている。(写真はグラム原器で、空気に触れないように、2重のガラス容器に入れられている)各国の原器はこれを基準にして作られている。このことを題材にした面白い映画があった。「1001 グラム ハカリしれない愛のこと」(原題:1001 Grams)という10 年ほど前のノルウエー映画だ。ノルウエーの国立計量研究所に勤める女性研究員が主人公で、パリで行われる国際計量学会へ参加する。そこでは原器が金庫で厳重に保管されている。彼女は、自国の原器が世界の原器であるフランスの原器と合っているかどうかを照合するために、 1kg (1000 g) の原器を持参する。ところがノルウエーに帰ってくると原器が壊れていて、1g 狂って1001g になっていた。青くなった彼女は、こっそりパリへ戻って直してもらおうとする・・・
そこで人々との出会いがあり、愛が生まれ、 1グラムという物理的な重さよりもっと大事な人生の重さに気づいていく・・・ というお話しで、それが題名の「1001 グラム ハカリしれない愛のこと」の意味だった。