Oil Refinery in Yokohama
自宅からそう遠くない横浜・根岸には巨大な工場が立ち並んでいて、よくその辺りを散歩する。その中心が、海岸べりにある日本一の石油精製工場。中東からの石油タンカーが接岸する専用の埠頭があり、タンカーから工場へ直接パイプによって原油が送られる。
Oil Refinery in Yokohama
自宅からそう遠くない横浜・根岸には巨大な工場が立ち並んでいて、よくその辺りを散歩する。その中心が、海岸べりにある日本一の石油精製工場。中東からの石油タンカーが接岸する専用の埠頭があり、タンカーから工場へ直接パイプによって原油が送られる。
「Repley」
NETFLIX 版の「リプリー」は昔の「太陽がいっぱい」と同じ原作の映画化だが、演出のスタイルがまったく違う。同じ犯罪映画であるが「太陽がいっぱい」明るい太陽のもとで起こる事件だったが、「リプリー」では人間の暗部を描くダークな「フィルム・ノワール」になっている。
名作フィルム・ノワールが白黒映画であったようにこの映画も白黒で、モノクロームを活かした映像の美しさがが素晴らしい。例えばこの夜の街のシーンで、街灯の光が雨に濡れた道を照らしている。全体は暗い闇に包まれていて、登場人物もシルエットだ。人間の暗部や、都市の不安な空気感を描いている、このような光と影の効果による陰影に富んだ映像表現は。フィルム・ノワール映画の定番手法だ。
The history of photography
写真の歴史を調べていると、必ず真っ先に出てくるのが「ダゲレオタイプ」で、フランス人のダゲールが 1839年に発明した世界最初のカメラだった。この「ダゲレオタイプ」のカメラが1840年代にオランダ船によって日本にもたらされた。幕府に支えていた時計職人の上野俊之丞がこれを使って日本初の肖像写真を撮った。
長崎に日本初の写真スタジオを開いたのは上野俊之丞の息子の上野彦馬だった。もっぱら武家などの肖像写真を撮り、日本初の写真師となった。
「ダゲレオタイプ」は日本では「銀版写真」と呼ばれ、直接 金属板に感光させて、焼き付ける方式で、感光材料の製造技術は複雑で高価だった。それは直接ポジ像を作る方式だから何枚も複製することができない。だからほとんど普及しなかった。
本当の意味で写真が日本で開花したのは「湿板写真」という方式がもたらされた1850年代からだった。ガラス板に液状の感光材料を塗って感光させる方式だった。ガラス板はフィルムと同じで ネガ / ポジ方式 だから紙に何枚も印画できた。それで初めて写真が一般に普及していった。それをビジネスとして始めたのが「横浜写真」の下岡蓮杖で、「日本写真の開祖」と呼ばれるようになった。これについては先日書いた。→ https://www.blogger.com/blog/post/edit/5842824525266145803/1455832997182821526
昨日(6 / 1)は「写真の日」となっていて、上記 上野俊之丞が日本で初めて肖像写真を撮ったことからきている。しかし本当の意味での日本の写真の始まりはそうではなかった。
The Origin of Yokohama=photo
前回に続いて、「横浜写真」についてもっと知りたいと思い資料を探していたら、「大江戸庶民事情」(石川英輔)という本に、横浜写真の開祖.下岡蓮杖についてマニアックなまでに詳しい記述があった。下岡蓮杖についての資料はほとんど残っていないため、詳しいことがわかっていないが、著者はさまざまな推理を働かせている。
当時の写真術は「コロジオン湿板法」といい、ガラスの上に液状の感光材料を塗り、それをカメラにセットして撮る。この観光材料は蒸発しやすく、乾燥すると感光しなくなる。出来たての濡れているうちに撮影しなければならないやっかいなものだった。蓮杖はその感光材料を作る作業を、野毛の田んぼの真ん中にある掘立小屋でやっていた。
感光材料の開発に成功した蓮杖は、商業写真に利用するために撮影スタジオを作ることにするが、田んぼの真ん中の不便なところにあっては客が来ない。しかし乾燥しないうちに短時間で感光材料を運べるように、外国人居留地に近いところでなければならない。その条件を満たす場所として、大岡川の都橋のすぐのところ、今の野毛一丁目に蓮杖の写真館があったと著者は推定をしている。
著者がそれを割り出したのは、「横浜御開地明細之図」という野毛のあたりを描いた古地図からだ。「大岡川」「のげむら」「いせ山」などの地名が読める。
しかしそれでも野毛では経営が苦しくなった蓮杖は野毛の店をたたみ、関内の馬車道へ移る。すると外国人の客がたくさん来て、写真館としての経営が軌道にのる。さらに翌年には本町にもスタジオを新設し、馬車道の方は支店として弟子に任せたという。現在、蓮杖の記念碑が馬車道にあるのはそのためだ。
YOKOHAMA-photo
横浜が開港した江戸時代末期に、横浜で日本初の写真師. 下村蓮杖が初めて写真館を開いたので、横浜は「写真発祥の地」と呼ばれている。そして横浜には数多くの写真館が開設され、外国人観光客相手の土産用の写真で商売繁盛した。それらの写真は「横浜写真」と呼ばれた。
「ドイツにおける<日本=像> 」というドイツ人が書いた本は、西欧人が抱いている日本のイメージが出来上がってきた歴史を研究しているが、その中に写真が重要な役割を果たしていたことを書いている。そして「横浜写真」の始まりからその後の発展に至るまでの歴史について詳述している。
1871年に「乾板方式」がイギリス人によってもたらされ、写真製作が一段と容易になり、全国の開港場で商業写真を撮る写真館が開設されていった。とりわけ横浜では日本人写真師による写真館が数多く開業し、その写真は「横浜写真」と呼ばれた。それは明治なっても続いていく。
「横浜写真」は外国人の日本土産用の写真で、いかにも日本らしい日本の風景や風俗をモチーフにしていた。名所の風景や都市・農村の光景や、職人や人力車夫や家事をする主婦などの日本人の風俗などだった。それはヨーロッパ人が持っている「旧き日本」のイメージを求める西洋人の需要に応える写真だった。
Yokohama-Photo
開港間もない横浜で始まった写真の記念碑が馬車道にある。上に箱型のカメラが乗っていて土台には「日本写真の開祖 写真師・下村蓮杖 顕彰碑」とある。下村蓮杖は、居留外国人や外国人観光客を相手に日本初の写真館を開いた写真師だった。その写真は「横浜写真」と呼ばれた。日経新聞のコラムの「はじまりの横浜 10選」シリーズで「◯◯発祥の地」が多い横浜のさまざまな文化の「始まり」を取り上げている。そのなかで、玉村康三郎という、もう一人の「横浜写真」の写真師を紹介している。
玉村康三郎も下村蓮杖と同じ頃に横浜に写真館を開業したそうだ。彼も肖像や風景を撮って、外国人向けの日本土産用の「横浜写真」で商売をした。その中の一枚が記事に紹介されている。「鼓を打つ芸奴」という白黒写真に彩色をしたもので、なかなか美しい。
Photogramme
モホリ=ナジは、造形芸術のさまざまな分野で、革新的な活動を行ったが、そのひとつが「写真」だった。写真による画期的な造形技法の「フォトグラム」を始めた。引き伸ばし機の上の印画紙にいろいろな物を置いて直接露光する。影の部分は白くなり、光が当たったところは黒くなる。さらに画像を描いたセロハンシートを挟んだりすると、ハーフトーンが生まれたりして、より複雑な画像が作れる。右は 1922 年の「フォトグラム」の作品で、モホリ=ナジがいかに先駆的な活動をしていたかがわかる。
写真に凝っていた若い頃、自分でも「フォトグラム」をやってみた。上の2枚は単純に物を置いただけのプリミティブな作品だが、モホリ=ナジの説明のなかに、液体を使うこともできる、とあったので、やってみたのが下の1枚。
Pulitzer Prize
前々回、ピューリツァ賞受賞の写真「硫黄島の星条旗」が実はやらせだったということを書いたが、歴代ピューリツア受賞作品のなかで有名なものを挙げてみる。
ピューリツア賞の受賞作のなかで、もっとも有名な写真の一つは、「ナパーム弾の少女」だろう。ベトナム戦争で、アメリカ軍がナパーム弾で村々を焼き尽くしていたが、恐怖に怯えて逃げ惑う子供たちを撮っている。アメリカの通信社の専属カメラマンだったニック・ウトというベトナム人カメラマンが撮った。とくに中央にいる裸の少女が衝撃的で、アメリカ国内でのベトナム戦争反対の世論を加速させる役割を果たした。
日本人カメラマンも3人がピューリツァ賞の受賞をしている。その一人の沢田教一という人のベトナム戦争の写真で、「安全への逃避」という写真が世界的に有名になった。アメリカ軍の爆撃を逃れて、若い母親が4人の子供を連れて、川を渡っている。「写真」というメディアの訴求力の強さがわかる。
米軍の従軍カメラマンが終戦直後の日本へ来て、原爆被爆の広島で撮ったこの写真「焼き場に立つ少年」は、近年有名になったので、多くの人が見て知っていると思う。10 歳くらいの少年が、すでに死んでいる弟を背負っている。被爆して死んだ大量の死体を次々と焼き場で焼いているが、少年はその順番を待っている。
撮影したカメラマンは、衝撃的なこの写真を封印してきたが、70 年くらいの時を経て発表した。すると核兵器の悲惨さを伝える写真として世界中に知られるようになり、日本人もこの写真を初めて知ることになった。
なおこのカメラマンは、写真の少年はまだ生きているかもしれないと思い、来日して調べたことも話題になった。
戦争ドキュメンタリー映画「WW II 最前線. ヒロシマ」(NETFLIX) に出てくるが、終戦と同時にアメリカは広島と長崎に医師団を派遣した。医療が目的ではなく、原爆が人間に与える「効果」を測定するためだ。その結果、原爆のあまりにも悲惨な結果を知って、アメリカは原爆に関する情報を徹底的に隠蔽した。日本側の記録映像なども押収され廃棄された。また進駐軍は被爆者の口封じもした。そして原爆の非人道性など無かったことにした。おそらく「焼き場に立つ少年」の写真も、アメリカ政府によって長いこと発表を禁じられていたのだろう。なにか面白いモチーフがないかと、あてずっぽうで競馬場へ行ってみた。馬券を買う人の列と、まわりにハズレ馬券が散らばっている光景を上から見おろすチャンスがあり、「これだ」と思ってシャッターを押した。人間と馬券が画面の中で面白い構成を作っている。「ロシア構成主義」といわれたロトチェンコの写真は、遠近法を基本にした絵画的な構図を排除して、奥行きや立体感をなくすアングルで撮った。それによって2次元的で平面的な画面構成をした。モチーフの人間や物は構成のための要素でしかない。
1839 年にダゲールが写真を発明して以来、写真はさまざまなかたちで発展してきたが、特に「写真」が「絵画」から受けた影響と、「絵画」が「写真」から受けた影響と、その両者の関係が面白い。そのことを当ブログで何回か書いてきたが、今回それらを再編集しながら一つにまとめてみた。ちょっとした「写真と絵画の関係史」になりそうだ。
⚫︎絵画の模倣をする写真(2025. 8. 9. 投稿)
19 世紀に写真が発明されると、絵画が大きな影響を受ける。それまでの写実絵画が、写実性の点で写真と対抗できなくなって、カメラという機械にはできない、人間が感じる印象を描く「印象派」が生まれたとされる。
一方で誕生したばかりの写真は、外国の珍しい風景や、人間の肖像を撮るなど、「記録」の機能しかはたせなかった。しかしやがて、写真も芸術になりたいという願望が生まれ、絵画の模倣をするようになる。現在、東京写真美術館で開催中の写真展「トランス・フィジカル」展に出展されている「アジャンの風景」(1877 年)は写真だが、どう見ても印象派の絵画のように見える。実際に印象派全盛の時代の作品で、初期の写真は、絵画を追いかける「絵画の模倣」(ピクトリアリズム)だったことがよくわかる。なおカラーフィルムがない時代だったのに色がついているのは、3原色れぞれのモノクロームで撮ったフィルムを3枚重ねるという色彩の減算混合の原理を応用している。
⚫︎ピクチャレスク絵画(2014. 8. 4. 投稿)
印象派と同じ頃の19 世紀アメリカでは、「ピクチャレスク絵画」が大人気になる。それは「絵のように美しい風景を描いた絵」の意味であり、アメリカ人が大好きな写実絵画だった。その代表が「ハドソン・リヴァー派」で、まだ未開の土地だったハドソン川流域の風景を描いた。アメリカらしい壮大な大自然を、美しく崇高な絵として描いた。
彼らは旅行をしながら写真を撮って、それを参照しながら、時には複数の写真を組み合わせるなどして、実際には存在しない理想の風景を描いた。それらは大キャンバスに細部まで非常に精密に描かれていた。19 世紀末には、大サイズで高精細のステレオスコープ写真がすでにあり、それに対抗するためだったという。
Tokyo Photographic Art Museum : TRANSPHYSICAL
数年ぶりで東京都写真美術館へ行き、写真展「トランスフィジカル」を見た。写真が発明された19 世紀から、写真がデジタル化された現代までを振り返り、これからの写真がどういう方向へ進むのかを考えさせる展覧会だ。
その中の第1室のテーマが「撮ること、描くこと」で、写真と絵画の関係に焦点を当てている。以下にそのいくつかを紹介。(写真は同展の図録より)
入るといきなりあるのが「アジャンの風景」(1877 年)で、どう見ても印象派の絵画のように見える。実際に印象派全盛の時代の作品で、よく言われるように、生まれてまもない初期の写真は絵画を追いかけていたということがよくわかる。「絵画の模倣」(ピクトリアリズム)の時代だった。なおカラーフィルムがない時代だったのに色がついているのは、3原色それぞれに着色したゼラチンの層を3枚重ねるという方法をとっているという。
Alfred Stieglitz
19 世紀末、アルフレッド・スティーグリッツは、「芸術としての写真」で、写真家として国際的な評価を得た。多くはニューヨークの風景をモチーフにして撮った。冬の澄んだ空気の中でそびえ立つビルや、濡れた雨の歩道に映る光や、樹木や人物のシルエットなど・・
このように、霧に煙ったような雰囲気や、どことなく曖昧な画面、光と影のコントラストなどの、詩的な情感を引き起こす絵画的な写真だ。
スティーグリッツは、たまたま見かけた風景をスナップ写真的に撮るのではなく、あらかじめ構図を決めておいて、その場に待機して、天候や光の具合が自分のイメージ通りになるまでじっと待ったという。