YOKOHAMA-photo
横浜が開港した江戸時代末期に、横浜で日本初の写真師. 下村蓮杖が初めて写真館を開いたので、横浜は「写真発祥の地」と呼ばれている。そして横浜には数多くの写真館が開設され、外国人観光客相手の土産用の写真で商売繁盛した。それらの写真は「横浜写真」と呼ばれた。
「ドイツにおける<日本=像> 」というドイツ人が書いた本は、西欧人が抱いている日本のイメージが出来上がってきた歴史を研究しているが、その中に写真が重要な役割を果たしていたことを書いている。そして「横浜写真」の始まりからその後の発展に至るまでの歴史について詳述している。
1871年に「乾板方式」がイギリス人によってもたらされ、写真製作が一段と容易になり、全国の開港場で商業写真を撮る写真館が開設されていった。とりわけ横浜では日本人写真師による写真館が数多く開業し、その写真は「横浜写真」と呼ばれた。それは明治なっても続いていく。
「横浜写真」は外国人の日本土産用の写真で、いかにも日本らしい日本の風景や風俗をモチーフにしていた。名所の風景や都市・農村の光景や、職人や人力車夫や家事をする主婦などの日本人の風俗などだった。それはヨーロッパ人が持っている「旧き日本」のイメージを求める西洋人の需要に応える写真だった。
明治初めに横浜写真は黄金期を迎えるが、最も人気のあったモチーフは着物を着た女性だった。この例は、昆虫を売る虫売りの屋台とそこに3人の若い娘がポーズをとっている。田舎風の情景は書割りで、床には布が敷いてある。
日本の商業写真の特徴は印画紙の写真に色を施す手彩色だった。明治なって失業した浮世絵の刷り師たちがこの新しい仕事に従事した。まるでカラー写真のように見える名人芸的手法は日本独自の手法として発展していき、西洋人の人気を博した。右の「鼓を打つ芸奴」は横浜写真の名手だった玉村康三郎の作。
これらの写真は西洋に日本のイメージを伝える役割を果たしたが、写真が、ヨーロッパの出版物の挿絵の下絵として使われることもあった。下の「若い日本女性」という例では、二人の女性が寝ている姿の写真をそっくりイラストに使っている。
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