2020年11月29日日曜日

チャールズ・シーラーの写真と絵画

 Charles Sheeler,   Photograph and Painting

写真家であり画家でもあったチャールズ・シーラーは、工場をモチーフを撮影し、同時に絵を描いた。1 9 3 0 年代に近代工業の中心地として繁栄していた、自動車のデトロイトや鉄鋼のピッツバーグなど(もちろんまだ「ラストベルト」ではなかった)を対象にした。それまでは絵のモチーフとして目を向けられていなかった工場や運河や鉄道といった「産業」をテーマにした。


後期になると、写真で工場の形を抽出して、それを幾何的な図形として構成していく絵になっていく。


ニューヨークの高層ビルもモチーフにした。やはり写真を材料に使って絵を描くが、ますます抽象的になっていく。しかしベースはあくまで写真であり、写真を撮るとき、すでに絵のことを意識した撮り方をしていることがわかる。写真を利用して絵を描くことは普通に行われているが、シーラーのやり方はとても参考になる。


2020年11月26日木曜日

究極の ”ピクセル絵画” 「吉村芳生展」

 Yoshimura Yoshio


吉村芳生は色鉛筆で超細密画を描いた。ポスターの藤の花は7mを越す大作だがやはり色鉛筆しか使っていない。その大きさに対して花びらは1cmくらいだから、小さいドットの集まりに見える。「ピクセル化した絵画」をさらに徹底したのが、「ジーンズ」で、8 0 号の大作だが、2mm 角くらいの微細なピクセルで埋め尽くされている。ただし小さすぎてピクセルには感じず、普通の細密描写のように見える。

工程はこんな感じ。まずジーンズの白黒写真を絵のサイズと同じ大きさに拡大する。その上に縦横線を引いて細かいグリッドを作る。各マス目ごとに色の明度によって0から9までの10段階の数字を記入する。ついで紙にも同じグリッドのマス目を作り、マス目の中に写真に記入した数字の本数の黒線を引いていく。少ない本数は明るくなり、多い本数は暗くなるから、写真と同じ明暗が再現されていく。

「ピクセル」は画面を細かい正方形に分割し、各マス目ごとに色を割り振って埋めていくことで画像を作るものだが、全く同じことを手でやっている。人間の感覚を介入させるところがひとつもない、ディジタルなプロセスだ。

「吉村芳生展」 横浜そごう美術館 〜12 / 6 


2020年11月24日火曜日

「ピクセル化」した絵画

"Pixel"  Painting

スーラの点描画の代表作「グランド・ジャット島の日曜の午後」の部分拡大図をさらに拡大するとドットの一つづつがはっきり見えてくる。この2mmくらいの小さな点が2m × 3mの画面を埋め尽くしている。現在の高精細画像モニターに匹敵する高解像度だった。スーラは絵画を「ピクセル化」した先駆けだった。


ヴィック・ムニーズという現代画家は、歴史的名作絵画をピクセル化した作品をたくさん描いたが、スーラの「グランド・ジャット島の日曜の午後」も描いている。スーラよりずっと粗いピクセルにしているが、ピクセルはジグソーパズルのピースの形をしていて、絵はパズルが完成した状態のように描いている。


ピクセルをさらに粗くしていくと、形が見えなくなるモザイク写真になる。サルバドール・ダリは「2 0 メートル離れるとエブラハム・リンカーンの肖像に変容する地中海を見つめるガラ」という長い題名のモザイク画を描いた。題名の通り2 0 mくらい離れて見るような小さいサイズで見ると確かにリンカーンの顔が見えて来る。


モネは筆触分割という手法で、スーラよりさらに早いピクセル化の先駆けだったが、そのモネの「ルーアン大聖堂」シリーズの一枚を、アメリカン・ポップアートのロイ・リキテンシュタインがピクセル化した。新聞の網点写真のように粗いドットで描いている。


ドイツの現代画家ゲルハルト・リヒターは、様々な手法を使って写真と絵画の融合を試みたが、この「アブストラクト・ペインティング」では、粗いピクセルで描いている。このモザイク画像から何の形が見えるか。答えは「無し」。ピクセルそのものをモチーフにしているが、具象的な形の無い単なる抽象絵画だ。カラー・チャートを並べただけのような反絵画的な絵画に行き着いた。



2020年11月22日日曜日

「階段を降りる女」の写真と絵画

「Go down the stairs」Photograph and Painting

1 9 世紀末に、エドワード・マイブリッジという人が写真の革命を起こす。感光材料の感度が低いため超スローシャッターでしか撮れなかった当時、高感度の感光材料を開発し、高速シャッター撮影を可能にした。その結果、連写ができるようになり、実験したのが有名な走行する馬の撮影だった。馬は常にどれか一本の脚が地面についていると思われていた通説を覆し、脚が4本とも宙に浮いている瞬間があることを証明した。

マイブリッジは人間の動きについても様々な連写撮影をする。「階段を降りて曲がる」(1 8 8 5 年)などだ。これらの各コマをパラパラマンガ式につなげれば動画になるが、まだ映画が生まれる以前の時代だった。


写真が捉える「動き」が絵画に大きな影響を与える。マルセル・デュシャンの有名な「階段を降りる裸体 No,2」(1 9 1 2 年)は明らかににマイブリッジの写真からヒントを得ている。連写の一コマづつを重ねることで、絵画という静止したメディア上で「動き」を表現している。


時代はとんで、2 0 世紀ドイツの現代画家ゲルハルト・リヒターは、マイブリッジやデュシャンと同じテーマの「階段を降りる女」(1 9 6 5 年)を描いた。しかしこれはデュシャンのように静止画像を重ねるのではなく、連写の一コマに、その前のコマの残像を浸透させる(階段とスカートが溶け合っているなど)ことで動きを感じさせている。再生している動画にストップ・モーションをかけた瞬間のような感覚がある。映画の時代の「動き」の表現だろう。

2020年11月20日金曜日

名画の遠近法 ⑧「曲がり角」

Perspective in Masterpieces  「Street Corner」

松本竣介は戦前日本の東京の街を寂寥感溢れる心象風景として描いたが、この「市内風景」は曲がり角を描いている。普通は画家自身が道路を歩いている視線で描くことが多いが、これは曲がり角を反対側から描いている。だから道路も家も2点透視になっているが、このような構図は比較的珍しい。


一直線に先まで見通せる大通りより、ちょっと脇へ入った小道の方が散歩するには楽しい。曲がり角が多く、この先に何があるのかといった期待感がわく。風景画でも、一点透視の絵よりも曲がり角の絵の方が変化があって面白い。これはユトリロの例。左側の塀に沿って歩いて来ると、左へ緩く曲がる曲がり角があり、そこを曲がると塀に隠れていた建物が道の両側に見えてきた。さらにその先は右に曲がる曲がり角があるようだ。ずっと歩いて行ってみよう・・・絵からユトリロの気持ちが伝わってくるようだ。

右側の建物の消失点(VP1)と左側の消失点(VP2)が異なるので、左側の家は曲がり角の途中にあることがわかる。塀は曲がり角の手前なので、さらに違う消失点(WP3)になっている。なお向こうを歩いている人物の頭がきちんとアイ・レベル上に乗っていることから、ユトリロの遠近法の正確さがわかる。

ポール・デルヴォーは不可思議な絵が多いが、この「人魚の森」は曲がり角を描いている。左側の建物は途中でくの字型に曲がっていて、それに沿って女性が並んで座っている。ここは狭い路地だが、その先は明るく広い道になっている。路地を通り抜けて明るい道に出た男が遠くに見えている。デルヴォーはマザー・コンプレックスだったそうで、母が死んだ時やっとそのプレッシャーから解放されたというが、その心理状態を描いているのかもしれない。

建物が曲がっているので消失点は二つできているが、女性たちの並びもそれぞれの消失点に向かっている。アイ・レベルは女性たちの胸のあたりで、かなり低い位置にある。だから両側の女性たちから見下ろされているような圧迫感を感じる。これもやっとのことでこの道を通り抜けたデルヴォーの心理状態の現れかもしれない。


キリコの「通りの神秘と憂鬱」は、暗い道から明るい道へ曲がる曲がり角を描いている。曲がると広場があるようだが、そこに何があるかは建物に隠れて見えない。ただ巨大な人間の影が見えていて、不吉な予感がする。そこに向かって少女が無邪気に駆けていく。この絵は第一次世界大戦が始まる1年前に描かれていて、キリコ自身の、先行きの見えない世界への不安感を描いているという。

左側の建物の消失点(VP 1)とは別のところに右側の建物の消失点(VP 2)があるのは、右側の建物が左の建物に対して 9 0 度の関係だから当然だ。しかしそれは左右方向のずれに関してで、絵は上下方向にも消失点がずれている。だから二つの消失点は同一のアイ・レベル上に乗っていない。こういうことは地面がねじれてでもいない限りありえない。歪んだ風景をあえて描いているのがこの絵のもたらす不安感のもとだろう。


2020年11月18日水曜日

「デジタル化」する絵画 筆触分割、 点描画、記号化

 Digitalization of painting   "Broken Brush Strokes"  "Pointillism"  "Symbolization"

筆の痕跡を残さないように、滑らかに塗りこめるのが良い絵画だったが、その伝統とは異なる絵画表現を試みたのがモネだった。細かい線や点で画面を分節化する「筆触分割」と呼ばれる方法だ。これによって、形が無く、動きながら刻々と変化する「水」や「大気」のきらめきを捉えることができるようになった。


スーラがそれをさらに極限化して、水や大気だけでなく固体までも全てを細かい「点」だけで描く点描画を始めた。代表作の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」は2m ×3m の大作だが、全体を微細な点で埋め尽くしている。デジタル技術では、画面を小さな区画に細分化して、そこに色のドットである「ピクセル」を並べることで画像を作る。例えば 1 0 0 インチの高精細プラズマディスプレーでは、2 0 0 万個のピクセルによって画像が構成されているが、スーラの絵はそれに匹敵する高精細画像だという。(「絵画の進化論」より)


モンドリアンの「コンポジション No,10 埠頭と大洋」は、海の絵だが、水面のきらめきを短い縦線と横線だけで描いている。波のない平らな海面の白と、きらめく波の短い黒線とで構成している。中間調のない「0」と「1」のデジタル画像だ。線はプラス記号であったり、マイナス記号であったりして、海の表情を「記号化」してしまった。記号化によって、絵画は「非自然化」し「抽象化」していった。



2020年11月16日月曜日

スティーグリッツの写真と、オキーフの絵画

Alfred Stieglitz and Georgia O'Keeffe

スティーグリッツは 1 9 世紀末から 2 0 世紀初めにかけて、記録メディアだった「写真」を芸術メディアにした「近代芸術写真のパイオニア」だった。大都市ニューヨークの風景を撮り続けたが、この雪景色は最も有名な作品だ。


1 9 3 0 年代も、近代化して繁栄するニューヨークを撮ったが、上の写真のような情緒性は消えて、幾何学的で無機的な高層ビルがモチーフになる。


画家のジョージア・オキーフは、抽象化した花の絵で有名だが、スティーグリッツの奥さんだったので、スティーグリッツに触発されて、ビルをモチーフにした写真的な絵を描いた。この例では、カーテンウォールのガラスに太陽が強烈に反射している。


高層ビルを写真のあおりのような、極端な3点透視で描いた建築写真的な絵。太陽(月?)が画面下の方にある。


アール・デコのようなスタイルで描いたニューヨーク。グラフィカルでポスター的な構成が面白い。


写真が絵画に与えた影響は様々だが、スティーグリッツとオキーフの場合は、写真の表現力を絵画の表現力に取り込んだ例で、とても直接的だ。(画像は「ジョージア・オキーフとアルフレッド・シティーグリッツ」より)

2020年11月14日土曜日

1 8 0 年前の積みわらの写真と、モネの「積みわら」

Early photograph and Monet's 「Haystacks」

イギリス人写真家のトルボットという人が ! 9 世紀中頃に出した「自然の鉛筆」が史上初の写真集といわれている。 「鉛筆」という題名からもわかるが、デッサンや素描のように、対象を素直に写し取ろうとしている。

「開いた扉」は、納屋の入り口を撮った写真だが、誰かがほうきを置いて中に入っていったことを物で感じさせている。長い露光時間を要したので、動いている人間を撮ることができなかった。しかしほうきや壁やバケツなどの質感のリアルさは写真ならではだ。


「積み藁」は、藁の一本一本までディテールがはっきり撮られている。対象を写実的に再現するという点では、絵画はここまでできない。


強力な写実力のある写真の出現で、それまでの自然をリアルに再現するという絵画の意味がなくなってしまう。絵画は写真を超えたリアルを表現しようとする方向へ向かう。上と同じ「積みわら」だが、モネは藁そのものよりも、藁を包んでいる大気の空気感を描いている。「積みわら」シリーズは光と色を変えて 2 5 作あるというが、そのことからも刻々と変化する空気感を描こうとしたことがわかる。


2020年11月12日木曜日

大騒ぎの大統領選の映画「チョイス!」

 「Swing Vote」

アメリカ大統領選挙は、票の集計がどうのとまだ騒動が続いているようだ。そんな今回の選挙の混乱ぶりにそっくりの映画がある。「チョイス!」という 2 0 0 8 年のコメディ映画だが、2 0 0 0 年の「ブッシュ対ゴア事件」が下敷きになっている。原題の「Swing Vote」は「浮動票」の意味。

開票が進むが選挙人獲得数が同数のままで、残り一州の結果で決着がつくことになる。その州も大接戦で得票数がまったくの同数になってしまう。ある男の票が集計ミスが原因で無効票になっていたことがわかり、再投票を認められる。男の一票で大統領が決まることになり、その一票を得ようと両候補者がすり寄ってくるのだが・・・

主人公は政治に関心がなく、まさに「浮動票」なのだが、小学生の娘が賢くて、誰に投票するべきかを父親にあれこれとアドバイスするという設定が面白い。

2020年11月10日火曜日

名画の遠近法 ⑦ 「視点」

 Perspective in masterpieces 「View point」

ピエール・ボナールには食卓の絵がたくさんある。食卓の形が右辺以外は垂直水平の長方形で、皿がほぼ正円で描かれている。ということは、真上に近い高い位置からテーブルを見下ろしていることになる。それに対して人物は正面から見ている。だからこの絵には視点が2つあることになる。一つの固定した視点から見るという遠近法の見方に逆らっている。


子供は「テーブルは四角い」という概念で描く。大人になると遠近法的な見方ができるようになり、透視図として描くようになる。ボナールは子供的な見方でテーブルを描いている。これをボナール自身は「生の見方」と言っていたそうだが、遠近法にとらわれない子供の見方の方が純粋だということだ。(図は「Objective Drawing Techniques」より)

見えている世界を一つの固定した視点から描くという遠近法の原則が、2 0 世紀の絵画では崩れた。ル・コルビジェは一つの物を上面図と側面図に分解して、正円と長方形だけで描いた。建築図面のような考え方で、遠近法の見方を完全に捨てている。これを「純粋主義」とコルビジェ自身は呼んだが、ボナールの「生の見方」に通じる言い方で面白い。

複数の視点を持つ「多視点」絵画の先駆けとなったのがセザンヌだ。「ラム酒の瓶のある静物」で、瓶は真横から見ているが、テーブルは斜め上から見ている。

人間は物を観察するとき、固定した一つの視点から眺めるよりも、あちこちから眺めるほうが多い。セザンヌはそのような「多視点」の物の見方をそのまま絵にした。ポーラ美術館の「セザンヌ展」で、このことを解説した動画を作っていた。セザンヌは「脱遠近法」の先駆けで、それが 2 0 世紀のキュビズムにつながっていく。



2020年11月8日日曜日

名画の遠近法 ⑥ 「視角」

Perspective in masterpieces  「View angle」

遠近法の研究が盛んだった 1 7 世紀オランダでは、様々な試みがされた。ファン・ステーンウェイクという人のこの絵などもそうで、視角が極端に広く、遠近法を使うとこんなことができるぞと言わんばかりだ。

絵をもとにだいたいの平面図を描いてみた。消失点が極端に左に寄っていて、左手のパーゴラの中を視軸が通っている。そのため右手の風景が広い範囲で見えている。右端の建物はほぼ真横に見ていることになる。透視図法的には正しいが、画角が人間の視野角を超えていて、実際にはこのように広い範囲を、視線を正面に向けたままで見ることはできない。見ることのできない風景を、遠近法を使えば描けてしまうというわけだ。


遠近法の教科書にこんな図がのっている。建物が並んでいる風景で、手前の建物は真横にあるが、そこまで全部を描いてしまうのは良くない。黒枠で囲った範囲くらいの、視軸の中心近辺だけを描けば矛盾が生じない。上の絵はこの原則を知っていて、あえて無視している。(図は「Perspective Made Easy」より)


ゴッホの「カラスのいる麦畑」は、自殺直前の最後の作品で、何もない寂寞とした麦畑が、ゴッホ自身の心を表現しているといわれる。横方向に長い画面サイズに麦畑だけが描かれている。手前に3本の道があるが、それぞれが 9 0 度に近い角度を持っているとすれば、視角は 1 8 0 度近くあることになる。パノラマ写真を撮るときにカメラを左右に振るのと同じ見方をしないとこうは見えない。左右を見渡して視界全部が麦畑しかないことを描いている。だから空虚さを感じるのだろう。

縦方向に視角の広い例もある。超リアリズムのアントニオ・ロペスが描いたマドリードの風景で、道路がすぐ手前まで見えている。道路が画面の下半分を占めている変わった構図になっている。道路のゼブラゾーンが3角形をしているので奥行き感を強調するのに役立っている。

この絵を描いている最中のロペス自身を撮った写真がある。ゼブラゾーンの一番手前はロペスの足元すぐ近くにある。だから建物は水平方向を見て描き、道路は下を見て描いていることになる。視軸を動かしていることになり、これは「1視点・多視軸」と呼ばれる。視軸を固定して描くのが遠近法の原則だが、これは変種の遠近法だ。(図は「空間を描く遠近法」より)

ポール・デルヴォーの「階段」は、「1視点・多視軸」がはっきりとわかる例だ。天井の消失点は女性の顔近くにあり、床の消失点は女性の足元近くにある。視線の方向を顔に向けた時と、足元へ向けた時の両方の見え方を同時に描いている。

遠藤彰子の「光景」は、上下左右を広い視角で描いている。そのため魚眼レンズの写真のように建物が湾曲している。これだけ広い範囲を見るには、視線をあちこちへ動かさなければならないが、この絵はその見え方で描いている。

人間の視野角を超えた広い範囲を見る時は、首を動かして視軸を移動させる。全方位に向けられた視軸に直交する画面をつなぐと、球面になる。この球面に投影された像は「球面透視図」と呼ばれる。この球面に直線が投影されると曲線になる。だから上の絵のように建物が湾曲する。(図は「空間を描く遠近法」より)