2022年10月30日日曜日

「鉄道と美術の 1 5 0 年」展と、鉄道を描いた西洋の名画

 Railway painting 

東京ステーションギャラリーで開催中の「鉄道と美術の 1 5 0 年」展を観たが、なかなか面白い。「鉄道」という言葉と「美術」という言葉が生まれたのが、ともに 1 5 0 年前だそうで、そのふたつを通して、日本の近代化の歩みを見ることができる。

展覧会は日本の絵画だけだが、鉄道を描いた西洋の絵画を見てみた。時代順に並べてみると、鉄道が科学技術進歩の象徴として描かれた時代から、逆に近代化の負の側面として描かれるまで、時代の流れを感じる。(以前に一度投稿したものの再掲)


 
「雨、蒸気、速度:グレイト・ウエスタン鉄道」(1 8 8 4 年)
蒸気機関車を描いたターナーの名作。列車が降りしきる雨を切り裂いてばく進している。近代的な科学技術のシンボルとしての機関車への賛美であることは、題名からもわかる。


「サン・ラザール駅の外、列車の到着」(1 8 7 7 年)
印象派の人たちは、近代的な都市の風景を描くようになる。モネは機関車や駅などをモチーフにした連作を描いた。蒸気を吹き上げる機関車がいきいきと描かれている。

「村を通過する赤十字の列車」(1 9 1 2 年)
2 0 世紀初頭、近代産業を賛美したイタリアの「未来派」たちの一貫したテーマは、「スピード」だった。ウンベルト・ボッチョーニのこの作品では、煙を上げて疾走する列車と、後ろへ飛んでいく風景の断片がコラージュ風に描かれている。


「北方急行」( 1 9 2 7 年)
ツアー旅行が盛んになった時代、カッサンドルは、列車や船をモチーフにした観光ポスターをたくさん描いた。ローアングルと、極端なパースで、蒸気機関車のスピード感と力強さを、アール・デコのスタイルで描いている。


「煙突のある幻影」(1 9 1 7 年)
キリコは、現代社会の不安を描いたが、機関車や駅舎などがたびたび登場する。この絵では、廃墟のような無人の工場の向こうに、煙を出している機関車が小さく見えている。


「孤独」(1 9 5 5 年)
ポール・デルヴォーは、ローマ時代風の建物と汽車を組み合わせた絵が多いが、”過去への追憶” を描いているようだ。この絵は、無人のホームで、走り去っていく貨車を見つめる少女が夢幻的に描かれている。


「ペンシルヴァニアの夜明け」(1 9 4 2 年)
エドワード・ホッパーは、都会の孤独と寂しさを描いたが、よく登場する蒸気機関車や線路も、ノスタルジックではなく、都市の無機質さとして描いている。この絵では、無人の駅のホームに列車が止まっていて、背景は殺風景な工場だ。


「鉄路」(1 9 8 6 年)
アンセルム・キーファーは、ナチス時代の心象風景を通して、ドイツの負の歴史を描いた。これはアウシュビッツ収容所へユダヤ人を運ぶ貨物列車の引き込み線を描いている。


2022年10月28日金曜日

ロトチェンコ風な・・・昔撮った写真

 Constructive photo

マン・レイは 1 9 2 0 ~ 3 0 年代に活躍したが、どちらかというと商業写真寄りだったのに対して、それと同時代のロシア構成主義のロトチェンコは、純粋に造形芸術としての写真を追求していた。写真に熱中していた 6 0 年前、ロトチェンコが好きで、それ風の写真を一生懸命撮っていた。


競馬場で撮った写真。人間と散らばった外れ馬券が面白いパターンを作っている。


光と影が強いコントラストで交錯して、ハレーションのような効果を出している。海と太陽の手前によしずがあるのはダブルイメージで、ネガを2枚重ねてプリントしている。


これもグラスの画像を多重露光したダブルイメージによる構成。


彫刻家の本郷新の制作現場で撮った写真。画面中央で明暗が真っ二つに別れている力強い構図。オレンジフィルターを使って強いコントラストを出している。


屋根瓦のリズミカルなパターン。ロトチェンコ の最高傑作「階段」を意識している。


終点駅での線路と運転手用踏切による構成。俯瞰のアングルが多い ロトチェンコ の影響。


合成写真。煙突や電柱のリズムによる平面構成的な作品。ちょっと幻想的な感じもする。 




2022年10月26日水曜日

「マン・レイと女性たち」展と、ソラリゼーション

Man Ray and the Women

神奈川県立近代美術館(葉山館)で 「マン・レイと女性たち」展が開催中。懐かしい作品をたくさん見ることができた。マン・レイといえば 1 9 3 0 年代に生み出した「ソラリゼーション」が有名で、その作品は、独創的な表現世界を創り出し、写真の歴史を変えた。(右図チラシの写真は代表作のひとつ)

今から 6 0 年前の学生時代、写真が趣味だった。引き伸し機で自分で D P E (この言葉も今では死語になった)をやって遊んでいた。当時すでにマン・レイの「ソラリゼーション」は日本でも紹介されていたので、その真似をしていた。印画紙を現像液に浸けて、像が現れてきたら、暗室の電気を一瞬だけ点けて光を当てる。それから定着液に浸けて現像を止めると、ネガとポジが入り混じったような不思議が画像ができあがる。

探したら当時の作品が1点だけあった。



2022年10月24日月曜日

「ハイダーとジンメルの動画」

Heider and Simmel Animation

 「ハイダーとジンメルの動画」という有名な実験がある。単純な図形が動き回るだけの1分ほどのアニメーション動画を被験者に見せ、どう感じたかを問う。まずこの動画を見てほしい。(8 0 年前なので画質は悪い)

→  https://www.youtube.com/watch?v=VTNmLt7QX8E

動画にはナレーションも字幕もなく、被験者に対して事前の説明もない。しかしほとんどの被験者は、三つの図形が人間だと解釈した。そして、小さい三角が男の子で、丸がその恋人で、大きい三角がそこに割って入って、力ずくで丸を自分のものにしようとしたが、小さい三角が撃退すると、大きい三角は怒って、家を壊してしまう・・・といった「物語」を大部分の被験者が感じとった。

人間は、様々な断片的な情報をネットなどから日々受け取っているが、それらをまとまった全体像として把握するのは難しい。だから人間は「物語」を作ることで、物事を理解しようとする。複雑な物事もいったん「物語」ができてしまえば、それに沿って細部についてもなぜそうなのかを説明できる。

だから「物語」は政治家などに悪用もされる。「物語」は見えていることの裏にある「真実」を語る(ように見える)。真実でないことも「物語」として語れば真実に思えてくる。「物語」を作り上げて、「実はこういうことなんだよ」と語る。受け取る側も「そういうことだったのか!」と納得してしまう。

政治の世界で「Narrative」(ナラティブ)という言葉が最近よく使われるが、それが「物語」のこと。政治指導者が、「物語」を語ることで、自身の正当性を主張し、国民を動かそうとする。例えば、「隣の国は我々と同じ民族で、歴史的に長く我が国と一体だった。しかし最近は敵対勢力と結託して、我が国を脅かそうとしている。だから我々は祖国を守るために戦わねばならない」・・・これってなんのことはない、上の動画の物語とぴったり同じ。


2022年10月22日土曜日

ホッパーの、人のいない部屋

 Hopper's empty room

エドワード・ホッパーの最晩年の作品が下の2つで。どちらも室内の絵だが、人がいない部屋を描いている。それまでのホッパーには無かったことなので、いろいろな人がこの「無人」について”哲学的な”解釈をしている。例えば、「部屋の無人によって、虚無や孤立といった感覚が表現されており、ホッパーが晩年に感じていた ”終わり” の諦観が描かれている。」などと言っている。深読みのし過ぎだろう。ホッパーはもともと平面構成的な画面の造形への強い関心があり、晩年になってそれに徹するために、人物を排したのだろう。結果的に「物語性」のない「無人」の絵に行き着いたということだと思う。

ホッパーは、室内に差し込む太陽の光と影でできる図形を平面構成の要素に使っている。だから明暗のコントラストが普通以上に強調されていて、その明と暗のパターンが絵の構図になっている。この絵を光と影だけの明暗2トーンに還元してみると、ホッパーの意図がより明確になる。そこに現れる白黒の図形は、プロポーションやバランスなどの緻密な計算のもとに構成されいることがわかる。

「海辺の部屋」は、ちょっとだけ見えている隣の部屋に家具があったりして、人間の存在をわずかに感じさせてはいるが、それ以外は、大部分が壁と床に当たった光と影で絵が構成されている。


「空の部屋の太陽」では、空き家のようにガランとした部屋が描かれていて、上の絵よりさらに「無人」が強調されている。ここにどんな人が住んでいて、どんな生活をしているのだろうかといった「物語性」を感じさせる要素は排除されている。ホッパーの関心は、あくまでも壁と柱と床に当たった太陽の光と影が作っている絵としての「造形」だ。


ホッパーは晩年になって急にこの造形志向が出てきたわけではない。もっと早い時期の作品である「朝の太陽」は、もう太陽が高くなっているのに、今起きたばかりの女性が、けだるい表情で窓の外を眺めている・・といった「物語性」が前面に出ている。しかしこの絵の重要なポイントは光と影の構成で、光が壁に当たってできている平行四角形と、ベッド上面の平行四辺形と、窓の平行四辺形、の3つが響きあっている造形的な面白さだろう。人物が描かれてはいる違いがあっても、上の晩年の2作と共通している。



2022年10月19日水曜日

ホッパーの「深夜の人たち」と、小説「ナイトホークス」

 Nighthawks

「深夜の人たち」はホッパーの最高傑作として有名だが、原題は「Nighthawks」つまり「ナイトホークス(夜鷹)」だ。街が寝静まった深夜のカフェで、二人ずれの男女と、うつむいてコーヒーを飲んでいる男の姿から、都会で生息する人たちの孤独や倦怠感が滲み出ている。そして男女ふたりは訳ありで、背中の男がそれを盗み見みしているようにも見える。このどこか”不穏な”絵の雰囲気が、都会の孤独や不安をテーマにした映画や小説でよく引用される。


ミステリー小説の「ナイトホークス」にこの絵が登場する。主人公は、ハリー・ボッシュという、ヴェトナム戦争のトラウマをかかえた”訳あり”の刑事だが、彼の心象風景を表すのに、この絵が印象的に使われている。

彼はこの絵が好きで、事件に没頭している時に、よくこの絵のことを考えたりする。通りに面した店のカウンターに、静かな雰囲気の影のような男がひとりで座っているが、その男と自分を同一視している。『俺はあの男だ。俺は一匹狼のナイトホークだ』とボッシュは思う。『暗闇。どうしようもない孤独。一人きりで座って、暗闇に目を向けている男。俺はあの男だ。』とこの絵を見るたびにボッシュは思うのだった。

2022年10月17日月曜日

エドワード・ホッパーの「盗み見る」視線

 Edward Hopper

ホッパーには、見知らぬ女性が一人だけポツンといるのを盗み見るように描いた絵がたくさんある。いずれも公共の場所なのだが、まわりには誰もいず、「女ひとり」を描いている。彼女たちは無表情で、何かの物語性を感じさせるようには描かれていないが、観る人はいろいろなことを想像してしまう。そこに共通しているのは、ニューヨークという大都会に暮らす女性たちの孤独や憂愁だ。


「オートマット」 深夜営業の簡易食堂で、女性は物思いにふけりながら、じっとコーヒーカップを見つめている。昼間の仕事を終えてホッとしているのか、憂いの気分なのか。
「カフェテリアの日差し」 朝日が差し込む明るいカフェテリア。女性の表情に朝の元気さはなく、むしろ倦怠感を感じる。
「ホテルの窓」 夜のホテルのロビーで、着飾った中年女性が窓から暗い通りを眺めている。まだ来ない待ち人を待っているのだろうか、
「ホテルのロビー」 ホテルのロビーの女性を上から覗き見のように見下ろしている。ホッパーは、このように女性の脚を強調して描くことが多い。
「コンパートメント・カー」 他に乗客がいない汽車のコンパートメントで、女性ひとりが雑誌を読んでいる。窓外は夕暮れの田舎の風景で、どこか遠くへ出かけるのだろうか。
「ニューヨークのオフィス」 オフィスの女性を道路の反対側から窓越しに見ている。社員も通行人もいない。ニューヨークの喧騒はなく、まるで無人の街のようだ。
「ニューヨーク・ムービー」 劇場風の豪華な映画館で、映画が上映されている。案内嬢がうつむいて、物思いに沈んでいる。黒い壁が彼女と客席を区切っているが、それは豪華に輝く世界と、そこで働く自分とを区切る心理的な距離感のようだ。
「夜の窓」 ホッパーは夜の高架鉄道の電車に乗って、他人の家の灯りのついた部屋を窓越しに盗み見るのが ”趣味” だったという。これも視点が高いから、電車から見た光景だろうか。女性が着替えしているのを写真の盗撮のように描いている。

2022年10月14日金曜日

不思議な都市の絵

 Ken Yabuno

薮野健という画家の作品が面白い。イタリア(?)の風景で、街が丸い円盤の上に乗っているが、空と海の青が繋がっているので、円盤が空中に浮かんでいるように見える。そして面白いのは、三つの建物の消失点が別々のところにあること。中央の茶色い建物は正面から見た一点透視で描かれているが、左右の建物はそれぞれ別々の方向から見た二点透視で描かれている。つまり、画家は同じ場所にいたまま、視線を変えて3つの方向から描いている。固定した視点と固定した視軸で描くという透視図法の大原則を打ち破っていて、「1視点・多視軸透視」と呼ぶ人もいる。


同じ画家の多視軸透視のもう一つの例。これも不思議な絵で、ミラノの「ガレリア」と思われる建物を描いている。ここは道路が直交しているから、同一視点からは一本しか見えないはずだが、すべての道路が角度を変えて見えている。だから道路は放射状に拡がっているように見える。それを同一視点から描いたことを証明する(?)かのようにキャンバスに向かう画家自身の姿を描きこんでいる。



一般的に風景画では、正確な透視図法によって、都市の整った形、美しい形を客観的に表現するが、この絵ではあえてそれを無視することで、都市のファンタジー性のようなものを表現している。


2022年10月10日月曜日

絵の、風景と窓の関係

 Window & View

箱根の芦ノ湖のほとりに「成川美術館」という美術館がある。その展示室に窓が開いていて富士山と芦ノ湖が見えている。本物の風景を、あたかも風景画を展示しているかのように見せかけている。一種のトリックアートのようで面白い。


1 6 世紀のイタリアでは、壁面に風景を描いて、あたかもそこに窓があるかのように見せかけるだまし絵が流行った。これは貴族の邸宅だが、円柱が並んでいて、その向こうにローマの景観が見えているが、これらはすべて壁に描かれた絵だ。成川美術館は、本物の風景を絵に見せかけていて、これの逆をいっているわけだ。


 現代絵画では、キルヒナーが「日の当たる庭」で窓からの風景を描いている。上の絵で、円柱を描くことで、その向こうに見えるのが、窓から見た本物の風景だと思わせる効果を出していたが、この絵でも、手前にタバコと煙を描くことで、”風景の絵” ではなく、”窓から見た風景の絵” であることを強調している。


写真でも、ヴォルフガング・ティルマンスが窓から見た風景を撮っている。やはり手前に小物やソファを入れている。リアルな写真だから、大きく引き伸ばして壁に貼っておけば、1 6 世紀のだまし絵のように、本当に窓がそこにあるように見えるかもしれない。


デューラーの有名な図で、モチーフの前に四角い枠を置いて、それを通して対象を見ながら描くという、絵の描き方解説がある。絵はもともと枠という窓を通して見たものを描くというのが始まりだったわけだ。上にあげたような例は、枠の窓をはみ出して、窓の周囲まで同時に描くことで、デューラーの図のように、画家が  ”窓をとおして風景を見ている” という関係性を強調している。


ルネッサンス時代の画家アルベルティは「絵画論」の中で、「私は自分が描きたいと思う大きさの四角の枠を引く。これを私は、描こうとするものを見るための開いた窓とみなす。」と書いている。つまり「絵画=窓」と定義している。

2022年10月8日土曜日

内と外を、「つなげる窓」と「区切る窓」、その絵画と映画

 The Window

「窓」にはいろいろな機能がある。明るさ・風・眺めなどで「内と外をつなぐ」働きと、雨風や外敵を防ぐ「内と外を区切る」働きがある。

窓を題材にした絵は数多くあるが、特にマティスは窓辺の絵をたくさん描いた。その中でこの2点は「窓の意味」という観点で見ると対照的だ。

左の「窓辺の女」では、女が開け放たれた窓から外を見ている。ガウン、椅子、窓枠、などの室内と、ヤシの木、砂浜、などの室外とが共通して黄色いトーンで描かれている。さらに、遠近の奥行き感を無くして、窓の内と外が境い目のない連続した絵になっている。

右の「待つ」は対照的だ。外の明るい暖色の色調に対して、室内は寒色で、女の服装は黒だ。窓は閉まっていて、窓の黒い桟がはっきりと内と外を区切っている。そして二人とも窓の外を見ていない。題名の「待つ」のとおり、右の女が頭を垂れて、外から来る何かを待っている。窓によって隔てられた、内と外との心理的な距離感が描かれている。


名作「八月の鯨」は、マティスの絵と同じ意味で、「窓」を主題にした映画だ。海を一望する眺めのいい家で老姉妹が生活しているが、誰も訪れてくることがない寂しい毎日を過ごしている。姉は、何もすることがなく、一日中、窓辺に座ったまま過ごしている。妹も家事はするものの、それ以外にすることがないから、わざとゆっくりと仕事をして、時間を引き伸ばしている。


この家は窓が小さいから室内はあまり明るくなく、どちかというと陰気な閉ざされた空間だ。妹は、ありあまる毎日の時間を費やすために、景色を眺めながら過ごせるように、海を見晴らす大きな窓を作りたいと姉に提案する。しかし目が不自由な姉は、そういう窓を必要としないから、反対をして喧嘩になる。

毎年8月になると、近くに鯨がやってくるが、二人が娘だった頃は、海へ走って見に行った。夏になるとその思い出がよみがえってくるが、歳をとった今、それは夢でしかない。外の世界から切り離されてしまったいま、せめて大きい窓を作ることで、内と外とをつなげる接点を取り戻したいと願っている。そして最後は姉が大きい窓を作ることに同意して映画は終わる。

2022年10月6日木曜日

「電柱」の絵

 Electric pole

最近は電線の地下化が進んでいて、電柱はこれから絶滅危惧種化していきそうだ。しかし電柱にはどこか魅力を感じさせるものがる。

電柱を無くす目的のひとつは、景観を害さないようにすることだが、風景画を描く時も、電柱があっても省略して描かないという人が多い。しかし版画家の川瀬巴水には、電柱を絵の主役級の扱いで描いた作品が多い。電柱が見る人に、大正・昭和のノスタルジックな感じを引き起こすのにとても役立っている。そして水平線が多くなりがちな風景画で、垂直線の電柱が画面に変化をもたらしたり、引き締めたりするという構図上の効果もある。


「電柱マニア」という恐るべき(?)本がある。電柱の機能や構造を解説したうえで、全国の ”個性的な" 電柱を写真で紹介している。これを見ると、電柱というものがいかに造形的な魅力をもっているかがよくわかる。


ということで最近、電柱そのものだけを即物的に描いた絵を見かけた。「現代パステル協会展」に出ていた作品で、雪の降る寒空を背景に電柱が立っていて、てっぺんにカラスがとまっている。電柱一本だけで絵にしてしまう巧みさに感心させられた。電柱というものの「魅力」を活かしている。


ついでなので 1 5 年ほど前に描いたパステルスケッチから、電柱を一生懸命(?)描いたものを参考までに。例えば左下は、電柱が無かったら、単調すぎる風景で、描く気にもならなかったと思う。