2026年6月1日月曜日

グロピウスが日本建築から受けた影響

 Walter Gropius

60 年くらい前、「日本美術史」か何かの授業の一環で、京都の桂離宮を見学したことがあった。桂離宮は研究目的でしか見学を許されないので、貴重な体験だった。当時からすでに、桂離宮をはじめとする日本の伝統建築の”近代性”が世界的に評価されていた。

最近「ドイツにおける日本像」という本を読んでいたら、グロピウスが日本の伝統建築から受けた大きな影響についてかなり詳しく解説している。それによると、すでに1920年代から欧米では日本建築について多くの研究書が出版されていたので、グロピウスはその写真をもとに、桂離宮や東大寺の法華堂などのスケッチをしていた。その結果が自身の建築設計に生かされ、バウハウスの教育にも反映された。

グロピウスが日本建築から影響を受けて設計した例が「ゾンマーフェルト邸」という個人住宅で、正倉院からヒントを得ている。正倉院は角材を重ねて造られており、その角材のくさび形の末端は互いに直角に交わって、外側に突き出ている。このゾンマーフェルト邸はその正倉院の構造と類似している。四隅で横木の先端が交差する構造、広く張り出した寄棟屋根、などの点だ。

グロピウスが日本建築の最も需要な特徴として挙げているのは「規格化」だ。畳は 180cm × 90cm という人間が寝た時の寸法という人間的尺度が基準になっていて、その畳の寸法の倍数で何畳という部屋の大きさが規定されている。障子や襖の寸法も畳のサイズで規格化されているから、現場で現物合わせしながら造る必要がない。外で作ったものを持ってきてきてもそのままピタリとはまる。

これは「モジュール」の考え方で、西洋の建築が20 世紀になってやっと到達したことを日本では何百年も前から普通にやっていたことにグロピウスは驚嘆している。欧米では近代になって、住宅建築を工業化してプレファブリケーションが可能な「2バイ4」などが行われるようになったが、それは日本では大昔からやっていたというわけだ。

もうひとつグロピウスが重視していたのは、内部と外部の空間を融合する「障子」だった。グロピウスがバウハウスの校舎を設計した時、大きなガラス窓に細い鉄の格子をはめた。それによってできる格子模様の横長の長方形は日本の障子と同じプロポーションだった。


2026年5月31日日曜日

下岡蓮杖の「横浜写真」事始め

The Origin of Yokohama=photo 

前回に続いて、「横浜写真」についてもっと知りたいと思い資料を探していたら、「大江戸庶民事情」(石川英輔)という本に、横浜写真の開祖.下岡蓮杖についてマニアックなまでに詳しい記述があった。下岡蓮杖についての資料はほとんど残っていないため、詳しいことがわかっていないが、著者はさまざまな推理を働かせている。

当時の写真術は「コロジオン湿板法」といい、ガラスの上に液状の感光材料を塗り、それをカメラにセットして撮る。この観光材料は蒸発しやすく、乾燥すると感光しなくなる。出来たての濡れているうちに撮影しなければならないやっかいなものだった。蓮杖はその感光材料を作る作業を、野毛の田んぼの真ん中にある掘立小屋でやっていた。

感光材料の開発に成功した蓮杖は、商業写真に利用するために撮影スタジオを作ることにするが、田んぼの真ん中の不便なところにあっては客が来ない。しかし乾燥しないうちに短時間で感光材料を運べるように、外国人居留地に近いところでなければならない。その条件を満たす場所として、大岡川の都橋のすぐのところ、今の野毛一丁目に蓮杖の写真館があったと著者は推定をしている。

著者がそれを割り出したのは、「横浜御開地明細之図」という野毛のあたりを描いた古地図からだ。「大岡川」「のげむら」「いせ山」などの地名が読める。

しかしそれでも野毛では経営が苦しくなった蓮杖は野毛の店をたたみ、関内の馬車道へ移る。すると外国人の客がたくさん来て、写真館としての経営が軌道にのる。さらに翌年には本町にもスタジオを新設し、馬車道の方は支店として弟子に任せたという。現在、蓮杖の記念碑が馬車道にあるのはそのためだ。


2026年5月30日土曜日

「横浜写真」の始まりと発展

 YOKOHAMA-photo

横浜が開港した江戸時代末期に、横浜で日本初の写真師. 下村蓮杖が初めて写真館を開いたので、横浜は「写真発祥の地」と呼ばれている。そして横浜には数多くの写真館が開設され、外国人観光客相手の土産用の写真で商売繁盛した。それらの写真は「横浜写真」と呼ばれた。

「ドイツにおける<日本=像>  」というドイツ人が書いた本は、西欧人が抱いている日本のイメージが出来上がってきた歴史を研究しているが、その中に写真が重要な役割を果たしていたことを書いている。そして「横浜写真」の始まりからその後の発展に至るまでの歴史について詳述している。

1871年に「乾板方式」がイギリス人によってもたらされ、写真製作が一段と容易になり、全国の開港場で商業写真を撮る写真館が開設されていった。とりわけ横浜では日本人写真師による写真館が数多く開業し、その写真は「横浜写真」と呼ばれた。それは明治なっても続いていく。

「横浜写真」は外国人の日本土産用の写真で、いかにも日本らしい日本の風景や風俗をモチーフにしていた。名所の風景や都市・農村の光景や、職人や人力車夫や家事をする主婦などの日本人の風俗などだった。それはヨーロッパ人が持っている「旧き日本」のイメージを求める西洋人の需要に応える写真だった。

当時は長時間露光が必要だったため、屋外で撮ることは絶対になく、スタジオ内で撮られた。「書割」という手描きの背景画の前でモデルがポーズをとる。この「日本の農夫」という写真では、丸い編笠を被り、稲藁で作った蓑に草履を履いて、床に白粉を撒いた雪を踏み締めて歩く姿のモデルを撮っている。背景は布に描いた雪景を使っている。

明治初めに横浜写真は黄金期を迎えるが、最も人気のあったモチーフは着物を着た女性だった。この例は、昆虫を売る虫売りの屋台とそこに3人の若い娘がポーズをとっている。田舎風の情景は書割りで、床には布が敷いてある。



日本の商業写真の特徴は印画紙の写真に色を施す手彩色だった。明治なって失業した浮世絵の刷り師たちがこの新しい仕事に従事した。まるでカラー写真のように見える名人芸的手法は日本独自の手法として発展していき、西洋人の人気を博した。右の「鼓を打つ芸奴」は横浜写真の名手だった玉村康三郎の作。

これらの写真は西洋に日本のイメージを伝える役割を果たしたが、写真が、ヨーロッパの出版物の挿絵の下絵として使われることもあった。下の「若い日本女性」という例では、二人の女性が寝ている姿の写真をそっくりイラストに使っている。



横浜写真が終わりを告げるのは、20世紀初めに日露戦争で日本が勝利した時だったという。横浜写真に撮られていた日本のイメージが現実の日本の姿でなく、幻想だったことが知られてしまったのだ。

2026年5月29日金曜日

「名所図会」での各地名産品の解説

Local specialty product

江戸時代の観光ガイドブック「名所図会」には、名所旧跡だけでなく、それぞれの地における人々の暮らしぶりや仕事などが描かれている。文章の説明はあまりなく、絵による視覚情報がほとんどだった。絵師たちは必ず現場で取材しスケッチをしたので、現場の雰囲気がリアルに伝わってくる。その中で各地の名産品を作っている製造工程を説明している絵がたくさんある。細部まで克明に描いているので文章説明なしでもよく理解できる。(図は「江戸の旅  名所図絵の世界」(深光富士男)から)


⚫︎「浅草海苔」:「江戸名所図会」
江戸中期には、海苔の養殖技術が発達して、大森や品川の海で量産体制が確立されていた。江戸の海苔は「浅草海苔」というブランド名で、人気商品として広く流通した。 この絵は海苔の製造工程を克明に描いている。左上で海の中に木の枝が立っているが、これは海苔の種を付着させて育てるもの。左には男が海で取ったばかりの海苔をカゴで運んでいる。中央下では男が海苔を包丁で細かく刻んでいる。その向こうでは海苔を漉いて、干している。右下の屋内ではパートのおばさんらしき女性が、出荷の梱包をしているようだ。左中央は看板のある店舗になっていて、製造直売店になっている。奥の座敷で家族とお茶を飲んでくつろいでいる男は社長だろう。従業員に仕事を任せて余裕の表情だ。


⚫︎「高野豆腐」:「紀伊国名所図絵」
高野豆腐はもともと氷豆腐と呼ばれ、寒中に豆腐を屋外で凍らせ、乾燥させる食品だ。高野山の僧が作り始めたので、高野豆腐と呼ばれるようになった。高野豆腐作りの一連の工程を目で追えるように見せている。


⚫︎「獣皮販売」:「木曽路名所図会」
木曽の山中では、熊、猪、鹿などの狩猟が盛んだった。木曽路沿いに獣の皮を売る店が連ねている。獣の毛皮が軒下に吊るされ、店先に獣の足が無造作に置かれている。生捕りにした熊を檻に入れて展示している店もある。左の店では、熊の胆嚢を乾燥させて作った熊担(くまのい)を店主が客に勧めている。


2026年5月28日木曜日

江戸時代の旅のグルメガイド

Gourmet Guide 

江戸時代に各地の観光ガイドブック「名所図会」がたくさん出版されたが、今の観光ガイドがグルメ情報を満載しているように、当時の「名所図絵」も美味しい店をたくさん紹介している。「名所図会」の研究書『江戸の旅  名所図絵の世界』(深光富士男)からいくつかを紹介する。

関西地方の観光ガイド「摂津名所図絵」に、大阪にある「すな場」という名前の蕎麦屋が出てくる。大規模な店で、客がいっぱいで繁盛している。庭に縁台のようなものがたくさん並んでいて。客はその上で蕎麦を食べている。店内では蕎麦を打ったり、茹でたりしているたくさんの職人が忙しく働いている。女性の店員が縁台の客へ蕎麦を運んでいる。


この場所は現在の大阪市西区新町で、豊臣秀吉が大阪城を築く際に、資材の砂が置かれていた「砂場」だった。たくさんの土木工事関係者が働いていたので、彼らの食事用に蕎麦屋が営業していた。砂場の店なので店名も「砂場」と呼ばれるようになった。今でもあちこちに「砂場」という名前の蕎麦屋を見かけるがそのルーツだった。


「東海道名所図会」にでてくる東海道五十三次のひとつ草津宿の餅を食べさせる店。旅人の楽しみといえば、休み処で一服し名物を食べること。ここは「うばもち」という餅の店で、うまいと評判の店だった。手前の東海道に面している店で旅人が餅を食べている。奥の座敷では武士の一行が庭を眺めながらくつろいでいる。



これらの例でわかるように、「名所図会」は庶民の姿を写実的にいきいきと描いている。絵の細部を隅々まで見ていると飽きない。現在の観光ガイドのような通り一遍の内容とは違って、絵師が徹底的に現地取材している。その点、まるでミシュランなみだ。

「東海道五十三次」の広重はいくつかの作品で、自身で現地へ行かず「名所図会」を参考にして描いていたことが現在の研究でわかっているという。この「草津宿」もそうで、上の「名所図会」の「草津宿」を参考にして建物の形などを描いている。しかし、「名所図会」では俯瞰する2点透視図のダイナミックな構図だが、広重は建物を正面から見る斜投影図で、ダイナミックさがない。人々の表情もあまり生き生きと描かれていない。



2026年5月27日水曜日

「Make America Great Again」レーガンとトランプ

「Make America Great Again」 Reagan & Trump

前回、ケネディ暗殺事件について書いたが、ついでにもうひとつ1980 年のレーガン大統領の暗殺未遂事件について面白い話がある。以下は「大統領とハリウッド」(村田晃嗣)より。

レーガンは演説会場のホテルを出た瞬間、至近距離から銃撃された。胸を撃たれて重傷を負い、多量の出血でシャツは真っ赤になっていた。しかし病院に搬送されると、なんとズボンのシワを伸ばし、ジャケットのボタンを止めてスックと立ち上がった。そして救患用入口へ自力で歩いて行った。しかし病院に入った瞬間に崩れ落ちて、意識不明になった。ところが病室に入ると意識を取り戻す。そして患者の手を握る女性看護師に「ナンシー(妻)には内緒だよ」とつぶやいたそうだ。

生死の境にあってもレーガンは、ユーモアを失わなかった。まるで映画のエピソードのように自らを演出した。レーガンは元ハリウッド俳優で、勧善懲悪的な B級映画で強い男を演じていたが、その自分のイメージどうりに演じた。 これによって大統領としての人気を確立した。

そのマッチョな「強い大統領」のイメージを利用して、「強いアメリカ」の威信をとりもどうそうとする、「Make America Great Again」を掲げた。

つまり今、トランプ大統領が掲げる「Make America Great Again」はレーガンの焼き直しなのだ。そしてトランプが銃撃を受けた時、立ち上がって拳を振り上げて「強い大統領」を演じたのもレーガンを真似している。


2026年5月26日火曜日

アメリカ大統領の暗殺

 Presidential Assassination

先日のニュースで、トランプ大統領の3回目の銃撃事件がまたあった。アメリカ史上、暗殺された大統領はリンカーやケネディなど4人いて、暗殺未遂事件があった大統領は、レーガン、ブッシュの2人だそうだ。

この6人には共通したことがある。それは大統領に就任した年が 20 で割り切れること。それぞれの就任式の年を調べてみると。
 1860 リンカーン(暗殺)
 1880 ガオフィールド(暗殺)
 1900 マッキンリー(暗殺)
 1960 ケネディ(暗殺)
 1980 レーガン(未遂)
 2000 ブッシュ(未遂)

見事に合っているが、このジンクスを「テカムセの呪い」というそうだ。ではトランプ大統領の就任はどうかというと、1期目が 2016 年で、2期目が 2024 年だから、暗殺で死ぬことはなさそうだ。


以上は雑学的知識だが、この中のケネディ大統領暗殺は思い出がある。ケネディが暗殺されたのは 1963 年だが、この年は TV の衛星中継が始まった年だった。始まるその日、TVをつけて待っていると中継放送が始まったが、いきなり映し出されたのがケネディが撃たれるシーンだった。あまりにぴったりのタイミングだったので一瞬ドラマかと思ったが、そんなことはなかった。ケネディ暗殺をリアルタイムで見た思い出だ。