2026年2月3日火曜日

報道写真「焼き場に立つ少年」

 

米軍の従軍カメラマンが終戦直後の日本へ来て、原爆被爆の広島で撮ったこの写真「焼き場に立つ少年」は、近年有名になったので、多くの人が見て知っていると思う。10 歳くらいの少年が、すでに死んでいる弟を背負っている。被爆して死んだ大量の死体を次々と焼き場で焼いているが、少年はその順番を待っている。

撮影したカメラマンは、衝撃的なこの写真を封印してきたが、70 年くらいの時を経て発表した。すると核兵器の悲惨さを伝える写真として世界中に知られるようになり、日本人もこの写真を初めて知ることになった。

なおこのカメラマンは、写真の少年はまだ生きているかもしれないと思い、来日して調べたことも話題になった。

戦争ドキュメンタリー映画「WW II 最前線. ヒロシマ」(NETFLIX) に出てくるが、終戦と同時にアメリカは広島と長崎に医師団を派遣した。医療が目的ではなく、原爆が人間に与える「効果」を測定するためだ。その結果、原爆のあまりにも悲惨な結果を知って、アメリカは原爆に関する情報を徹底的に隠蔽した。日本側の記録映像なども押収され廃棄された。また進駐軍は被爆者の口封じもした。そして原爆の非人道性など無かったことにした。おそらく「焼き場に立つ少年」の写真も、アメリカ政府によって長いこと発表を禁じられていたのだろう。


2026年2月2日月曜日

硫黄島の星条旗

Raising the Flag on Iwojima

最近トランプ大統領が、グリーンランドをアメリカ領にすると言い出した時のフェイク画像がニュースになった。トランプが星条旗を掲げてグリーンランドに上陸するシーンで、そばには「グリーンランド、アメリカ領、2026 」という看板が見える。

この画像は、太平洋戦争中に、硫黄島を日本から奪還した時の有名な写真をパロディー化したものだ。

従軍カメラマンのローゼンタールという人が撮った「硫黄島の星条旗」という写真だ。激戦の末に日本軍を制し、硫黄島の摺鉢山のてっぺんに6人の兵士が星条旗を掲げるドラマチックな場面だ。戦争記録写真の最高傑作とされ、ピューリッツァー賞を受賞した。

この兵士たちは帰国して、英雄扱いされる。そしてルーズベルト大統領は、彼らを戦時国債の販売キャンペーンに利用したりする。

ところがこの写真は「やらせ」であることが後に発覚する。すでに他の兵士が一番乗りしたのを他のカメラマンが撮っていた。ローゼンタールはもっとドラマチックに撮るために、兵士にポーズを取らせて、やり直しを撮ったのだ。戦後になって兵士は、やらせを演じただけなのに英雄にされたことで精神的に苦しむことになる。

この顛末を描いた映画「父親たちの星条旗」(2006 年、クリント・イーストウッド監督)が日本でも公開され、大ヒットしたので、見た人も多いと思う。

CG などない時代に、「やらせ」で作ったフェイク画像をネタにして、トランプ大統領は、最新の生成AI 技術を使ってフェイク画像を作った。


2026年2月1日日曜日

フェイク情報

 

選挙が始まって、ネット上のフェイク情報がますます増えてきた。発信元が外国勢力かららしきものも多い。最近「認知戦」という言葉がよく使われるようになったが、SNS を利用して世論操作をする。

最近アメリカ政府は、中国製アプリの TikTok の使用を禁止したが、中国の「認知戦」による影響を防ぐためだ。逆に中国では、グーグルやフェイスブックは使えない。かつて東西冷戦の頃は「鉄のカーテン」だったが、今は「シリコンのカーテン」になっている。

歴史学者のユバル・ノア・ハラリは、このようなデジタルデータを使って世界へ自国の影響力を広げようとするのを「データ植民地主義」と呼んでいる。そして SNS を利用して覇権をねらう国を「デジタル帝国」と呼んでいる。実際、昨今の世界情勢を見ているとそのとうりのことが起こっている。


2026年1月31日土曜日

映画「ジョーンはひどい人」

 「Joan is Awful」

「ジョーンはひどい人」という映画は、前回書いた「ブラック・ミラー」シリーズの第6話で、これも IT 技術の発達で犠牲になる人間をパロディー化したブラック・ユーモアだ。

主人公のジョーンは IT 企業で働く中間管理職の優秀なキャリアウーマンだ。ある日、役員の命令で部下をリストラする。その夜、プライベートで元彼と会って食事をする。ところが家に帰って何気なくNETFLIX を見ると、「ジョーンはひどい人」という映画をやっている。その映画の主人公はジョーン本人にそっくりで、自分がやった今日一日の行動を悪い印象を与えるように作っている。 CG 映像で作ったフェイク動画だが、自分の一日をリアルタイムでその日のうちに作って、しかもネット配信されているのを見てびっくりする。そして翌日会社へ行くと、全員がこの映画を見ていて、「ジョーンはひどい人」と白い目で見られる・・・

最新の生成AI と高速の量子コンピュータを使って作った動画だが、誰が作ったのかわからない。ジョーンは怒り狂るって頭がおかしくなってしまう。やがて CG のジョーンがリアルのジョーンに会いに来たりして・・・バーチャルとリアルが入り混じったりしてパロディとして面白い。現在でもすでにフェイク動画がネット上に溢れていて、SF 的未来の話とは思えない。

 

2026年1月30日金曜日

映画「ブラック・ミラー」

 「Black Mirror」

「ブラック・ミラー」という映画が面白い。NETFLIXで配信している7回連続のドラマシリーズ。ネット時代の今の社会を風刺しているパロディー映画だ。第1話はこんな感じ。

脳の病気を患った女性が、脳をすべて切除して、新しい脳に入れ替える移植手術を受ける。その新しい脳はネットと繋がっていて、本人はそこから入ってくる情報に基づいて行動するようになる。自分で考えることはない。彼女は小学校の教師をしているが、ネットで得た情報を教室でそのまましゃべるから、おかしなことにり、クビになってしまう。つまり彼女は頭にスマホを埋め込まれた「スマホ人間」になっていたのだ。

それで、人工脳を運営する会社に相談すると、あなたの契約しているプランは基本プランだからで、もっと多機能のプランに変更するとよくなりますよ、と言われる。月額料金が5万円に増えるのだが、泣く泣く契約する。すると、企業のコマーシャルが入ってくるようになり、本人はその受け取ったコマーシャルをそのままオウム返しにしゃべるようになってしまう・・・

この第1話のタイトル「普通の人々」だが、まさにスマホから入ってくるネットの情報をそのまま間に受けて、ネットに支配されている現代の普通の人々を痛烈に皮肉っている。


2026年1月29日木曜日

映画「サタンタンゴ」の映像(続き)

「Satan Tango」 

前回投稿(↓)の続き(https://www.blogger.com/blog/post/edit/5842824525266145803/6738002736211797760

貧しい村にやって来た若者は救世主の顔をして村人に演説する。村を捨てて、新しい土地へ移住して楽園のような村を作ると言う。そのための資金だとして金を寄付をさせる。それを信じて村人たちは偽救世主について行くが、着いた先は荒れ果てた廃墟の家だった。人々は騙されたのではと疑念を持ち始める。そのシーンで村人の顔をクローズアップで撮る。顔の周囲をカメラが2分もかけて 360° ゆっくりと回る。この長回しによって、怒りや悲しみではない、夢などなかったのだという諦めの気持ちが伝わってくる。秀逸なカメラワークだ。


村人が町に到着すると、何頭もの馬が無人の広場に登場して、モニュメントの周りをぐるぐる回る。唐突で非現実的なシーンだ。後ろに見えるのは市庁舎らしき建物で、人間の代わりに馬しかいないことで、政治権力の空虚さを暗示しているようだ。そのことは、この後のシーンで、役人の官僚主義的な仕事ぶりを皮肉るシーンが出てくることから分かる。


ラストで、村人が全員村を出ていき、誰もいなくなる。一人だけ残った飲んだくれの老医師は毎日窓から村人たちを観察していたのだが、その意味がなくなり、窓に板を打ちつけていく。最後の一枚を打ち付けると、画面は暗闇になり映画は終わる。世界から自らを閉ざしてしまった老医師が最後にどうなるかは示されていない。暗闇の中で彼の独り言だけが聞こえてくるが、それは神の不在を意味する言葉だ。希望も救いもないエンディングだ。


この映画を見終わってみると、7時間という長尺がまったく冗長ではない。映像の ”密度” が濃く、目を釘付けにされ続ける。

2026年1月28日水曜日

映画「サタンタンゴ」の長回し映像

 「Satan Tango」

名作「サタンタンゴ」は最後まで救いのない絶望の映画で、タル・ベーラ監督の映画に一貫している終末論思想の映画だ。ストーリーはこんな感じだ。

専制独裁政治体制(共産政権時代のハンガリーを下敷きにしている)のもと、集団農場政策が失敗して、村が荒廃している。農民たちは貧しく、路頭に迷う絶望的な生活をしている。人々は救世主が現れることを願っているが、そこにかつて反体制派のリーダーだった若い男が帰ってくる。その若者が悲惨な現状を打開してくれるだろうと人々は期待を抱く。しかし・・・

他のタル・ベーラ作品と同じく、この映画も白黒で撮られていて、暗い陰鬱な映像に終始する。そしてこの映画は7時間超の長尺だ。それでいて全編およそ150 カットしかない。だから1カット平均3分くらいという驚異的な長回しのシーンが続く。

一例をあげると、絶望した少女が、飼い猫に農薬を飲ませて殺してしまう。自分も死のうと、死んだ猫を抱えて廃墟になった教会へ向かう。このシーンで、少女が歩いているのをカメラは少女と一定の距離を保ったまま2分半も撮り続ける。その間、画面のフレーミングも一定のままで、放心したような少女の表情もまったく変わらない。絶望的な死というタルベーラ監督の終末論思想をこのカメラワークで表現している。


もうひとつの例は、救世主と思われていた若者が、荒廃した村に帰ってくるシーンで、無数の紙片が風に舞っている。若者とその相棒の後ろ姿を約2分間も長回しで追い続ける。この紙片は役所の書類を暗示していて、若者が、権力に取り込まれた官僚主義者になっていて、決して救世主ではないことが後になって分かるのだが、そのことをこのシーンで暗示している。


居酒屋で村人たちが酒を飲んでいるシーンは延々と10 分以上続く。狂ったようにダンスをしまくる2組の男女、グラス片手にパンを頭に乗せて歩き回る男、酔い潰れてベンチで寝ている男、など全員が、酔っ払って呆けている。その人間たちを、動物園の動物を観察するかのように、第三者的な冷ややかな目で、カメラを固定したまま撮っている。抜け殻のようになっている人間たちの虚無感の表現で、この長回しは効果的だ。ここもセリフはなくアコーディオンの音楽だけが鳴り続ける。


これらのシーンは、セリフもないし、ナレーションもない。背景音がかすかに鳴っているだけだ。タル・ベーラ監督自身も、「映画で肝心なのは物語よりも、空間や時間の組み立てそれ自体にある」と語っているとおり、映像で物語る映画だ。逆に観客は映像を読み取る力が求められる。