2026年6月5日金曜日

SNS の認知戦

 Cognitive Warfare

この間あるTVで「現代の戦争  認知戦の脅威」という番組をやっていたが、その中で「ナラティブ」が大事なキーワードとして使われていた。最近よく使われるこの言葉の意味は「物語」という意味だ。敵を攻撃することを正当化するためのストーリーを作り上げる。例えばプーチン大統領がウクライナ侵攻を「欧米の侵略から、歴史的正統性を持つロシアの生存権を守り抜くため」というナラティブを主張している。トランプ大統領はイラン攻撃を「米国をイランの脅威から守るための不可避の防衛措置である」というナラティブを発信している。

今の時代は、 SNS が認知戦の最大の武器になっている。ターゲットの国の世論に働きかけて、内部を分断させ、武力を使わずに自国に有利な状況を作り出そうとする。それは巧妙に仕組まれていて、一見するとプロパガンダには見えない形で行われるからやっかいだ。

だから普段から SNS の言うことを何でもまに受ける人たちは騙されやすい。認知戦を仕掛ける側は、そういう人たちを「役にたつ愚か者」と冷笑している。それは、「ナラティブを簡単に信じてくれて、利用できる自覚のない人間」という意味だ。

そして今、日本は猛烈な認知戦を仕掛けられている。同TV番組はそのことを客観的なデータをもとに分析していた。


2026年6月4日木曜日

世界 幸福度ランキング

 「Better Life Index」

この間、国連の「World Hppiness Report」という世界幸福度ランキングが発表された。しかしこの調査は主観的な意識調査で、本人が幸福だと答えれば「幸福」にカウントされるというほとんど意味のない調査だ。そこで日本は 61位という下位にランクされている。

このような幸福度調査はいろいろな機関が行っているが、OECDの幸福度調査「Better Life Index」では主観調査ではなく、具体的な指標を設けて、客観的な数値データによって各国を比較している。この調査では、日本は中位の 25位にランクされている。その指標はどんなものか調べてみたら以下のようだった。

 ・住宅(住環境)
 ・収入(一人当たりGDP)
 ・雇用(仕事の安定度)
 ・社会とのつながり
 ・教育(学力や学習環境)
 ・環境(水や空気)
 ・市民参加(ボランティアなど)
 ・健康
 ・主観的幸福度(生活満足度)
 ・安全(治安の良さ)
 ・ワークライフバランス
 
これらの項目で日本が上位にランクされたのが「教育」と「安全」の2つで、逆に低かったのは例えば「ワークライフバランス」だった。しかしそれは「週に 50 時間以上働いている労働者の割合」を機械的にカウントしているだけだ。だから残業時間が長い日本はワークライフバランスが悪い「不幸」な国だと判定される。しかし実際には、やりがいのある仕事をしていて、残業が長くても「幸福」だと思っている人はたくさんいる。

また「雇用」についても日本は必ずしも高評価ではない。人手不足もあって失業率がほとんどゼロの日本が、高い失業率で苦しんでいる欧州の国々より評価が低い。その理由は、終身雇用制度で労働者が守られている日本は、自分で自由に仕事や会社を選択できる自由度がない国と判定される。

そもそも何をもって幸福とするかは、人によって、文化によって全く異なるから、それを共通の尺度で測って、ランクづけをすること自体にあまり意味があるとは思えない。

2026年6月3日水曜日

家電の耐久年数

Durability of home appliances

家電製品はだいたい10年で壊れて買い替える。しかし SDGs が叫ばれる今、たった10年で買い替えるというのはたいへんな資源のムダ使いだ。

家電メーカーは、設計基準として耐久年数を決めていて、それをクリアするように設計している。しかしそれ以上に長寿命になるようには設計しない。耐久性のある素材や部品を使えば耐久年数は伸ばせるが、そうするとコストがあがるからだ。だからメーカーは、決められた耐久年数を満たしつつ、しかもできるだけ早く壊れるように設計する。それは買い替え需要を促進することにもなるから都合がいい。しかし消費者は家電製品が10年しかもたないことを当然のことのように思い込んでいる。

メーカーは、中身は何も変わらないのに、ちょっと外観を変えるくらいのモデルチェンジを毎年繰り返す。家電量販店に行くと「型落ち」と称して去年のモデルを安く売っている。だから消費者は、10年前のモデルはもう壊れても当然だし、買い替えるのは仕方ないと思っている。

家電メーカーは、こうして大量生産・大量消費をうながしてきた。しかし今の時代はちょこちょこのモデルチェンジをやめて、もっと抜本的な技術開発をして、長く売り続けられる製品を作らないと生き残れない。ダイソンの扇風機は「型落ち」はなく、同じ製品をずっと売り続けている。


2026年6月2日火曜日

日本の写真の歴史

 The history of photography

写真の歴史を調べていると、必ず真っ先に出てくるのが「ダゲレオタイプ」で、フランス人のダゲールが 1839年に発明した世界最初のカメラだった。この「ダゲレオタイプ」のカメラが1840年代にオランダ船によって日本にもたらされた。幕府に支えていた時計職人の上野俊之丞がこれを使って日本初の肖像写真を撮った。

長崎に日本初の写真スタジオを開いたのは上野俊之丞の息子の上野彦馬だった。もっぱら武家などの肖像写真を撮り、日本初の写真師となった。

「ダゲレオタイプ」は日本では「銀版写真」と呼ばれ、直接 金属板に感光させて、焼き付ける方式で、感光材料の製造技術は複雑で高価だった。それは直接ポジ像を作る方式だから何枚も複製することができない。だからほとんど普及しなかった。

本当の意味で写真が日本で開花したのは「湿板写真」という方式がもたらされた1850年代からだった。ガラス板に液状の感光材料を塗って感光させる方式だった。ガラス板はフィルムと同じで ネガ / ポジ方式 だから紙に何枚も印画できた。それで初めて写真が一般に普及していった。それをビジネスとして始めたのが「横浜写真」の下岡蓮杖で、「日本写真の開祖」と呼ばれるようになった。これについては先日書いた。→ https://www.blogger.com/blog/post/edit/5842824525266145803/1455832997182821526

昨日(6 / 1)は「写真の日」となっていて、上記 上野俊之丞が日本で初めて肖像写真を撮ったことからきている。しかし本当の意味での日本の写真の始まりはそうではなかった。


2026年6月1日月曜日

グロピウスが日本建築から受けた影響

 Walter Gropius

60 年くらい前、「日本美術史」か何かの授業の一環で、京都の桂離宮を見学したことがあった。桂離宮は研究目的でしか見学を許されないので、貴重な体験だった。当時からすでに、桂離宮をはじめとする日本の伝統建築の”近代性”が世界的に評価されていた。

最近「ドイツにおける日本像」という本を読んでいたら、グロピウスが日本の伝統建築から受けた大きな影響についてかなり詳しく解説している。それによると、すでに1920年代から欧米では日本建築について多くの研究書が出版されていたので、グロピウスはその写真をもとに、桂離宮や東大寺の法華堂などのスケッチをしていた。その結果が自身の建築設計に生かされ、バウハウスの教育にも反映された。

グロピウスが日本建築から影響を受けて設計した例が「ゾンマーフェルト邸」という個人住宅で、正倉院からヒントを得ている。正倉院は角材を重ねて造られており、その角材のくさび形の末端は互いに直角に交わって、外側に突き出ている。このゾンマーフェルト邸はその正倉院の構造と類似している。四隅で横木の先端が交差する構造、広く張り出した寄棟屋根、などの点だ。

グロピウスが日本建築の最も需要な特徴として挙げているのは「規格化」だ。畳は 180cm × 90cm という人間が寝た時の寸法という人間的尺度が基準になっていて、その畳の寸法の倍数で何畳という部屋の大きさが規定されている。障子や襖の寸法も畳のサイズで規格化されているから、現場で現物合わせしながら造る必要がない。外で作ったものを持ってきてきてもそのままピタリとはまる。

これは「モジュール」の考え方で、西洋の建築が20 世紀になってやっと到達したことを日本では何百年も前から普通にやっていたことにグロピウスは驚嘆している。欧米では近代になって、住宅建築を工業化してプレファブリケーションが可能な「2バイ4」などが行われるようになったが、それは日本では大昔からやっていたというわけだ。

もうひとつグロピウスが重視していたのは、内部と外部の空間を融合する「障子」だった。グロピウスがバウハウスの校舎を設計した時、大きなガラス窓に細い鉄の格子をはめた。それによってできる格子模様の横長の長方形は日本の障子と同じプロポーションだった。


2026年5月31日日曜日

下岡蓮杖の「横浜写真」事始め

The Origin of Yokohama=photo 

前回に続いて、「横浜写真」についてもっと知りたいと思い資料を探していたら、「大江戸庶民事情」(石川英輔)という本に、横浜写真の開祖.下岡蓮杖についてマニアックなまでに詳しい記述があった。下岡蓮杖についての資料はほとんど残っていないため、詳しいことがわかっていないが、著者はさまざまな推理を働かせている。

当時の写真術は「コロジオン湿板法」といい、ガラスの上に液状の感光材料を塗り、それをカメラにセットして撮る。この観光材料は蒸発しやすく、乾燥すると感光しなくなる。出来たての濡れているうちに撮影しなければならないやっかいなものだった。蓮杖はその感光材料を作る作業を、野毛の田んぼの真ん中にある掘立小屋でやっていた。

感光材料の開発に成功した蓮杖は、商業写真に利用するために撮影スタジオを作ることにするが、田んぼの真ん中の不便なところにあっては客が来ない。しかし乾燥しないうちに短時間で感光材料を運べるように、外国人居留地に近いところでなければならない。その条件を満たす場所として、大岡川の都橋のすぐのところ、今の野毛一丁目に蓮杖の写真館があったと著者は推定をしている。

著者がそれを割り出したのは、「横浜御開地明細之図」という野毛のあたりを描いた古地図からだ。「大岡川」「のげむら」「いせ山」などの地名が読める。

しかしそれでも野毛では経営が苦しくなった蓮杖は野毛の店をたたみ、関内の馬車道へ移る。すると外国人の客がたくさん来て、写真館としての経営が軌道にのる。さらに翌年には本町にもスタジオを新設し、馬車道の方は支店として弟子に任せたという。現在、蓮杖の記念碑が馬車道にあるのはそのためだ。


2026年5月30日土曜日

「横浜写真」の始まりと発展

 YOKOHAMA-photo

横浜が開港した江戸時代末期に、横浜で日本初の写真師. 下村蓮杖が初めて写真館を開いたので、横浜は「写真発祥の地」と呼ばれている。そして横浜には数多くの写真館が開設され、外国人観光客相手の土産用の写真で商売繁盛した。それらの写真は「横浜写真」と呼ばれた。

「ドイツにおける<日本=像>  」というドイツ人が書いた本は、西欧人が抱いている日本のイメージが出来上がってきた歴史を研究しているが、その中に写真が重要な役割を果たしていたことを書いている。そして「横浜写真」の始まりからその後の発展に至るまでの歴史について詳述している。

1871年に「乾板方式」がイギリス人によってもたらされ、写真製作が一段と容易になり、全国の開港場で商業写真を撮る写真館が開設されていった。とりわけ横浜では日本人写真師による写真館が数多く開業し、その写真は「横浜写真」と呼ばれた。それは明治なっても続いていく。

「横浜写真」は外国人の日本土産用の写真で、いかにも日本らしい日本の風景や風俗をモチーフにしていた。名所の風景や都市・農村の光景や、職人や人力車夫や家事をする主婦などの日本人の風俗などだった。それはヨーロッパ人が持っている「旧き日本」のイメージを求める西洋人の需要に応える写真だった。

当時は長時間露光が必要だったため、屋外で撮ることは絶対になく、スタジオ内で撮られた。「書割」という手描きの背景画の前でモデルがポーズをとる。この「日本の農夫」という写真では、丸い編笠を被り、稲藁で作った蓑に草履を履いて、床に白粉を撒いた雪を踏み締めて歩く姿のモデルを撮っている。背景は布に描いた雪景を使っている。

明治初めに横浜写真は黄金期を迎えるが、最も人気のあったモチーフは着物を着た女性だった。この例は、昆虫を売る虫売りの屋台とそこに3人の若い娘がポーズをとっている。田舎風の情景は書割りで、床には布が敷いてある。



日本の商業写真の特徴は印画紙の写真に色を施す手彩色だった。明治なって失業した浮世絵の刷り師たちがこの新しい仕事に従事した。まるでカラー写真のように見える名人芸的手法は日本独自の手法として発展していき、西洋人の人気を博した。右の「鼓を打つ芸奴」は横浜写真の名手だった玉村康三郎の作。

これらの写真は西洋に日本のイメージを伝える役割を果たしたが、写真が、ヨーロッパの出版物の挿絵の下絵として使われることもあった。下の「若い日本女性」という例では、二人の女性が寝ている姿の写真をそっくりイラストに使っている。



横浜写真が終わりを告げるのは、20世紀初めに日露戦争で日本が勝利した時だったという。横浜写真に撮られていた日本のイメージが現実の日本の姿でなく、幻想だったことが知られてしまったのだ。