2023年12月30日土曜日

ジョン・マーチンが描くイスラエルの戦争

 John Martin:Joshua Commanding the Sun Still upon Gibson

19 世紀イギリスの画家ジョン・マーチンは旧約聖書を題材にした歴史画を多く描いた。この「ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュア」は、旧約聖書の古代イスラエルの物語「ヨシュア記」をもとに壮大なスペクタクルを描いている。(「ジョン・マーチン画集」による)


「出エジプト記」は、映画「十戒」で描かれたように、奴隷労働をさせられていたイスラエル人が、指導者モーセに導かれてエジプトを脱出する物語だった。そして目指すのは、イスラエルの神がユダヤの民に約束したカナンの地(今のイスラエルの領土)だった。しかしその地に着くと、先住の他民族(今でいうパレスチナ人)が住んでいる。そこでモーセの後継者ヨシュアの指導のもと、先住民族を武力で制圧し、自分たちの領土にする。

その戦争を描いたのが、このジョン・マーチンの絵だ。エリコ(最近、報道でよく出てくる”ヨルダン川西岸”の都市)の城を攻めるイスラエル軍を描いている。遠景に威容を誇るエリコの街がそびえ立っている。手前にはイスラエル軍が道路を埋め尽くしている。攻略に時間がかかるとみたヨシュアは、昼の時間を長くするために、太陽よ止まってくれと祈る。すると本当に太陽が止まり、おかげで城は陥落し、イスラエル軍が街を占領する。この絵はそのシーンを描いている。

勢いづいたイスラエル軍は進軍し、地中海沿岸までの地域(今のガザ地区を含む)全てを制圧する。その際、抵抗する敵は容赦なく撃破し、ひとり残らず殺し、家に火を放って焼き払い町中を焼け野原にした。 (「聖書物語  旧約編」による)
                     •
                     •
                     •
3千年後の現在も同じことが続いている

2023年12月28日木曜日

映画「十戒」

 「The Ten Commandment」

最近の世界情勢を見ていると、古い映画だが「十戒」(1956 年)を思い出す。旧約聖書の「出エジプト記」に記されている物語をそのまま映画化した作品だった。エジプトで奴隷労働をさせられていたイスラエル人が自由を求めてエジプトを脱出する物語だ。モーセが、流浪の民イスラエル人に定住の土地として「約束の地」カナンを与える、という神のお告げを聴く。このカナンが現在のイスラエルの領土に当たる。モーセはイスラエル人を引き連れてイスラエルへ向かう。途中様々な苦難に会うが、海に来るとモーセは、海を二つに裂いて人々を渡らせる。それが映画「十戒」の有名なシーンだ。


現代のイスラエルは、先住のパレスチナ人を追い出して領土を広げている。イスラエルにとって、今回の戦争は聖書物語の続きに過ぎないのだろう。イスラエルがパレスチナ人を無差別に殺しても、自分たちは神がくれた「約束の地」を守ろうとしているだけで、何も悪いことはしていない、と考えるイスラエル人が多いという。

カナダ人の聖書学者アデル・ラインハルツという人は、「ハリウッド映画と聖書」という本の中で言っている。「映画は聖書を使いながら、様々な時と場所の中に時代の関心や恐れ、希望を投影してきた。例えば旧約聖書を映画化した「十戒」は、東西冷戦下のアメリカを古代イスラエルに結びつけ、圧政からの解放者、自由の覇者という国家観を暗示した。」

70 年も前の映画で、東西冷戦もとっくに終わっているが、今のイスラエルと、それを支援するアメリカについても同じことがそのまま当てはまるような指摘だ。

2023年12月26日火曜日

ジョン・マーチンの ”この世の終わり” 絵画

John Martin 

19 世紀イギリスのロマン主義の画家ジョン・マーチンは歴史画を多く描いたが、多くは題材を聖書の物語からとっている。

「ソドムとゴモラの滅亡」は、旧約聖書の「創世記」にある、火による神の制裁の話をもとにしている。悪徳の街ソドムとゴモラの上に天から硫黄と火が降り注ぎ、これらの街の住民すべてが滅ぼされる。この物語にはイスラエル人やパレスチナ人などが様々登場するが、街が滅ぼされた後、再び復活して新しい世界が生まれるが、そこではイスラエル人が支配し、他の民族はその奴隷になる。これは現代まで続く中東の民族間対立とユダヤ選民思想の起源になっているという。(平松洋「週末の名画」による)


「大洪水」は俯瞰的に見下ろす広大なパースペクティブで描いている。天が黒雲に覆われ、稲妻が天を切り裂き山が崩れ、裂けた地には海流が流れ込んでいる。人々はのたうちまわり、救いを求める阿鼻叫喚の世界だ。聖書によれば、人類に悪がはびこり、神は人類を創ったことを悔やんで、すべての生物とともに人類を地上から滅ぼそうと決意する。この絵は、神の怒りによって惹き起こされた天変地異による終末のビジョンを描いている。


ジョン・マーチンといえば、この「神の大いなる怒りの日」が有名。聖書の「ヨハネの黙示録」にもとづく世界の終末を描いている。上が「水」による終末だが、こちらは「火」による終末だ。しかし終末は人類が永遠に絶滅するという意味ではない。黙示録によれば、この終末の後、キリストの聖徒がよみがえり、新しいエルサレムの王国が千年間にわたって地上を支配するとしている。それが今日のユダヤ・キリスト教の世界観のおおもとになっている。


2023年12月22日金曜日

映画「ウィッシュ」

「WISH」 

ディズニー 100 周年記念として力の入った作品ということだったが、観てがっかりした。ディズニー映画としては凡作といっていいと思う。


「女の子が夢をかなえようと、星に願いをかける」「邪悪な王が魔法を使って女の子を妨げる」「それでも困難や危険に立ち向かって闘う」「やがて現れた救世主に助けられて勝利し、夢は実現する」・・・・・というのがディズニー映画全てに共通する物語構造だが、この映画もその基本どうりになっている。そして基本どうりすぎて、それ以上の膨らみがなく新鮮味に乏しい。

ディズニーアニメの物語の舞台は必ず中世風の城になっていることが、ファンタジー性を出すのに重要な役割をしている。(だからディズニーランドのシンボルは城だ。)そして「アナと雪の女王」では氷の城だったように、城には作品ごとに色々なバリエーションがある。今回の「ウィッシュ」ではアラブの城になっている。そしてアラブの住民たちが王の圧政に苦しんでいるという設定だ。そして主人公の女の子はドレッドヘアの褐色の肌で、名前「アーシャ」はアラブ系の名前だ。


この映画に対してアメリカでは、批判が高まり、ボイコット運動も起きているという。それは映画がアラブ人側に立っているからでなく、その逆の理由による。現在のイスラエル・パレスチナ戦争でイスラエルがアラブの一般市民を虐殺をしていることに対して、若者を中心に反対の声が多い。そのなかで、ディズニー社はイスラエルを支援する寄付をしていることが発覚したという。だからこの映画はそのことを隠そうとする偽善的な映画だというわけだ。

ディズニー映画はいつも時々の政治や世論に影響されたり迎合したりしてきた。黒人差別の時代にはディズニーは、当然のように差別的な映画を量産したした。そして近年に差別反対の声が高まると今度はマイノリティの側に立った映画を作り始めた。例えば「リトルマーメイド」でマーメイドを黒人にしたりしたが、それは世論の批判をかわすためで、今度の「ウィッシュ」もそのひとつだと言われている。


2023年12月20日水曜日

国連の建物に刻まれた「平和」の意味

 Prophecy of universal peace Book of Isaiah

最近知ったことだが、ニューヨークの国連本部の建物に「イザヤ・ウォール」という壁があり、世界平和の理想が刻まれているそうだ。

              彼らは剣を打ち直して鋤とし、
              槍を打ち直して鎌とする。
              国は国に向かって剣を上げず、
              もはや戦いを学ぶことはない。

「イザヤ・ウォール」の名前どうり、これは旧約聖書の「イザヤ書」に書かれている「万国平和の予言」をそのまま引用したもの。旧約聖書は、イスラエル王国の建国から滅亡までを記した壮大な物語だが、その中に戦争がなくなり、イスラエルがいつの日か再び復活するという未来への希望が語られている。

アッシリア帝国によって滅されたイスラエルには異民族が移り住み、その支配下に組み込まれるという悲惨な時代に、絶望を押し返す未来への希望を旧約聖書は記している。それは、自分たちイスラエルの神ヤハウエが敵対する国を滅ぼし、イスラエルを救済するだろうという予言だ。イスラエルが全世界を支配して、諸民族がヤハウエに従うようになれば、この世から戦争がなくなり、世界は平和になるだろうという。つまり旧約聖書の「平和」とは、排他的で自民族中心的なイスラエル・ユダヤ民族主義の「平和」であって、多民族がお互いに認め合って共存するという普遍的な「平和」ではない。(以上、月本昭男「物語としての旧約聖書」による)

・・・・・このことが現在のイスラエル・パレスチナ戦争にもつながっているのだろう。


2023年12月18日月曜日

「ペルシャザルの饗宴」とイスラエル

 Belshazzar's Feast

今イスラエルがやっていることへの国際社会の非難に、イスラエルは背を向けている。我々がやっていることは、聖書に書かれていることを忠実に実行しているだけで何も悪いことではない、と考えているイスラエル人が多いという。聖書とは「旧約聖書」のことだが、今のイスラエル・パレスチナ問題の根源を理解するために、「旧約聖書」についてもっと知りたくなる。

「旧約聖書」は、イスラエル王国の建国から滅亡までの壮大な物語だが、その間イスラエル人がいかに他民族からの迫害にあって、苦難の道を歩んできたかが語られている。その物語は何度も宗教画として描かれてきた。レンブラントはもっとも有名で、旧約聖書を題材にした数十点の作品がある。

「ペルシャザルの饗宴」は、聖書の「ダニエル書」に書かれた一場面を描いている。バビロニア王国がイスラエルを滅ぼして、王のペルシャザルが開いた豪華な酒宴を描いている。何千人もの客を集めて酒をふるまい、金銀の食器はイスラエルから略奪したものだ。すると突然壁に人の手が現れ、解読不明の字を書き始める。捕虜になっていたイスラエル人のダニエルを呼んで読ませると、王は死に王国は滅びるだろうという神の予言の言葉だった。すると実際に王はその日に死んでしまう。やがてバビロニア王国もペルシャとの戦争に敗れて滅びる。これは紀元前500 年頃の史実だという。


イスラエルは滅ぼされても、いつの日か必ず復活して、自分たちの神ヤハウェが諸国を従わせ、世界を支配するだろうという旧約聖書の思想を描いたものだ。そのとうりのことを、今現在イスラエルは実行しつつある。

19 世紀のジョン・マーチンは同じ題材をもっと壮大なスケールで描いた。王宮の中庭で何千人もの人たちが集まっている。遠くの空にバベルの塔が見えるのはまさに「旧約聖書」の世界だ。紙に書かれた予言の言葉を読んでいるダニエルが右下に描かれている。



2023年12月15日金曜日

「南極の日」と日本人のチャレンジ

Antarctic Exploration

昨日 12 / 14 は「南極の日」だった。ノルウエーの探検家アムンゼンが 1911 年のこの日に世界初の南極点到達に成功したことにちなんでいる。当時の南極探検はノルウエー、イギリス、日本の3国が先陣争いをしていたが、それについて最近はあまり語られない。昔、子供向けの本でこの冒険物語をわくわくしながら読んだものだが。

日本は、探検家の白瀬が隊長だった。白瀬は国に財政支援を求めるが認められず、国民からの募金で費用をまかなった。だから船は木造の漁船を改造したお粗末なものだった。

ほぼヨーイドンで出発した3隊だが、イギリスのスコット隊は、暴風に阻まれて南極到達前に撤退するが、全員全滅してしまう。日本の白瀬隊も南極点まで到達できず、南緯 80 度までで引き返したが、全員帰還することができた。それが 1912 年(明治45年)だった。タッチの差で勝ったノルウェーのアムンゼン隊にちなんでその日が「南極の日」になった。

白瀬隊が帰国すると日本中が大歓迎ムードにわいた。当時は日露戦争で日本が勝った直後で、司馬遼太郎ではないが、日本全体が「坂の上の雲」を目指してチャレンジ精神にあふれていた時代だった。


2023年12月13日水曜日

「サラダ記念日」

 

「〇〇の日」、「〇〇デー」、「〇〇記念日」、が最近やたらと多いが、日本記念日協会という団体があって、そこに申請さえすれば、協会認定記念日として登録されるという。いろいろな業界団体が商売の足しにしようとどんどん登録するから、同じ日でも10 個くらいの記念日が重なって登録されている。食肉業界が 11 / 29 を「いい肉」の日にするなど、ほとんどが語呂合わせばかりだ。

俵万智の「サラダ記念日」は、そんな商売目的でなく純粋だった。『この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日』は一世を風靡した。平易な口語体で、ごく平凡な日々の思いを素直に歌にしていて、短歌の形を一新した。

この歌について俵万智自身が解説していたが、これにはフィクションが含まれているという。実際に恋人に食べさせたのは唐揚げだったそうだが、爽やか感を出すためにサラダに変えたという。日にちを初夏の7月6日にしたのもさわやか感のためだが、といって7月7日では七夕という特別な日になってしまうので、日常感を出すために普通の日にしたという。

あれから 30 年以上たつ。歌集の写真は若々しい。しかし今も「サラダ記念日」は記憶の中に生き続けている。


2023年12月11日月曜日

映画「メンフィス・ベル」に思う

 「Memphis Belle」

あまり有名でないが、「メンフィス・ベル」(1990 年)というアメリカ映画がある。第二次世界大戦中に、ドイツを爆撃したアメリカの爆撃機の搭乗員たちを描いた戦争映画だが、この中に都市を爆撃する時の彼らの葛藤が出てくる。

ある出撃の日、厚い雲で視界が悪い。爆弾投下を強行すると一般市民を巻き込んでしまうから、雲が晴れて、標的の軍需工場が見えるまで飛び続ける。その間、ドイツの迎撃戦闘機の猛烈な砲火を浴びるが耐え続ける・・・

映画は、良心的だった彼らを美談としてたたえている。しかし彼らは特別であって、普通でないからこそ映画の題材になったのだろう。実際、ドイツのドレスデンや日本の東京でのアメリカの無差別爆撃で何百万人もの一般市民が犠牲になった。

実はこの映画はリメイクで、戦争中に同じ題名の映画が作られた。それはアメリカが自分たちは ”人道的” であると言うためのプロパガンダ映画だった。「メンフィス・ビル」の搭乗員たちの勇気ある行動は宣伝に利用されたのだ。

そして究極の無差別爆撃が広島・長崎への原爆投下だったが、いまだにアメリカはその非人道性を認めていない。逆に、戦争を早く終わらせて、一般市民の犠牲者を無くすという”人道的”な目的だったと主張している。

・・・そして今。イスラエルの無差別攻撃で、何十万人ものパレスチナの一般市民が殺されている。しかし即時停戦を求める国際社会の声に背を向けて、イスラエルは攻撃をやめない。それをアメリカは支援し、武器供与も続けている。先日の報道によれば、 12 / 8 の国連安保理で、非人道的な攻撃をやめて即時停戦を求める決議案に各国(日本も含め)が賛成したが、アメリカ一国だけが反対したため否決された。

・・・ついでにいうと、第二次世界大戦でドイツと日本はともに敵対国だったのに、なぜアメリカはドイツではなく、日本に原爆を投下したのか? という疑問に対して、ドイツと違って日本はキリスト教の国でなく、白人の国でもなかったからだ、と説明する歴史学者が少なからずいる。つまり ”人道的” というときの ”人” に日本人は含まれていなかったことになる。真偽はわからないが、もしそうであれば、イスラム国であり非白人であるパレスチナ人を、非人道的なことだとは思わずに殺していることに納得がいく。


2023年12月8日金曜日

真珠湾攻撃と映画「トラ・トラ・トラ」

「TORA! TORA! TORA!」

今日 12 / 8 は、日本の真珠湾攻撃により、日米が開戦した日だが、この日にはいつも古い映画だが「トラ!  トラ!  トラ! 」(1970 年)を思い出す。真珠湾攻撃を史実に忠実にドキュメンタリータッチで描いていた。連合艦隊司令長官の山本五十六が攻撃開始命令の無線暗号文「ニイタカヤマノボレ」を受け取る場面から始まり、攻撃成功を伝える艦隊側からの無線「トラ・トラ・トラ」の送信で終わる。

この無線通信を送受信したのが、船橋市にあった「海軍行田無線通信所」だった。今では鉄塔は無くなり、跡形もないが、戦後しばらくは米軍に接収されて、鉄塔もそのまま残っていた。子供の頃、近くに住んでいて、この辺でよく遊んでいた。管理棟の屋上に銃を持った米兵がまわりを監視していて、ジープに乗った米兵が周囲を警戒の巡回をしていた。子供心にも、日本の「敗戦」を感じたものだ。


米軍の接収が解除され返還されると、跡地に団地が建った。通信所の頃、周囲を囲む円の道路があったが、団地になっても円の道路がそのまま残っている。そして昔は畑だった周囲もすっかり住宅地になった。


ところで、「ニイタカヤマノボレ」など、ここから送信された無線は全てアメリカ軍に傍受されていて、日本軍の暗号もすでに解読されていたので、アメリカは攻撃があることがわかっていた。ところが、米軍内の情報伝達や指揮命令系統などの混乱で、壊滅的な敗北をする。そのことが映画「トラ!  トラ!  トラ! 」でも描かれている。いっぽうで日本軍のパイロットたちは、よく訓練され統率のとれた優秀な兵士として描かれている。アメリカ映画にもかかわず、そのことが印象的だった。

暗号が解読されていたので、翌年のミッドウェー海戦でアメリカ艦隊に待ち伏せされて日本艦隊は大敗北する。それ以降、戦況は逆転するのだが、日本は敗戦まで暗号が解読されていることに気づかなかったという。送信力で世界最強といわれたこの通信所から発信された作戦命令が筒抜けだったとは、むなしいものがある。

2023年12月6日水曜日

「過去」の万博が見せた「未来」の夢 大阪万博は何を見せる?

 Expo

2025 年の大阪万博で、目玉として予定されていたドローン・タクシーの運用が実現不可能になり、デモフライトだけになるという。ドローンのモビリティはすでに世界中で実用が始まっていて、いまさら未来的な技術ではない。それさえ実現できないというのでは、「未来を見せる」という万博の役割は果たせるのか疑問になってくる。

「パスト・フューチュラマ」という本は、「過去」の時代に、その時点で人々はどんな「未来」を夢見たのかを紹介している。映画の「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のようで実に面白い。その本に、過去の万博の出し物も出てくる。

1939 年のニューヨーク万博はテーマが「明日の世界」だったが、 GM 館で、未来都市のイメージを巨大なジオラマで作り、それを回転する観客席から見せる「フューチュラマ」という展示が大人気を呼んだ。そこでは人と車を分離する道路や、道路を立体交差させる高速道路のイメージがすでに提案されていた。


そして GM は高速道路のための車も提案した。それが完全自動運転の車だった。今から約 80 年前のことだ。イラストで、家族全員が向かい合ってゲームをしている。ハイウェイからの信号で車をコントロールするシステムで、実際に試作車で実験も行われた。(今年の Tokyo Mobility Show で、ホンダ・GM (またしても GM)が 2026年に完全自動運転のタクシーを実現すると発表したが、80 年ぶりに「過去の未来」に追いつく事になる)


この時の万博で見せたのは未来の都市のあり方と、そこでの人間の暮らしへの夢だった。生活が豊かになり、人々は郊外の庭付きの家に住むようになる。夫は都心に車で通勤し、妻はスーパーへ車で買い物に行く。だから一家に2台車を持ち、家には2台入るガレージがある。やがてこの夢が実現していく。 1946 年に実際にハイウェイの建設がアメリカ全土で始まる。そしてモータリゼーションが一気に進んでいく。

やがてモータリゼーションは過熱していき、車は「モノ」への欲望の対象になる。当時の車の広告(右)でそれがよくわかる。大量消費社会になり、環境問題にもつながってきた。そして今、持続可能な社会への転換が始まりつつある。だから今度の大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だが、そのとうりに「未来社会のデザイン」をしてくれるのかどうか? 

2023年12月3日日曜日

映画「ナポレオン」と、ダヴィッドの絵画「ナポレオンの戴冠式」

 「Napoleon」

リドリー・スコット監督の最新作「ナポレオン」が公開されたので、さっそく観た。普通に知られているのとは違う独自のナポレオン像を描いていて、さすがリドリー・スコットだ。権力欲のかたまりで、戦争屋のナポレオンだが、個人生活では、死ぬまで奥さんの皇后(ジョセフィーヌ)を心から愛していた極めて人間的な人として描いている。

ナポレオンの戴冠式の場面が出てくるが、おおっ!と思った。ダヴィッドの有名な絵「ナポレオンの戴冠式」(下図)そのままの場面が出てくる。この絵は、大司教から冠を乗せてもらうべきなのに、それを無視して、自分で頭に載せてしまい、ひざまづいている皇后にもナポレオンが自ら冠を載せる、という瞬間を描いている。映画はこの絵をそのまま忠実に再現している。衣装などはもちろん画面の構図までまったく同じになっている。最高権力を手に入れたナポレオンの専横ぶりと、妻を愛する気持ちの両方をこの絵を使って表現している。


現在、ルーブル美術館にあるこの絵は、長さが 10 m くらいある巨大な絵で、人物はほぼ等身大で描かれている。宮廷の首席画家だったダヴィッドのこの絵を見て、その臨場感にナポレオンは喜んだという。この絵は事実どうりに描いた記録写真のようなもので、映画はこの絵を利用することで、リアルなナポレオンの人間像を描いている。 


2023年12月1日金曜日

映画「フォーリングマン 9.11」

 「9 / 11 : The Falling Man」

9.11 同時多発テロの日に、現場にいた新聞記者が撮影した写真「落ちる男」(The Falling Man)が問題になった。炎と煙の苦しさに耐えられず、超高層の貿易センタービルから飛び降りる男の写真だった。翌日の新聞にこの写真が載ると、あまりにショッキングだったので、批判が集まり、すぐにこの写真は封印されてしまう。以後この写真はメデイアで取り上げられることはなかった。


 ところが、まもなくイギリスで作られた「落ちる男」(「9 / 11 : The Falling Man」)というドキュメンタリー映画で、落ちるシーンがたくさん出てくる。それによれば飛び降りたのは、写真の一人だけでなく、数百人だったという。彼らの体は地面で砕け散り、がれきに埋もれてしまったので、今でも正確な人数はわかっていないという。遺族が「飛び降りたとき、すでに失神していたことを願っている。」と語るのが痛切だ。

映画で、もっとひどいシーンが出てくる。酸素を求めて窓の外へ出て窓枠につかまっている鈴なりの人たちの姿だ。あまりにも残酷で、映画を最後まで見ることができなかった。それをここで出すのは、はばかれるが、ピントをぼかして出してみる。



2023年11月28日火曜日

パレスチナ・イスラエル問題の根本が わかる映画「アラビアのロレンス」

 「Lawrence of Arabia」

今から 100 年前の第一次世界大戦で、中東全域を支配していたオスマン帝国はドイツ側について参戦した。イギリスはオスマン帝国を内側から潰そうとして、各地のアラブ人に内乱を起こさせる。中東各地の部族に潜入して反乱軍の指導をしたのが、イギリス軍の諜報将校「アラビアのロレンス」だった。映画はその英雄的な活躍を描いている。

ロレンスは反乱をそそのかすために、アラブの首長にイギリスが勝ったら、分け前として土地を与えて、独立国にしてあげると約束をする。映画でそのシーンが出てくる。地図の上に国境線を引いて、ここからここまであんたの取り分だよ、と言う。

戦争はイギリスが勝ち、オスマン帝国は滅びるが、イギリスは約束を反故にする。委任統治という形でイギリスが支配することになり、アラブ諸国はイギリスの植民地になってしまう。その一方で、やはり戦中にユダヤ人と交わしていたイスラエルの土地を与える、という密約は履行する。(戦費をユダヤ人資本家から調達するためだったという。)その結果、世界各地のユダヤ人が入植してきて、アラブ人を追い出したり殺したりして居住地域を広げていく。土地を奪われたアラブ人の怒りが、現在の戦争のもとになっている。

この時のイギリスの「二枚舌外交」が現在のパレスチナ・イスラエル問題の根本の原因だというのが歴史の定説になっている。ロレンス自身もイギリス政府に騙されていたことを知る。戦後ロレンスは、イギリス国内では英雄扱いされるが、結果的にアラブ人を裏切ったことを生涯後悔し続けたという。

(パレスチナ問題について詳しい歴史を知るには、臼杵陽「世界史の中のパレスチナ問題」がおすすめ。いま現在、中東で起きていることの意味がよくわかる。)


2023年11月25日土曜日

映画「ヒッチコックの映画術」

Alfred Hitchcock 

ヒッチコック自身が自らの映画術を語る興味深い映画が公開されている。ヒッチコックファンとしてさっそく観た。

冒頭で、映画は演劇と何が違うかについて語る。演劇は舞台と観客席がはっきり区切られていて、舞台で演じられている世界を観客は第三者的に外から眺めている。しかし映画は、観客が映画の世界へ入っていき、映画の一部になるような体験をすることができる。ヒッチコックは観客を映画の中に ”引きずりこむ” 演出を様々に工夫する。

一例として、「舞台恐怖症」という映画で、男が、いわくありげな家へ入っていくシーンでドアを閉めない。カメラは男の後をついていくので、観客は自分も男と一緒に家に入った感覚になる。その後で「バタン」とドアが閉まる音だけが加えられる。観客を映画に ”引きずりこむ” 演出だ。


引きずり込んでおいて、登場人物が経験しているのと同じ感覚を観客にも感じさせる。それは ”幻影” なのだが、観客もそれを求めて映画館に来る。サービス精神旺盛なヒッチコックはそれにこたえる。「めまい」の主人公は極端な高所恐怖症なのだが、観客にも「めまい」を起こさせるような巧みな映像が随所に出てくる。


観客を騙すのもヒッチコックの得意技で、監督はそのことを面白がっている。「断崖」で、刑事が容疑者の家に聞き込みにくるシーン。玄関を入るとピカソの静物画が飾ってあり、それを刑事が立ち止まって、しばらくの間じっと見つめる。刑事は帰りがけにももう一度振り返ってこの絵に視線を投げる。サスペンス映画だから当然、観客はこの絵がこれから起きる事件の何かの「伏線」だろうと思う。ところが終わってみると、この絵は最後までストーリーと何の関係もなかったことがわかる。思わせぶりな演出で観客が騙されることを監督は楽しんでいる。



2023年11月22日水曜日

「落ちる男」の写真

The Falling Man

9.11 の同時多発テロの時に「落ちる男」という報道写真があった。炎と煙の苦痛に耐えかねて、貿易センタービルの高層階から飛び降りる男を撮っている。この写真は事件翌日の新聞に掲載されたが、あまりにショッキングなため、すぐに封印されてしまう。日本でもいまだに公にされることはない。


 この写真は、アメリカ人のイスラムに対する「恐怖」と「憎しみ」を社会にもたらすきっかけになった。そして政府は「ユダヤ・キリスト教対イスラム」という単純な対立構造をアメリカ社会に構築することになる。それを根拠にして、当時のブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言し、テロリストの撲滅という名目のもとにアフガンやイラクに侵攻する。そして今もテロリスト撲滅を口実にして一般市民を虐殺しているイスラエルをアメリカのバイデン大統領は支援し続けている。


2023年11月18日土曜日

スコセッシ監督は、なぜ2流監督扱いをされたのか?

 Scorsese

スコセッシ監督は現在でこそ巨匠と呼ばれているが、永い間、2流監督扱いされてきた。作品のほとんどが興行的に失敗してきた理由は、映画をハッピーエンドで終わらせることをしなかったためだと言われている。ハリウッド式の「売れる映画」を作ることを拒んできた。さらに、政治的・社会的に強い影響力を持つキリスト教保守派の伝統的な価値感や倫理規範に合わない映画をたくさん作ってきたこともスコセッシ監督への批判が高まった理由だった。

現在公開中の最新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」も救いのないラストで終わる。アメリカ先住民(インディアン)の居留地に突然石油が出て、彼らは豊かになるという史実にもとずく映画だ。そこに一獲千金を狙って白人たちが押し寄せてくるのだが、映画は先住民と白人との対比を鮮明に描いている。先住民たちは誠実で信心深いのに対して、白人たちは粗野で殺人も平気でやる人間だ。西部劇で描かれてきた白人対先住民の関係がこの映画では逆転している。そして数十人の先住民の女性が、強欲な白人たちの犠牲になって殺される。

この映画で注目したいのは、先住民たちが神に祈るシーンがたびたび出てくることだ。女性たちが殺されるたびに神に救いを求めて祈る。その神はもちろん白人たちのイエス・キリストでなく彼らの神だが、彼らの「信仰」のあつさを強調している。キリスト教徒である白人は文明的であり、先住民は野蛮人であるという、ハリウッド映画が描いてきた人種の優劣構造を逆転させている。これは保守的なアメリカ人たちにはこころよいものではないだろう。

スコセッシ監督はたびたび「信仰」をテーマに映画を作ってきた。「沈黙/サイレンス」は、キリスト教が禁じられていた江戸時代に日本に布教に来た宣教師の物語。彼は幕府に捕まって、キリスト教を棄教するように迫られ、ひどい拷問を受ける。神の救いを求めて必死に祈り続けるが、最後まで神は「沈黙」したままで救いがない。心の中の「信仰」が揺らいでゆき、ついに踏み絵を踏むことになる。棄教すると、武士に取り立てられて、税関で宗教的な物品がないか検査する役人になるという、殺される以上に悲劇的な結末で終わる。神は本当に存在するかというキリスト教徒へ根本的な疑問を投げかけている。

そんなスコセッシ監督の最大の問題作が「最後の誘惑」だった。イエス・キリストの生涯を描いたこの映画で、悪魔から誘惑を受け、イエスが3人の女性と関係を持ち、最後に結婚して家庭を作り普通の人間として生きるというストーリーが、神への冒涜であるとして、猛反発を受ける。宗教団体が映画館の前で観客の入場阻止をする実力行使を行い、爆破事件まで起こる。今でも「物議をかもした映画」ベスト10 のナンバー1にランクされている。この映画は「キリスト教宗教国家」としてのアメリカの伝統的価値観を決定的に破るものとしてキリスト教右派や保守層にとっては許しがたいものだった。だからスコセッシ監督は2流監督に貶めるネガティブ・キャンペーンにさらられた。

2023年11月15日水曜日

万博の歴史、大阪は?

Expo 

大阪万博が開催できるか危ぶまれているそうだ。そもそも、万博を日本でやると聞いたとき、「万博なんてまだあったの」という感じだった。インターネットなどない時代、未来の技術や異国の文化を目の当たりにできる万博は、最高の「情報メディア」だった。しかし、人・モノ・情報が世界を自由に行き交う現在では存在意義が薄い。時代遅れになった万博だから、撤退する国が続出しても当然だろう。


1851 年のロンドンが第1回の万博だった。会場の「水晶宮」は、最先端の技術を使った世界初のガラスの建築で、世界に衝撃を与えた。また、プレファブ工法を使った初めての建築でもあり、「工業化社会」への方向性を示すモニュメントだった。「未来を見せる」という万博の使命を果たしていた。


日本が初めて参加したのは、 1867 年のパリ万博からだが、明治維新直前の時代だったので、「幕府」「薩摩藩」「鍋島藩」の三つがそれぞれ別々の展示をして、自分たちが「日本代表」だと主張しあった。その時の出品物は、美術工芸品で、有田焼などの陶磁器はヨーロッパに衝撃を与え、「ジャポニズム芸術」のきっかけになった。また、アールヌーボーの製品に日本的なデザインが多かったのもその影響だった。

時代が下って、第二次世界大戦直前の1937 年のパリ万博は有名だ。世界の覇権争いをしていた二つの全体主義国家、ドイツ館とソ連館がエッフェル塔を挟んで、にらみ合うように向かい合って建てられた。不穏な時代を象徴するような光景だ。ドイツ館の設計は、ナチスの建築を一手に引き受けていた有名なシュペーアによる、列柱をテーマにした「ナチス様式」 のデザインだ。ソ連館は巨大な労働者の像が最上部に置かれ、モスクワに建設計画中だった「ソヴィエト宮殿」の縮小版のようなデザイン。どちらも全体主義国家の威容を誇ろうとするモニュメント建築で張り合っている。


この頃から万博は、統一テーマを掲げるようになったのだが、このパリ万博のテーマは「現代生活の中の芸術と文化」だった。この時スペイン館で、ピカソの絵画「ゲルニカ」が初めて展示された。この絵は、スペイン内戦で一般市民が虐殺されたことへの抗議だった。しかしその内戦は、フランコ総統を支援したドイツと、人民戦線を支援したソ連との代理戦争だった。そのさなかで行われた万博の、ドイツ館とソ連館が、両国の対立を見事に視覚化している。統一テーマの「生活の〜」ではなく、「政治の〜」になってしまい、テーマは空疎になってしまった。

今度の大阪万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」だそうで、「持続可能な社会」というコンセプトだとそれなりに理解はできる。そのモニュメントとして、「リンク」という木造の巨大建造物を作っている。巨大な木造建築は東大寺のように日本の伝統技術であると同時に、最近日本では巨大ビルを木造で作る技術も進んでいる。鉄とガラスの時代は終わり、これからは持続可能な「木」の文化だ、というメッセージを発信すれば、日本で万博をやる意義が出てくると思う。ところが「リンク」への批判に万博担当大臣が「これは熱中症対策の日よけだから必要だ」と言ったのにはがっかりする。第1回万博での「水晶宮」のように、次の時代に向けてのメッセージを発信するという万博の意味を大臣自身が理解していない。これでは大阪万博は失敗に終わるだろう。


2023年11月13日月曜日

アメリカの ”対テロ戦争” キャンペーンとハリウッド映画「ブラックホーク・ダウン」

 「Blackhawk Down」

現在の中東の戦争で、イスラエルはテロ組織を殲滅するためだとして、民間人までも殺戮をしている。そのイスラエルをアメリカは支援をしている。アメリカはこれまで、「ユダヤ・キリスト教対イスラム過激派」という宗教的な対立軸を煽って、イスラム国に対して強硬手段に訴えてきた。そのきっかけが 9. 11 のテロで、アメリカ政府はテロ組織の撲滅という名目で、イラクなど中東に戦争を仕掛けてきた。今回もその延長線上にある。

 9. 11 テロは、映画にも大きな影響を与える。 9. 11 後、アメリカ政府は「対テロ戦争」キャンペーンに協力するようにハリウッドの映画業界に要請する。それを受けて、アメリカ映画協会は、政府に協力する。「イスラムのテロは文明に対する攻撃であり、対テロは悪に対する戦いである。」というメッセージを映画によって国内外に伝えるべし、という取り決めをする。(木谷佳楠「アメリカ映画とキリスト教」による)

その趣旨にぴったり合致したのが「ブラックホーク・ダウン」(2001 年)という映画だった。イスラム国であるソマリアで、アメリカ兵がテロによって残虐に殺されてしまうのだが、アメリカ軍が攻撃を加え、テロリストたちを殺す。そしてヘリで帰還しようとするが逆に攻撃され、ヘリが撃墜されてしまう。取り残された兵士たちは勇敢に戦い・・・

この映画は、9. 11 の直後に公開されたので、アメリカが中東に報復攻撃することの正当性を裏ずける格好の材料になった。そして、アメリカ国民の愛国心を高揚させ、イスラムに対して団結して戦おう、という効果的なプロパガンダになった。だからアメリカ政府はこの映画を後押しして、大ヒット作となった。


2023年11月11日土曜日

「プロダクションコード」から生まれた名画 「カサブランカ」と「サイコ」

Production Code 

映画の研究書に必ず出てくるのが、アメリカにかつてあった「プロダクション・コード」の話だ。1930 年代、映画産業が巨大化するとともに、娯楽としての映画が文化への影響力が強まったことへの不安感が広まった。特に発言力の強い宗教団体が、公序良俗に反する映画への批判を強めるようになる。それに危機感をおぼえた映画業界は、「プロダクション・コード」 という自主検閲規定を作る。

規定は映画に厳しい目を向けているカソリック系の宗教倫理をほぼそのとうりに取り入れたもので、「性的不品行」「暴力などの犯罪」「神への冒涜」などの禁止事項が明文化された。下の写真は、規定の施行前(1934 年)と施行後(1936 年)の「ターザン」の比較で、女性の露出度や男との密着度などが大きく変化している。


「プロダクション・コード」は、戦後の1968 年に廃止されるまでの約 30 年間続いたが、その間の映画はすべてこの規定の影響を受けている。しかし規定をクリアできるような表現の工夫をしたゆえにかえって現在でも名画と評価されている映画がたくさんある。

おなじみの「カサブランカ」もその一つで、ナチス占領下のカサブランカからアメリカへ脱出しようとしているレジンスタンスの男とその妻(イングリッド・バーグマン)を逃すために、酒場の主人(ハンフリー・ボガード)が、最後の最後で自分用のビザをあげてしまうのだが、実は、女性は男のもと恋人だった、というおなじみのストーリーだ。


「プロダクション・コード」では性に関して「結婚制度と家庭の神聖さは守らなければならない。映画は、低級な性表現を肯定的に描いてはならない。」とあり、その細則として、「不倫は、はっきりと扱ったり、魅力的に描いてはならない。」と規定されている。だから「カサブランカ」は、これをクリアするために細心の注意が払われている。
・パリ時代の回想シーンで、二人の関係が ”不倫” だったかどうかはぼかされている。
・女性は今も夫とレジスタンスの同志として結ばれていることを強調している。
・女性はもと恋人と夫との間で心が引き裂かれていて、 ”魅力的” には描いていない。
・男は、戦争という”大義” のために女性と別れる決断をして ”愛” を犠牲にしている。
これらによって、この映画は ”不倫” を描きながら倫理性を感じさせ、それが映画の成功につながっている。


もう一つの例は「サイコ」で、1960 年のヒッチコック監督による傑作だ。主人公の女性が旅先のモーテルの浴室で何者かに包丁で刺されて殺されるのだが、そのシーンが超有名だ。シャワーを浴びている女性の背後のカーテンにうっすらと人影が映り、次にナイフを振り上げている男がシルエットで映る。最後は排水口に流れていく血が映される。この間、殺人者の姿は一切見えず、刺される瞬間も女性の遺体も映さない。この間接的な表現がかえって恐怖心をかきたてていて、のちに色々な映画で応用される。


これは「プロダクション・コード」の「違法行為」の項目で、「殺人の方法は、模倣願望を起こさせたりするような表現をしてはいけない。」「残忍な殺人を細部にわたって映し出してはならない。」に従ったものだが、それがかえって画期的な映像表現につながった。


やがて価値観の多様化とともに時代遅れになった「プロダクション・コード」は1968 年に廃止されるが、その後は「レイティング・システム」が採用される。日本でもそれに倣って「映倫」による「一般向け」「大人向け」「16 歳以下の視聴禁止」「18 歳以下の視聴禁止」の4段階のレイティングがされている。

2023年11月9日木曜日

「目には目を」の本当の意味

 An eye for an eye

「目には目を」は、やられたらやり返せという報復を煽る言葉だと一般的に思われているが、それは大間違いだと言われている。この言葉は旧約聖書から始まったのだが、目をやられたら目をやりかえすまではいいが、それ以上のことはしてはならないという、過剰な報復を禁じるのが本当の意味だという。敵対者に対する憎悪を掻き立て、歯止めの効かない報復の連鎖を禁じる律法なのだ。

中東で今、「目」をやられた国が報復として「目」どころか、人の命までも奪っている。それをやっているのが、旧約聖書を建国の根拠にしている国だ。


2023年11月7日火曜日

ドーミエ カリカチュアの元祖

 Daumier

19 世紀フランスのドーミエは「カリカチュア」の元祖といわれる画家で、革命や内乱などで混乱する当時のフランスで、権力者を批判する「毒」のある風刺画を描いた。

フランス革命後に再び王政復古して国王になったルイ・フィリップを皮肉っている。玉座に座ったまるまると太った国王が、なおも人夫が担いでくる食べ物を食べまくっている。右下では国王の食べ物のための税金を、役人が民衆から徴収している。左下では国王の尻から出る排泄物(勲章や地位)の恩恵にあずかろうと国会義員や官僚たちが群がっている。


革命後、貴族に変わって国会議員になったのは、資本家や金持ちだった。彼らは民衆のことなど考えていない。知的でない欲のかたまりのような人間として描いている。


権力批判ばかり描いていたドーミエ は、政府の言論弾圧で禁固刑を食らってしまう。するとそれに抗議する絵を描いた。「プレス」と書かれた女性は、新聞の記事を書いている記者で、自由の象徴として光輝いている。それを棍棒で殴ろうとしているのは政治家で、言論を抑圧する政府を痛烈に批判している。




2023年11月3日金曜日

映画「マンガで世界を変えようとした男」のラルフ・ステッドマン

「For No Good Reason」 Ralph Steadman

雑誌などでたまに見かけることのあるマンガだが、作者については知らなかった。「マンガで世界を変えようとした男」(2014 年)というドキュメンタリー映画を観て、イギリス人のラルフ・ステッドマンという人を知った。

貧困、差別、暴力、戦争、権力の腐敗、などに対する抗議をテーマにしていて、マンガというより「カリカチュア」(戯画)というほうがふさわしい。”毒” のある社会批判という点では、バンクシーと同じだが、彼の表現には優しさとユーモアがあるのに対して、ステッドマンはもっと”毒々しい”。そして画力の高さに感心する。