2023年11月18日土曜日

スコセッシ監督は、なぜ2流監督扱いをされたのか?

 Scorsese

スコセッシ監督は現在でこそ巨匠と呼ばれているが、永い間、2流監督扱いされてきた。作品のほとんどが興行的に失敗してきた理由は、映画をハッピーエンドで終わらせることをしなかったためだと言われている。ハリウッド式の「売れる映画」を作ることを拒んできた。さらに、政治的・社会的に強い影響力を持つキリスト教保守派の伝統的な価値感や倫理規範に合わない映画をたくさん作ってきたこともスコセッシ監督への批判が高まった理由だった。

現在公開中の最新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」も救いのないラストで終わる。アメリカ先住民(インディアン)の居留地に突然石油が出て、彼らは豊かになるという史実にもとずく映画だ。そこに一獲千金を狙って白人たちが押し寄せてくるのだが、映画は先住民と白人との対比を鮮明に描いている。先住民たちは誠実で信心深いのに対して、白人たちは粗野で殺人も平気でやる人間だ。西部劇で描かれてきた白人対先住民の関係がこの映画では逆転している。そして数十人の先住民の女性が、強欲な白人たちの犠牲になって殺される。

この映画で注目したいのは、先住民たちが神に祈るシーンがたびたび出てくることだ。女性たちが殺されるたびに神に救いを求めて祈る。その神はもちろん白人たちのイエス・キリストでなく彼らの神だが、彼らの「信仰」のあつさを強調している。キリスト教徒である白人は文明的であり、先住民は野蛮人であるという、ハリウッド映画が描いてきた人種の優劣構造を逆転させている。これは保守的なアメリカ人たちにはこころよいものではないだろう。

スコセッシ監督はたびたび「信仰」をテーマに映画を作ってきた。「沈黙/サイレンス」は、キリスト教が禁じられていた江戸時代に日本に布教に来た宣教師の物語。彼は幕府に捕まって、キリスト教を棄教するように迫られ、ひどい拷問を受ける。神の救いを求めて必死に祈り続けるが、最後まで神は「沈黙」したままで救いがない。心の中の「信仰」が揺らいでゆき、ついに踏み絵を踏むことになる。棄教すると、武士に取り立てられて、税関で宗教的な物品がないか検査する役人になるという、殺される以上に悲劇的な結末で終わる。神は本当に存在するかというキリスト教徒へ根本的な疑問を投げかけている。

そんなスコセッシ監督の最大の問題作が「最後の誘惑」だった。イエス・キリストの生涯を描いたこの映画で、悪魔から誘惑を受け、イエスが3人の女性と関係を持ち、最後に結婚して家庭を作り普通の人間として生きるというストーリーが、神への冒涜であるとして、猛反発を受ける。宗教団体が映画館の前で観客の入場阻止をする実力行使を行い、爆破事件まで起こる。今でも「物議をかもした映画」ベスト10 のナンバー1にランクされている。この映画は「キリスト教宗教国家」としてのアメリカの伝統的価値観を決定的に破るものとしてキリスト教右派や保守層にとっては許しがたいものだった。だからスコセッシ監督は2流監督に貶めるネガティブ・キャンペーンにさらられた。

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