2024年4月24日水曜日

映画にみる 未来の「生成 AI 」

 Generative AI in movies

「生成AI 」は小説を書いたり、政治家になりすますなど、今までは人間にしかできないと思われていた仕事にまでも進出してくるようになった。するとそもそも、人間と AI の違いは何なのかという根本的なことが問題になってくる。

映画「her / 一人だけの彼女」は、パソコンにインストールされた声だけの女性AI に恋してしまう男のラブコメディだ。このAI は話しかけると、プログラムされたとうりに答えるのではなく、「感情」を持って話し相手になってくれる。それで彼女は美人だろうと妄想して、顔も見たいと願うのだが・・・ AI が人間との区別がつかなくなっている。




イギリスの天才数学者アラン・チューリングは、世界初のコンピュータを発明した人だが、彼は人間と人工知能の見分け方の研究をしていた。人間の Aと、人工知能のB に会話をさせ、それを隣の部屋にいる C が聞いている。そしてどちらが人間でどちらが AI かを判定させる。これが「チューリング・テスト」と呼ばれる手法で、見分ける基準は会話を通して「人間的な心」があるか無いかで判定する。

しかし AI が進化して「人間的な心」までも持つようになったらどうなるか。その生成 AI が人間型ロボット(ヒューマノイド)に実装されると見た目も会話も人間だから、街で会っても気がつかないだろう。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は、人間とAI の関わりを通して「人間らしさとは何か」をテーマにした名作 SF 小説だ。人間社会に紛れ込んだ殺人AI ロボットを追っている捜査官が、容疑者を捕まえる。そしてAI かどうかを見極めるためのチューリング・テストをする。人間的な感情に触れる質問だが、 AI ロボットは悲しい話題には悲しい表情をして悲しい言葉で答える。しかし脳波測定機で調べると、感情はまったく動いていないので AI ロボットだとわかってしまう・・・

「ブレードランナー」は、この小説をもとにした名作 SF 映画だった。


チューリング・テストをしているうちに、捜査官はレイチェルという美人女性 AI がロボットだと気がつく。しかし分かった後も、完璧に人間の女であるこのロボットに感情移入してしまう。そして抹殺されずにすんだ彼女は再び人間社会に紛れこんでいく・・・

もうひとつ、「心」を持った AI が登場したのが映画「エクス・マキナ」だった。ロボット研究所を訪れた主人公が美人女性 AI ロボットに会う。彼女は両親が亡くなったことに涙を流したりして人間的な感情を持っている。それで主人公は彼女に恋愛感情を抱いてしまう。そして彼女を連れて研究所を脱出し、人間社会へ戻ることになるのだが。・・・結末は、未来の AI を予測させる恐ろしいことになる。



ある意味でもっと”恐ろしい” 映画が「インサイド・ヘッド」だった。一見いかにもディズニー映画らしいファンタジック・アドヴェンチャーのアニメだ。主人公の少女の頭の中は工場になっていて、「喜び」や「悲しみ」などの感情を引きおこす担当者がいる。少女の状況に合わせて、ここは笑いなさいとか泣きなさいなどと指令を出している。つまり少女はプログラムされた脳に操られているロボットに過ぎない。(プログラムは幼い頃からの教育の積み重ねで作られる)だから人間には自由意志による「心」があって、それが AI との違いであるという論理が成り立たないことになる。このことを指摘したのはベストセラー「サピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリだ。しかも最新の脳科学研究によれば、 AI にない「人間的な心」と思われているものは、単に脳内の生化学的反応に過ぎないことが科学的に解明されていて、人間とAI は何の違いもないというから怖い。


2024年4月22日月曜日

絵画的な映画「天国の門」

「Heaven's Gate」 

映像が美しい絵画的な映画といえば No.1 は「天国の門」だろう。マイケル・チミノ監督のこの映画は巨額の制作費をかけたが、興行的には大失敗して非難を浴びたといういわくつきの作品だ。撮影監督がヴィルモス・ジグモンドという人で、若い頃に美術の勉強をして、構図・光・色彩などについての感覚を身につけたという。映画が絵画的なのはそのためだ。


19 世紀末、東欧からの移民が大量にアメリカ西部に移住してきて小さな町に住み着く。しかし町を支配する牧場主たちから敵視され、迫害を受ける・・・というのがメインのストーリー。移民の列のシーンで、彼らの悲惨さを表現している。人の列が土ほこりでかすんでいたり、青空を黒に近く暗くしているのは、現像時の操作によるもの。


町の風景の場面で、建物から煙が立ち昇っていて、晴れているのに空は暗い。この不気味な感覚がこの街の不穏さを表現している。また全編が古い写真のようにセピアを基調色にしていて、19 世紀の時代の雰囲気を出している。なおこのように画面全体が人で埋まっているシーンが多く出てくるが、エキストラを大量に雇っているからで、制作費が高騰した原因だと言われている。

室内の場面。モヤがかかっていて、窓から差し込む光が強調されている。実際に煙をたいて撮っている。「ディフュージョン」と呼ばれ、光を拡散させる手法で、コントラストを弱め柔らかい画面になる。

町を支配する牧畜業者たちは、移民たちを皆殺しにする決定をする。移民たちは対抗するために銃を持って立ち向かい、戦争になる。壮絶な戦闘シーンだが、カメラはあくまで絵として美しく撮ろうとしている。土煙でかすんだセピア一色のモノトーンだったり、逆光のもとで川を渡る男たちなど。


映画の最初にハーバード大学の華やかな卒業式の場面があり、これが延々と20 分も続く。本題と関係がないのになぜか。エリートとして社会正義のために尽くすことが使命の彼らだが、この中の二人が後に上記の戦闘の指導者として戦うことになる。厳しい断絶の階級社会を描いたこの映画にとって重要な場面だ。


2024年4月19日金曜日

「エッジライト」の美しさ 絵画・映画

 Edge Light

人物に背後から逆光が当たると暗いシルエットになる。そして光が強いと、シルエットの輪郭(エッジ)に沿って細く強い光が生じる。それが「エッジライト」で、写真のライティングとしてよく使われる。

絵画でもたまに「エッジライト」の絵がある。例えばルノワールの「海のほとり」という絵で、写真ほど強烈ではないが、逆光の少女の腕や背中に背後からの光が当たっている。


そのルノワールの晩年を描いた映画「ルノワール  陽だまりの裸婦」(2013 年)は、「エッジライト」を多用している。(「エッジライト」は、映画用語では「リムライト」と呼ばれる。)

老齢で身体が不自由になったルノワールだが、若いモデルと出会って、創作意欲がよみがえる。光あふれる自然の中でポーズをとらせて描く。映画は全編でルノワールの絵画の明るいイメージに合わせた映像作りをしている。そして「エッジライト」が効果的で、南仏の明るい光を強調している。





(なお映画で「ジャン」という名の青年が登場するが、ルノワールの息子で、後に映画監督になって「大いなる幻影」などの名作を残すジャン・ルノワールだ。)

2024年4月17日水曜日

セザンヌは「キュビズム」の ”はしり”

Cezanne and Cubism

「キュビズム  美の革命」展(国立西洋美術館、〜2024.1)があったが、入場するとすぐにセザンヌの作品数展が並んでいた。 セザンヌはキュビズムにつながる美の革命の先駆者だったとされているが、同展でもそのことを強調していた。

対象を固定した同一視点で描くのが 19 世紀までの絵画だったが、そのために遠近法(透視図法)は絶対だった。それを覆して、あちこちから見た対象を混ぜて描くことで、絵画に革命をもたらしたのがキュビズムだった。

セザンヌはその「多視点」絵画をキュビズムに先立って始めた先駆けだった。遠近法をいかにはずしているか、「リンゴとオレンジ」で調べてみた。3つの食器の楕円が手がかりになる。


それぞれの楕円の丸みが大きく異なっている。手前の皿は丸みが強く、かなり真上から見ている。奥の水差しは楕円が薄いので横から見ている。足つき果物台はその中間になっている。そしてそれぞれの楕円の中心軸はそれぞれバラバラの方向に傾いている。視点の位置と方向が同一画面内で動いていて「多視点」であることがわかる。


2024年4月15日月曜日

シド・ミードが描いた夢の車

「 Innovations」 by Sid Mead

最近の報道で 、USスチールが日本製鉄に買収されるというニュースが出てくる。「鉄は国家なり」といわれて、アメリカを支えてきた世界最強の USスチールが日本企業に買収されるとはびっくりする。

60 年くらい前の USスチール全盛の頃、広報誌「INNOVATIONS」が出て、みんな一生懸命眺めたものだった。鉄によるイノベーションで生まれる夢の車をシド・ミードの華麗なイラストレーションで描いていた。


力強い産業社会のイメージと夢のトラック

豊かな生活のイメージとゴージャスな車

車輪がなく、宙に浮いて走るホバークラフト型自動車

ドローン型飛行自動車

高速道路網で埋めつくされている都市のイメージ

大気汚染や交通渋滞に悩まされていた当時のアメリカの車事情が、これらの ”夢” に反映しているようだ。しかし鉄鋼でも自動車でも技術イノベーションに立ち遅れて、今度の買収に至ったという。”夢”ははかない夢に終わってしまった。


2024年4月13日土曜日

科学の軍事利用の元祖 アルキメデスの「死の光線」 

Archimedes Death Ray


科学の知見を軍事に応用し、戦争に使った最初の人は、紀元前3世紀のギリシャのアルキメデスだといわれている。ローマ軍との戦争で、敵軍船を攻撃する兵器を作ることを頼まれたアルキメデスは、「死の光線」を発案した。(「身近な物理学の歴史」より)

海岸線にたくさんの市民を並ばせて、それぞれに手鏡を持たせ、敵船に向けて集中的に太陽光を反射させる。すると敵船はあっという間に炎上してしまう。このとき市民を放物線上に並ばせるのがミソで、放物線の「焦点」に敵船が入ったとき一斉に光を浴びせる。

パラボラアンテナが放物線断面の曲面で電波を反射させ焦点にある受信装置に集めるのと同じ原理だ。アメリカの MIT は「死の光線」の再現実験をしたが、30 cm 角の鏡を130 枚使って30 m 先の木造船を発火できたという。

アルキメデスの祖国ギリシャはオリンピック発祥の地だが、聖火の採火式で、古代ギリシャ風の衣装の女性がパラボラ型の鏡でトーチに着火している。


2024年4月11日木曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチは、「軍事技術者」だった

 Leonardo da Vinci

ダ・ヴィンチは宮仕えするときの履歴書に、自分の職業を「軍事技術者」と書いたという。当時のイタリアは小さな都市国家に分裂していて、いつも戦争をしていたことと、兵器の主流が弓矢から銃火器になったことで新兵器が必要になったことが背景にあるようだ。たしかにダ・ヴィンチの絵画は「モナリザ」や「最後の晩餐」など数点しかなく、画家は”副業” だったのかもしれない。

ダ・ヴィンチは機械のアイデアをスケッチ入りで記録した「手稿」を大量に残している。そのなかに軍事技術関係のものがたくさんある。ミラノにある「レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館」は、ダ・ヴィンチの発明スケッチを模型にして再現していて圧巻で、イタリアに行ったらおすすめの場所だ。その日本展「知られざる科学技術者レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(1998 年)があった。(下の画像は同展の図録より)


「戦車」 中に人間が入って駆動する。全方向に向いて銃が装備されている。4つの車輪は独立しているので自由に方向転換できる。(模型は一部断面で内部を見せている)


「機関銃」 11 個の銃が3段に並べられていて、計 33 の銃口を持つ。1段目を打ち終えて弾を装填すると、すぐに 2・3段目を続けて撃つことができる。(スケッチは3案が描かれている) 


「城壁攻撃用はしご」 車輪のついた台にはしごが装備されている。堀の手前で停止させ、はしごを倒し城壁に架けて城内に一挙に攻め込む。はしごには屋根がついていて、上からの銃撃から兵士を守る。


「大鎌をもつ軍船」 船首に大鎌を備えていて、素早い振り下ろしで敵船を破壊する。鎌は回転台座に乗っていて、どの方向へも向けられる。



2024年4月9日火曜日

暮れ残る空「マジックアワー」の光の美しさ  ミレーの「晩鐘」と映画「天国の日々」

Magic Hour 

写真や絵画で「マジックアワー」という言葉がある。日没時には、真っ赤な太陽の光が空を染めるが、それが終わって、太陽が地平線の下に沈むと、地平線の下から空へ向かって光が照らされる。空に反射した間接光なので、光は弱く優しく、微妙な色に輝く。完全に暗くなるまで 20 分くらい続くが、一日のうちで空が最も美しい時間帯で「マジックアワー」と呼ばれる。日本語の「暮れ残る空」に近い。

「マジックアワー」の光を描いた有名な絵画はミレーの「晩鐘」だ。わずかに明るさを残す空を背景に農夫夫婦がシルエットで浮かび上がっている。マジックアワーの光は詩情や郷愁の感情を呼び起こす。



映画で、「マジックアワー」の光の美しさを最大限生かした映画が名作「天国の日々」だった。ミレーの「晩鐘」と同じく、見渡す限りの平原を舞台にした農民の物語だが、ほとんどすべてのシーンが「マジックアワー」で撮影されている。

マジックアワーの微妙な光を背景に、平原のなかにポツンと一軒だけの豪邸が建っている。建物は暗いシルエットになり、左側面だけがまだほのかに明るい。古い様式の建物が、映画の時代設定の 1910 代の雰囲気を出している。空の色と相まって、映画全体を覆う郷愁感を高めている。 (・・・・建物に住んでいるのは若い男一人だけで、彼は農場の所有者の金持ちなのだが、余命がいくばくもない。・・・・) 



遠くの地平線まで平原が広がっていて、ミレーの「晩鐘」とまったく同じ構図のシーン。マジックアワーの雲がピンクがかった柔らかい色に染まっている。人物は暗いシルエットに沈んでいる。 (・・・・主人公の二人は農場に働きにきている貧しい季節労働者で、夫婦なのだが兄妹と偽っている。・・・・)



一日の農作業を終えて、宿舎に戻る季節労働者たちのシーン。マジックアワーの空が美しい。 (・・・・安い賃金で重労働させられている彼らの悲哀感をこの空が引き立てている。主人公の二人も、この境遇から抜け出したいと思っている。・・・・)



この映画は、準備をして待っていて、日が沈むと同時にマジックアワーの 20 分間に撮影したという。その光の美しさが、シーンに郷愁や哀愁の感情を与えている。「物語る」という俳優の役割を光がしている。だからこの映画の登場人物のセリフはとても少ない。


2024年4月8日月曜日

映画「黒い太陽 731」

「Men Behind the Sun」 

映画「オッペンハイマー」は、原爆という非人道的兵器を作ったことで、自責の念にとらわれる科学者オッペンハイマーを描いている。このような「科学者と倫理」の問題は日本にもあった。


戦時中の、科学者たちの研究組織「731 部隊」だ。細菌兵器を開発する目的で、さまざまな非人道的な実験が行われていた。隠蔽工作のおかげで永らく実態が闇の中に葬られていたが、近年その全貌が明らかになってきた。「七三一部隊と大学」という最近出た本は、部隊の実態を詳細に調べている。中国のハルピンにあった研究所に集められた数十人の京都大学医学部の優秀な科学者たちが活動していた。研究を指揮したのが部隊長の石井四郎で、京都大学医学部教授、医学博士、陸軍軍医中将、などの肩書きを持つエリートだ。


この七三一部隊の実態を映画化したのが、「黒い太陽 731」(1988 年、香港映画)だった。中国人を実験台に使って様々な生体実験をする。十字架に縛り付けて、空から細菌を振りまいて、兵器としての実効性を調べたり、感染した人間を生きたままベッドに縛り付けて、麻酔もかけないまま、身体を切り開いて内臓を取り出す生体解剖、などアウシュビッツ顔負けの非人道的医学研究だった。


やがてソ連軍が進攻してきて、日本の敗戦がはっきりすると部隊は撤退するが、あらゆる証拠を隠滅する。研究資料を焼却し、実験用の中国人は全員銃殺し、施設は爆破する。そして部隊長の石井四郎は日本に帰っても部隊のことは一切口外しないように厳命する。

ナチスドイツで同じく細菌兵器の研究をしていた医学者たちはほとんどが戦犯として死刑になったが、石井四郎の場合は連合軍に逮捕されることなく、東京裁判にかけられることもなかった。なぜか。それは部下には焼却するよう命じた研究資料を自分だけは密かに持ち帰り、それを細菌兵器の情報を欲しがっていた米軍に渡して、引き換えに逮捕を免れたのだ。そして研究者たちは何事もなかったかのように大学の医学部教授に復帰した。

戦後、オッペンハイマーは核兵器開発に反対したため、政府から反米科学者の烙印を押され、すべての公職から追放された。それほど原爆を作ったことへの自責の念が強かった。しかし、731 部隊の科学者たちはそうではなかった。

2024年4月6日土曜日

オッペンハイマーは悪者か?

 「Oppenheimer」

映画「オッペンハイマー」で印象的なシーンがある。いよいよ最初の爆発実験の日、実験場へ向かうオッペンハイマーが、庭で洗濯物を干している妻に、「閃光が見えたらすぐに洗濯物をしまうように」と言う。つまり、爆発で遠くにまで「死の灰」が降るほど原爆の破壊力が強烈であることをオッペンハイマーは知っていたのだ。

その後、日本への投下が「成功」すると、研究所のメンバーたちから祝福される。しかしオッペンハイマーに喜びの表情はない。広島・長崎の惨状を知って、原爆の恐ろしさは自分の予測以上であることを知り、自責の念にかられる。しかし同時に「自分は科学的真理を追求しただけで、原爆を投下する決断をしたのは政府であって自分ではない」と主張する。そして、水爆開発に反対し、核兵器反対運動を推進する。

これはノーベルの話に通じる。自分が発明したダイナマイトが戦争で大量殺戮の道具に使われたことの負い目から平和賞を含むノーベル賞を創設した。そのような科学の進歩に常につきまとう「科学者と倫理」の問題を「オッペンハイマー」は問いかけている。

この問題について、科学者は軍事研究に手を染めるべきではないという立場から、日本学術会議は「科学者の行動規範」を定めている。「科学者は、特定の権威(政府や自衛隊などを指す)から独立して、自らの判断により真理を探求するという重大な責務を有する。〜云々」としているが、そんな単純なことで問題は済まない。オッペンハイマーは、科学の真理を追求することと、アメリカへの愛国心との両面から、原爆開発に突き進むしか選択肢はなかった。

科学の成果が戦争に利用されて人類の脅威になったのはこれまで2つあったといわれている。19 世紀のダイナマイトと、20 世紀の核兵器だ。そして、21 世紀の現代に生まれつつある第3の脅威は「AI」だとされている。すでに AI の軍事利用は世界じゅうで始まっている。しかし AI の研究者たちはそんなことに自分が関与しているとは思っていない。


2024年4月4日木曜日

「バーベンハイマー」?

 「BARBENHEIMER」

去年(2023 年)夏のほぼ同時にアメリカで「バービー」と「オッペンハイマー」が公開された。そのとき、二つをくっつけた画像が SNS に投稿されて話題を呼んだ。「Barbie」と「Oppenheimer」をつなげた「Barbenheimer」(「バーベンハイマー」)を映画ポスター風にした悪ふざけ画像だ。この画像に「バービー」の映画会社(ワーナー)が「いいね」をして宣伝に利用したので、大ひんしゅくを買った。日本ワーナーも本社に抗議したので、ワーナーは謝罪に追い込まれた。

そして先月のアカデミー賞発表で作品賞を受賞したのは、興行成績 No.1 の「バービー」ではなく、「オッペンハイマー」だった。おバカ映画が受賞しなかったことで、ハリウッドにまだ良識があることがわかって安心した。

この騒動の根底にあるのは、原爆に対する日米の意識の差だと言われる。原爆投下は戦争を終わらせるためで正当だったと考えるのがアメリカの大多数の世論だから「バービー」のように原爆を茶化すようなことが起こる。一方で、原爆を単純に悪だとするだけでは済まないもっと大きな問題があることを「オッペンハイマー」は気づかせてくれる。


2024年4月2日火曜日

映画「オッペンハイマー」

 「Oppenheimer」

オッペンハイマーは、悪魔の兵器を作った極悪人だとされる。しかしオッペンハイマーという人がいなければ原爆は生まれなかったかというとそんなことはない。彼個人の自由意志で原爆は作られたわけではなく、時代の要求に応えて、一科学者として貢献したにすぎない。映画には、原爆を計画し、作り、使った人たちがたくさん登場する。

ナチスドイツより先に原爆を完成し戦争に勝つという愛国心と、科学者としての使命感からマンハッタン計画を指揮し成功する。しかし、広島・長崎で何十万人もの人間を殺したことで、自分の手が血塗られたことを自覚する。そして戦後は、これ以上の核兵器の開発を止めることを政府に訴え続ける。しかしすでに米ソ冷戦時代で、ソ連との水爆開発競争になっていたので、それに反対するオッペンハイマーはソ連のスパイだと見なされ、裁判の被告になってしまう。

映画は、科学者としての使命を果たした達成感と、それがもたらした結果への罪悪感とが葛藤するオッペンハイマーの苦悩を描いている。これは今でも答えがない「科学技術者と倫理」という永遠の課題だ。


2024年3月30日土曜日

新作「ゴジラ -1.0 」と「ゴジラ」の歴史

 「Godzilla Minus One」and  Godzilla history

「ゴジラ -1.0 」が今年のアカデミー賞の視覚効果賞を受賞した。「ゴジラ 70 周年記念」とうたっているが、その間に制作されたゴジラ映画は 30 本以上にのぼるそうだ。

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その第一号が 1954 年の「ゴジラ」だった。戦後まだ9年しか経っていないこのころ、漁船「第5福竜丸」が太平洋で、アメリカの水爆実験で被爆して船員が死亡した。当時、この事件が連日大きく報道されていたのを今でも覚えている。「ゴジラ」はこの事件をもとにしている。水爆実験で住処を失った太古の両棲類がよみがえったという設定だった。当時のポスターにも水爆大怪獣とか、放射能を吐く大怪獣といった言葉が躍っている。

国際政治学者で映画評論家の村田晃嗣氏は解説している。「この映画が日本の反米・反核運動のきっかけになった。そしてこの年、すでに日米安保条約が締結されていたにもかかわらず、ゴジラの日本襲撃に在日米軍は出動しない。ゴジラ自身がアメリカを象徴しているとすれば、在日米軍がゴジラに立ち向かわないのは当然である。」

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それから 60 年後の  2014 年にハリウッド版「GODZILLA」が公開された。この映画では、ムートーという怪獣が登場するが、それは放射能を餌にして増殖する不気味な怪獣だ。東アジアで生まれたこの怪獣が太平洋を渡ってサンフランシスコに上陸して都市を破壊する。これに米軍が立ち向かうが全く歯がたたない。そこで日本の科学者(渡辺謙)が協力して、ゴジラに戦わせてムートーをやっつけることになる。死闘の末にゴジラが勝つ。そして最後に生まれ故郷のアジアに向かって去っていく。

同じく村田晃嗣氏の解説。「この映画は、2001 年に起きた同時多発テロで高層ビルが破壊されたのと同じシーンがたくさん登場する。また 2011 年の東日本大震災での福島の原発事故そのままの場面も出てくる。ムートーの破壊行為は、自然災害や原発事故、国際テロを含んだ 21 世紀の新型の脅威の複合体なのだ。」 

そして、「東アジア発のムートーには経済力・軍事力で巨大化する中国の脅威が投影されている。それに対抗する「GODZILLA」の名前には「GOD」(= 神)が含まれていることから、ゴジラは人類を救う「救世主」になっている。そして第1作と違って、日米両国は緊密に協力しあっている。映画が公開された 2014 年は、安倍首相のもとで、集団的自衛権行使を認める安保法制が成立した年であり、その日米の関係性が映画に反映されている。」という。

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2016 年には「シン・ゴジラ」が登場してヒット作になった。ゴジラ襲来に対応する政府の無能さと混乱ぶりが細かく描写されている。福島原発事故の時の政府の右往左往ぶりをそのまま再現している。

支援のためにアメリカから派遣された役人が、被害が自国へ及ぶのを恐れて、核兵器を使って殺せという指図をする。そうすれば日本人にも被害が出るのが分かっているのに身勝手な指図だ。アメリカに対して従属的な日本政府がどう対応するかでまた右往左往する。

同じく村田氏のコメント「日米関係で日本は何を失い、その代わりに何を得ているのか、こうした問いかけなしには、 1954 年の「ゴジラ」を超えることはできない。」

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そして今度の新作「ゴジラ -1.0 」は、時代設定が日本の敗戦の年 1945 年になっている。戦争で全てを失い、「ゼロ」になった日本がさらにゴジラに追い打ちをかけられ「マイナス」になってしまうというのが題名の意味だ。

生き残りの特攻隊員が主人公で、一人だけ生き残ったことに負い目を感じている。アメリカとの戦争は終わったが、”自分の戦争” はまだ終わっていない。それを終わらせるために、特攻攻撃で体当たりしてゴジラを倒す作戦に志願する。自分も死ぬ覚悟だ。

この映画にも当時の国際情勢が反映している。すでに米ソ冷戦が始まっていて、ソ連を刺激したくないアメリカは、ゴジラのために在日米軍を出動させることを拒否する。そして自衛隊が発足するのはまだ数年先のことだ。そこで元日本軍兵士たちの民間人ボランティアを集めて戦うことになる。主人公もその一人だ。

一機だけ残っていた旧日本軍の戦闘機を補修して特攻に使うことになる。戦時中の日本の戦闘機は被弾しても、アメリカ軍では常識だった脱出装置がなく、パイロットも一緒に死ぬのが当たり前だった。だから主人公は涙の別れとともに出撃する。ところが映画のエンディングで、任務を果たした主人公のパラシュートが空に浮かんでいる。補修をした元日本軍の航空整備兵が脱出装置を追加していたのだ。このエピソードで映画は、戦前の軍国主義と人命軽視(特攻という発想自体がそうだ)への抗議をしている。

以上のようにこの映画は、時代設定を日本の敗戦直後にしたために、今までの「ゴジラ」が SF 的怪獣ディザスター映画だったのとは違うリアリティを感じさせている。

2024年3月28日木曜日

北朝鮮の怪獣映画「プルガサリ」

「Pulgasari」

北朝鮮の映画はめったに見られないが、「プルガサリ」という映画をDVD で見ることができる。1985 年制作の怪獣映画だ。今の金正恩の父の金正日はかなりの映画マニアで、数万本のフィルムライブラリーを持っていたそうだが、その金正日の肝いりで作られた。東宝のゴジラの特撮チームが招かれて参加している。だからこの怪獣はゴジラにそっくりだ。もっとも現在の VFX の時代より前なので迫力はそれなりだが。

朝鮮の高麗時代が舞台で、圧政に苦しむ農民が反乱を起こすのだが、それを助けて朝廷の軍隊を全滅させるのが「プルガサリ」という巨大怪獣だ。

この怪獣は鉄を餌にして成長して、強くなっていく。そのため農民たちは、鍋釜や農具を餌をとして与えている。しかし最後に鉄製品が尽きてしまい生活ができなくなり、プルガサリも餌の鉄が無くなって死んでしまう。

最後に主人公の女性が「このままでは世の中から鉄が無くなり、各国が鉄を得ようとして戦争になるだろう」とつぶやく。なにやらこのストーリーは、核で軍事的に強くなったのと引き換えに国民が食べるものに困っている北朝鮮を思い浮かべてしまう。そして国民の本音が思わず滲み出てしまっているように見える。もちろん金正日はそんなつもりではなかっただろうが。


2024年3月23日土曜日

万年筆をジャンボジェットサイズに描く

Perspective


遠近法(透視図法)を習い始めた時の教科書に載っていたこの図に強烈な衝撃を受けた。それまで消失点のことくらいしか遠近法の知識がなかったが、この図は遠近法のもっと本質的なことに気づかせてくれた。

まず万年筆のスケッチ(いちばん上)をする。次にそれを現物より大きくなった状態を想像して描く。次々にどんどん大きくさせていき、最後はジャンボジェットくらいまでに大きく(いちばん下)する。

人間が描かれているが、これは人間との対比で大きさを感じさせるためだけではない。人間の目を通る水平線が描かれているのがいちばん大事な点だ。人の目の高さ(アイ・レベル)は地平線(ホリゾンタル・ライン)と一致するという遠近法の大原則を教えている。また消失点はアイ・レベル上にあるということも気づかせる。

この図で、大きくなるほど地平線の位置が下へ下がっていき、ジャンボジェット万年筆では人は真上を見上げている。 そして消失点は大きくなるにつれて万年筆に近づいてきていることもわかる。

遠近法は物の形を ”正しく” 描く方法だが、これを逆用して、”ウソ” を描くこともできる。それが面白くて、犬小屋を人間の家にしたり、高層ビルにして遊んでいた。(図は「Perspective :A New System for Designers: by Jay Doblin」より)


2024年3月19日火曜日

3点透視で描く建物の絵

 Three - point Perspective

マンションの広告でよくこんな写真があるが気になる。建物の縦ラインが完全に垂直になっているので、上広がりの頭でっかちに見える。写真のあおり補正のしすぎで、視覚的にとても不自然だ。

もうひとつは、最上層の屋根の角の角度が 90 度以下の鋭角になっている点で、 こういう見え方は現実にはありえない。超広角レンズか何かで撮ったときに現れる現象だ。


この写真の不自然さは、透視図法の原理から説明できる。下図(図は「Perspective」より)は、立方体を、左は2点透視図法で、右は3点透視図法で、描いた時の比較をしたもの。


左図で、立方体をだんだん下から上を見上げる角度になっていくが、一番上までいっても立方体の縦ラインは垂直のまま変わらない。そして立方体の手前の角がだんだんシャープになっていき、一番上では 90 度になっている。 90 度とはつまり、建物の壁に目をぴったりつけて上を見た時と同じで実際にはありえない。上の写真が不自然なのは、撮った写真を、この状態になるまで補正しているからだ。

以上の不自然さをなくすために、普通は右図の3点透視図法が使われる。上方向にも縦ラインが収斂し、上方に第3の消失点ができる。そして立方体の縦ラインは上に行くほど長さが縮んでいき、一番上では立方体は底面しか見えなくなる。これが人間の視覚にあった描き方だ。


ヒュー・フェリスは建築家兼画家で、 20 世紀初めにニューヨークの摩天楼がニョキニョキ建ち始めたころ、未来都市の高層建築のイメージを描いた。それはアール・デコの時代だったので、その当時流行のデザインだが、幻想的で一種異様な感じの絵を描いている。この絵は、建物の縦ラインがわずかに上方へすぼまっていて、3点透視になっている。

絵画では、3点透視はあまり多くない。風景画で高層ビルがモチーフになることが少ないし、あっても遠くから見た点景として描かれる場合が多く、見上げるような近くから見た高層ビルはあまり描かれない。

モネは「ルーアン大聖堂」という連作を描いたが建物の縦ラインは完全に垂直で、2点透視になっている。建物が5階建くらいで、しかもモネは向かい側の建物の2階から描いたというから、さほど上を見上げるよう角度ではない。だから3点透視にしなかったのだろう。