2026年5月31日日曜日

下岡蓮杖の「横浜写真」事始め

The Origin of Yokohama=photo 

前回に続いて、「横浜写真」についてもっと知りたいと思い資料を探していたら、「大江戸庶民事情」(石川英輔)という本に、横浜写真の開祖.下岡蓮杖についてマニアックなまでに詳しい記述があった。下岡蓮杖についての資料はほとんど残っていないため、詳しいことがわかっていないが、著者はさまざまな推理を働かせている。

当時の写真術は「コロジオン湿板法」といい、ガラスの上に液状の感光材料を塗り、それをカメラにセットして撮る。この観光材料は蒸発しやすく、乾燥すると感光しなくなる。出来たての濡れているうちに撮影しなければならないやっかいなものだった。蓮杖はその感光材料を作る作業を、野毛の田んぼの真ん中にある掘立小屋でやっていた。

感光材料の開発に成功した蓮杖は、商業写真に利用するために撮影スタジオを作ることにするが、田んぼの真ん中の不便なところにあっては客が来ない。しかし乾燥しないうちに短時間で感光材料を運べるように、外国人居留地に近いところでなければならない。その条件を満たす場所として、大岡川の都橋のすぐのところ、今の野毛一丁目に蓮杖の写真館があったと著者は推定をしている。

著者がそれを割り出したのは、「横浜御開地明細之図」という野毛のあたりを描いた古地図からだ。「大岡川」「のげむら」「いせ山」などの地名が読める。

しかしそれでも野毛では経営が苦しくなった蓮杖は野毛の店をたたみ、関内の馬車道へ移る。すると外国人の客がたくさん来て、写真館としての経営が軌道にのる。さらに翌年には本町にもスタジオを新設し、馬車道の方は支店として弟子に任せたという。現在、蓮杖の記念碑が馬車道にあるのはそのためだ。


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