The Territory of Interest
公開中の「関心領域」は、”アウシュビッツもの映画” だが、これまでと全く違う。冒頭でまずこの異様な光景が出てくる。塀一枚で隔てられた手前は、アウシュビッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスの自宅で、塀の向こう側は収容所で、囚人の建物や監視塔などが見える。
そしてこの映画でカメラは終始、収容所の内側へ入っていくことはない。だから悲惨なユダヤ人や、残虐なドイツ兵などは一切登場しない。つねに塀のこちら側の、ヘス自身の家庭内での日常生活を淡々と撮っているだけなのだ。
プールや庭園などがある広大な敷地の邸宅で、ヘスは、妻や子供たちと楽しく過ごしている。休日には家族全員で近くの川で泳いだり、森でピクニックをしたりする。ヘスは、家族思いの優しい夫であり父親なのだ。
所長としての仕事は、自宅から電話で指示を出すだけで、現場にいることはない。真面目に仕事をして、家族愛にあふれたどこにでもいるような「普通の人」であるヘスを描いている。だから映画では、戦後の戦犯裁判で「人道に反する罪」を犯したとして死刑になるようなヘスの姿はない。しかしこの映画の宣伝文句が「最も恐ろしい映画」になっている。なにが「恐ろしい」のかを理解するには哲学者ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」論が助けになる。
ヘスと並んでユダヤ人虐殺を主導したアドルフ・アイヒマンは戦後、戦犯裁判にかけられる。その裁判を全て傍聴したハンナ・アーレントは最後に「悪の凡庸さ」という結論に達する。アイヒマンは残忍でもない、狂気じみた殺人鬼でもない、ユダヤ人に対する憎悪があったわけもない。ヒトラーを崇拝していたわけでもない。ただ与えられた自分の任務を熱心に淡々とこなしただけの真面目で凡庸な官僚に過ぎなかったというのだ。まさにこの映画が描いているヘスの人間像とぴったり重なる。
そしてアーレントは、「悪の凡庸さ」ゆえに、どこにでもいる「普通の人」がアイヒマンと同じように悪をやる可能性が十分にあり、そのことが「恐ろしい」と言っている。映画の宣伝文句の「怖い」はそのことを指している。
このアーレントの理論を実証するために、ミルグラムという心理学者が実験を行なった。「体罰が学習に与える効果」を調べる学術的な研究だとして「普通の人」に協力してもらった。先生が生徒に問題を出し、生徒が答えを間違えるたびに電気ショックを与える。実験に参加した「普通の人」は、電圧スイッチを押すのが役目だが、生徒の「ギャー」という悲鳴(演じているだけだが)が聞こえても、高電圧のスイッチを押し続けたという。研究の役に立ちたいいう「使命感」にかられれば、ごく「普通の人」も残虐なことをやってのけるというハンナ・アーレントの考えが実証された。
この映画で、ヘスや家族が何をしている時でもつねに、収容所からの「ゴー」という音が聞こえている。それは焼却炉で人間を焼く音だが、誰も気にしていない。そしてヘスはその音を聞きながら毎日人間を焼く仕事を淡々とこなしている。それはちょうど「ミルグラム実験」で、悲鳴が聞こえているのに電圧スイッチを押し続けたのと同じだ。
ハンナ・アーレントはさらに「普通の人」がなぜ残虐なことをできるのか、その原因を考察している。ユダヤ人は絶対悪だと考える人にとって虐殺は、裁判官が殺人犯を死刑にするのと同じで正義だ。だから全体主義は絶対的な「悪」を設定することで、国民に「悪」を滅ぼさなければならないという「使命感」を植え付ける。それによって人間から「考える」という行為を奪い、殺戮に走らせる。
そして自身もユダヤ人であるアーレントは、イスラエル政府に対しても批判的な意見を述べている。大戦中の反動で、「ユダヤ人は誰も悪くない。悪いのは全てドイツ人だ」というイスラエル社会での極端なナショナリズムや排他主義は、結局ナチスの反ユダヤ主義と同じ構造だと批判した。このことは今、イスラエルがパレスチナ人に対して、罪悪感など感じることなく”使命感に燃えて” ナチスと同じような「皆殺し」をやっていることを予見していたかのようだ。
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