2025年12月4日木曜日

生成 AI の著作権侵害問題

 Generation AI

「生成」という言葉から、「生成 AI 」は無から有を生み出すかのように錯覚をしがちだ。だから AI は人間にはできないことをやるんじゃないかという期待や懸念を持たれる。しかし実際には AI は、赤ん坊が大人から学んで賢くなっていくことに例えられるように、人間から学習したこと以上のことをできるわけではない。

そのことがわかるのが、最近欧米で起きている生成 AI による著作権侵害の訴訟だ。例えばドイツで AI が、いくつかの音楽をデータマイニングして自分のオリジナルであるかのようにしてチャットGPT に使った。それが著作権侵害に当たるとして Open AI の会社が訴えられ、敗訴した。(こちらを参照 ↓)

https://gai.workstyle-evolution.co.jp/2025/11/27/german-court-openai-copyright-violation-ai-memorization-landmark-ruling-impact/


この生成AI 訴訟の流れはアメリカなど世界的に広がっている。そしてついに日本にも波及してきた。最近の報道で、新聞の記事データを無断で収集し、AI 検索に利用したのは著作権侵害だとして、日本の新聞社が「パープレキシティ」というアメリカの IT 企業を提訴したという。要するに、AI は自分で独自のコンテンツを生み出す「生成」ができるわけではなく、パクリをしているだけだということがやっと気付かれ始めたということだろう。


2025年12月3日水曜日

健康長寿の秘訣

Long and healthy life

少し前のことだが「敬老の日」のあるTV 番組で、100 歳を超える長寿のおばあさんへのインタビューをやっていた。そのおばあさんは 顔の色つやがよく、話しもシャキシャキしていて、とても100 歳超には見えない。「健康の秘訣は何ですか?」と聞かれて「朝起きるとまず日本酒を飲むの。昼と夜も必ずお酒を飲むのよ。」と答えていた。思わず「えらい!」と拍手したくなった。

医者は高齢者に対して、あれを食べろ、これは食べるな、とナントカの一つ覚えのように決まり文句を言う。ましてや一日中酒を飲むなんてとんでもないと叱られる。しかし分かっている医者(数少ないが)は逆のことを言う。どうせもう先が短いのだから節制や我慢などせずに、好きなものだけを食べて、嫌いなものは食べないのが一番だと言う。まさにこのおばあさんはそのとうりをやっている。


2025年12月2日火曜日

「読書」が認知症予防に最も効果がある

 Dementia & Reading

最近の研究によれば、「本を読む」ことが認知症の予防にもっとも効果的だという。ある研究グループの調査では、読書習慣の無い高齢者は、いつも本を読んでいる人に比べて、認知症の発症率が 2.5 倍も高いことがわかったという。

その研究によれば読書は、情報処理、理解、記憶、想像力、分析などの認知プロセスを担当する脳の領域を同時に使う。それによって脳細胞が刺激されて、脳の回路が強化される。認知症は、脳細胞が死滅することによって、認知機能が低下する病気だが、読書によって脳細胞が死滅するのを防ぎ、細胞を活性化し続ける効果があるというのだ。

なお、読書はしなくても、スマホを使っていれば読書と同じではないかというのは間違いだという。スマホは、簡単にひと通りの情報を読めば分かったつもりになれるお手軽な道具だから、読書のように能動的に頭を働かせる必要がない。だからスマホ依存でいると、思考力や理解力などの認知機能が低下し、かえって認知症を促進するという。


2025年12月1日月曜日

映画「ニーチェの馬」」

 「The Turin Horse」

このあいだ、タル・ベーラ監督の「サタンタンゴ」について書いたが、同監督のもうひとつの映画「ニーチェの馬」も 2012 年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した名作だ。そして両方とも原作が、今年のノーベル文学賞を受賞したクラスナホルカイ・ラースローの小説による。


映画は、荒野の中の一軒家に住む父と娘の二人だけしか登場しない。二人の6日間の生活を淡々と撮っているだけ。毎日、空はどんより曇り、吹き荒れる猛吹雪で、土ほこりが舞い上がる、という陰鬱な情景に終始する。会話はまったくなく、常に強風の吹き荒れる音だけが聞こえている。
  • 父親は、土ほこりの中、馬車で作業をしている。

  • 娘は毎日、強風の中を井戸へ水を汲みに行く。

  • 娘は吹き荒れる外の景色を一日中ただ茫然と眺めている。

  • 朝晩ふたりは、沈黙したままジャガイモ一個だけの食事をとる。

  • やがてなぜか馬が餌を食べなくなって衰弱してしまう。

  • 二人は家を出て、街に引っ越そうとするが馬車なしでは無理だった。

           食欲を失った父は一個のじゃがいもも食べなくなる。

そしてついに油がなくなり、ランプが消えてしまう。光のない暗闇のままで映画は終わる・・


この映画の邦題は「ニーチェの馬」だが、原題は「The Turin Horse」つまり「トリノの馬」だ。ニーチェがトリノの街を歩いていた時、馬が虐待されているのを見て、涙を流してそのまま発狂してしまったという史実に由来している。ニーチェは、現代の人間は生きていく目的を持てず、苦しみだけが降りかかり、神の救いもないという虚無の哲学(ニヒリズム)を唱えた。

この映画でも、馬がたびたび出てくるが、それによって二ーチェの思想を暗示させているようだ。なんのために生きているのか目的を持てないまま、ただ生きているだけの二人に苦しみだけが降りかかる。そして絶望のまま最後まで救いはない。

2025年11月29日土曜日

「北は山、南は湖、西は道、東は山」

 Krasznahorkai László 

前々回書いたが、今年のノーベル文学賞を受賞したハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースローはタル・ベーラ監督の映画「サタンタンゴ」や「ニーチェの馬」の原作者だ。この人は京都に半年間滞在したことがあり、建築や庭園などを中心に日本の文化と歴史を深く研究した。その時の経験をもとにして書いた小説「北は山、南は湖、西は道、東は山」がいま話題になっている。

この長い題名は京都の街を指している。作者の作品で邦訳されているのはこれ一冊なので、読みたいと思ったが、すでに絶版になっていて、値段が6万円のプレミア価格がついている。あきらめて図書館で借りようと思ったら、貸し出し予約者がすでに 260 人もいる順番待ちで、これでは順番が来るのは1年先になってしまう。

それでとりあえず、この小説の翻訳者が書評を書いているのを読んでみた。それによるとこんな感じらしい。

・・「源氏の孫君」なる人物が千年の時空を超えて京阪電車に乗って京都の街に現れる。「完璧な美を体現した庭園」を探して亡霊のように京都を彷徨するが、そんな庭園は決して見つかることはない。どこも不吉な破壊の痕跡が残されている。そこには自然や文化を破壊する人間の姿が見え隠れしている。・・

これを読むと「サタンタンゴ」や「ニーチェの馬」に共通する、作者の終末論思想がこの小説にも現れているように感じる。終末論とは、神の怒りによって大惨事が起きて、人間は絶滅し、この世は終わるという思想だが、現代における大惨事とは、核戦争や、パンデミックや、環境破壊や、気候変動などがそれに当たると解釈されている。この小説は、京都の自然や文化が近代化によって破壊されていることを題材にした終末論的な作品のようだ。


2025年11月27日木曜日

映画「HOKUSAI」と 名作「神奈川沖裏波」

HOKUSAI & BIGWAVE
 
「HOKUSAI」は5年くらい前の公開時に見たが、いま NETFLIX で配信していたのでもう一度見てみた。売れない貧乏絵師だった若い頃から、浮世絵の大スターになるまでの北斎の生涯を描いている。ちょうど今 NHK の大河ドラマ「べらぼう」をやっているが、その主人公の蔦谷重三郎が北斎を売り出すプロデューサー役としてこの映画でも登場する。今見ると、最初に見たときには気づかなかったことにいろいろ気付かされる。

北斎があちこち歩き回っては風景スケッチをしていた若い頃、たまたま海岸で見た波に魅せられ、夢中で砂浜に波の絵を描く。家に帰ってその印象をスケッチし、蔦谷に見せると、こんな絵は初めてだと気に入られ、浮世絵にするようにすすめられる。そしてほぼスケッチどおりに波を使って浮世絵として完成させる。

この絵の波は、観光客が海を眺めている光景に添えられているだけで、いかにもの浮世絵だった。そして壮年期になって描いたのが下の絵で、波そのものを中心にして、その迫力に迫ろうとしている。しかしこれは写実ではなく、北斎の頭の中で作った絵だろう。


そのことがわかるエピソードが映画に出てくる。小説本の作家と組んで北斎がその挿絵を描いている。その絵を作家に見せると、こんな風景どこで描いたんだと作家は怒る。絵の迫力に驚き、これでは自分の文章が負けてしまうと心配したのだ。すると北斎は「この絵はあんたの文章を読んで頭に浮かんだことをその通りに描いただけだ」と言い返す。

そして老年期になってついに名作「神奈川沖裏波」を描く。長い間波を描いてきた研究の集大成だった。上の絵ではへたをすると岩のかたまりのように見えてしまう波が、ここでは激しい動きが表現され、躍動感に満ちている。この絵が売り出されると、蔦谷の店には買い求める人たちの行列ができるほど大ヒットする。


さらに晩年になって描いた波の絵が映画のラストで登場する。大きなサイズのしかも2枚ペアの絵だ。こんな絵は見たこともないから、おそらく映画の創作だろう。飛び散る波のしぶきだけを大きく描いている。北斎の波の絵の究極の到達点のようだ。


映画で、北斎が若い頃のエピソードとして面白いシーンが出てくる。北斎の将来性を見込んだ蔦谷が世界地図を見せて、日本はこんな世界の片隅の国だから、もっと世界を知るために、西洋の絵画を勉強するようにとすすめる。実際、研究熱心だった北斎は西洋絵画を勉強したといわれている。その成果を象徴させるために映画は、浮世絵の感覚とはかけ離れたこの絵を登場させたのだろう。

2025年11月25日火曜日

タル・ベーラ監督の映画「サタンタンゴ」

「Satantango」
今年のノーベル文学賞受賞者は、ハンガリーのクラスナホスカイ・ラースローという人だった。まったく知らなかった人だが、経歴をみて驚いた。同じくハンガリー人のタル・ベーラ監督の「サタンタンゴ」の原作を書いた人だった。

タル・ベーラ監督の映画は好きで、「ニーチェの馬」など見てきたが「サタンタンゴ」はまだ見ていなかった。ミニシアターでたまに上映されることがあるが、7時間という長尺のこの映画を、映画館で見続けるだけの体力に自信がなかったからだ。今度原作者がノーベル賞受賞ということで、DVD で観ることに決めて購入した。DVD は3枚組みで、見終わるのにまる一日かかる。

他のタル・ベーラ作品と同じく、この映画も白黒で撮られている。陰鬱で暗い映像に終始する。それは監督の終末論的な黙示録思想によるもので、この映画も最後まで救いのない「絶望」の物語だ。

専制独裁政治体制のもと、村の集団農場は破綻して荒廃している。農民たちは貧しく、路頭に迷う絶望的な生活をしている。人々は救世主が現れることを願っているが、そこにかつて反体制派のリーダーだった若い男が帰ってくる。その若者が悲惨な現状を打開してくれるだろうと期待を抱く。しかし今では彼は当局の回し者になっていた。人々は裏切られ、村は崩壊する・・・

タル・ベーラ監督自身が、「映画で肝心なのは物語よりも、空間や時間の組み立てそれ自体にある」と語っているとおり、映像で物語る映画だ。たとえば救世主と思われていた若者が村に帰ってくるシーンで、無数の紙片が風に舞っている。若者とその相棒の二人の後ろ姿を約2分間も長回しで追い続ける。この紙片は役所の書類で、若者が取り込まれた官僚主義を暗示しているといわれる有名なシーンだ。


2025年11月23日日曜日

ディズニーアニメ「魔法使いの弟子」とAI

 The Sorcerer's Apprentice

ディズニーアニメの「魔法使いの弟子」は 80年も昔の作品とは思えないほどクオリティが高く、面白い。ストーリーはこんな感じ。

魔法使いの弟子のミッキーが、師匠が出かける間に井戸の水汲みをやっておくように言いつけられる。ところが怠け者のミッキーは楽をしようとして、師匠から教わった呪文を箒にかけて水汲みをやらせる。すると箒はひたすら水を運び続ける。家が水浸しになりそうになって慌てたミッキーは斧で箒をズタズタに切ってしまう。するとそれらの破片はすぐに普通の箒に戻ってしまい、たくさんの箒がますます大量の水を運び続ける。家中が洪水になった時、師匠が帰って来る。ミッキーは泣きついて助けを求める。すると師匠は箒の呪文を解いて洪水を止める・・・

アニメの動画(約10 分)→ https://www.youtube.com/watch?v=dmUOdvieT9E

このアニメのポイントは、ミッキーが人間の能力を超える強力な「水汲み箒」を生み出してしまったが、それを制御できず、止めることもできないということだ。このアニメについて、歴史学者・哲学者のユヴァル・ノア・ハラリが「NEXUS 情報の人類史」の中で、以下のような指摘をしている。

このアニメには原作があって、それは 18 世紀にゲーテが書いた詩だという。その時代は産業革命の頃であり、蒸気機関という人間の力を超える強大な力を持つ機械が発達し、やがて人間の制御がきかないくらい巨大化していった。ゲーテはそういう近代化の危険性を「水汲み箒」に託して、詩を作ったというのだ。

そして 18 世紀の蒸気機関にあたるのが 、21 世紀の今では「AI」 だとハラリは言う。「AI」は「人工知能」というとおり人間が生み出したものでありがら、人間自身が制御できないくらい強大な力を持ち始めて、人間を脅かすものになりつつある、と警告している。ちょうどミッキーが自分が生み出した「水汲み箒」を止められなかったのと同じように。


2025年11月21日金曜日

遠近法の消失点は一つ という都市伝説

Vanishing Point in Perspective 

小さなテーブルを窓ぎわに置いて写真を撮った。左はテーブルを窓と平行に置いた。右はテーブルを窓と角度をつけて斜めに置いた。左では、窓の消失点とテーブルの消失点(VP)は当然ながら一致する。右の場合では、窓の消失点(VP 1)とテーブルの消失点(VP 2)は別々の位置にできる。これも当然。



こんなあたり前のことをわざわざ示したのは、遠近法の消失点は常に一点に集まらなければならないと信じている人が多いからだ。消失点が一点に集まるのは、あくまでも上の左図のよう平行なものどうしの場合だけだ。

「リアリズム絵画入門」という本で、著者(野田弘志)はフェルメールの「牛乳を注ぐ女」の遠近法はおかしいと言っている。その理由として、右図のように、窓の消失点とテーブルの消失点が一致していないことをあげている。(著者は写実絵画の第一人者)

そして著者はこのような図を示している。フェルメールの原画ではテーブルは赤色の形をしているが、これでは消失点が窓の消失点と一致していないから、一致させるにはテーブルの形は、白線の四角のようでなければならないとしている。

しかしフェルメールがそんな間違いをするはずがないからというので、あれこれ辻褄を合わせをしてひねり出したのが、このテーブルは長方形ではなく変形した「奇妙な形をしたテーブル」だとという結論だ。いついかなる場合も消失点は一つである、という大前提に立つているから、そんな不自然な解釈にならざるを得ない。

種明かしをすると実は、このテーブルは斜めに置かれていて、窓と平行ではない。その根拠の一つはテーブルの向こう側の辺が手前の辺より壁から離れていること。もう一つは女性が半身(はんみ)で描かれていること。それを平面図にすると右図のようになる、そうだとすれば、冒頭にあげた図のように、窓とテーブルの消失点が別々のところへできるのは当然だ。同書の著者はそのことに気づいていない。

この平面図に基づいて、透視図の作図をすると下図のようになる。窓の消失点とテーブルの消失点(画面のはるか外にある)が同一のアイレベルの水平線上にピタリと乗っている。フェルメールの遠近法が驚異的に正確であることがわかる。


2025年11月20日木曜日

静物画の巨匠シャルダンの質感表現

 Chardin

シャルダンの質感表現の見事さは静物画のお手本になる。シャルダンは、わざと質感が対照的なモチーフどうしを並べて、自分の表現力を自慢しているかのようだ。質感は、材質ごとの光の反射率によって表現できる。金属やガラスのようにツルツルしたものは強いハイライトを拾うし、木や布のようにマットなものは明暗のコントラストが弱い。その比較をしてみる。


「銀」のカップと「ホウロウ」のボウル。同じ金属どうしだが、銀のカップは反射率が高いので周囲の影響を受けやすい。だから暗い室内を反射して全体的に暗く、手前にある果物が鏡面反射している。そして直射光の当たったところだけに鋭いハイライトを生む。一方ボウルの方は反射率が低いので明暗のコントラストが弱い。


陶器の水差しとガラスのコップ。どちらも表面が平滑で硬質な物質だが、水差しは光を反射して全体的に明るい。ガラスのコップは光が透過して暗く、ハイライトだけが光る。


布とパン。ともに反射率が低いので明暗のコントラストが弱い。そばにある陶器や金属のナイフやガラスのコップと並べることで、パンと布の柔らかい質感が強調されている。


「もも」と「ぶどう」。ももは表面にうぶ毛のようなものがあり、柔らかい質感で、光を全く反射しない。それに対してぶどうは、皮がツルツルしているから一粒ごとにハイライトを拾う。

2025年11月18日火曜日

ユトリロとモネの 「光と影」

 Maurice Utrillo

日本で人気のユトリロは集客力があるから、地元のデパート(横浜高島屋)のギャラリーは、「ユトリロ展」をよくやる。前回はたしか2年前に「生誕140 年モーリス・ユトリロ展」をやっていた。一応見に行ったが、個人的にはユトリロは好きでない。描いているパリの街並みは、生き生きした感じががなく、せっかくのパリが死んだ街のようだ。

その最大の理由は「光」がないことだ。「光」を描くには「影」が必要になる。ユトリロの絵は「光と影」がまったくない。家の壁も道路もどこもかしこも単調な白色で塗っている。


このことは、同じくパリの街を描いたモネと比べてみるとよくわかる。光と影が美しい。だから街並みが生き生きしている。

モネ「オンフルールのバヴール街」

2025年11月16日日曜日

上から見下ろす3点透視の絵画

Perspective Looking Down  

先日、上を見上げる3点透視の絵について書いたが、今回は上から見下ろす3点透視の絵画について。名作絵画でこのような作品はないか、あれこれ画集などを探したが、なかなか見つからない。例えばモネの有名な「モントルグイユ通り」で、パリの通りを見下ろしてはいるが、1点透視で、3点透視になっていない。

その理由は、この絵の建物は6階建くらいだが、アイレベルからして、モネは3階あたりから見ていることがわかる。だから3点透視では描けない。3点透視で描くには、建物の上から見下ろさなければならない。ドローンなどなかった印象派の時代にそれは無理だ。


上から見下ろす3点透視のビューは、映画ではよくある。ヒッチコックの有名な「めまい」は高所恐怖症の男が主人公で、高いところから見下ろすシーンが出てきた。カメラワークのうまさで、映画を見ている人は主人公と同じ恐怖心を感じさせられた。



遠近法の教本で、見下ろす3点透視の説明をした図があった。まさに「めまい」のシーンどうりだ。この図で、真下に見える交差点が実際どおりに直角に交差していて、ビルの屋上のコーナーも直角になっていることに注目といっている。(図は「Perspective Made Easy」より)

このような絵画の実例を探したが、結局「見上げる」の時に紹介したチャールズ・シーラーの作品ひとつしか見当たらなかった。まわりをビルに囲まれた空間を見下ろしている。ただし色面構成的な美しい絵なので、めまいを起こすようなリアルさはない。




2025年11月14日金曜日

『大阪・道頓堀の「グリコ」広告はなぜ巨大?』

Advertising in Osaka

大阪へ行くと驚くのがあの「グリコ」の巨大広告だ。ビルの壁面全体を覆っている。周囲のビルも無数の広告でびっしり埋め尽くされている。見ていて汚ならしいことおびただしい。

現在どの都市も街並みの美しさを保つために、「景観デザイン」を重視している。なかでも重要なのが「広告」で、大きさや位置などに規制をかけている。なぜ大阪だけがこのような広告が許されているのか不思議だった。

そうしたら先日の新聞(日経新聞電子版、11 / 10)に、『大阪・道頓堀の「グリコ」広告はなぜ巨大?』という驚きの記事が出ていた。大阪市が独自に広告規制を緩和して、壁面8割まで OK にしたというのだ。行政当局自らが汚い街づくりを推進しているのだから驚きだ。

そういえば今年の夏、道頓堀のビル火災があったが、この巨大広告がハシゴ車の消火活動の邪魔をして、延焼を加速させたという報道があった。巨大広告は「景観」だけの問題ではない。

大阪では、他にもいたるところに醜悪な巨大広告であふれているが、それを面白がる大阪独特の文化が背景にある、と記事は指摘している。江戸時代以来の大阪商人の伝統で、「目立ってなんぼや!」が大事で、公共の意識が薄いというのだ。


2025年11月12日水曜日

チャールズ・シーラーの絵画と3点透視

 Charles Sheeler  

3点透視の遠近法で描いた絵画を探してもまったく見つからない。唯一あるのがチャールズ・シーラーで、1940 年代まで活躍したアメリカの画家で、近代的な高層ビルをモチーフにして描いた。ほとんどが3点透視で描かれている。単純化した透明色を重ねた色面構成のような絵で、なかなか魅力的だ。


左の絵は、上方向への収束度が強いので、近距離から見上げるように描いている。右の絵は収束度が弱いので、やや離れた距離から見ている。


3点透視の遠近法の原理は下図のようになる。ビルを近距離A から描くと左図のようになり、遠距離C から描くと右図のようになる。収束(convergence)の強さの違いだ。
(図は「How to Use Creative Perspective 」より)



なお参考までに、同じチャールズ・シーラーで、3点透視になっていない絵もある。垂直方向の線が完全に垂直で、2点透視だ。かなり遠くからの遠景で高層ビルを描いているためだ。


2025年11月10日月曜日

水彩画の始祖 トーマス・ガーティン

Thomas Girtin

水彩画発祥の地はイギリスだが、その始祖は、ターナーとガーティンの2人だった。ターナーは有名だが、ガーティンのほうは若くして死んでしまったためかあまり有名でない。


これは、ガーティンの4大作品のひとつ「河岸の眺望」だが素晴らしい絵だ。(画像は「英国の水彩画」より。ネットでカラー画像を探したが、見つからなかった)イギリスの平和で静かな田園風景を詩情豊かに描いている。

この特徴は、広々とした空間の広大さだ。やや高いところに視点を置くことで、遠くの地平線まで見渡すことができる。前景から地平線までの空間を川や草原などの水平線要素で構成している。そしてむこうの山のふもとあたりでから立ちのぼる白い煙が垂直線要素になっている。この組み合わせが空間の広がりを強調している。

色彩的にも、水彩の特徴である透明性を活かした「重色塗り」の技法を始めたのもガーティンだった。十分に水で溶いた薄い絵の具で描き、その上にさらに別の色、または濃度を強めた同系色を重ねる。それによって絵に深みと落ち着きをあたえる。

この伝統が現在でもイギリスの水彩画に受け継がれている。前回書いたトレバー・チェンバレンなどのウェット・イン・ウェットの技法などもそのひとつだ。


2025年11月8日土曜日

「ウェット・イン・ウェット」で空気感を表現する。

Wet in Wet in Watercolor

水彩画は「空気感」を描くための画材といっていいほどだ。「空気感」の表現は、油絵やパステルでは難しい。それをできるのが水彩画の最大の魅力だ。

水彩画が「空気感」を表現できるのは「ウェット・イン・ウェット」という水彩画独特の技法のおかげだ。あらかじめ紙を水で濡らした上に描いたり、下地の色が濡れているうちに上に描いたりする。すると当然、ものの形はぼんやりするが物を取り巻く空気感が現れてくる。

水彩画の本場イギリスでは、アマチュア向けの水彩画教本でも、最初から最後まで「空気感」のための「ウェット・イン・ウェット」を徹底して教えている。イギリスのトレバー・チェンバレンは、世界一の水彩画家だが、「ウェット・イン・ウェット」による魅力的な絵を描いている。(画像は「Light and Atomospher in Watecolor」by Trevot Chamberlain より)



蛇足だが、自分でも「ウェット・イン・ウェット」をやりたいと何度もチャレンジしたが、難しい。それで、水彩画をやることをあきらめた。