2014年12月7日日曜日

「ホイッスラー展」を見ました


「ホイッスラー展」を見ました。
(横浜美術館、2014 . 12/6 〜 2015 . 3/1)
  展覧会公式サイト: http://www.jm-whistler.jp/


彼の時代は、19世紀なので、まだ絵画が物語やメッセージを伝えるためのメディアだった頃です。それに対して、ホイッスラーは、絵から「ストーリー性」をなくし、「形」と「色」で画面を「構成」することで、純粋に視覚に訴える絵画に挑戦しました。そのため、空間に奥行きのない平面的な「グラフィック的」な絵になっていくのです。彼のめざしたこのような方向性は、日本の浮世絵と合い通じていたため、そこからおおきな影響を受けるわけです。

残念ながら今回の展覧会には来ていませんでしたが、一番の代表作「灰色と黒のアレンジメントNo.1:画家の母」は、彼の特徴がもっともよく表れている作品だと思います。絵をもとに、イラストレーターでこの構図を描いてみました。人物を除いた背景が、このようにいろいろな大きさの長方形の組み合わせで「構成」されていることが分かります。色についても、題名から分かるように、写実の色ではなく、あくまでも「色彩構成」をするための色です。これらは20世紀の抽象絵画の元祖モンドリアンと同じことをすでに始めていたということになります。


2014年11月28日金曜日

ギャラリー閑人の「炎上展」

ギャラリー閑人の企画展、第2弾は「炎上展」です。火災 • 噴火 • 戦争などで燃えている絵を集めてみました。怖いもの見たさのやじうまのように、思わず見入ってしまいます。



死んだ都市の悪夢を描き続けたモンス • デジデリオ。建物が炎上して、人々が逃げまどっています。戦争で都市が崩壊していく、恐ろしい光景です。
モンス • デジデリオ「トロイアの炎上」17世紀

「廃墟の画家」のユベール • ロベール。火災の鎮火直後で、まだ火がくすぶっています。建物の屋根が完全に抜けて、新たな廃墟が生まれた瞬間を報道写真のよう描いています。
ユベール • ロベール「パレロワイヤルのオペラ座の炎上」1781年

ライト • オブ •ダービーには火山の噴火シリーズや花火シリーズなどの作品があるが、これはローマのサンタンジェロ城の花火を強いコントラストで壮大に描いたもの。
ジョセフ • ライト • オブ •ダービーサンタンジェロ城の花火」1771年


靄や夕日など自然の空気感を描いたターナーなので、この火災の絵も、どちらかというと炎を美しい風景として描いているように見えます。
ターナー「国会議事堂の炎上」1835年

神の怒りで天変地異が起こる「この世の終わり」の怖い絵ばかりを描いたジョン • マーチン。噴火で、巨大岩石と溶岩が街を襲い、画面右に建物が崩れていく姿が見えます。

ジョン • マーチン「神々の大いなる怒りの日」1852年


現代作家のベクシンスキーは死と終焉をテーマに不気味な絵を専門に描きました。塔の頂上から炎が吹き上がっていて、手前には燃えかけた紙が舞っています。

ベクシンスキー 20世紀




2014年11月20日木曜日

「ザハ • ハディド」展を観る


「ザハ • ハディド」展(東京オペラシティー  アートギャラリー、10/18〜12/23)


「ザハ • ハディド」展を観ました。とても面白くて、刺激的です。展示されているおびただしい数のドローイングや模型から、この建築家の思考プロセスがよく伝わってきます。ドローイングは普通の建築ドローイングではなく、ほとんど抽象絵画と言えるものです。形態スタディーモデルの模型も、抽象造形作品に見えます。綿密なリサーチと技術的裏付けに基づいて工学的に設計されることが多い一般的な建築デザインのアプローチからすると、このような方法は異端なのかもしれません。しかし、建築、彫刻、絵画が渾然一体となって躍動的に発想していくプロセスは驚きです。

小説家の平野啓一郎氏がこの展への批評のなかで、こう言っています。「芸術の基準は『美』と『崇高』の価値観だったが、20世紀後半以降は、『カッコいい』という異質の
価値観を導入する必要があると思う。本展を見て、人が思わず口にするのは、その『カッコいい』というため息であり、新国立競技場の修正案に幻滅するのは、醜いからではなく、『カッコ悪い』からである。」 (日経新聞、11/13)

新国立競技場のデザインに対して建築界から猛烈な反対論がわき上がり、その結果、日本人建築家による修正案に決まりそうです。平野氏の言う「カッコいい」とは「感じる」価値であって、合理性だけでは計れないものなのだと思います。そのために彼女のデザインはこれまでたくさん「ボツ」にされてきたのでしょう。オリジナルとは似て非なるものに修正されてしまった新国立競技場もそのケースのひとつだと思います。

本展で見せているものではないですが、コンペの表彰式でのザハ • ハディド本人によるプレゼン映像があります。オリジナルデザインのコンセプトがよく分かるのでご覧下さい。


2014年11月14日金曜日

ギャラリー閑人の「難破船展」

たくさんの画家たちが難破船を描いてきました。難破船は、人間の悲劇や死のイメージにつながりやすいため、自身の世界観を投影するためのかっこうのモチーフだったようです。個人的な好みを基準に選んだ5作品を展示します。


 18世紀のフランスで、人気画家だったジョセフ • ヴェルネの作。嵐 • 荒れ狂う海 • 難破船というドラマチックな題材は、壮大な自然を表現するものとして好まれたそうです。
ヴェルネ「嵐の海の難破船」1772年


19世紀ドイツのフリードリッヒの絵で、氷に押しつぶされた難破船が右のほうに小さく描かれている。巨大な氷という、人間が対抗できない自然の力の過酷さを描いています。
フリードリッヒ「氷海」1823年


ご存知ターナー。怒濤渦巻く吹雪の海に船が飲み込まれようとしています。激しくうねる空と海の不気味な表現が、自然の力に対する不安と恐怖のイメージを呼び起こします。
ターナー「吹雪」1842年

現代作家のベクシンスキーの作。不気味な姿で、なぜか宙に浮いている船は墓石か棺桶のようです。彼は、死と絶望の世界をミステリアスに描いた作家です。

ベクシンスキー

残骸だけが残った難破船は現代作家クレリチの作。核戦争で滅びて人が消えた都市のような、世界の終わりの光景です。日本人は、あの大津波を連想するかもしれません。
クレリチ「太陽の舟」1976年

2014年11月2日日曜日

ワッツ • タワー

「カラーズ、消えた天使の街」という「警察もの」の B 級映画を観ていたら、ワッツ • タワーが登場していたので、この塔を見に行ったときのことを思い出した。「ワッツ • タワー」はロサンジェルスの「ワッツ」というロスでも治安が最悪の地区にある建築物だが、映画は、その地域に巣くうギャングやチンピラたちと警察との闘いの物語だ。

かつて、ワッツ • タワーを見に行くと言ったら、忠告された。車から絶対に外へ出ないこと、運転中も車の窓は閉めてドアは内側からロックをしておくようように、でないと信号待ちのときなにが起るか分からないからと。で、着いても車を止めることもなく、横目で見ながら通り過ぎるだけだった。映画でもこのあたりのそんな危ない雰囲気がたっぷり描かれている。


「ワッツ • タワー」はこの地区に住んでいたサイモン • ロディアという無名の建設労働者が自宅の庭に一人でこつこつと 30 年以上かけて作った塔で、重機や足場など使わず、もちろん設計図面もなく、すべて手作りで完成させた。これを見ると誰でもガウディの「サグラダ • ファミリア」を連想すると思う。形も似ているが、ミクロのディテールをひとつひとつ積み上げていって最終的に巨大なものを作りあげるという、ちょっと気ちがいじみた執念を感じさせる点でも共通性がある。出来立てのころは、価値の分からなかった市当局が撤去しようとしたこともあったそうだが、建築家などの反対で、取り壊しは止めになり、現在は国定歴史建造物に指定されている。映画ではカーチェイスの車が激突して粉々に砕けてしまうが、もちろんこれは CG 映像で、本物は健在だ。

制作中の様子を記録した約 60 年前の貴重な映像

2014年10月31日金曜日

チンパンジーと人間の子どもの描画の比較

数日前(10/28)のテレビ • 新聞で京都大学の研究が報道されていた。チンパンジーと人間の子供にお絵描きをさせて、その違いを調べるというもの。目鼻口のパーツを除いた顔の輪郭だけを描いた絵を見せて、両者がどう反応するかを比較する。人間の子供は目鼻口の足らない部分を付け加えたのに対して、チンパンジーは顔の輪郭をなぞるような線を描いただけで、不足のパーツを補うことはできなかった。人間にはこのような「現実に目の前にない見えないものを想像力で描く」というすばらしい能力があるということだ。


人間の子供がどのような絵を描くかは子供の言語能力の発達と密接な関係があるとこの研究者たちは言っている。実際、実験した子供たちは「この顔、おめめがないね」などと言いながら描いていたという。人間の子供でも1才くらいの言葉をしゃべれない幼児はチンパンジーと同じく意味の無い線をなぐり書きするだけだったという。言語能力を身につけると、「概念」でものを考えることができるようになる。「顔とはこういうものだ」とい
う概念を持つことができれば、不足している部分も気がつくことができるわけだ。

研究メンバーの一人、斎藤亜矢さんがこの研究について本を書いているというので、さっそく図書館で借りて読んでみた。「ヒトはなぜ絵を描くのか」というとても興味深い本だ。この中につぎのような面白い例が紹介されている。右の絵は、なにかの障害で言語能力の発達が遅れたアメリカ人の6才の子供が、絵本かなにかで見たことのある馬と人間を記憶で描いた絵だが、写実力がすごくてびっくりする。その子が9才になるころに訓練で言語能力が普通になったときに描いたのが左の絵で、一般の子供が描く普通の絵になってしまっている。

このことから著者は、子供の絵には、感覚的な絵と記号的な絵の2種類があると言っている。概念が身についていないときには、見たとうりのイメージで感覚的に描く。だが、言語収得によって顔とはこういうものという概念が身についた子供は顔をその概念どうりの「記号」として描く。だから個別の人間の特徴は弱くなり、だれの顔を描いても同じようになってしまう。上の例で9才の絵に写実性がなくなってしまったのはそのせいだ。

チンパンジーにはできない、概念で描けるという人間のすばらしい能力は一方で、子供の絵を画一的でつまらいものにしてしまう面があるということだ。このことから、ものの形を見いだすには記号的な見方は必要だが、個々の特徴を描くには概念(常識といってもいいだろう)を押さえて、見たものを直感的にありのままに描くこと、この二つを交互に行き来することが必要だ、と著者は言っている。実はこれ、子供以上に常識でがんじがらめになっている大人にはもっとあてはまることではないかと思う。常識から解放されて自由な感覚で描くのは大人にとって容易でない。

これを読んでいて、自分の孫たちの絵を思い浮かべてとても納得した。5才と3才の姉妹が時々遊びに来ると、お絵描きが好きな二人はいつもアトリエで喜々として絵を描く。左は妹のほうが3才のちょっと前に描いた絵で、右はそれから2〜3ヶ月後に描いたもの。子供の成長は速く、この間、彼女のボキャブラリーは急速に増えた。それとともに、母親を描いた左ののびのびした絵が、右の絵では普通に子供が描いた絵になってしまって、いささかがっかりさせられた。明らかに彼女の頭のなかに、服装 • 髪型などについて、女性とはこういうものだという概念ができあがり、それに従って記号的に描いている。


では成長してしまうと記号的にしか描けなくなってしまうのかというと、そうでもないようだ。これは姉のほうが描いた絵だが、かなりいいと思う。イタリアで買ったワインのデカンタがたまたまそばにあって、それを見ながら描いたもの。紫の着色ガラスとそこに金で描かれた模様のキラキラと輝くようなイメージが感じられる。これはたぶんデカンタという子供のなかでは概念ができあっがていないものだったため、見たとうりを感覚的に描いたからだと思う。それで「今日は何を描こうかな」などと言ったときには「じゃあ昨日見た夢を描いてみて」といった、イメージでしか描けないお題を出してやると、とても面白い絵が出来上がる。

2014年10月28日火曜日

ノルマンディー展

現在、「ノルマンディー展」という面白い展覧会が開かれている。(新宿の損保ジャパン日本興亜美術館、9/6〜11/9)

 

この「ノルマンディー」は、第二次大戦での有名なノルマンディー上陸作戦のあったあのノルマンディーのことで、その地方の風景を題材にした絵を集めた展覧会だ。

なぜノルマンディーなのかは、こういうことらしい。約 200 年前のヨーロッパで外国旅行がブームになり、イタリアの名所旧跡をめぐったり、フランスの美しい田園地帯を訪ねたり、といった現在の観光旅行にそっくりのことが始まった。そのような観光地として人気のあった場所のひとつがノルマンディーで、「旧きフランスへの詩情にあふれた絵のように美しい風景の旅—ノルマンディー編」などという旅行ガイドブックもあったそうだ。

旅行の目的は「絵のように美しい風景」を探し求めることで、画家たちもそのような風景を描こうとして旅をした。今回の展覧会のサブタイトルが「絵になる風景をめぐる旅」となっているのはそういう意味だ。

「絵になる風景」とは、詩情にあふれたロマンチックな風景のことで、雲間からこぼれる光が作る明暗により、劇的な効果を高めたりするなど、情感をこめて風景を表現する絵が流行った。モチーフとして、海辺 • 河 • 田園などの眺望が好まれたが、ヨーロッパ各地にある中世の城や教会などの遺跡や廃墟は、とくにロマンを感じさせるモチーフとしてよく描かれた。今回の展覧会でも下のような廃墟の絵がいくつか観られる。

「ジェレミー修道院の眺め」(作者不詳、1830年頃)

旅の途中のふとした場所でいい景色を見つけてそれを絵にするというのは、今では当たり前にみんながやっているが、そのような態度で絵を描くようになったのは、比較的新しいことで、この展覧会は、その始まりから後の発展までを見せてくれる。