2024年6月28日金曜日

偽メールや個人情報などについて、いろいろ

 

毎日パソコンを立ち上げるたびに、たくさん来ている偽メールを削除するのが面倒くさい。いわゆる「フィッシング詐欺」で、インチキサイトに誘導して個人情報を盗もうとする。しかしこういうのに引っかかることは絶対に無い。文章が変で、まともに文章を書いたことのない無知な連中であることがすぐわかる。あるいは外国人が自動翻訳ソフトを使ったようなたどたどしい文章で、これも一目でわかる。

最近、フィッシング詐欺ではなく、振り込め詐欺のメールも来た。こんなのに騙される人は1人もいないだろうに、内容自体もばかばかしいが、やはり文章が滑稽なくらい下手で、本物らしさがまったくない。それにしても、ネットを使っている限り、アドレスなどの個人情報はどこからでも漏れる。


犯罪ではないが、例えば Google などの検索ソフトで本の検索をすると、間髪を入れず Amazon からそれに関連するおすすめ商品の案内が来る。AI を使ったビッグデータというやつだが、個人情報の保護もへったくれもない。

最近、飲食店でスマホで QR コードを読み込んでオーダーする方式が 全盛になっている。それは便利だが、LINE につながるので、自動的に友達登録されて、後で店のコマーシャルが来る。こういうところからも個人情報は漏れるのだろう。

某銀行から電話がかかって来た。金融商品を買わないかという勧誘だ。それで「私の名前と電話番号をどうやって知ったんですか?」と聞くと、相手はしどろもどろになってしまった。明らかに口座を作ったときの支店の個人情報をもらって営業に利用している。同じ会社内でも違った部署から個人情報を手に入れて本来と違う目的で利用するのは違法だ。

そうしたら案の定、この銀行が摘発されたという新聞記事がでた。(日経新聞、6 / 14 ) 証券取引等監視委員会が、この銀行に対して「顧客情報の無断共有」をしていたとして行政処分を行なった。自分がやられたのと同じ”被害” をたくさんの人が被っていたのだ。


2024年6月26日水曜日

映画「ニーチェの馬」

 「The Turin Horse」

ハンガリーの巨匠タル・ベーラ監督はいつものように白黒で撮っている。

荒野の中の一軒家に住む父と娘の二人だけしか登場しない。どんより曇った空、吹き荒れる猛吹雪、舞い上がる土ほこり、という陰鬱な情景に終始する。娘は暴風の中を井戸へ水を汲みに行き、手の不自由な父の着替えを手伝い、ジャガイモ一個だけの食事をする。それを毎日繰り返している。

題名は、哲学者ニーチェに由来する。ニーチェはある時、鞭で打たれる馬を見かけて、駆け寄って首を抱きしめ涙したが、気がふれてしまい、そのまま精神病院に入って一生を終えたという。

そのニーチェの「ニヒリズム」思想は「何のために生きるか」といった人生の意味や目的を問うことはもはや無意味だという思想で、道徳や宗教はもう存在意義が無くなったという意味で「神は死んだ」と言った。映画は、その思想を下敷きにしている。

井戸が何者かに荒らされ水が枯れてしまう。馬が餌を食べなくなって衰弱してしまう。家を捨てて町へ出ようとするが、馬なしのため、無理で、戻ってくる。やがて油がなくなり、ランプが消えて暗闇になってしまう。状況がどんどん「絶望的」になっていく・・・

ラストでランプの消えた暗闇のままで映画は終わる。二人に「生きることの意味」が生まれるのかどうかはわからない。


2024年6月24日月曜日

冬の北海道ドライブ

Winter drive in Tokkaido

雪の積もった冬の北海道が好きで何度もドライブをした。山道はほとんど「積雪のため通行禁止」になっているが、無視して入っていく。そんな山道を越えると、川の上流の水源にたどり着いた。人が誰もいず、しんと静まり返っている。


山道でも幹線道路は除雪してある。しかし上の方には今にも崩れ落ちてきそうな雪の塊があり、ちょっと怖い。


原野の中の道路がどこまでも一直線なのが北海道らしい。こういう雪の坂道でのブレーキは要注意だが、北海道のレンタカーはほとんどが4駆でスノータイヤを履いているからわりと安心感がある。


冬の北海道ならではの海。日本海から吹き付ける強風で、波のしぶきが上空まで舞い上がって遠くがかすんでいる。積丹半島にて。


幹線道路を走っていても脇道があれば必ず入っていく。すると絵にしたくなるような風景に出会う。


廃屋が好きで、あちこち探しながら走る。廃屋はけっこうたくさんあるが、これはベストのひとつ。雪の重みで見事に潰れている。


海べりで見かけた廃屋。漁師小屋のようだ。夕暮れ時の空はすごみがある。


海岸を走っていると廃船がたくさんある。骨だけになって、形が無くなった漁船。空の寒々しさと相まって北海道の冬の厳しさを感じさせる。


廃バスを見かけた。どういう状況でこうなったのか知らないが。


北海道は、夕日・朝日が美しい。夕日が見たければ、日本海側に泊まる。朝日が見たければ、オホーツク海側で朝になるようにスケジュールを組む。オホーツク海に面した小さな漁村の日の出。


夏は賑わう観光地も、雪に埋もれてひっそりとしている。札幌近郊の修道院。



2024年6月22日土曜日

ホキ美術館と「写実絵画」

 Realism painting

千葉市の「ホキ美術館」へは3回くらい行った。「写実主義」をうたい文句にしている。来館者のほとんどが「すごいね、まるで写真みたいだ。」と感心している。確かに「写真みたいな」テクニックに「感心」する。しかし絵としての「感動」はあまりない。

「写実」の「実」の入った字をあげてみると、「真実」「実態」「実質」「現実」など、「目に見えない隠れた本質」といったニュアンスの言葉だ。だから「写実」も、表面に見えているものを写すだけでなく、その奥にある「実」を「写」すことのはずだ。例えばレンブラントの肖像画はとても写実的だが、見えているとおりを超えて、その人の人間性までせまっている。

同館の作品で、野田弘志という画家による天皇・皇后両陛下の肖像画がある。二人に直接会ったことはなく、宮内庁の依頼で写真をもとに描いたそうだ。報道などで見る写真のとおりの姿で、お二人の人間性などは伝わってこない。

その野田弘志氏が書いた「リアリズム絵画入門」という本で、「写実絵画」とは何かについて語っている。例として「卵」を描く場合をあげている。「リアルに描くということは、見えている殻の形や明暗をそのとうりに描くだけではダメで、殻の内側にある中身を意識して、その『ズシリと重い実体』を感じさせなければならない。」としている。そして、卵の写真(左)と自作の絵(右)を比較している。絵の方は3つ並べて、絵の構成としての面白さがある。しかし卵そのものは、とくに「ズシリと重い実体」の感じはない。


2024年6月20日木曜日

旅行ガイドブック

 Michelin Green Guide

一度だけ JTB かなにかのバスツアーを利用したことがあった。目的地へ着くまでバスガイドのおねーさんが喋りまくる。昨日のテレビ番組がどうのこうのとか、唄を歌ったりとかうるさくてしょうがない。ところが、目的地に着いた時、「この場所について私はよく知りませんからガイドブックかなにかで調べてください」と言ったのにはびっくり仰天した。それ以後バスツアーは一度も利用していない。

ヨーロッパでバスツアーに乗ったことがあったが、バスガイドが喋ることはない。彼女は単なる「車掌」だ。目的地に近づいた時に、大学生のガイドが乗ってきて、その観光スポットの見どころや、背景の歴史・文化など専門的なことまで詳しい説明をする。

このような「観光」に対する考え方の違いは、日本の観光ガイドブックにも現れている。ほとんど”インスタ映え”する場所を教えるだけの内容で、観光客の方もそれに従って、みんなが同じ場所で同じ写真を撮っただけで大満足して帰る。

「ミシュラン」は、レストランの格付けガイドとして有名だが、もともとは観光ガイドブックから出発している。空港や駅に着くと、まずその土地の「ミシュラン・グリーンガイド」を買う。売店にずらっと並んでいる緑色の表紙が目立つ。バスガイドと同じように、徹底的な現地調査をもとにした、深く突っ込んだ内容で、ネットの口コミ情報などを編集しただけの「るるぶ」などとは大違いだ。

余談だが、江戸時代も旅行ブームで、ガイド付きのツアー旅行も盛んだったそうだ。そのニーズから全国各地の旅行ガイドブックが出版された。それが「〜名所図絵」だが、その中のひとつにこんな絵がのっている。ガイドが風景の説明をしているのに、そっちのけでガイドブックばかりを見ている旅行客を皮肉っている。SNS にのっている写真を見ながら、なるほどそれと同じだ風景だと満足している現代の観光客と同じなのが面白い。

江ノ電の鎌倉高校駅前の踏切をときどき通るが、必ずこんな光景が見られる。何かのアニメに登場した場所で ”聖地” になっているとかで迷惑行為が絶えない。いわゆる「オーバーツーリズム」で、「旅行業界」や「観光業界」が SNS を使って客を呼びこんでいることの弊害だが、そろそろ「観光」のあり方を見直してほしいものだ。


2024年6月18日火曜日

映画「霧の中の風景」 テオ・アンゲロプロス監督の「おとぎ話し」

「Landscape in the Mist」

12 歳の女の子と5歳の弟が家出をして旅をするロードムービー だが、よくある「心温まる」話しではない。父親がドイツにいる(本当かどうかわからない)と聞いて、二人で列車に乗って会いにいく。無賃乗車だからすぐに降ろされてしまい、あとはひたすら歩く・・・


テオ・アンゲロプロス監督は、この自作について、「これはおとぎ話しの映画だ。」と語っている。「おとぎ話し」とは「比喩的に語る、現実ばなれした空想的な話」の意味だ。だから映画は、ストーリーと直接関係のない、比喩的または象徴的なシーンがたくさん出てくる。

例えばこのシーン。ふたりが海を見ていると、突然、彫像の手が浮かんでくる。それをヘリコプターが釣り上げて回収している。ストーリーと関係のない、「おとぎ話し」的場面だ。


テオ・アンゲロプロス監督はほとんどの作品で、ギリシャの現代史を下敷きにしている。つねに他国から侵略されてきたギリシャの哀しい歴史だ。この場面も戦争中に、侵攻されたイタリアの独裁者の彫像の一部だ。登場人物たちの不幸をギリシャの歴史に重ねている。

その「不幸」なシーン。駅のホームで汽車を待っている男に声をかける。相手の目を見ながらきっぱりと「切符を買うお金を下さい。」と言う。女の子は「覚悟」を決めている。


ラストで二人は国境を越えてドイツに入る。すると丘の上に一本の木が立っている。それはやっと願いが叶う「希望」のシンボルのように二人には見える。しかしそれは霧にかすんでいて、あいまいだ。「希望」はやがて「絶望」になることを示唆して映画は終わる。


2024年6月16日日曜日

イスラエルの戦争と聖書

「The Life and Times of Jesus of Nazareth」 

イスラエルの聖典「聖書」に書いてあること。宗教学者レザー・アスランの「イエス・キリストは実在したのか」より。


聖書の「マタイによる福音書」には、イエス・キリストの言葉として、「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」とある。「剣」とは、武器または暴力を意味する。

聖書の「ヨシュア記」で、イスラエルの神がこう命じている。神の国イスラエルの栄光を復活させるためには、現存する秩序を破壊しなければならない。神の支配を樹立するためには、現存する指導者たちを完全に一掃しなければならない。神に選ばれたイスラエルの民が、奪われた土地を取り返すためには、暴力と流血を避けてはならない

聖書の「出エジプト記」では、神を「いくさ人」と呼んでいる。その神は、イスラエルの土地を占領するパレスチナ人の男と女と子供をことごとく虐殺せよと命じている。聖書の言う「隣人愛」とはあくまでもイスラエル人同士についての話で、異なる民族、文化、宗教に対しては、非寛容で暴力的だ。


2024年6月14日金曜日

公募展の内側

 


いくつかの公募展を経験してきたが、台所が苦しいところが多い。最大の問題は。展覧会の応募者数の減少と、それに伴う出品点数の減少で、そいういう落ち目の画会が取る方策としてよくやるのは・・・

 「小品部門」や「学生部門」を作り、出品数を水増しする。
 会場を埋めるために、1人で2点応募をOK にする。または義務付ける。
 外部審査員を入れず、内輪だけの審査で、応募作品すべてを入選にする。落選はない。
 できるだけ新人に賞をあげて、会につなぎとめる。
 メンバー数確保のため、参加して2~3年で会員にする。(普通は 10 年くらいかかる)

作品数や来場者数が減ると、国立新美術館などの ”格の高い” 会場から追い出されるから、必死だ。しかしこのような対策で、作品点数は維持できても、質の低下と会自体の評価ランクの低下で、ますます応募者が減るという悪循環におちいる。新陳代謝もなく切磋琢磨もない画会から人は離れていく。


2024年6月12日水曜日

屋外スケッチの体勢

 

屋外スケッチの絵でこういうのをよく見かける。鳥居が上開きの逆パースになっている。


絵から、これを描いた人の体勢が推測できる。たぶんこんな感じだろう。視線と画面が鉛直になっていない。だから画面の上のほうが下のほうよりも目からの距離が大きくなる。


この体勢で描くと、左右の柱が平行な鳥居を、上開きの逆パースに描いてしまう。視線と画面が鉛直であれば、a = b なので、平行なものは平行に描ける。しかし画面が傾いていると、a> b になるから、目から遠い a のほうは開いてしまう。屋外スケッチでもイーゼルを使うことがすすめられているが、このようなことが起きないためだ。


2024年6月7日金曜日

「日本人はどのように森を作ってきたのか」

 「The green archipelago;forestry in preindustrial Japan」 

日本列島の山々はどこも緑の森林でおおわれていて、我々はそれを当たり前だと思っている。しかしこういう国は珍しいという。例えば黄砂は、自然現象ではなく、中国内陸部の農地転換による森林減少と砂漠化が原因とされている。このように近代になって、森林が伐採され、山がはげ山になっている地域は世界中にたくさんあるという。アメリカ人のコンラッド・タットマンという歴史学者が、なぜ日本だけ「森林荒廃」が起こらなかったかを「日本人はどのように森を作ってきたのか」(原題:「緑の列島」)という本で詳細に解説している。(以下の図は同書より)

日本でも過去には、森林伐採と林地開墾が進み生態系の劣化が進む大きな危機に直面した。鎌倉時代から江戸時代初期にかけて、大きな建設事業が盛んになる。城や神社仏閣や武家屋敷や城下町建設などで木材消費量が莫大になり、木材の供給量が追いつかなくなる。そのため森林伐採が加速していく。

便利な場所で良木が少なくなり、山奥で伐リ出すようになる。川を利用してイカダで運ぶが
効率化のためにすでに角材に加工してある。それを蔓でイカダに組んでいる光景。

建物の建築を描いた鎌倉時代の絵巻。木材の使用量を抑えるために
平安時代の大規模建築に比べ、柱が細くなっている。


このような結果、18 世紀になると、山がはげ山になり始める。危機感をもった徳川幕府は森林の利用と木材の消費に対して強い規制を加えるようになるが、その効果はあまりなかった。そこで幕府は、森林を人工的に育成する「造林」政策をとるようになる。そしてスギ・ヒノキの人工造林が作られていく。

幕府は全国で造林のための技術指導を行なった。そのための図入りのマニュアルも作る。
種蒔き、蒔き付け、除草と施肥、間伐、伐採、加工、などの全作業工程が図示されている。


造林政策は、明治以降、現代にも続いてきた。日本は「収奪的林業」から「持続的林業」への転換に成功する。今でいう「SDGs」の先駆けだ。


2024年6月5日水曜日

印象派の水彩画

 Watercolor Paintings by Impressionist

「水彩画の歴史」(橋 秀文  著)は中世から現代に至るまでの水彩画の歴史を概説している。たいていの美術史が油彩画を中心に書かれているなかで、この本は勉強になる。例えば印象派の水彩画について・・・

印象派の画家たちはほとんど水彩画を描かなかったという。写生スケッチをするときも鉛筆やパステルを用いることが多かったそうだ。そのなかで、ルノワールだけは水彩スケッチを描いた。「森の小径」はハッチングのように細い線を集合させていて、水彩画特有の「にじみ」や「ぼかし」を使っていない。印象派が油絵でやっていた「筆触分割」の水彩版だろうか。樹々の光の当たった部分がオレンジで、陰の部分が紫色、といった色使いが、「ウォームライト、クールシャドウ」の典型で、いかにも印象派的だ。輝くような色感と光のきらめきがルノワールらしい。


ベルト・モリゾも水彩画の佳作を残しているが、基本的に油絵の習作だったらしい。「庭園に座る小型のパラソルをもった女」は、素早く簡潔な筆使いが、光あふれる瞬間の輝きを捉えていて、水彩画らしい清潔感にあふれている、


セザンヌは印象派の中で、もっとも水彩画を愛した画家だという。小品の静物画「緑色の壺」では、控えめな色数で、光を受けた壺の作り出す明暗を微妙な筆致で表現している。


セザンヌは、水彩画の特性である透明感を生かすことを追求した。「緑のメロンのある静物」は、全てのモチーフで透明感のあるクリスタルのような輝きがある。軽やかさと清澄さのある魅力的な絵だ。



2024年6月3日月曜日

生物多様性の日 

「 SAPIENS : A Brief History of Humankind 」

先月の5月 22 日は「国際生物多様性の日」という国連の定めた国際デーだった。

200 万年前にアフリカで生まれた人類は、全世界へ生存圏を広げていくが、その間に、人類は無数の生物を絶滅させてきた。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは「サピエンス全史」で、この問題を人類史の視点から語っている。

30 万年前に人類は「火」を使えるようになる。明るさと暖かさを手に入れただけでなく、「調理」をすることが可能になる。それまで人間が消化できなかった動植物が食べられる食料になる。

そのため人類は「腸」に使っていたエネルギーを「脳」に回せることができ、脳が進化していった。それで「言語」を使うようになり、仲間同士のコミュニケーションによって、組織的な共同作業ができるようになる。何十人もの集団作業で、野生動物の群れを狭い谷に追い込むなどといった手法で、群れ全体をまとめて殺戮できた。

人類は食料を求めて生存領域を広げていく。例えば、アザラシやマンモスといった脂の乗ったら美味しい大型哺乳類がいる北極圏へも進出する。そして発達した狩猟技術によって動物たちは犠牲になる。こうしてアフリカで生まれた人類は、ヨーロッパやアジアに広がり、やがてアメリカ大陸やオーストラリアなどへも到達する。その過程で各地の固有動物が死に絶えていった。

こうして人類が行く所どこでも大絶滅が起こり、推定では、かつて生きていた全動物種の 80 % ~ 90 % は絶滅して現在は生存していないという。人類が 200 万年も生き続けてこられたのは、人間が地球上の最も危険な生き物になったからだ。殺された動物たちは、「"生物多様性" だって? なにをいまさら」と言っているかもしれない。


2024年6月1日土曜日

『縮み』志向の日本人 「扇子」と「ウォークマン」

「The Compact Culture」 

『「縮み」志向の日本人』(李 御寧  著)は目のつけどころがユニークな日本文化論で、 40 年前に大ベストセラーになった。 

いろんなものを片っ端から「縮ませ」てしまうのが日本の特異な文化だとしている。例えば、世界のどこにでもあったウチワを、折りたためる「扇子」にしてしまう。そして単に持ち運びに便利な道具にしただけでなく、そこに絵を描いて優雅な美術品にしてしまう。

そのほかにもたくさんの例をあげている。木を小さくして室内で楽しめる「盆栽」、持ち運んでどこでも食べられる「折詰弁当」、自然の風景を模して縮小した「枯山水」、にじり口から4畳半の狭い部屋へ入るだけで俗世から離れられる「茶室」、五七五の17文字だけで広い宇宙を表す「俳句」、宮廷をミニチュア化した「雛人形」、使わない時にたためる壁「ふすま」、広い自然を一輪だけの花に凝縮する「生け花」・・・など数限りない。

西洋の美学が「大きいことは偉大だ」のような「拡がり」の文化を発達させたのと逆だ。清少納言の「枕草子」で、「なにもなにも、ちいさきことはみなうつくし」と書いているくらいに、古くから「縮み」が日本人の美意識の根底にある。その例として、石川啄木の短歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」をあげている。「東海」→「小島」→「磯」→「白砂」→「蟹」と、どんどん小さいものへズームアップしている。広い世界を最後に小さい「蟹」まで凝縮したとき、そこに感情移入して涙一滴を落とす。

そういう「空間」の縮小だけでなく、「時間」の縮小もある。北斎の「神奈川沖浪裏」は、激しく動く大波がくだけ散ろうとする一瞬をストップ・モーションで描いた「動きを縮めた美学」だとしている。確かにこういう絵画は海外にはない。

同書は、この文化が現在のハイテク技術の時代でも受け継がれているとして様々な例をあげている。トランジスタ、電卓、カメラ、ポータブルTV、VTR、などの日本が得意な小型化技術は、日本の「縮み志向」の文化と深く関連している。そのひとつ「ウォークマン」は、巨大だったオーディオ装置を手で持てるくらい小さくして、どこでも音楽を聴ける道具にしてしまった。

だが、日本人自身は、技術開発として「軽薄短小」を競っていても、このような日本文化との繋がりを意識することはあまりなかった。しかしこの著者が韓国人であるように、外国人にとってはそれが普通の見方だった。そしてこの本とちょうど同じ頃、ロンドンの V & A 美術館で、「ソニーデザイン展」が開かれた。イギリス人のキュレーションによる展覧会だが、その図録の第1ページ目にこのイラストが載っていた。浮世絵風の絵で、江戸美人がウォークマンを使っている。ウォークマンが単にテクノロジーの成果ではなく、「ウチワ」を持ち運べる「扇子」にしたように、日本の伝統文化の延長線上にあることを、このイラストによって、はっきりとうたっている。