2020年8月28日金曜日

アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ

Race Stereotype in movie

アメリカでまた警官による黒人の射殺事件が起きたが、こんな事件が絶えないのは、黒人は「無教養で粗野」のような「ステレオタイプ」な意識が原因になっている。人種差別の長い年月の間に人々に植え付けられてきた意識だが、映画がそれに大きな影響を与えてきた。


映画における黒人のステレオタイプを通してアメリカ文化を研究している富山大学教授の赤尾千波氏の「アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ」はとても参考になる。同書は黒人のステレオタイプを5つに分類している。

  「アンクル・トム」 無教養だが白人につくす善良な優等生タイプ
  「マミー」     陽気でコミカルでしっかりもののおばちゃん
  「クーン」     白人的でしゃれていてカッコいいがずる賢い
  「ムラトー」    白人と黒人の混血で美しく性的な魅力がある
  「バック」     野生的で暴力的でワルなどのリーダー的存在

この分類を見ると、このタイプはあの映画だなとそれぞれについて思い浮かぶ。例えばタランティーノ監督の「パルプ・フィクション」の黒人は二人組強盗のリーダーだが、スーツとネクタイをピシッと着こなしていてかっこいい。「正義は悪を懲らしめる」という聖書の一節を唱えてからピストルでズドンとやる。「クーン」と「バック」の混合型だ。

「アンクル・トム」型は、お抱え運転手として登場することが多い(同書)というが、「ドライビング Miss デイジー」はその典型だった。運転手の黒人は無教養だが、雇い主の老婦人につくす善良な人間だ。老婦人が認知症になって介護施設に入り、運転手でなくなってからも施設を訪ねて話し相手をする、というハートウォーミングな映画だった。

一昨年( 2 0 1 8 年)のアカデミー賞の「グリーンブック」は、黒人が車の後席でふんぞりかえっていて、雇われ運転手が白人だ。黒人は売れっ子のピアニストで、裕福でしかも教養がある。運転手の方は正反対で、粗野で無教養な白人で、手紙の書き方を黒人に教わったりする。「アンクル・トム」型の黒人ステレオタイプが白人の方に完璧に投影されていて、その逆転現象が映画の面白さになっている。


2020年8月26日水曜日

映画「アイアン・スカイ」のアメリカ大統領

 「Iron Sky」 &  The American President

アメリカ大統領選挙が近ずいてきたが、民主党の副大統領候補に黒人女性のカマラ・ハリス氏が指名された。将来、初の女性でしかも黒人の大統領が生まれるかもしれない。

映画の世界では、黒人大統領は何度も登場しているが、女性の大統領が出てくるのは「アイアン・スカイ」一本だけだ。この S F パロディ映画は、月の裏側に生き延びていたナチスの残党が地球に攻めてくるのを、女性大統領のアメリカが迎え撃つという筋書き。ところがナチスはいまだに「ハイルヒトラー」一本やりでバカっぽく、兵器も旧式で、あっさり勝負がついてしまう。

この映画はナチスを茶化すよりも、アメリカ大統領の方をパロディにするのが本当の狙いのようだ。一期目で戦争を始めた大統領は必ず再選されるというジンクスがあるから、二期目の選挙が近い大統領はナチの侵攻を大喜びする。そして彼女の方がずっとヒトラー的で、ヒトラーもどきの演説をしたり、人種差別的な発言をしたり、ナチス軍を徹底的に壊滅させたりする。選挙ポスター(右)が有名なヒトラーのポスターにそっくりなのも笑ってしまう。

人を口汚く罵る好戦的なこの女性大統領は、同じく二期目の選挙を控えているトランプ大統領とそっくりだが、これは8年も前の映画だ。


2020年8月24日月曜日

ベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」の中の魚料理

Velazquez  「Kitchen Scene with Christ in the House of Martha and Mary」

ベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」が、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展に来ている(まだ見ていないが)。これは「寓意画」なので意味を読み解く必要がある。女性が料理をしているが、後ろの壁に額に入った絵が飾られている。いわゆる「画中画」だが、これは聖書の中の一節を描いたもので、キリストがマルタとマリアの家を訪れた時に、二人の姉妹がもてなすシーンだ。この絵が重要な意味を持っている。


この画中画と同じテーマをフェルメールも描いていて、こちらの方がわかりやすいので、これで説明すると、姉のマルタは料理をしてキリストをもてなす(パンを差し出している)が、妹のマリアは何もせず、キリストの足元で話を聞いている。姉は、妹も手伝うように諭して欲しいと言うが、キリストは妹の方が正しいと言う。料理でもてなすよりも、相手に心を寄せることの方が大事だと教えている。

ベラスケスの絵で、若い女性が料理をしている後ろで老女が何か話しかけているが、指は絵の方を指している。つまり絵を教訓にして、相手を思いながら心を込めて料理をしなさいと諭しているのだろう。それで若い女性は緊張して、表情がこわばっている。

手前のテーブルに魚があり、女性が作っているのが魚料理であることが重要な点だ。ギリシャ語で、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」という言葉の頭文字をつなげると、「魚」という文字になることから、魚はキリストのアイコンとされ、古来から宗教画によく魚が登場した。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のテーブルの料理も拡大すると魚料理であることが分かるという。

林  綾野という人は、キュレータで、料理研究家という人だが、名画に描かれた食べ物を実際に料理して、レシピも紹介するというユニークな取り組みをしている。今回はベラスケスのこの絵で、描かれている食材が、魚、卵、ニンニクであることから、作っているのは、スペイン料理の「魚の素揚げとアイオリソース」だろうと推定して再現している。(「美術の窓」誌  ’ 2 0 . 9 月号)

2020年8月22日土曜日

チャールズ・シーラーの工場の絵

 Charles Sheeler

チャールズ・シーラーという人をある本で知って、画集を購入した。

1 9 2 0 年代から、1 9 4 0 年代にかけて活躍したアメリカの画家で、写真家でもあった。画集に、同じモチーフの写真と絵が並べられているが、写真の構図がすでに絵画的で、写真は絵を描くための発想の道具だったようだ。

モチーフはほとんどが工場だが、煙や油の汚れはなく、現実味の無い”美しい”工場として描いている。

平面化した色面を組み合わせた絵だが、最終的にはわずかな陰影もなくなり、立体性が完全に消える。4 0 年代になると、平面は半透明の色面になり、その重なりで奥行き感を感じる。勉強になる。


2020年8月20日木曜日

映画「ミケランジェロの暗号」

「My Best Enemy」 

ミケランジェロの素描を、ヒトラーが同盟国のムッソリーニに贈呈することになる。あるユダヤ人の画商がそれを持っていることがわかり押収するが、鑑定すると模写だとわかる。本物はどこだ、とナチスの追求が始まる・・・というサスペンス映画。どんでん返しの連続の後、ラストで大逆転が起きる。脚本がうまくて、なかなか面白い。

ミケランジェロの彫刻「モーゼ像」のための習作スケッチが40 0 年前にヴァチカン美術館から盗まれて以来行方不明になっていたが、それが現存していることがわかった、というのが映画の設定なのだが、これが史実かどうか調べてみたがわからなかった。

映画のもう一つの設定である、ヒトラーが押収した名画を政治に利用したというのは史実。イタリア軍の連戦連敗で、ヒトラーはイタリアを内心ばかにしていたが、ムッソリーニ訪独の際、同盟国として一応の接待をするために国宝級の絵画をプレゼントした。


2020年8月18日火曜日

「ぎっしり・びっしり」の部屋「MUSEUM」の始まり

 Museum

ヨーロッパの王侯貴族たちが、世界中から集めた珍しい動物・植物・鉱物などを陳列した部屋を作った。これが「MUSEUM」(博物館)の始まりだった。見たことのない珍品が天井まで部屋を埋め尽くしている。見る人を圧倒したので「驚異の部屋」(ヴァンダーカンマー)と呼ばれたが、それは「ぎっしり・びっしり」の陳列のおかげだった。

MUSEUM に陳列された物の情報は、本という形にされて、凝縮された「知識」としてまとめられていく。百科事典が生まれたのもこのころだった。それらの本を集積した大規模な図書館が生まれる。下はウィーンの「宮廷図書館」だが、やはり天井まで「ぎっしり・びっしり」と本が並んでいる。古今東西のあらゆる知識がここにあることを示し、王権の権勢を誇っている。

1 8 世紀になると、王侯貴族がコレクションした絵画を展示する博物館ができ、それが美術館の始まりになる。美術館は「Museum of Art」というように、あくまで博物館の一種だった。だから同じ考え方で、「ぎっしり・びっしり」と埋め尽くすように陳列した。今のようにゆとりをもって作品を一つずつ鑑賞できるようになるのはずっと後のことだ。

(収蔵品の無い「国立新美術館」が、国際標準からして「Meseum」と呼ぶことができない理由は上のような歴史からきている。「ぎっしり・びっしり」どころか、空っぽのただの貸画廊だから、英語名を「The Ntional Art Center, Tokyo」という苦しい名前にせざるを得ない。)


2020年8月16日日曜日

アメリカのマスク反対運動

Opposition to wearing mask in America 

コロナの感染者数と死者数が世界一で、しかもなお増え続けているアメリカで、マスク着用を義務付ける州が増えている。それに対してマスク反対運動のデモがますます激化している。国民の「息をする」権利の侵害だと主張している。

デモ隊のプラカードに、「マスクは新しい専制政治(Tyranny)のシンボルだ」とあり、マスクは「犬の口輪(Muzzle)だ」と言っている。こういうのは、日本人にはわかりにくいが、アメリカの伝統で、国民の権利を少しでも制限することには全て大反対が起きる。今でもワクチンの予防接種の義務化に猛烈な反対運動が続いているし、車のシートベルト着用義務にまで反対運動が起きた。そして最も強力なのが銃規制に対する反対運動だ。

科学的理由でマスクに反対しているるわけではない。そんなことは関係ない。政府の政治エリートが科学的知識を利用して、民衆支配のためにやっていると彼らは考える。だから「専制政治」という言葉になる。