2019年1月15日火曜日

「右か左か、それが問題だ」?    カラヴァッジョの光

Caravaggio

「視覚心理学が明かす名画の秘密」(三浦佳世)という本で、西洋絵画の光は左光源が普通なのに、カラヴァッジョは「聖マタイの召命」で、ドラマチックな非日常感を出すために、あえて普通でない右光源にしたと言っている。

しかし本当の理由は違うようだ。カラヴァッジョは教会からコンスタレッリという礼拝堂のための3枚セットの祭壇画を依頼された。そして「聖マタイの召命」は右光源、「聖マタイと天使」は上光源、「聖マタイの殉教」は左光源で、3枚ともドラマチックで非日常的な主題なのに、違った光の方向で描いている。

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それがなぜかは絵が飾られている礼拝堂の写真を見ればわかる。コの字型に祭壇を囲むように3枚が飾られていて、中央上方の窓から光が差し込んでいる。「聖マタイの召命」は左側の壁に飾られているので、右側から光を受けている。他の2枚も同様の関係にある。つまり絵が置かれている空間の光の方向と、3枚それぞれの絵画の光の方向を一致させているわけだ。それで絵が礼拝堂の環境と一体化する。そして絵の物語が祭壇という舞台で実際に演じられている劇のような臨場感を感じさせたのだろう。

カラヴァッジョは絵を描く前にこの礼拝堂に足を運んで光の差し込む方向を研究していたという。従ってカラヴァッジョは最初から「召命」を左側に置く計画だったから右からの光にしたので、右側に置くつもりだったら左からの光にしたに違いない。実際、右側に置かれている「殉教」はマタイが刺されるという「召命」以上に劇的な絵だが左光源だ。

2019年1月13日日曜日

「右か左かそれが問題だ」? 光の方向

Vermeer & Caravaggio

絵に描かれている光の方向は、80% が左からという統計データがあるそうだ。「視覚心理学が明かす名画の秘密」(三浦佳世)という本で、右光源の絵は不思議な感じがするから左光源がよく、右光源にするのは劇的だったり不安感だったりの非日常的な場面を描く場合だ、と言っている。その例として日常的な情景を左光源で描いたフェルメールと、非日常的な場面を右光源で描いたカラヴァッジョをあげている。そして「右か左か、それが問題だ」と強調している。

一般的な傾向はそうであるにしても逆の例も山ほどあるから、そんなに決めつけるのは乱暴だと思う。そこで、フェルメールと同じ日常的な情景であるが、カラヴァッジョのような右光源で描いている例を思いつくままにあげてみたが、とくに「不思議な感じ」はしない。さらにそれらを左右反転してみたが「日常的」と「非日常的」の印象が逆転する感じもない。「右か左か、それが問題だ」は、たいした問題ではないようだ。
(左側がオリジナルで、右側が左右反転。上から、ホーホ、ワイエス、ホッパー)




2019年1月11日金曜日

「ロマンティック・ロシア」展

"Romantic Russia"

四季の自然を詩的に叙情的に描いた風景画の数々に癒される。タイトルの「ロマンティック」がぴったりの作品ばかりだ。人物画でも理想化された女性の美しさを描いている。一番人気の「忘れえぬ女(ひと)」は、女性の表情や背景の雪景色や馬車などからアンナ・カレーニナをすぐに連想するが、描かれた当時(1883年)からモデルはアンナ・カレーニナではないかと言われていたそうだ。映画の「アンナ・カレーニナ」でも描かれてきた意志の強い女性の顔だ。
BUNKAMURA   ザ・ミュージアム


2019年1月9日水曜日

水面の反映 モネとエッシャー

Reflection,  Monet & Escher



モネのこの「睡蓮」には、青空や雲や樹木の反映がはっきり描かれている。もう一つの大きな空間が水の中にあるのを感じさせて、単なる水の表面の反射以上のものが表現されている。水面の睡蓮が対比になって、なおさら空間の奥行きを感じる。



同じく水面を描いたエッシャーのこの作品では、樹木と波紋をダブルイメージではなく、ひとつに合体させている。モネが3次元的な奥行きを描いているのに対して、平面的な図形として描いているのが面白い。


2019年1月7日月曜日

接写撮影(その3)

Macro photographing

電子接点付きの接写リングなのでオートフォーカスは効くのだが、狙った所にピントが合っているかは運まかせ。カメラがミラーレス一眼のため、液晶画面上でだいたいしか確認できない。後でパソコンで確認するのだが、成功率は 50%くらいしかない。





2019年1月5日土曜日

だまされる「だまし絵」(その2)

Trompe l'oeil
前回紹介した「だまし絵、もうひとつの美術史」に究極のだまし絵がのっていた。イーゼルの上に描きかけの絵や下絵などがあり、画家が制作中の光景を描いた絵だ。ただし背景の本棚などは本物で、絵ではない。つまりイーゼルや絵の部分だけをキャンバスから切り抜いて立てかけている。背景はいくらリアルに描いても周囲の環境に溶け込ませることは不可能だから、モチーフ部分だけを切り抜いてしまえば、絵だと気づかれずに本物と思わせることができる。

学生時代に似たようなことをやったのを思い出した。ユニット家具のデザインをした時に作った5分の1くらいの縮尺模型で。同じ縮尺の人間の写真を切り抜いたものをそばに立てかけて写真を撮った。すると実寸の本物の家具に見えてしまう。だまし絵ならぬ「だまし写真」だ。


2019年1月3日木曜日

だまされる「だまし絵」

Trompe l'oeil
聞く人が本当だと思わない嘘は、嘘でなくジョークという。「だまし絵」の代表としてあげられるアルチンボルドの絵も、こんな顔をした人が本当にいるとは誰も思わないから、「だまし絵」とはいえないのでは、と思っていたら、そのとおりのことを言っている本が見つかった。(「だまし絵、もうひとつの美術史」谷川渥 )その中で本当の「だまし絵」とはこういうものだという事例を山ほどあげている。

壁に本物そっくりのぶどうの絵を描いておいたら鳥が飛んできて壁にぶつかった、というギリシャ時代の話があるそうで、目をあざむくくらい本物そっくりの絵を「だまし絵」という。そういう写実性・迫真性のある絵をフランス語で「トロンプ・ルイユ」という。

「だまし絵の帝王」といわれるヘイスブレヒツのこの絵は、壁のくぼみ(建築用語でいう壁龕)の中に物がある静物画を描いている。この絵を壁にかけておく(額縁なしで)と、本当に壁龕があってそこに物が置かれているように見えるだろう。



このように絵のある場所との空間的連続性を描くとだましやすい。だから建築の壁画にだまし絵がたくさんある。これは柱とバルコニーがあり、遠くに風景が見えるが、実際は壁に描かれている。バルコニーへ出ようとするとガンと壁にぶつかる(?)かもしれない。

これがエスカレートして、建築そのものをだまし絵的に作ってしまうことが行われた。いわば「だまし建築」で、とても面白い。この柱廊は、天井や壁を傾けて向こうにいくほど狭くしている。奥行きは9mくらいしかないが、4倍くらい長く見えるという。遠近法の視覚心理を悪用(?)して人をだましている。うっかり3人くらいで並んで入ると、向こうの出口では1人しか通れないことになる。
なお、東京の銀座通りのあるビルの壁になかなかのだまし絵があって、一瞬だまされる。もちろん窓も女の子も嘘。