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2025年9月6日土曜日

映画「おもいでの夏」(「Summer of '42」)

 Summer of '42

前回、生まれた年の1942 年の出来事をもとにした映画3つを紹介したが、追加でもうひとつ「おもいでの夏」をあげる。原題が「Summer of  '42」で、自分の生まれた年が題名になっていているためもあり、この映画には強い印象が残っている。ある作家の回想録をもとにした映画で、思春期の少年の甘く切ない思い出の物語だ。なぜ 「'42 」なのかは、すでに第二次世界大戦が始まっていて、戦争が落とす影がストーリーの重要な軸になっているためだ。

ひと夏、ある島に一家と避暑にやってきた少年が、仲間の”悪ガキ”たち3人でいつも遊んでいる。ある日、島の先端の家に住んでいる若い夫婦を見かける。新婚らしい二人は幸せそうだ。しかしやがて、夫は招集されてヨーロッパ戦線に送られる。少年はひとり残された美しい女性に憧れを抱き、親しくなっていく・・・

・・・ラストで、いつものように少年が女性の家を訪れると、女性の姿が見えない。するとテーブルの上に置いてある電報が目にとまる。夫が戦死したという陸軍省からの知らせだった・・・

ミッシェル・ルグランのテーマ曲は、今でも映画音楽の名曲としてよく耳にするが、聴くたびに映画のシーが目に浮かんでくる。


2025年9月4日木曜日

今年は「昭和 100 年」 自分が生まれた年の歴史を映画で知る


今年は「昭和 100 年」ということで、昭和を振り返る企画がたくさん行われている。なかでも産経新聞の「プレイバック100 年」は、昭和生まれの有名人たちが自分の生まれた年の出来事を調べて、それをつないでいくことで、昭和の歴史を浮かび上がらせる、という企画で、面白かった。それで自分でも生まれた年の出来事を調べてみた。

昭和 17 年(1942 年)の出来事
 ・日本軍、マニラを占領
 ・日本軍、シンガポールを陥落
 ・大日本婦人会発足
 ・アメリカ大統領が、日系人の強制収容を命令
 ・食料管理法制定、米が配給制になる
 ・東京に初空襲
 ・ミッドウェー海戦で日本軍敗北
 ・日本軍、ガダルカナル島から撤退

戦中なので戦争関係の事項ばかりだが、当時は誰もがウソだらけの「大本営発表」でしか戦争を知らなかった。歴史の真実を知るには映画がいちばんいい。ということで上記の 1942 年の出来事のうちの3つを題材にした映画を紹介する。(これらは現在でも DVD で観ることができる)



⚫︎ミッドウェー海戦で日本軍敗北 「ミッドウェー海戦」

1942 年のミッドウェー海戦は、真珠湾攻撃以来、連戦連勝だった日本軍が敗戦への坂を転げ落ちていく始まりだった。よく知られているように、すでにアメリカは日本の暗号を解読していたので、日本軍の作戦が筒抜けになっていた。それでアメリカ艦隊がミッドウェーで待ち伏せして、日本艦隊を壊滅させた。しかし日本の「大本営発表」では日本の大勝利ということになっていた。

その戦いを記録したのが、ジョン・フォード監督の「ミッドウェー海戦」だ。従軍して戦争記録映画を撮っていたフォード監督が、ミッドウェー海戦を撮った実写映像だから迫力がある。フォード自身も被弾して負傷したが撮り続けたという。その年 1942 年にすぐに公開されて、アメリカ人の戦意高揚に役立った。


⚫︎東京空襲が始まる 「東京空襲 30 秒」

上記ミッドウェー海戦の大惨敗で、日本は太平洋の制海権と制空権を失った。この年に東京空襲が始まったのも、そのためだった。その後アメリカは「飛び石作戦」で次々と太平洋の島々を奪って日本に近づいていく。1942 年の時点ではまだ日本から遠かったが、ドゥーリトル中佐の爆撃隊が初の東京空襲を試みた。

その再現ドラマが、「東京空襲 30 秒」だった。ガソリンは満タンでも片道分しかないが、爆撃後は中国に不時着する計画だ。そして空襲は成功し、東京・横浜・川崎などに打撃を与えた。当時中国はアメリカの同盟国だったので、計画通り中国に不時着した乗組員は、中国人に助けられ、無事にアメリカに帰還できた。映画は戦中の1944 年に公開された。


⚫︎アメリカで日系人の強制収容が始まる 「愛と哀しみの旅路」

真珠湾攻撃の時、ハワイに住む日系人が、真珠湾のアメリカ艦隊の動静を日本に通報していたとされていた。日系人は敵性外国人とされ、 1942 年にルーズベルト大統領は日系人の強制収容の命令を出す。日系人は全て拘束されて、アリゾナの砂漠地帯の収容所に送られた。

「愛と哀しみの旅路」は、収容所送りになった日系人女性の悲劇を描いている。LA のリトルトーキョーで働いていた主人公は、差別を受けている。そして白人の夫と引き離され、収容所に送られる。この映画で、今でもほとんど知られていない収容所の過酷な実態を見ることができる。ただしこの映画は、すでにアメリカ政府が強制収容は誤りだったと認めた後の1990 年制作なので、日本人の側に立った映画になっている。


2025年8月19日火曜日

映画「血を吸うカメラ」

「Peeping Tom」

「血を吸うカメラ」という映画がある。1960 年の古い映画で、ジャンル的にいうと「サイコホラー」映画だ。 原題が「Peeping Tom」で、日本語で「のぞき魔」だ。公開当時、興行的に全くダメで、B級映画として葬り去られてきた。それが近年、映画理論研究の観点から、この映画が注目されているようだ。

ストーリーはざっとこんな感じ。

内気な映画カメラマンの主人公は、裏の顔がある。常軌を逸した方法で女性を惨殺しては、恐怖と苦痛に歪む顔を映像に収めてコレクションし、自宅で密かに上映している。ある時、近所の女性と親しくなり、交際を始める。やがて主人公は彼女をモデルにして、より迫真の恐怖の映像を撮りたいという欲求が高まっていく・・・


映画研究者の岡田温司氏は著書「映画は絵画のように」のなかで、映画の本質には3つの要素があり、それは「窓」「皮膚」「鏡」で、「血を吸うカメラ」にはこの3つが見られるとしている。だからこの映画は、「映画とは何か」について語っている「メタ映画」だとしている。(だから主人公が映画カメラマンだ)3つについての説明が膨大で、簡単に紹介できないので、同書を読んでもらうしかないが、それぞれをひとことでいうとこうだ。

「窓」としての映画。
映画の冒頭、主人公が手持ちカメラを持って夜の通りにただずむ娼婦にゆっくりと近付いてゆき、やがてカメラは長回しのまま、彼女が部屋へ入って服を脱ぎ始めるところまでノーカットで写し続ける。その間、画面は、主人公のカメラのファインダーで見た画像を映し続ける。だから、ファインダーの中の照準を合わせる十字の線が入っている。カメラという「窓」を通して対象を見つめている。

「皮膚」としての映画。
「皮膚」とは「触覚」のことで、映画はこれまで、視覚芸術として「視覚」中心にしすぎたをことに対する反省があるという。この映画で、主人公の恋人の母親が盲目なのだが、彼を怪しい人間だと感じていて、その顔を手で触ってそのことを確かめようとするシーンがある。たしかに現代では CG の発達で質感表現などの「接触的視覚性」が高度にできるようになっている。

「鏡」としての映画。
映画のクライマックスで、主人公の撮った殺しの映画を見せられた恋人は「あれは女優の演技でしょ」と祈るように尋ねる。しかし彼は残酷に「ノー」と答える。そして主人公は凶器を手にして恋人に迫っていく。凶器が首スレスレに近ずいた時の彼女の歪んだ表情が、凸面鏡に映る反射像のように映し出される。

2025年8月15日金曜日

映画「星つなぎのエリオ」

 Elio

ディズニーの新作「星つなぎのエリオ」を見た。ディズニー映画は、いつも学校が夏休みの間に公開されるが、今回もシネコンはちびっ子たちで、あふれかえっている。

主人公のエリオは両親が亡くなり、叔母に育てられている。「誰からも愛されていない」「自分の居場所がない」と感じている孤独な少年は「人とのつながり」を求めて、宇宙に行って異星人に会いたいと思う。やがて願いがかなって宇宙船が迎えに来る。着いた星は「コミュニバース」で、いろいろな惑星から来た異星人たちが仲良く平和に暮らしている。そしてエリオは、自分と同じく孤独である子供の異星人「グロードン」と仲良くなる。ところがその父の魔王は暴力でコミュニバースを支配しようとしている。エリオはその魔王に立ち向かう・・・

この映画には、宇宙に関する最新の動向が反映されているのが面白い。2019 年にアメリカは、陸軍、海軍、空軍に続いて、「宇宙軍」を創設した。宇宙空間での敵対勢力に対する防衛をになうためで、アメリカ各地に宇宙軍基地がある。映画にはその基地が登場する。そしてエリオの叔母は、その宇宙軍基地に務める「宇宙軍少佐」だ。

話は変わるが、「ディズニー変形譚研究」という本がある。「譚」とは深みのある話のことで、ディズニー映画はすべて、グリム童話や、ギリシャ神話や、言い伝えの昔話しや、聖書の物語、などを原型にしながら、それらの時代や場所の設定を変えて物語を作っている。それが「変形譚」で、同書はその観点からディズニー映画を研究をしている。

同書はディズニーの「変形譚」の種類を次のように分類している。
「ディズニー恋愛譚」(「眠れる森の美女」など)
「ディズニー家族譚」(「アナと雪の女王」など)
「ディズニー友情譚」(「モンスターズ・インク」など)
「ディズニー空想譚」(「不思議の国のアリス」など)
「ディズニー聖書譚」(「塔の上のラプンツェル」など)

これに照らし合わせると「星つなぎのエリオ」は、「空想譚」と「友情譚」の両方にまたがって相当している。そして同書が強調しているのは、これら「変形譚」のすべてに、聖書の「福音」思想が影響を与えていることだ。人間の愛と夢の力は魔法使いや魔女の魔力を打ち破って。奇跡を起こし、幸福を生む、という福音思想で、まさに「星つなぎのエリオ」のストーリーがそれだ。

2025年8月11日月曜日

絵画の「影」 映画の「影」

 A Short History of the Shadow

山水画にしろ浮世絵にしろ、日本絵画には伝統的に影がまったくない。それに対して西洋絵画では影が重要な役割をになっている。影そのものが絵画全体の主題になっている例も多い。「影の歴史」(ヴィクトル・ストイキツァ著)という本で、美術(絵画・映画)における「影」の意味と歴史についての詳細な研究が行われていて、とても勉強になる。その中から、いくつかを紹介する。画像のみだが、くわしい解説は同書をどうぞ。


⚫︎分身としての影

ギリシャ時代に絵画が発明されたが、それは人間の横顔に光を当てて、壁に映る影をなぞることで始まった。このことをテーマにして、後世の人たちがたくさん絵を描いたが、19 世紀のエデュアルド・デジュという人の「絵画の発明」もそのひとつ。出征する若者の横顔を恋人の女性が描いている。「影」で分身を残している。







横顔のシルエットで分身を表す伝統は現代でも続いている。アンディ・ウォーホルの「影」で、右側に本人がいて、左側に分身としての横顔の影が描かれている。







⚫︎存在感の影 

ゴッホの「タラスコンへ行く画家」は、ゴッホ自身の姿を描いているが、本人以上に強い影がゴッホの存在感を強めている。日本語で存在感のないことを「影が薄い」というが、これはその逆で、足を地に踏みしめて歩くゴッホの自信を「影」で示しているのだろう。







ディズニー・アニメの「ピーターパン」で、ピーターパンの「影」が本人の足元から離れて、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。恋人のウェンディーがピーターパンに「存在」感を与えるために、影を捕まえて足元に縫いつけてあげる。

⚫︎まなざしの影 

ピカソの「影」で、裸婦を描いているキャンバスに重ねて、ピカソ自身の影を描きこんでいる。モデルを見る画家自身の「まなざし」を影で間接的に表している。










今まで気がつかなかったが、ルノワールの「デザール橋、パリ」で、画面下に影が描かれている。画面の外にある手前の橋の影だ。その橋の上でこの風景を見ている人たちの影があり、そのなかの一人がルノワール自身の影だ。






⚫︎他者性の影」

これはシャネルの男性用香水のポスターだが面白い。シャワーを浴びたばかり男性が、ローションの瓶を奪い取ろうとして、影と張り合っている。影は本人の姿と関係なく、攻撃的なポーズをとっていて、影の他者性を強調している。 










漫画「ラッキー・ルーク」の主人公のカウボーイは、「自分の影より早く引き金を引くことができる男」だ。すでに弾丸が影に命中して胸のあたりに白い穴が開いている。本人の浮いた帽子は動きの素早さを示しているのに対して、影の浮いた帽子は驚きを表している。

⚫︎不安の影 

ムンクの「思春期」は、自分の病弱な妹を描いたといわれている。壁に映った影は、大きな黒い雲のかたまりのようだ。それは少女の不安な精神状態を表している。










ミステリー映画の名作「第三の男」は夜のシーンが多く、「影」がミステリアスな雰囲気を高めている。「影」だけしか見えない第三の男の正体をつかむことができず、見る人の不安を煽る。


⚫︎不気味な影

映画「カリガリ博士」は、ドイツ表現主義映画の最高傑作といわれる歴史的名作だが、全編が影の映画といっていいほど「影」が主役をつとめている。このシーンは主人公の博士に横から光が当たり、拡大された巨大な影が壁に映っている。手は歪んで、カギ形になっている。影によって奇怪な博士の心の内面があらわになっている。



キリコの「街路の憂鬱と神秘」で、フープで走っていく少女の向かう先に影が見えている。影の本人の姿は建物の影に隠れて見えていないが、それは巨大で、棒のようなものを持っているようだ。影だけしか見えないことが、不気味さをかき立てる。少女にこれから起きるかもしれないことを想像させる。








2025年8月5日火曜日

プラトンの「洞窟の壁に映る影」は映画

 Plato

7 / 24 日の投稿で、「洞窟の壁に映る影」について書いたが、その補足を。

壁に映る「影」をなぞって人間の肖像画を描いていたギリシャ時代に、哲学者プラトンが「国家」のなかで、同じく「影」について書いている。有名な「洞窟の壁に映る影」という例え話しだ。それをかいつまんで要約するとこうなる。

『 地下にある洞窟の中に住んでいる人間がいる。彼らは子供の時からずっと手足を縛られていて、動けずに洞窟の奥の方ばかり見ている。彼らの後ろにはろうそくの火が燃えていて、その光と人間の間には台があって、そこで人形使いが、人形やいろいろなものを操っている。その影が洞窟の奥の壁に投影される。外の世界の現実を見たことがない人々は、「虚像」であるその影を「真実」だと思い込む。』

この文章に書かれた状況を、文章どうりに図に描いてみたが、こんな感じだろう。


こう描いてみると、これはまさに映画だ。暗い洞窟は映画館であり、洞窟の奥の壁はスクリーンであり、そこに映った影はフィルムの像を光で投射した映像に当たる。それを観客たちが見ている。

プラトンの時代にはもちろん映画はないが、プラトンがこの例え話しで言いたかったのは、洞窟の外にある現実の世界を知らない人々が、投影された「虚像」を「真実」だと信じてしまう人間の認識能力の頼りなさを指摘している。

プラトンがこの洞窟の話しを「国家」という本の中で書いていることにだいじな意味がある。市民による民主主義政治が行われていた古代ギリシャを見ていたプラトンは、本当の真実をみることのできない市民が、目先のことだけでワアワアと騒ぐだけの民主主義政治を否定し、一人の賢く強い指導者が大衆を引っ張る専制政治が「国家」の理想的な姿であると考えていた。その大衆の ”わかっていない” 無知ぶりを説明するためにこの洞窟の話しを書いた。

しかし現代の人々とって映画は、洞窟の人たちとは違う。映画館に閉じ込められているわけではなく、外界の現実を知っている。そのうえで、映画が「虚像」であることを承知のうえで、世界に対する自分の認識を時空を超えて広げてくれるものとして見ている。だからこの洞窟の話しは「映画」に例えるよりもむしろ「スマホ」に例える方がいいだろう。洞窟の奥の方ばかり見ている人々は、一日中スマホばかり見ているスマホ依存の現代人に当たる。そしてスマホの画面に映る SNS の物語や画像という「虚像」を人々は簡単に「真実」だと信じてしまう。

2025年8月3日日曜日

影が人間に存在感を与える      アニメ「ピーター・パン」

 Cast Shadow

絵画で人を描くとき、「影」が絶対的に重要になる。影が無いと、人は宙に浮いているように見えてしまうし、そもそもその人の存在感自体も感じなくなってしまう。人間の身体、人間の体重、影と地面の地面との結びつき、などで人間の存在を感じることができるが、「影の喪失」は人間の存在感自体を無くしてしまう。絵画でも写真でも映画でも影の表現が重要だ。

ディズニーのアニメ「ピーター・パン」(1953 年)で、その「影の喪失」の場面が出てくる。ピーター・パンの影が足元をはずれて、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。その時、ウェンディーが、ピーター・パンに「存在」感を与えるために、影を捕まえて、足元に縫い付けてあげる。とても面白いシーンだ。




2025年7月17日木曜日

映画「カサブランカ」のフランス国歌を歌うシーン

 La Marseillaise

先日7/ 14 は、フランス革命記念日だった。フランス革命といえばフランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」だ。この国歌が歌われる感動的シーンが出てきたのが名作「カサブランカ」だった。映画を見た人は誰でもこのシーンが強く印象に残っていると思う。

ナチスドイツのフランス侵攻で、フランス領土モロッコのカサブランカにもナチスドイツ軍が駐留している。主人公はそこでナイトクラブを経営している店主だ。ある夜、ナチスの将校のグループが入ってきてドイツの軍歌を大声で歌い出す。フランス人の客たちは、にがにがしい顔でいる。すると主人公の店主がピアニストに目くばせして「国家を」と言う。フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」を演奏し始めると、フランス人たちが全員立ち上がって力強く歌い始める。涙を流しながら歌う女性もいる。その声にかき消されてナチスの将校たちは、黙って出ていくしかなかった・・・


この有名なシーンは、フランスの屈辱の時代にあって、人々の愛国心の強さを描いていた。そしてラストで、どこかいかがわしい男に見えていた店主が実は強烈な反ナチスの、フランス愛国者であることがわかる結末はご存知の通り。

国家を歌うシーンの映像→ https://www.youtube.com/watch?v=2b8OCFURCyE


2025年7月12日土曜日

映画「わが谷は緑なりき」

How Green Was My Valley

昔、イギリスのウェールズ地方を訪れたことがある。ロンドンから西へ電車で2時間くらい行くと、ウェールズの首都カーディフだが、それよりさらに先のブリッジエンドという田舎の駅で降りた。そのあたりが昔、炭鉱で栄えた地方だが、今はさびれた過疎地になっている。一人ポツンと降り立った日本人にウェールズの人たちはとても優しかった。

その優しい人たちの土地ウェールズを舞台にした映画が「わが谷は緑なりき」だ。ジョン・フォード監督のこの名作映画は 1941 年制作(自分の生まれた年より古い)という超クラシック映画だが、改めて見てみた。ウェールズ地方の炭鉱の町が舞台のドラマだ。日本でも戦後、石炭産業が斜陽化して、次々と炭鉱が閉鎖され、炭鉱員たちが失業し、ストライキが頻発したが、それと同じ状況が描かれている。

父親と4人の息子がいずれも炭鉱で働いている労働者一家の姿を、幼い末っ子の目を通して描いている。炭鉱の不況で兄たちの給料が下げられたり、クビになったり、姉が炭鉱主の息子と無理やり結婚させらりたり、炭鉱の落盤事故で父親が死んだり、など不幸が続くが、一家の家族どうしの絆は強い。そして皆が同じ炭鉱で働いている住民たちも人情が厚く、お互いに助け合って生きている・・・ 

やがて時代は移り変わり、炭鉱は閉鎖され、町はさびれて、古き良き時代は終わってしまった。そして今では大人になった少年は、家族や町の人たちの懐かしく美しい思い出を胸に町を去ってゆく・・・


2025年7月8日火曜日

映画「善きひとのためのソナタ」

 Das Leben der Anderen 

前々回書いたこの映画について補足を。2007 年のドイツ映画だが、アメリカのアカデミー賞外国語映画部門で受賞した、おすすめできる秀作だ。東西に分断されていた時代のドイツを舞台にしている。

いきなりネタバレになるが、ラストのシーンが、東西ドイツが統一された後の主人公の後日譚で、感動的だ。秘密警察の元諜報員だった主人公が、書店に入っていき、ベストセラーになっている小説を手に取る。その本の著者は、自分が毎日盗聴をしていた作家だ。本の題名が「善きひとのためのソナタ」で、巻頭言に「感謝を込めて、HGW XX7 に捧げる」とある。「HGW XX7」とは諜報員だった時の自分のコードネームだった。書店員が「ギフト包装にしますか」と聞くが、「いやこれは自分の本だ」と答えて映画は終わる・・・


思想・言論の自由が厳しく統制されていた共産党独裁政治の東ドイツでは、反体制的な人間は家に盗聴器を仕掛けられて、 24 時間盗聴されていた。しかし主人公の作家は密かに東ドイツの内情を暴露する記事を書いて西側の雑誌に投稿していた。東西ドイツが統一された後、自分が盗聴されていたことを初めて知るが、それなのになぜ逮捕されなかったのか不思議に思う。いろいろ調査すると、盗聴していた諜報員が作家に共感していて、嘘の報告を上層部にあげていたのだ。その名前が 「HGW XX7」 だったことを知る、その経験をもとにして書いたのが映画の最後に出てきた小説「善きひとのためのソナタ」だった・・・

前々回書いたように、東西分断の厳しさを東ベルリンバスツアーでわずかながら経験したので、この映画にリアリティを感じる。

2025年7月4日金曜日

映画「善きひとのためのソナタ」と東ベルリンバスツアー

 Das Leben der Anderen

映画「善きひとためのソナタ」は東西に分断されていたベルリンを題材にした映画で、なかなかの秀作だ。東ドイツの秘密警察「シュタージ」が、反体制的住民の家に盗聴器をつけて監視している。その盗聴員が毎日聞こえてくる人たちの会話を聞いているうちにだんだんその人たちへの共感と、西側の自由な価値観への憧れが湧いてくる。やがてその住民が弾くピアノソナタに心を揺さぶられて・・・

この映画を見ていて、昔、まだベルリンの壁があった頃にベルリンに行った時、東ベルリンへ入るバスツアーに乗ったことを思い出した。「るるぶ」には載っていなかったが、そんな面白そうなツアーがあることを現地で知って、早速申し込んで乗った。東ベルリンは、昼なのに人通りがまったくなく、陰鬱で廃墟の街のようだった。豊かさと自由を求めて、命の危険を犯して西へ脱出する事件が後を絶たなかった時代の現実をかいま見た感じがした。

東西の境界線を越える検問所では、乗客は全員バスから降ろされ、東ベルリンの警備兵が車内はもちろん、エンジンルームも開けて中をチェックする。棒の先につけたミラーで車の下までも調べる。

その時、ある光景を目撃した。乗客の中のひとりの女性が小さな包みを持っていると、そこに別の女性が近づいてきて、無言のままその包みを受け取って去っていった。ツアーの観光客に紛れ込んだ西の女性が、親族らしき東の女性とあらかじめ示して合わせて、バスを降りる検問所での一瞬を利用して包みを受け渡ししていたのだ。包みの中身は食料品だと思うが、東ベルリンの不自由な生活と分断の厳しさをうかがわせる光景だった。


2025年6月22日日曜日

映画「メガロポリス」

 「MEGALOPOLIS」


公開が始まった映画「メガロポリス」を見た。不評なようで、映画館はガラガラだったが、個人的な評価は”大絶賛”だ。コッポラ監督の世界観が爆発している。

「メガロポリス」の題名から、名画「メトロポリス」と何らかのつながりがあるのだろうと予想していたがそのとうりだった。「メトロポリス」は「大都市」の意味で、語源は古代ギリシャの都市国家から来ている。1927 年のこの映画は、100 年後の未来の都市を描いた最初の SFだったが、それは文明が発達したが、分断されたディストピア社会だった。そして「メガロポリス」は「メトロポリス」よりさらに大きい「巨大都市」の意味だが、「メトロポリス」から 100 年後のこの映画も文明がさらに発達しているが、滅亡寸前の都市を描いている。だから映画「メガロポリス」は「メトロポリスの」現代版といえる。  

「メガロポリス」の舞台は未来のニューヨークだが、古代ローマに見立てている。都市の名前が「ニューローマ」で、登場人物の名前が「キケロ」「カエサル」などで、衣裳も古代ローマ風だ。ローマ帝国は、植民地から得た富によって高度に文明が発達したが、その豊かな社会は享楽的になり、やがて滅亡していった歴史になぞらえている。

市長選挙が行われていて、保守派の現市長と、改革派の若手が争っている。「メトロポリス」では労働者と資本家の対立だったが、「メガロポリス」もそれと似ていて、富裕層と貧困層との分断が激しい社会だ。荒廃した都市を救うためにどうするかが争点になっている。財政難を救うために銀行と癒着して、立て直しを図ろうとする現市長に対して、対立候補の若手建築家は、環境にやさしい持続可能な都市に作り変えようと主張する。こういう設定が現在のアメリカ社会の状況を想起させて、テーマがとても現代的だ

また「建築」が映画の大きなテーマになっているのも特徴だ。主人公の建築家が、新しい都市を構想しているシーンがたびたび出てくる。 T 定規を持っていて、それが「スターウォーズ」のライトセーバーのように光っている。今では使われなくなった T 定規が未来的な道具であるように描いているが、これも「レトロ・フューチャー」の小道具だ。無機的になりすぎた建築をもっと人間的なものに回帰しようという主人公の思想を象徴させているようで面白い。

罵り合っていた二人の市長候補は最後に仲良くなるが、これも「メトロポリス」と同じ構図だ。この和解によって、ディストピア映画でありながら、未来への「希望」を抱かせるエンディングになっている。そしてその仲介をするのが若い女性で、これも「メトロポリス」と同じだ。


2025年6月10日火曜日

映画「THE DAYS」

「THE DAYS」


映画「THE DAYS」のネット配信(NETFLIX)が始まった。 福島原発の事故の一部始終をドキュメンタリータッチで描いた再現ドラマだ。入念なリサーチに基づいていて、あの日、関係者たちはどう動いたかが克明に描かれている。

巨大津波で水没した原発は、全電源を失い、冷却機能を失った原子炉はメルトダウンの危機が刻々と迫っている。所長以下職員たちは放射線の危険を顧みず、原子炉建屋に入って決死の復旧を試みる。

ところが、東京の東電本社の幹部たちは、現場の所長に電話で怒鳴り散らすだけで何も手を打つことができない。それどころか悪戦苦闘している現場の妨害をしている。さらに本社の経営トップの記者発表では、記者の質問にまともに答えられず、トンチンカンぶりを露呈してしまう。この事故は津波によるものではあるが、人災とされる所以だ。

もうひとつの人災は首相だった。現場の状況を把握できない首相はいらついて、まわりの関係者を怒鳴り続ける。最後に我慢できなくなって現地へ乗り込んでいく。そして所長に状況を説明しろと迫る。このことは当時から現場の邪魔をしているだけだと批判されていた。

連日行われた官房長官の記者発表が今でもはっきり記憶に残っているが、映画でもその通りに描かれている。深刻な緊急事態であるにもかかわらず、住民の避難を指示しない。「健康被害の恐れはないので、自宅に止まってください」と言い続けた。これも被害拡大の原因になった人災のひとつだった。


おりしも、先週6月6日に東京高裁が、東電旧経営陣の法的責任を認めない判決を下した。(下は6/7. 日経新聞記事)この判決に納得できない人は多いだろう。この裁判は津波の予見性に関わるものではあるが、事故後の東電経営陣や政府の責任についても疑問を持つ人は多いのではないか。この映画はそのことを強く感じさせる。


2025年5月31日土曜日

映画「サブスタンス」

 「The Substance」

主人公はかつて映画の大スターだったが、今では年歳のせいで仕事がほとんどなくってしまった。若く美しい自分を取り戻したいという想いから、サブスタンスという再生医療の薬に手をだす。その結果、若く美しい分身を生み出し代役を務めさせ、仕事と人気を取り戻す。

ところが分身は徐々にオリジナルの本人をないがしろにし始める。そして主人公は自らの人格を見失っていき、精神が狂っていく・・・

この映画は、おぞましいシーン連発のホラー映画なので要注意。ホラーが嫌いな人は見ない方がいい。

なお、鬼気迫る主人公を演じるのが、ハリウッドで最も可愛い女優だったあのデミ・ムーアで、イメージのギャップがすごい。役と本人を重ねるための意図的なキャスティングだろう。


2025年5月15日木曜日

映画「ミッドサマー」の尊厳死

「Mid-summer」

前回、「安楽死」について書いたが、その続き。

「安楽死」とは、治癒の見込みのない人を、本人が望めば、医師が薬を投与して死なせることを意味する。しかし日本では「安楽死」は違法で、直る見込みがなくても、人工呼吸や人工透析や胃ろうなど、あらゆる延命医療を続ける。植物人間になっても生かされ続けるのは、人間の尊厳を奪い、非人道的だと批判される。

「安楽死」と似た概念として「尊厳死」がある。「安楽死」との違いは、医師が薬を投与して死なせるのではなく、延命治療を行わず、自然に死に至らせる。これも本人の希望が前提だが、人間の尊厳を保ったまま死ぬことができる。

欧州では「尊厳死」が古くから認められていたようで、5年くらい前のスェーデン映画「ミッドサマー」はその「尊厳死」を題材にしていた。ある田舎の小さな寒村の慣わしで、ある年以上になると年寄りは自殺する。それは夏至(ミッドサマー)の日に行われる。村人たちは白装束で集まり、会食をしたり、ダンスをしたりして死ぬ人を称える。最後に年寄りが高い崖から飛び降りて死ぬ。強要されて自殺するのではなく自ら望んで、喜んで死んでいく。