2020年1月31日金曜日

映画の絵コンテの作り方

「Drawing and Composition for Visual Storytellers」

画面のカメラアングルや構図などを計画する絵コンテは映像の設計図のようなもの。絵コンテの作り方の本を見ていると、普段見ている映画の映像がどういう計算のもとに作られているかが分かって面白い。例えばクライマックスに向けて徐々に緊迫感を高めていき、最後に迫力のある場面にもっていく構図の作り方の例。(「クライマックスまで誘い込む絵作りの秘訣」より)


バイクから降りた二人が、遠くの謎めいた家を眺めている構図で、これから何か普通でないことが起こることを予感させる。

カメラ位置が低くなり、バイクが大きくなって、二人が離れていくことが強調される。また、その姿が家に重なった構図で、向かう先が家であることが示される。

目前まで来ると、家が大きく立ちはだかる構図になり、威圧感が高まる。二人が見上げている視線の先に窓があり、そこに何か不穏なものを感じさせる。

窓の内側からのカメラに転換する。ここで初めて、二人が銃を持つ男に見られている危険な状態であることを観客は知る。


2020年1月29日水曜日

映画「彼らは生きていた」

「They Shall Not Grow Old」

「これは凄い! ともかく見てほしい 」という新聞の映画評が大当たりで、本当に凄い。

第一次世界大戦の記録映像フィルムを編集して、一本のドキュメンタリー映画にしている。デジタル修復でカラー化し、音声や効果音も加えている。昨日撮ったばかりのようなリアルな映像が、1 0 0 年前に死んだ兵士たちを生き返らせている(=「彼らは生きていた」)。

人類史上初の殲滅戦の凄惨さが強烈だが、戦闘シーンだけの映画ではない。出征する時のお祭り騒ぎと、帰還した兵士への冷たい扱い、など戦争というものの「実態」をあばいている。

(渋谷、シアター・イメージフォーラム)

2020年1月27日月曜日

「未来と芸術展」にあったビデオ作品

「Future and the Arts    AI, Robotics, Cities, Life」

「未来と芸術展」でもう一つ注意を引かれたのは、ビデオ映像の出展物だった。ある A I のアルゴリズムが結果的に5人の人間を殺してしまい、 A I が被告として裁判にかけられる。A I が有罪か無罪かを陪審員たちが議論する、という架空ドラマだ。この場面の字幕のように、A I が「感情を理解したり、善悪の判断能力があるかどうか」が議論の焦点になる。


ロボットが人間と敵対するというS F 映画は無数にあるが、このビデオはそれと共通したところがある。歴史学者・哲学者のユヴァル・ノア・ハラリは、「今日の S F 映画の罪は、ロボットやA I が人間と戦争するのではないかという過剰な心配を抱かせることだが、それは知能と意識を混同しているからだ。」と言っている。このビデオの場合でいうと、A I は憎しみや怒りといった「意識」で人を殺したのではなく、学習した「知能」によって論理的な判断をして殺しただけ、ということになる。

だからハラリは「恐れるべきはA I ではなく、A I によって強力な力を持った少数の人間である。」と強調する。ハラリ自身は言っていないが、どこかの独裁国家がビッグデータによる高度なA I を使って、国民を監視する超管理社会を作るのではないか、といった最近の報道のことを思いだす。

2020年1月25日土曜日

「ハマスホイとデンマーク絵画」展

Vilhelm Hammershoi and Danish Painting of the 19th Century

12 年前に初めて見て衝撃的だったハマスホイがまた来た。(東京都美術館、~ 3 / 26 )その室内画は、無人のがらんとした部屋で、静まりかえっている。人がいても彫像のような後ろ姿で、部屋に生活があることを感じさせない。絵から物語性や情緒性を排除して、ひたすら室内の空間だけを描いている。右の場合、額縁・壁・家具の垂直水平の直線で画面を構成しているが、そのプロポーション感覚が鋭い。

下では、4つの部屋が描かれているが、ドアがすべて開いていて、空間が奥へ向かって繋がっている。引越しの荷物を積み出して、これから家を出て行こうとしているかのような、家具も人もいない部屋だが、純粋な画面構成を邪魔するものを削除している。なお中央のドア上部が歪んでいるのは何故なのか謎だったが、今回解説があり、キャンバスの張りムラが原因とのこと。


2020年1月23日木曜日

N D フィルターのテスト その2

N D  Filter

空と水の青さが濃く、ビルのハイライトが強い。N D フィルターの特徴。

逆光の風景。人物の衣服がつぶれ、完全なシルエットになった。
路面の影もくっきりしている。ちょっと絵画的。

 2分の1秒のスロー・シャッターで撮った。自動車は消え、横断歩道の歩行者だけがわずかに幽霊のように写っている。もっとスローにすれば、昼間なのに完全に無人の街を撮れる。フィルター無しでこれをやったら、露出オーバーで画面が真っ白になってしまう。

2020年1月21日火曜日

「未来と芸術展」の ”デッサン・マシン”

「Future and the Arts    AI, Robotics, Cities, Life」

A I 、ロボット工学、バイオ技術など最新のテクノロジーを使った芸術によって、未来の人間像、社会像を描くという、話題性いっぱいの企画展。(森美術館、~ 3 / 29 )


デッサンするマシンが面白かった。来場者をモデルにして、カメラで見た画像を解析して、ロボットアームがボールペンで描く。デッサンのやり方を学習させた A I が描いているわけだが、そこらの素人よりずっとうまい。
まだ人間が描く素描に近付こうとしている段階だが、やがては、うまさの基準そのものを変えてしまうような、 A I でしか描けない作品を描くようになるのかもしれない。卓球ロボットが人間より強くなり、囲碁・将棋の A I がプロより強くなった昨今だからあり得るだろう。


もっとも巨匠の素描は、ただの描写ではなく、主観性に溢れているから、そこまでいくのかどうか? ちなみに「A I を恐れる人は、知能と意識を混同している」という。卓球・囲碁・将棋はルールがあるから「知能」で勝負できるが、ルールがなく、「意識」が問題の絵画は違うのだろう。逆にいうと「絵画の技法」や「上手な絵の描き方」といった ”ルール” を学ぶのでは、 A I が学習するのと同じだから、人間は勝てないのかもしれない。

2020年1月19日日曜日

N D フィルターを試す

N D  Filter

N D フィルターを買って、初めての使用テストをした。サングラスをかけて見る風景と同じように写る。撮影モードのオートを解除して、絞りとシャタースピードを手動で設定する。その設定の仕方で写り方ががらっと変わる。慣れると面白い写真が撮れそうだ。

明暗のコントラストが強くなる。うっすらした雲なのに
暗雲立ちこめる空になり、逆に日の当たった家がくっきりと明るい。

明部が白とびせず、空の青さがしっかりと出る。そのかわり、
真っ白い建物が夕日を浴びたようにオレンジになった。

2020年1月17日金曜日

萌えない工場の絵



「工場萌え」をやっていたら、ちょっと壊れかけた、あまり萌えないセメント工場があった。それで「昔の光、今いずこ・・」の「荒城の月」ならぬ「工場の月」に。
( アクリル、F 50 )

   写真           イメージスケッチ


2020年1月14日火曜日

ブルーノ・タウトと「アルプス建築」

Bruno Taut

学生のとき、美術史の授業かなにかで、京都へ桂離宮と修学院離宮を見学に行った。建物のことはまったく記憶に残っていないが、先生がブルーノ・タウトのことを解説したのをかすかに憶えている。桂離宮の価値を世界中に知らしめたタウトの見方で、おそらく自分も桂離宮を見たに違いない。「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」展(汐留美術館)でブルーノ・タウトが大きく取り上げられていたので、それを思い出した。

ヒトラーの民族主義に反対していたタウトは、世界の平和共同体を夢見て、30 枚のスケッチからなる「アルプス建築」というコンセプトを発表する。 深い精神性のもとに、人間と自然が渾然一体となったユートピアを描いた幻想スケッチだった。1933 年にヒトラーが政権を握ると、タウトは自分が逮捕者リストに乗ったことを知り、日本に亡命した。すると初めて見た日本文化に彼の夢がすでに実現していることを知った・・・
(長谷川章著「ブルーノ・タウト研究」より)

2020年1月12日日曜日

「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」展とブルーノ・タウト

Bruno Taut

戦前・戦後にかけて日本に来て、大きな影響を与えた建築家やデザイナーの仕事を紹介する展覧会。(汐留ミュージアム、~3 / 22 ) アントニン・レイモンドやイサム・ノグチとともに、主役はやはりブルーノ・タウト。

ブルーノ・タウトといえば桂離宮だが、日本の筆と墨を使って、桂離宮の観察スケッチをした「画帖桂離宮」の展示がある。建物だけでなく、庭や樹木や池などとの関係性に特に注目している。「世界それ自体の中ですべてが有機的に関連しており、調和的な絆がすべての一つの生きた全体に統一して結合している。」とタウトは日本文化の世界観を紹介している。


2020年1月10日金曜日

横浜のアントニン・レイモンドの作品

Antonin Raymond

アントニン・レイモンドは、F・L・ライトが帝国ホテルを建てるとき助手として来日し、その後も日本に留まって設計事務所を持ち、戦後に至るまで活動を続けた。だから彼の作品のほとんどは日本にあり、今でも多くが現存していて、横浜にも3つほどある。

エリスマン邸
山手にある洋館のひとつで、外観は昔のアメリカ風住宅だが、インテリアはモダニズムデザインで、特に暖炉の造形は素晴らしい。(1926)

不二家
伊勢佐木モールにある店舗ビルだがガラスブロックの窓など、いかにも近代建築だが、今では、まわりの新しいビルに囲まれて埋没している感がある。(1938)

フェリス女学院 10 号館
今は大学の施設になっているが、元は企業の社宅だったものを移築したという。(1927)
(構内に入れないので、写真はネットから借用)





明日1/ 11 から汐留ミュージアムで、「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」(野暮ったいタイトルだ)という戦前の日本に影響を与えた建築家やデザイナーの展覧会があり、ブルーノ・タウトなどと並んでアントニン・レイモンドが取り上げられるようだ。

2020年1月8日水曜日

ミヒャエル・ハネケの監督の「カフカの『城』」

「The Castle」

「カフカの『城』」は、原作を忠実に映画化している。文章のイメージがそのとうりに視覚イメージ化されていて、ミヒャエル・ハネケ監督の腕が見事だ。

主人公 K は、城へ行って城主に会おうとするが、実現できない。色々な試みを執拗に繰り返すが、誰によってどういう理由で阻まれているのかも全くわからないままだ。

このポスターは映画のイメージをぴったり表している。城は「支配者」の象徴で、書類の山は、役人たちの「官僚機構」の象徴。下に小さく写っている人間は、主人公を惑わす村人たち。この権力の3層構造が立ちはだかっている。(映画で実際にこういう映像が出てくるわけではない)

ストーリーらしいものはなく、断片的な出来事をつなげていくだけの原作と同じく、映画も断片的な映像をプツプツつなげていく。原作は未完成のままだが、映画でも突然プツンと画面が暗くなって「原作はここで終わっている。」と字幕が出て終わりになる。物事に対して、合理的な判断や行動をするために必要な「座標軸」が無くなってしまった世界を描いたカフカを映像化するのに、もともとそういう映画を作ってきたハネケ監督はぴったりの適役だ。

2020年1月6日月曜日

サイレント映画を、活弁付きで観る

Silent movie

横浜にあるミニ・シアター「シネマ・ノヴェチェント」は、客席数がわずか 28 の日本最小を誇る(?)映画館。そしてフィルム映画にこだわっている。正月特別企画として、1920 年代のサイレント映画を活弁付きで上映する(2本立てで入場料 4000 円と高い)というので観に行った。映画が「活動写真」と呼ばれた大正時代のまま、弁士と生伴奏付きでサイレント映画を観るという貴重な体験ができた。


1本目は、「ロスト・ワールド」。学者が、絶滅したはずの恐竜がアマゾンの奥地にまだ生きていることを証明するために、捕獲して持ち帰ろうとする冒険映画。「ジュラシック・パーク」や「キングコング」などの元祖のような映画で、特撮技術も 100 年前にしてはなかなかのもの。オリジナルフィルムが完全な形で残っていないので、ストーリーが途中でブツ切れになってしまうのが面白い。

2本目が見たかった本命で、1922 年  F・W・ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」。小説の「ドラキュラ」を映画化したもの。有名な「カリガリ博士」や「メトロポリス」などと並んで、1920 年代ドイツ表現主義映画を代表する名作のひとつ。絵画の表現主義もそうだが、人間の内面の精神を描こうとする時代、映画もこのような、幻想映画や怪奇映画が盛んに作られた。

2020年1月4日土曜日

正月の富士山、朝と夕

Mt. Fuji,  Morning & Evening


富士山は、自宅からほぼ真西の方向、約 100 km 先。(望遠レンズで撮影)

2020年1月2日木曜日

ベストセラー「21 レッスンズ」と  アニメ映画「インサイド・ヘッド」

「21 Lessons」& Animation movie「Inside Out」

歴史学者・哲学者のハラリの世界的ベストセラー「21レッスンズ」は、人類の現在と未来をどう理解するべきかを鋭く洞察した本だが、その中に S F 映画についての章があり、2015 年のディズニー・アニメのヒット作「インサイド・ヘッド」について詳しく書かれている。4年前に受けた印象と全く違うことが書かれていたので、もう一度観てみた。


11 歳の少女ライリーの脳の中に、感情をコントロールする司令部があり、「ヨロコビ」「カナシミ」などの担当者が少女の感情や行動を制御している。同書によれば、わくわく大冒険とハッピーエンドで楽しく仕立てた映画ゆえに、ほとんどの観客が気づかなかった過激なメッセージが背後に隠されているという。「ディズニーの無数の映画で、主人公は危険や困難に直面するが、最後にはそれを乗り越えて正真正銘の自己を見つけ、自分の自由な選択によって勝利する。しかしこの映画は、その神話を情け容赦なく打ち砕く。ライリーは正真正銘の自己など持っておらず、自由な選択など一つもしていない。つまりライリーは、生化学的メカニズムによって管理されているロボットなのだ。」と言っている。

ロボット対人間の戦いという構図の S F 映画はたくさんあり、多くは、「心」を持つ人間が、最後にロボットに勝って自由を得る。しかし、そもそも人間の「心」は、生まれて以来、繰り返されてきた「操作」によって作られたものだから、ロボットがプログラムされているのと何ら変わりはない。「本当の自分」など存在しないことをこの映画は暴露しているというのだ。しかも映画は神経生物学の最新の知見をもとにしていて、架空の話ではないから、なおさら怖いと言っている。