John Martin:Joshua Commanding the Sun Still upon Gibson
19 世紀イギリスの画家ジョン・マーチンは旧約聖書を題材にした歴史画を多く描いた。この「ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュア」は、旧約聖書の古代イスラエルの物語「ヨシュア記」をもとに壮大なスペクタクルを描いている。(「ジョン・マーチン画集」による)
John Martin:Joshua Commanding the Sun Still upon Gibson
19 世紀イギリスの画家ジョン・マーチンは旧約聖書を題材にした歴史画を多く描いた。この「ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュア」は、旧約聖書の古代イスラエルの物語「ヨシュア記」をもとに壮大なスペクタクルを描いている。(「ジョン・マーチン画集」による)
「The Ten Commandment」
最近の世界情勢を見ていると、古い映画だが「十戒」(1956 年)を思い出す。旧約聖書の「出エジプト記」に記されている物語をそのまま映画化した作品だった。エジプトで奴隷労働をさせられていたイスラエル人が自由を求めてエジプトを脱出する物語だ。モーセが、流浪の民イスラエル人に定住の土地として「約束の地」カナンを与える、という神のお告げを聴く。このカナンが現在のイスラエルの領土に当たる。モーセはイスラエル人を引き連れてイスラエルへ向かう。途中様々な苦難に会うが、海に来るとモーセは、海を二つに裂いて人々を渡らせる。それが映画「十戒」の有名なシーンだ。
John Martin
19 世紀イギリスのロマン主義の画家ジョン・マーチンは歴史画を多く描いたが、多くは題材を聖書の物語からとっている。
「ソドムとゴモラの滅亡」は、旧約聖書の「創世記」にある、火による神の制裁の話をもとにしている。悪徳の街ソドムとゴモラの上に天から硫黄と火が降り注ぎ、これらの街の住民すべてが滅ぼされる。この物語にはイスラエル人やパレスチナ人などが様々登場するが、街が滅ぼされた後、再び復活して新しい世界が生まれるが、そこではイスラエル人が支配し、他の民族はその奴隷になる。これは現代まで続く中東の民族間対立とユダヤ選民思想の起源になっているという。(平松洋「週末の名画」による)
「WISH」
この映画に対してアメリカでは、批判が高まり、ボイコット運動も起きているという。それは映画がアラブ人側に立っているからでなく、その逆の理由による。現在のイスラエル・パレスチナ戦争でイスラエルがアラブの一般市民を虐殺をしていることに対して、若者を中心に反対の声が多い。そのなかで、ディズニー社はイスラエルを支援する寄付をしていることが発覚したという。だからこの映画はそのことを隠そうとする偽善的な映画だというわけだ。
ディズニー映画はいつも時々の政治や世論に影響されたり迎合したりしてきた。黒人差別の時代にはディズニーは、当然のように差別的な映画を量産したした。そして近年に差別反対の声が高まると今度はマイノリティの側に立った映画を作り始めた。例えば「リトルマーメイド」でマーメイドを黒人にしたりしたが、それは世論の批判をかわすためで、今度の「ウィッシュ」もそのひとつだと言われている。
Prophecy of universal peace Book of Isaiah
最近知ったことだが、ニューヨークの国連本部の建物に「イザヤ・ウォール」という壁があり、世界平和の理想が刻まれているそうだ。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、「イザヤ・ウォール」の名前どうり、これは旧約聖書の「イザヤ書」に書かれている「万国平和の予言」をそのまま引用したもの。旧約聖書は、イスラエル王国の建国から滅亡までを記した壮大な物語だが、その中に戦争がなくなり、イスラエルがいつの日か再び復活するという未来への希望が語られている。
アッシリア帝国によって滅されたイスラエルには異民族が移り住み、その支配下に組み込まれるという悲惨な時代に、絶望を押し返す未来への希望を旧約聖書は記している。それは、自分たちイスラエルの神ヤハウエが敵対する国を滅ぼし、イスラエルを救済するだろうという予言だ。イスラエルが全世界を支配して、諸民族がヤハウエに従うようになれば、この世から戦争がなくなり、世界は平和になるだろうという。つまり旧約聖書の「平和」とは、排他的で自民族中心的なイスラエル・ユダヤ民族主義の「平和」であって、多民族がお互いに認め合って共存するという普遍的な「平和」ではない。(以上、月本昭男「物語としての旧約聖書」による)
・・・・・このことが現在のイスラエル・パレスチナ戦争にもつながっているのだろう。
Belshazzar's Feast
今イスラエルがやっていることへの国際社会の非難に、イスラエルは背を向けている。我々がやっていることは、聖書に書かれていることを忠実に実行しているだけで何も悪いことではない、と考えているイスラエル人が多いという。聖書とは「旧約聖書」のことだが、今のイスラエル・パレスチナ問題の根源を理解するために、「旧約聖書」についてもっと知りたくなる。
「旧約聖書」は、イスラエル王国の建国から滅亡までの壮大な物語だが、その間イスラエル人がいかに他民族からの迫害にあって、苦難の道を歩んできたかが語られている。その物語は何度も宗教画として描かれてきた。レンブラントはもっとも有名で、旧約聖書を題材にした数十点の作品がある。
「ペルシャザルの饗宴」は、聖書の「ダニエル書」に書かれた一場面を描いている。バビロニア王国がイスラエルを滅ぼして、王のペルシャザルが開いた豪華な酒宴を描いている。何千人もの客を集めて酒をふるまい、金銀の食器はイスラエルから略奪したものだ。すると突然壁に人の手が現れ、解読不明の字を書き始める。捕虜になっていたイスラエル人のダニエルを呼んで読ませると、王は死に王国は滅びるだろうという神の予言の言葉だった。すると実際に王はその日に死んでしまう。やがてバビロニア王国もペルシャとの戦争に敗れて滅びる。これは紀元前500 年頃の史実だという。
Antarctic Exploration
昨日 12 / 14 は「南極の日」だった。ノルウエーの探検家アムンゼンが 1911 年のこの日に世界初の南極点到達に成功したことにちなんでいる。当時の南極探検はノルウエー、イギリス、日本の3国が先陣争いをしていたが、それについて最近はあまり語られない。昔、子供向けの本でこの冒険物語をわくわくしながら読んだものだが。
白瀬隊が帰国すると日本中が大歓迎ムードにわいた。当時は日露戦争で日本が勝った直後で、司馬遼太郎ではないが、日本全体が「坂の上の雲」を目指してチャレンジ精神にあふれていた時代だった。
「〇〇の日」、「〇〇デー」、「〇〇記念日」、が最近やたらと多いが、日本記念日協会という団体があって、そこに申請さえすれば、協会認定記念日として登録されるという。いろいろな業界団体が商売の足しにしようとどんどん登録するから、同じ日でも10 個くらいの記念日が重なって登録されている。食肉業界が 11 / 29 を「いい肉」の日にするなど、ほとんどが語呂合わせばかりだ。
俵万智の「サラダ記念日」は、そんな商売目的でなく純粋だった。『この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日』は一世を風靡した。平易な口語体で、ごく平凡な日々の思いを素直に歌にしていて、短歌の形を一新した。この歌について俵万智自身が解説していたが、これにはフィクションが含まれているという。実際に恋人に食べさせたのは唐揚げだったそうだが、爽やか感を出すためにサラダに変えたという。日にちを初夏の7月6日にしたのもさわやか感のためだが、といって7月7日では七夕という特別な日になってしまうので、日常感を出すために普通の日にしたという。
あれから 30 年以上たつ。歌集の写真は若々しい。しかし今も「サラダ記念日」は記憶の中に生き続けている。
「Memphis Belle」
あまり有名でないが、「メンフィス・ベル」(1990 年)というアメリカ映画がある。第二次世界大戦中に、ドイツを爆撃したアメリカの爆撃機の搭乗員たちを描いた戦争映画だが、この中に都市を爆撃する時の彼らの葛藤が出てくる。
ある出撃の日、厚い雲で視界が悪い。爆弾投下を強行すると一般市民を巻き込んでしまうから、雲が晴れて、標的の軍需工場が見えるまで飛び続ける。その間、ドイツの迎撃戦闘機の猛烈な砲火を浴びるが耐え続ける・・・
映画は、良心的だった彼らを美談としてたたえている。しかし彼らは特別であって、普通でないからこそ映画の題材になったのだろう。実際、ドイツのドレスデンや日本の東京でのアメリカの無差別爆撃で何百万人もの一般市民が犠牲になった。
実はこの映画はリメイクで、戦争中に同じ題名の映画が作られた。それはアメリカが自分たちは ”人道的” であると言うためのプロパガンダ映画だった。「メンフィス・ビル」の搭乗員たちの勇気ある行動は宣伝に利用されたのだ。そして究極の無差別爆撃が広島・長崎への原爆投下だったが、いまだにアメリカはその非人道性を認めていない。逆に、戦争を早く終わらせて、一般市民の犠牲者を無くすという”人道的”な目的だったと主張している。
・・・そして今。イスラエルの無差別攻撃で、何十万人ものパレスチナの一般市民が殺されている。しかし即時停戦を求める国際社会の声に背を向けて、イスラエルは攻撃をやめない。それをアメリカは支援し、武器供与も続けている。先日の報道によれば、 12 / 8 の国連安保理で、非人道的な攻撃をやめて即時停戦を求める決議案に各国(日本も含め)が賛成したが、アメリカ一国だけが反対したため否決された。
・・・ついでにいうと、第二次世界大戦でドイツと日本はともに敵対国だったのに、なぜアメリカはドイツではなく、日本に原爆を投下したのか? という疑問に対して、ドイツと違って日本はキリスト教の国でなく、白人の国でもなかったからだ、と説明する歴史学者が少なからずいる。つまり ”人道的” というときの ”人” に日本人は含まれていなかったことになる。真偽はわからないが、もしそうであれば、イスラム国であり非白人であるパレスチナ人を、非人道的なことだとは思わずに殺していることに納得がいく。
「TORA! TORA! TORA!」
今日 12 / 8 は、日本の真珠湾攻撃により、日米が開戦した日だが、この日にはいつも古い映画だが「トラ! トラ! トラ! 」(1970 年)を思い出す。真珠湾攻撃を史実に忠実にドキュメンタリータッチで描いていた。連合艦隊司令長官の山本五十六が攻撃開始命令の無線暗号文「ニイタカヤマノボレ」を受け取る場面から始まり、攻撃成功を伝える艦隊側からの無線「トラ・トラ・トラ」の送信で終わる。Expo
2025 年の大阪万博で、目玉として予定されていたドローン・タクシーの運用が実現不可能になり、デモフライトだけになるという。ドローンのモビリティはすでに世界中で実用が始まっていて、いまさら未来的な技術ではない。それさえ実現できないというのでは、「未来を見せる」という万博の役割は果たせるのか疑問になってくる。「パスト・フューチュラマ」という本は、「過去」の時代に、その時点で人々はどんな「未来」を夢見たのかを紹介している。映画の「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のようで実に面白い。その本に、過去の万博の出し物も出てくる。
1939 年のニューヨーク万博はテーマが「明日の世界」だったが、 GM 館で、未来都市のイメージを巨大なジオラマで作り、それを回転する観客席から見せる「フューチュラマ」という展示が大人気を呼んだ。そこでは人と車を分離する道路や、道路を立体交差させる高速道路のイメージがすでに提案されていた。
「Napoleon」
リドリー・スコット監督の最新作「ナポレオン」が公開されたので、さっそく観た。普通に知られているのとは違う独自のナポレオン像を描いていて、さすがリドリー・スコットだ。権力欲のかたまりで、戦争屋のナポレオンだが、個人生活では、死ぬまで奥さんの皇后(ジョセフィーヌ)を心から愛していた極めて人間的な人として描いている。
ナポレオンの戴冠式の場面が出てくるが、おおっ!と思った。ダヴィッドの有名な絵「ナポレオンの戴冠式」(下図)そのままの場面が出てくる。この絵は、大司教から冠を乗せてもらうべきなのに、それを無視して、自分で頭に載せてしまい、ひざまづいている皇后にもナポレオンが自ら冠を載せる、という瞬間を描いている。映画はこの絵をそのまま忠実に再現している。衣装などはもちろん画面の構図までまったく同じになっている。最高権力を手に入れたナポレオンの専横ぶりと、妻を愛する気持ちの両方をこの絵を使って表現している。
「9 / 11 : The Falling Man」
9.11 同時多発テロの日に、現場にいた新聞記者が撮影した写真「落ちる男」(The Falling Man)が問題になった。炎と煙の苦しさに耐えられず、超高層の貿易センタービルから飛び降りる男の写真だった。翌日の新聞にこの写真が載ると、あまりにショッキングだったので、批判が集まり、すぐにこの写真は封印されてしまう。以後この写真はメデイアで取り上げられることはなかった。
映画で、もっとひどいシーンが出てくる。酸素を求めて窓の外へ出て窓枠につかまっている鈴なりの人たちの姿だ。あまりにも残酷で、映画を最後まで見ることができなかった。それをここで出すのは、はばかれるが、ピントをぼかして出してみる。
「Lawrence of Arabia」
今から 100 年前の第一次世界大戦で、中東全域を支配していたオスマン帝国はドイツ側について参戦した。イギリスはオスマン帝国を内側から潰そうとして、各地のアラブ人に内乱を起こさせる。中東各地の部族に潜入して反乱軍の指導をしたのが、イギリス軍の諜報将校「アラビアのロレンス」だった。映画はその英雄的な活躍を描いている。ロレンスは反乱をそそのかすために、アラブの首長にイギリスが勝ったら、分け前として土地を与えて、独立国にしてあげると約束をする。映画でそのシーンが出てくる。地図の上に国境線を引いて、ここからここまであんたの取り分だよ、と言う。
戦争はイギリスが勝ち、オスマン帝国は滅びるが、イギリスは約束を反故にする。委任統治という形でイギリスが支配することになり、アラブ諸国はイギリスの植民地になってしまう。その一方で、やはり戦中にユダヤ人と交わしていたイスラエルの土地を与える、という密約は履行する。(戦費をユダヤ人資本家から調達するためだったという。)その結果、世界各地のユダヤ人が入植してきて、アラブ人を追い出したり殺したりして居住地域を広げていく。土地を奪われたアラブ人の怒りが、現在の戦争のもとになっている。
この時のイギリスの「二枚舌外交」が現在のパレスチナ・イスラエル問題の根本の原因だというのが歴史の定説になっている。ロレンス自身もイギリス政府に騙されていたことを知る。戦後ロレンスは、イギリス国内では英雄扱いされるが、結果的にアラブ人を裏切ったことを生涯後悔し続けたという。
(パレスチナ問題について詳しい歴史を知るには、臼杵陽「世界史の中のパレスチナ問題」がおすすめ。いま現在、中東で起きていることの意味がよくわかる。)
Alfred Hitchcock
ヒッチコック自身が自らの映画術を語る興味深い映画が公開されている。ヒッチコックファンとしてさっそく観た。冒頭で、映画は演劇と何が違うかについて語る。演劇は舞台と観客席がはっきり区切られていて、舞台で演じられている世界を観客は第三者的に外から眺めている。しかし映画は、観客が映画の世界へ入っていき、映画の一部になるような体験をすることができる。ヒッチコックは観客を映画の中に ”引きずりこむ” 演出を様々に工夫する。
一例として、「舞台恐怖症」という映画で、男が、いわくありげな家へ入っていくシーンでドアを閉めない。カメラは男の後をついていくので、観客は自分も男と一緒に家に入った感覚になる。その後で「バタン」とドアが閉まる音だけが加えられる。観客を映画に ”引きずりこむ” 演出だ。
The Falling Man
9.11 の同時多発テロの時に「落ちる男」という報道写真があった。炎と煙の苦痛に耐えかねて、貿易センタービルの高層階から飛び降りる男を撮っている。この写真は事件翌日の新聞に掲載されたが、あまりにショッキングなため、すぐに封印されてしまう。日本でもいまだに公にされることはない。
Scorsese
スコセッシ監督は現在でこそ巨匠と呼ばれているが、永い間、2流監督扱いされてきた。作品のほとんどが興行的に失敗してきた理由は、映画をハッピーエンドで終わらせることをしなかったためだと言われている。ハリウッド式の「売れる映画」を作ることを拒んできた。さらに、政治的・社会的に強い影響力を持つキリスト教保守派の伝統的な価値感や倫理規範に合わない映画をたくさん作ってきたこともスコセッシ監督への批判が高まった理由だった。
現在公開中の最新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」も救いのないラストで終わる。アメリカ先住民(インディアン)の居留地に突然石油が出て、彼らは豊かになるという史実にもとずく映画だ。そこに一獲千金を狙って白人たちが押し寄せてくるのだが、映画は先住民と白人との対比を鮮明に描いている。先住民たちは誠実で信心深いのに対して、白人たちは粗野で殺人も平気でやる人間だ。西部劇で描かれてきた白人対先住民の関係がこの映画では逆転している。そして数十人の先住民の女性が、強欲な白人たちの犠牲になって殺される。この映画で注目したいのは、先住民たちが神に祈るシーンがたびたび出てくることだ。女性たちが殺されるたびに神に救いを求めて祈る。その神はもちろん白人たちのイエス・キリストでなく彼らの神だが、彼らの「信仰」のあつさを強調している。キリスト教徒である白人は文明的であり、先住民は野蛮人であるという、ハリウッド映画が描いてきた人種の優劣構造を逆転させている。これは保守的なアメリカ人たちにはこころよいものではないだろう。
スコセッシ監督はたびたび「信仰」をテーマに映画を作ってきた。「沈黙/サイレンス」は、キリスト教が禁じられていた江戸時代に日本に布教に来た宣教師の物語。彼は幕府に捕まって、キリスト教を棄教するように迫られ、ひどい拷問を受ける。神の救いを求めて必死に祈り続けるが、最後まで神は「沈黙」したままで救いがない。心の中の「信仰」が揺らいでゆき、ついに踏み絵を踏むことになる。棄教すると、武士に取り立てられて、税関で宗教的な物品がないか検査する役人になるという、殺される以上に悲劇的な結末で終わる。神は本当に存在するかというキリスト教徒へ根本的な疑問を投げかけている。Expo
大阪万博が開催できるか危ぶまれているそうだ。そもそも、万博を日本でやると聞いたとき、「万博なんてまだあったの」という感じだった。インターネットなどない時代、未来の技術や異国の文化を目の当たりにできる万博は、最高の「情報メディア」だった。しかし、人・モノ・情報が世界を自由に行き交う現在では存在意義が薄い。時代遅れになった万博だから、撤退する国が続出しても当然だろう。
1851 年のロンドンが第1回の万博だった。会場の「水晶宮」は、最先端の技術を使った世界初のガラスの建築で、世界に衝撃を与えた。また、プレファブ工法を使った初めての建築でもあり、「工業化社会」への方向性を示すモニュメントだった。「未来を見せる」という万博の使命を果たしていた。
時代が下って、第二次世界大戦直前の1937 年のパリ万博は有名だ。世界の覇権争いをしていた二つの全体主義国家、ドイツ館とソ連館がエッフェル塔を挟んで、にらみ合うように向かい合って建てられた。不穏な時代を象徴するような光景だ。ドイツ館の設計は、ナチスの建築を一手に引き受けていた有名なシュペーアによる、列柱をテーマにした「ナチス様式」 のデザインだ。ソ連館は巨大な労働者の像が最上部に置かれ、モスクワに建設計画中だった「ソヴィエト宮殿」の縮小版のようなデザイン。どちらも全体主義国家の威容を誇ろうとするモニュメント建築で張り合っている。
「Blackhawk Down」
現在の中東の戦争で、イスラエルはテロ組織を殲滅するためだとして、民間人までも殺戮をしている。そのイスラエルをアメリカは支援をしている。アメリカはこれまで、「ユダヤ・キリスト教対イスラム過激派」という宗教的な対立軸を煽って、イスラム国に対して強硬手段に訴えてきた。そのきっかけが 9. 11 のテロで、アメリカ政府はテロ組織の撲滅という名目で、イラクなど中東に戦争を仕掛けてきた。今回もその延長線上にある。
9. 11 テロは、映画にも大きな影響を与える。 9. 11 後、アメリカ政府は「対テロ戦争」キャンペーンに協力するようにハリウッドの映画業界に要請する。それを受けて、アメリカ映画協会は、政府に協力する。「イスラムのテロは文明に対する攻撃であり、対テロは悪に対する戦いである。」というメッセージを映画によって国内外に伝えるべし、という取り決めをする。(木谷佳楠「アメリカ映画とキリスト教」による)
その趣旨にぴったり合致したのが「ブラックホーク・ダウン」(2001 年)という映画だった。イスラム国であるソマリアで、アメリカ兵がテロによって残虐に殺されてしまうのだが、アメリカ軍が攻撃を加え、テロリストたちを殺す。そしてヘリで帰還しようとするが逆に攻撃され、ヘリが撃墜されてしまう。取り残された兵士たちは勇敢に戦い・・・
この映画は、9. 11 の直後に公開されたので、アメリカが中東に報復攻撃することの正当性を裏ずける格好の材料になった。そして、アメリカ国民の愛国心を高揚させ、イスラムに対して団結して戦おう、という効果的なプロパガンダになった。だからアメリカ政府はこの映画を後押しして、大ヒット作となった。
Production Code
映画の研究書に必ず出てくるのが、アメリカにかつてあった「プロダクション・コード」の話だ。1930 年代、映画産業が巨大化するとともに、娯楽としての映画が文化への影響力が強まったことへの不安感が広まった。特に発言力の強い宗教団体が、公序良俗に反する映画への批判を強めるようになる。それに危機感をおぼえた映画業界は、「プロダクション・コード」 という自主検閲規定を作る。
規定は映画に厳しい目を向けているカソリック系の宗教倫理をほぼそのとうりに取り入れたもので、「性的不品行」「暴力などの犯罪」「神への冒涜」などの禁止事項が明文化された。下の写真は、規定の施行前(1934 年)と施行後(1936 年)の「ターザン」の比較で、女性の露出度や男との密着度などが大きく変化している。
An eye for an eye
「目には目を」は、やられたらやり返せという報復を煽る言葉だと一般的に思われているが、それは大間違いだと言われている。この言葉は旧約聖書から始まったのだが、目をやられたら目をやりかえすまではいいが、それ以上のことはしてはならないという、過剰な報復を禁じるのが本当の意味だという。敵対者に対する憎悪を掻き立て、歯止めの効かない報復の連鎖を禁じる律法なのだ。
中東で今、「目」をやられた国が報復として「目」どころか、人の命までも奪っている。それをやっているのが、旧約聖書を建国の根拠にしている国だ。
Daumier
19 世紀フランスのドーミエは「カリカチュア」の元祖といわれる画家で、革命や内乱などで混乱する当時のフランスで、権力者を批判する「毒」のある風刺画を描いた。
フランス革命後に再び王政復古して国王になったルイ・フィリップを皮肉っている。玉座に座ったまるまると太った国王が、なおも人夫が担いでくる食べ物を食べまくっている。右下では国王の食べ物のための税金を、役人が民衆から徴収している。左下では国王の尻から出る排泄物(勲章や地位)の恩恵にあずかろうと国会義員や官僚たちが群がっている。
「For No Good Reason」 Ralph Steadman
雑誌などでたまに見かけることのあるマンガだが、作者については知らなかった。「マンガで世界を変えようとした男」(2014 年)というドキュメンタリー映画を観て、イギリス人のラルフ・ステッドマンという人を知った。貧困、差別、暴力、戦争、権力の腐敗、などに対する抗議をテーマにしていて、マンガというより「カリカチュア」(戯画)というほうがふさわしい。”毒” のある社会批判という点では、バンクシーと同じだが、彼の表現には優しさとユーモアがあるのに対して、ステッドマンはもっと”毒々しい”。そして画力の高さに感心する。