2025年3月8日土曜日

「鯖を読む」

 

「鯖を読む」とは、年齢などを自分に都合よく変えてしまう、というお馴染みの言い回しだ。その由来は、痛みやすい鯖は市場で手早く売り買いしなければならないので、どさくさ紛れに数を誤魔化してしまうことから来ているという。

実際、寿司屋でも鯖は〆鯖ばかりで、生鯖はほとんど出てこない。しかし横浜から至近距離の三浦半島の松輪漁港には「松輪サバ」というブランド鯖がとれる。

漁港のすぐそばにある漁協直営の店があり、季節にはよく食べにいく。屋上には海一望のテラス席があり、初島も見える。鯖の季節でない時でも新鮮な地魚を食べられておすすめだ。

ところで、今日3/8は「サバ」の語呂合わせで「鯖の日」だそうだ。「ナントカ協会」という団体が、いろんな業界が宣伝目的で申請すると、金さえ払えば今日は「ナントカ記念日」だと片っぱしから認定してしまう。だからすべての「〜の日」がくだらない。「鯖の日」もそうで、3/8という鯖の季節から外れた日で、まさに「鯖を読んでいる」。


2025年3月6日木曜日

エッシャーの「画廊」

 Escher  「Print Gallery」

エッシャーの「画廊」は複雑かつ不思議な絵だが、どういう原理で出来ているかを「エッシャー完全解読」(近藤滋)が読み解いている。著者は理系の科学者なので、エッシャーがどうやってこの絵を描いたのか、その思考と制作の過程を自らシミュレーションしながら論理的に推論している。


上の絵の左下で、男が画廊で絵を眺めているのが窓越しに描かれている。絵は港町の風景で、その2次元の街並みが、3次元に変化しながら、絵の右上へ連続的に拡大している。そして街並みの一番手前の家につがっている。その家のひさしが、右下にある画廊の屋根になっている。その画廊の左はじに、絵を眺めている男がいて、その絵は元の港町の風景画だ。出発点からぐるりと一周して、もとの2次元の絵に戻ってくる。

右の図は「絵画」→「画廊」→「街並み」→「建物」→「画廊」→「絵画」と、4分割した各部分が、循環していることを示している。しかし、この4つを単に並べただけでは滑らかに繋がらない。各部分ごとに拡大・縮小を繰り返していてスケールが合わないからだ。

そのためには、各部分のつながり部分が曲線になるように歪めなければならない。そのためにエッシャーは、普通は正方形にするグリッドではなく、曲線状に歪めたグリッドを使っている。実際にエッシャーの習作スケッチの中に、この手描きのグリッドが残っているという。(右図)

このグリッドは、中央に向かって縮小を無限に繰り返していくので、最後は微小すぎて描けなくなる。「画廊」の絵の中央に白丸の空白があって、そこにエッシャーのサインが入っているのは、そのためだという。

著者は、このグリッドの上に「回廊」の各部分を当てはめて、原画を復元するシミュレーションを試みている(下図)。このグリッドは全て曲線だが、縦2本、横2本の直線部分がある。これを手がかりにして、各パーツを変形する。下右図のように長方形の図形を扇型に変形する。著者は、photoshop の「変形」を使って歪みをつけている。(自分でもこの変形を photoshop でやってみたが、簡単にできる。逆にパソコンのない時代に、エッシャーは手描きでこれをやったのだからすごい)


以上、同書の要点だけをごく簡単に紹介したが、実際はもっと詳細な説明がされている。その内容を理解しやすい Youtube 動画をネットで見つけたので、見てもらいたい。

なお上記では省略したが、最初に室内にあった絵が途中で屋外から見た絵として再び出てくる。これもこの絵のポイントのひとつで、「ドロステ効果」と呼ばれる一種の「画中画」だが、それもこの映像ではっきり見ることができる。

2025年3月5日水曜日

エッシャーの「爬虫類」

 Escher  「Reptiles」

エッシャーの有名な名作はいろいろあるが、この「爬虫類」もそのひとつだ。スケッチブックに描かれたトカゲのような爬虫類が立体になって画面から抜け出し歩き出す。そして最後に再び平面化して、スケッチブックの中に戻っていく。「2次元と3次元の間の連続的変化」と「循環」という、エッシャーの得意な二つのテーマが盛り込まれている。そしてもちろん、この絵を成り立たせているのは、描かれているたくさんの小物のリアルな描写だ。


2025年3月3日月曜日

エッシャーの「描く手」のトリック

M. C. Escher  "Drawing Hands"

「だまし絵」の名作として知られるエッシャーの「描く手」のトリックを「エッシャー完全解読」(近藤滋)が明かしている。




 画用紙から二つの手が立体化し、互いに相手を描く様子が描かれている。この絵の面白さは、「描くもの→描かれるもの」という階層性がなくなり、循環が生まれている点だ。このアイデアの元になっているのは、「ウロボロス」と呼ばれる二匹の蛇がお互いの尾を食い合う図だという。「ずっと食べ続けると二匹ともいなくなってしまうのか?」と想像させる面白さがある。

エッシャーはこのモチーフを「食い合う蛇」から「描き合う手」に変換した。そのことで、「二次元の絵が立体化する」というだまし絵のトリックになる。

・・・ここまではすぐに分かることだが、同書はさらに深い謎解きをしている。これが「紙に描いている」絵であることが重要で、エッシャーはそのことをやたらと強調している。なぜなのかをここでは詳しく紹介しきれないので、関心があれば同書を読んでほしい。

ヒントとして、同書からの図をあげておく。紙が斜めに画鋲で止められていること、紙の周囲が周囲が少しめくれていること、画鋲で引っ張られて中央の対角線上に斜めのしわができていること、などこれらすべてが「紙に描いている」絵であることを強調している証拠だという。

2025年3月1日土曜日

映画「ミッドサマー」

 Midsummer

5年くらい前のスエーデン映画だが「ミッドサマー」は衝撃的だった。スエーデンのある小さい村が舞台で、夏至(ミッドサマー)の日に祝祭が行われる。白装束の村人たちが集まり宴会をしたり、儀式めいたダンスが行われる。明るい光景だがどこか異様な感じがする。するとクライマックスは、崖の上に立った年寄りが下に飛び降りる。下は硬い岩だから瞬間に体は飛び散る。万が一死ななかったときは村人が用意したこん棒で殴り殺す。

これはフィクションではなく、スエーデンに昔からあった風習だという。生産力が無くなった年寄りを養うのはコミュニティにとって負担だから死んでもらうということで、日本にもあった姥捨山と同じだ。今では世界一の福祉国家と言われるスエーデンだからなおさら衝撃が大きい。


日本と同じく、高齢者医療が負担になっているスエーデンでは、寝たきりになった高齢者には人工的な栄養補給などの延命治療は行わず、「緩和ケア」という名の看取りを行うようになっているという。この映画は、そういうスエーデンの死生観のルーツを見せてくれているようだ。


2025年2月27日木曜日

「小田原評定」

 The Congress dances, but it doesn't progress

よく行く小田原だが、小田原城を見るたびに「小田原評定」の言葉を思い出す。「評定」(ひょうじょう)とは「会議」のことで、豊臣秀吉が攻めてきた時、小田原城で北條家の家臣たちが、籠城するか反撃するか降伏するかで会議をするが、3日続けても結論が出せず、その間に滅ぼされてしまったという話は有名だ。

現在でも会社などで「決められない会議」のことを「小田原評定」と言ったりする。日本人なら誰でも知っているこの言葉だが、小田原市民にとっては屈辱だろう。だからか小田原城の公式 HP の歴史の記述に、この言葉はひとことも出てこない。

これに似た言い方は海外にもある。秀吉の小田原侵攻どころでないプーチンのウクライナ侵攻だが、それへの対応で NATO 諸国はひとつにまとまれずにいる。話しあいばかりやっていて行動を起こさないから「NATO」は「No Action, Talk Only」だと皮肉られる。それは国連も同じで、何度会議を開いてもまともな決議ができず、機能不全におちいっている。

歴史上最も有名な小田原評定は「会議は踊る」だろう。ナポレオン失脚後に、欧州各国首脳がが集まり、戦後体制を決める「ウィーン会議」が開かれる。しかし各国の思惑が食い違って、まとまらない。だが連夜に派手な舞踏会が開かれる。そこで生まれたのが「会議は踊る、されど進まず」という有名な言葉だ。

これを題材にした 1931 年の映画「会議は踊る」は有名で、「ウィーン会議」に出席していたロシア皇帝が、連日の会議に飽き飽きして、街娘と逢瀬を楽しむというミュージカルだ。それほど会議が悠長だったことの証拠だろう。


2025年2月25日火曜日

映画「伝説の映画監督 ハリウッドと第二次世界大戦」

「Five Came Back」 

この映画は、ハリウッドの巨匠監督5人の第二次大戦中の活躍を描いたドキュメンタリーだ。5人はいずれも志願して戦場へ行って映画を撮った。それらの戦争ドキュメント映画や戦争プロパガンダ映画は、戦争に無関心だったアメリカ人の戦意高揚に大きな役割を果たした。(5人と当時の作品)

ジョン・フォード    「ミドウェー海戦」
ウィリアム・ワイラー  「メンフィス・ベル」
ジョン・ヒューストン  「アリューシャンからの報告」
フランク・キャプラ   「我らは何故戦うのか」
ジョージ・スティーブンス「ダッハウ強制収容所」

この映画は、5人が戦争の悲劇を目の当たりに経験したことで、戦後になるとそれぞれの作風が大きく変化したことに触れている。彼らの映画が戦争に大きく影響を与えたと同時に、戦争が彼らに大きな影響を与えた。

ジョン・フォードは戦前の「駅馬車」などの西部劇で有名だが、戦後になると、同じ西部劇でも単純な活劇でなく、「捜索者」のように人間を描くようになる。

ウィリアム・ワイラーは、自らの体験をもとに、復員兵の苦悩をテーマにした社会派ドラマ「我らの生涯の最良の年」を作った。

ジョン・ヒューストンは、「白鯨」などの文学作品の映画を撮った。

フランク・キャプラは、コメディ的な作風だったが、戦後はハートウォーミングな「素晴らしき哉、人生」を撮った。



2025年2月22日土曜日

インテリア デザイナーが主人公の映画  3選

 Interior designer in movie

映画のシーンで、インテリアデザインが重要な役割を果たしている例は多い。登場人物のキャラクラーを説明するのにインテリアが使われたりする。インテリアは、そこに住む人の生き方や価値観と密接に関係しているからだ。そういう映画のなかで、インテリア デザイナーが主人公の映画を3つあげる。


「ジョンとメリー」

モダンデザインの発祥の地はバウハウスだが、学長のグロピウスのオフィスはモダンデザインの象徴だ(写真右)。飾り気のない白い壁、幾何学的な窓、機能だけの照明器具、色は黄色いソファだけ・・・ 温もりや居心地の良さよりも、機能に徹したデザインだ。映画「ジョンとメリー」は、このようなモダンデザインの特質を利用している。

ジョン(ダスティン・ホフマン)はインテリアデザイナーで、アパートの最上階のペントハウス的な家の室内を徹底したモダンデザインにしている。真っ白な壁や家具などで、色があるのは茶色のソファだけだ。まさにグロピウス的モダンデザインのセオリーどうりだ。


ジョンはバーで女の子と偶然知りあう。二人とも飲みすぎてしまい何も覚えていないが、朝起きて気がつくと二人はジョンの部屋にいた。そのまま夕方まで一緒にいるが、女の子が去る時に、初めてお互いの名前を聞く。「僕はジョン」「私はメリー」。

まる一日つき合った二人だが、相手の名前にさえたいして関心がない。名前の「ジョン」と「メリー」も「太郎」と「花子」みたいな、どこにでもいる平凡な名前で、アノニマス(無名性)な現代人を象徴している。この映画は、人間関係が希薄な現代社会を、機能に徹しているだけで温もりのないインテリアデザインで視覚化している。


「インテリア」

原題が「Interior」でなく、複数形の「Interiors」であることに重要な意味がある。「インテリア(Interior)」には、「家の室内」の意味だけではなく、「人間の内面」という意味もあり、この題名にはその両方の意味が込められている。この映画は家のインテリアと、そこに住む人間との関係をテーマにしていて、「インテリアデザイン」というものの本質を扱っている。


主人公の女性は優秀なインテリアデザイナーだ。自宅のインテリアは彼女のデザインだが、家族の好みよりも、彼女自身の厳しい美学の追求に徹している。壁の色はすべて寒色寄りのオフホワイトの「アイスグレイ」で統一している。知的であり、秩序のある美しさがあるが、冷たく、人を寄せ付けない雰囲気がある。

このインテリアは、他人に対して心を閉ざしている主人公自身の精神の象徴になっている。そしてまた、温かみのない家族関係も象徴している。娘の家にまで行って、インテリアに文句をつける。その完璧主義はやがて家族の崩壊をもたらす。彼女は夫から離婚を言い渡されるのだ。

夫は再婚するが新しい妻は、主人公とは正反対で、明るく陽気な女性だ。彼女は真っ赤なドレスで現れる。白だらけのインテリアの中でそれは鮮烈で、この家の秩序を壊そうとするかのようだ。それを見た主人公は・・・



「ル・コルビュジェとアイリーン  追憶のヴィラ」

主人公の女性アイリーン・グレイは 20 世紀前半に活躍した実在のインテリアデザイナーだ。アイリーンは建築にも手を広げ、自分の別荘を設計した。それがこの映画の舞台になっているヴィラだ。

アイリーンはコルビュジェと交友があり、この別荘でも二人はいろいろと関わりあいながら設計を進めていく。アイリーンはコルビュジェの影響を受けながらも、その機能主義とは少し距離を置いている。コルビュジェの有名な言葉「住宅は住むための機械である」が映画でも出てくるが、それに対してアイリーンは「住宅は愛の営みを包む殻だ」と言い返す。この立場の違いが、この別荘が完成したとき、結果として現れる。純粋の機能主義とは違う、温かみのある人間寄りのデザインだ。


この建築は評判をよび、アイリーンは一躍有名になる。それに嫉妬したコルビュジェは壁に壁画を描いてしまう。そしてこの家は自分が設計したものだと宣伝する。コルビュジェが名声欲の強い俗物人間であることを映画は暴いている。

この建築はまだ現存している。そしてアイリーンのデザインした家具がたくさん登場する。100 年前のデザインだが、今でも売られている名作の数々だ。


2025年2月20日木曜日

映画「フェイブルマンズ」

Fabelmans

2年前のスピルバーグの映画を、もう一度ネット配信で見た。スティーブン・スピルバーグ監督の自伝的映画で、子供の頃に親からもらった8ミリカメラで 遊んでいた時代から、青年になって映画監督の助手に採用されるまでを描いている。後に傑作を次々に生み出していくスピルバーグの原点がわかって興味深い。

中学生の時に家族でキャンプに行ったとき、その一部しじゅうを撮影したエピソードが出てくる。帰ってから編集機で編集していると、撮っている時には気づかなかったことが写っている。いっしょに行った父親の友人が母親とキスをしているのが画面の片隅に写っているのだ。ショックを受けるが、母親思いのスピルバーグはそのシーンはカットして家族に見せる。映画は必ずしも真実を語るわけではない、ということを自ら体験したのだ。

もう一つは高校生時代のエピソードで、ユダヤ人のスピルバーグはいじめにあう。いじめるのはハンサムでカッコいいクラスの人気者だ。撮影係を任されていたスピルバーグは、卒業記念パーティーで思い出ムービーを上映する。そこには、いじめっ子がアホのような姿に描かれている。実写フィルムであっても、編集の仕方で事実とは正反対の意味を持たせることができるという「映画の力」を実感する。

映画作りをあきらめきれないスピルバーグ青年は、大学を中退して、大手映画会社に監督助手として採用される。その監督があこがれの巨匠ジョン・フォード監督だ。初めて挨拶に行った時のエピソードがラストで出てくる。おどおどしながら部屋に入っていくと、壁じゅうにフォード監督の映画のポスターが貼ってある。「駅馬車」「捜索者」「静かなる男」「怒りの葡萄」など名作の数々に圧倒される。

フォード監督は、壁の写真のうちの2枚を指さして、これについて説明しろという。「馬に乗った2人の男が遠くを眺めていて〜」などと言うと「バカもん!」とフォードにしかられる。「一枚は地平線が画面の下の方にあり、もう一つは上の方にある。絵画では、真ん中に地平線がある構図は最低だが、映画も同じだ。映画は絵画と同じ芸術だということを忘れるな。」と言われる。「じゃ頑張れよ」と言われて部屋を出るまでわずか3分間だが、スピルバーグの映画人生を決定づける瞬間だった。


2025年2月18日火曜日

「80 歳の壁」の読み方


3年前に、和田秀樹という医師が書いた「80 歳の壁」が超ベストセラーになり、その後も女性向けの続編が出てまたヒットしている。なぜこんなに人気なのか、それは今まで出ている”高齢者向け健康ハウツー本” のたぐいと全く違う視点で書かれているからだ。

普通の本が「健康で長生きするためにはどうするべきか」という観点なのに対して、著者の本に一貫しているのは「人間はやがて死ぬのは当たり前だから、長生きばかりを考えず、残りの人生を楽しく生きる方がいい」というスタンスだ。だから「80 歳の壁」を超えてもっと長生きする秘訣を教える本ではない。

「高齢者は健康診断を受けるな」と強く主張していることに、著者の考え方が凝縮されている。健康診断では、たとえば血圧について、健康な人の平均数値と比べた数値データだけで健康度を判断する。しかし著者は、高齢者は血圧が高いのが当たり前で、そんなことで我慢や自制の生活をするのは馬鹿らしいと言っている。

だから著者は「お酒の好きな人は高齢になったからといって控えるのではなく、飲み続けなさい。」と言っている。そのことで寿命が縮まるかもしれないが、飲んで毎日を楽しく暮らした方がよっぽどいい、ということだ。食べ物にしても、塩分や脂分が多い食事は控えろとよく言われるが、そんなことは気にぜず、食べたいものを食べて幸せに過ごそうと著者はいう。つまり健康診断は、あれはダメこれはダメと言って、高齢者が好きなことをすることに制約をかけるから受けるなという意味だ。

この主張について、間違った理解をする人もいるから気をつけたい。例えば、自分は長生きしたいから、もう健康診断を受けるのは止めよう、と思ってしまうことだ。著者は長生きするために検診を受けるなと言っているわけではない。著者が一貫して、「高齢者は『幸齢者』になれ」と言っているのは「長生きを考えるよりも残りの人生を『幸せ』に暮らそう」ということだ。もっというと、「寝たきりになってでも長生きしているほうが『幸せ』ですか?」ということだ。


2025年2月16日日曜日

製鉄会社の工場見学

Steel factory tour 

日本製鉄の US スチール買収計画が政治問題化してゴタゴタが続いている。それで、数年前に製鉄工場の見学をしたことを思い出した。湾岸道路を走っていると、川崎のあたりで JFE の大きな工場が見える。いつか見に行ってみたいと思っていたら、チャンスが来た。「夏休み子供工場見学会」の募集があったので、保護者を装って子供たちに紛れこんで見学した。

製鉄の全工程が見られるが、圧延工程がいちばん迫力がある。真っ赤に溶けた鉄がローラーの上を行き来して薄い板にしていく。騒音と熱がすごい。

しかし、工場全体すべてが写真撮影禁止になっている。百年以上も続いている成熟産業の製鉄に今さら企業秘密があるのかと不思議に思った。しかしラインの途中に板で覆って見えなくしている場所がある。この箇所が特に機密性が高いらしいと察した。そして、まだ製鉄にもイノベーションの余地があるらしいことを感じた。

US スチールが日本の製鉄会社に買収されることを望んでいるのは、日本にしかない高度技術を供与してもらうためだといわれている。それは普通の鉄の3倍もの強度があり、自動車のシャーシなどの重要部分に絶対必要な高性能な鉄の製造技術だという。工場見学のとき、板で隠されていたのは、そのような核心的な工程だったのかもしれない。

「溶鉱炉」

2025年2月14日金曜日

「エッシャー完全解読」その2

M.C.Escher 

前回の続き。「エッシャー完全解読」の第2章で、有名な「物見の塔」を解析している。

この絵は、「ネッカーの立方体」を元ネタにしているというのは有名だが、絵の左下に「ネッカーの立方体」をいじっている若者を描くことで、エッシャー自身もそのことを認めている。しかし漠然と見ているだけでは、その不可能図形を使ってなぜこんなにいかにもありそうな自然な絵を描けたのかはわからない。それをこの本は、手品師のトリックを暴くように解析している。簡単にそれを紹介することはできないので、図だけを示しておく。関心のある向きは本を読んでいただきたい。


2025年2月12日水曜日

「エッシャー完全解読」

 M. C. Escher

「エッシャー完全解読」というすごい本が出た。著者によれば、エッシャーの絵には、よく知られている程度のトリックではなく、もっと複雑な仕掛けがあり、エッシャーはそのことを生涯隠し続けていたという。医学者である著者は科学的な方法でその謎を解き明かしている。

まだ読み始めなので、第1章の「上昇と下降」を紹介する。この作品は、不可能図形として有名な錯視図形「ペンローズの階段」をヒントにしている。見るからに不自然な「ペンローズの階段」と比べてエッシャーの「上昇と下降」は、本当にありそうなリアリティがある。それはエッシャーの絵が透視図法で描かれているからだと指摘している。気が付かなかったが、言われてみれば確かにそうだ。


以上は簡単すぎる紹介だが、本にはもっと詳しい説明がある。おすすめの本だ。


2025年2月11日火曜日

今日は「建国記念の日」

 

今日 2 / 11 は「建国記念の日」だ。「建国記念日」でなく、あいだに『の』が入った奇妙な記念日だ。どこの国にも建国記念日はある。アメリカはイギリスから独立した「独立記念日」、フランスはフランス革命の「革命記念日」、中国は毛沢東の共産主義政権成立の「国慶節」など、革命や独立の日を建国記念日にしている。だから記念日の日付ははっきりしているが、日本の場合、なんの日をもって「建国」にするか統一的な考え方がないために、とりあえず戦前の「紀元節」だった 2 / 11 にした。

戦前の「紀元節」は、神武天皇が紀元前 660 年の 2 月11日に即位したという「古事記」の記述を根拠にしていた。しかし紀元前 660 年といえば、縄文か弥生の時代で、ほとんど神話の世界だ。学術的な証拠がない「紀元節」だが、軍国主義時代に国民の愛国精神を高めるために利用された。

戦後に GHQ の命令で「紀元節」は廃止されたが、その後その復活を求める声が上がりはじめる。しかしそれに反対する層も多く、政治的対立の争点になった。その結果出来上がった妥協の産物が、「建国記念日」でなく、「建国記念の日」だ。

国によれば、この日の趣旨は、「建国を祝い、国を愛する心を養う」とされているが、その言葉どうりにする人は一人もいないだろう。


2025年2月10日月曜日

「肌理(きめ)の遠近法」を使った絵画

Texture perspective


人間は環境を「視知覚」で認識しているが、J. J. ギブソンの名著「生態学的視覚論」は、そのメカニズムを詳しく研究している。その中に「肌理(きめ)」の話が出てくる。ガラスのように均質で滑らかな面の物質は例外的で、ほとんどの物質の表面は細かい斑点状の肌理をもっている。写真はギブソンがあげているいろいろな物質の肌理の例。(木目、雲、草、布地、水面、小石)



絵画で遠近法といえば、普通は「線遠近法」だが、他にも「空気遠近法」など色々な種類があるが、「肌理の遠近法」もそのひとつ。草原の草や、砂利道の石などによる地面の肌理(きめ)を、近くを大きく粗く、遠くを小さく密に描くと、人間は遠近感を感じる。右はその原理図。建物などの直線要素がない風景では線遠近法が使えないから、この方法が役に立つ。「肌理の遠近法」を使った絵画の例を探してみた。

ゴッホの「夕日の麦畑で種子をまく人」は分かりやすい例で、手前と遠景とで、麦畑の地面の肌理の粗密を変えて、遠近感を出している。


ワイエスの「クリスティーナの世界」は、草原の手前の草を一本一本細かく描いているが、遠くはイエロー・オーカーのほぼ均一な色面になっている。


水面の肌理の例は、モネの「ラ・グルヌイエール」がある。手前のさざ波が荒く、遠くへいくほど細かく密になっていく。


ピサロの「ルーヴシェンヌの乗合馬車」は、雨に濡れた道路が光を反射して、美しい肌理が見えている。


ミレーの「子供達に食事を与える女性」の家の石壁で、手前の肌理が粗く、向こうにいくにつれて細かくなっていく。




比較のために、「肌理の遠近法」を使っていない例として点描画のスーラの「グランド・ジャット辺のセーヌ川」をあげる。同じ大きさの点を、同じ密度で全体を埋めていて、肌理が均一になっている。だから奥行き感のない、平面的な絵になっている。スーラが、空間より色彩を重視しているためだ。


2025年2月8日土曜日

相関関係と因果関係の混同

Correlation & Causation 


例えば

朝食を摂らない子供は、学校の成績が悪い傾向がある』は「相関関係」で、
朝食を摂らないと、子供の成績が悪くなる』は「因果関係」だ。

つまり

『統計的にみて、朝食を摂る / 摂らないが、子供の成績に影響している傾向がある』 
が「相関関係」
『朝食を摂らないことが「原因」で、子供の成績が悪いという「結果」をもたらす』 
が「因果関係」

ところが

このふたつは混同されやすい。「相関関係」を聞いた親が、今まで食べなかった子供に朝食を食べさせたとしても、ほとんど成績が上がる結果にはならないだろう。朝食を食べないことが原因で成績が悪くなるという「因果関係」は何ら証明されていないためだ。成績が悪い原因は例えば、そもそも勉強嫌いなどで、朝食は関係ない可能性が高い。

2025年2月6日木曜日

絵本「猫と悪魔」

「 The Cat and the Devil」

大昔、子供が小さい頃に買った「猫と悪魔」という絵本が出てきてびっくりした。こんな本があったことはすっかり忘れていたが、著者がジェームス・ジョイスだったということにまたびっくりした。 20 世紀文学に革命を起こしたジョイスが絵本を書いていたとは今では忘れていたが、当時は「ユリシーズ」を読んでいたので、その関係でこの絵本を買ったのだろう。

この本は旧仮名遣いで訳文が書かれている。例えば「いつでも川を渡れるやう、橋をかけてあげませう」などで、訳者の円谷才一が正しい日本語で書くためだと後書きで主張している。他にも幼児向け絵本でありながら、漢字をそのまま使っていたりして、文学者である円谷才一のこだわりが詰まっている。

挿絵がジェラルド・ローズという、たくさんの有名絵本の絵を手がけた絵本画家の第一人者だ。