2025年6月30日月曜日

見逃した「ミロ展」

 Miro

「ミロ展」が昨日で終わった。最終日に行くつもりだったが、真夏日に上野駅から都美術館までの”遠い道のり”を歩く勇気がなくてあきらめた。代わりに現代美術史の本で、ミロについて読んでいる。

高階秀爾の「近代絵画史」のミロの解説にはこうある。「自然に対する素朴な念を、天真爛漫に歌い続けた。太陽や月や星などの自然の世界を、奔放な造形力を駆使して、画面に翻訳していった。また女性や動物などの形が登場するが、それらはほとんど記号化されている。」

これはミロに対する定番的な見方だが、ジョルジュ・ケぺシュの「The Visual Arts Today」には、やや違ったことが書かれている。「縄跳びをする少女と女性と小鳥たち」(カラー写真をネットで探したが見つからなかった)が載っていて、それについて解説している。

今度のミロ展にこれがあったかどうか知らないが、ちょっと不気味な絵で、ミロの普通のイメージとはだいぶ異なる。優雅な題名と違って、少女の顔には黒いシミのようなものが重なっている。縄跳びの縄は地面に落ちたままだ。

その文章の中で、「cruel grace」という言葉が出てくる。直接的な意味は「残酷な優雅さ」だが、一見すると美しく見えるものが、実は残酷な本質が隠されていることを表す際に使われる。例えば悲劇的な運命に翻弄される人物や、過酷な状況で戦う人間の気高さを表現するときなどに使われる。

そして著者は、現に見たものよりも、見たものの裏に隠れているそれ以上の「リアル」をミロは描いている、と言っている。この絵の場合、それが具体的に何を指しているのかは言及していないが、推測するに、この絵が終戦直後の 1947 年の作であることから、同じスペイン人のピカソが「ゲルニカ」を描いたのと同じく、戦争の悲劇を描いていると思うのは、うがちすぎだろうか。

2025年6月28日土曜日

「コンストラクション」

 「Construction」

建設中のマンションの風景。むき出しになっている鉄骨が面白くて描いた。公募展に出品。 「コンストラクション」  アクリル 50 号



2025年6月26日木曜日

日本の銅板画作家 清原啓子

 Keiko Kiyohara

前々回、ブレスダンについて書いたが、翌日の同じ日経新聞(6 / 25)の文化欄コラム「塔のものがたり」に銅板画作家の清原啓子が紹介されていた。この人はまったく知らなかったので初めて見る作品だがすごい。

「魔都霧譚」という作品だが、戦前の魔都・東京のイメージを描いているという。奇怪な塔が3本あり、手前には日比谷公園の噴水があり、遠くには高層ビルの夜景が見える。幻想絵画だが、ミステリー小説の「魔都」からイメージを得ているそうで、彼女自身の精神世界を表しているという。

前々回書いた同じく銅版画作家のブレスダンから影響を受けたそうで、似た作品もある。下の作品はネットよりの画像。怪奇的幻想絵画といえる、日本人には珍しい作家だが、38 年前に31 歳で夭折したという。




2025年6月24日火曜日

エリック・デマジエールの「塔の中の図書館」と、映画「薔薇の名前」

Erik Desmazieres  

日経新聞(6 / 23)の文化欄のコラム「塔のものがたり」でエリック・デマジエールの「塔の中の図書館」が取り上げられていた。それで 10 年ほど前に買ったデマジエールの画集を眺めている。

この「塔の中の図書館」はデマジエールの最も有名な作品だが、架空の図書館の迷宮的イメージを描いている。何階層もある高い塔の内部の壁にぎっしりと本が並んでいる。上と下に渡り廊下があって、人が行き来している。

この絵に感じる目がくらむようなスケールの大きさは透視図法から来ている。天井は真上に見上げるほど高いが、ちらっと見えている真下の床面ははるかに遠い。上下の視野角がほぼ 180° なのが 目がくらむ理由だ。手すりのない渡り廊下を書物を持って通っている人たちは奈落の底へ落ちてしまわないかと想像してしまうのも目のくらみを増幅している。

この作品は、アルゼンチンの作家ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」をもとに描かれている。その小説は、中央に巨大な換気孔を持つ六角形の閲覧室の積み重ねになっていて、それが上下に際限なく続くなど、迷宮的な図書館が緻密に描写されている。デマジエールはその小説を視覚化している。

我々には、図書館に対するこのような迷宮的なイメージは全くないが、ヨーロッパでは古くからかなり普通だったようだ。そのことがわかるのが映画「薔薇の名前」だ。この映画もボルヘスの小説「バベルの図書館」がもとになっている。中世のイタリアが舞台で、ある修道院で起こった連続殺人事件の謎を解き明かすために主人公の修道僧がやって来る。やがてそれを解く鍵は、修道院の中にある図書館に所蔵されているある本にあることを突き止める。そしてその本を探すために図書館へ侵入する・・・

そこはまさに迷宮で、通路と階段が複雑に入り組んだ構造になっている。あちこちには人が入れないような仕掛けがしてある。デマジエールの絵画とまったく同じイメージだ。

中世では、図書館は修道院の中にあったが、それは人に本を読ませる場所ではなく、逆に本を読ませないように隠す場所としての図書館だった。古今東西の「知」が集積した図書館の本を読むことで人々が目覚め、キリスト教による世界の支配に対する疑念が湧くことを恐れた。

 

2025年6月22日日曜日

映画「メガロポリス」

 「MEGALOPOLIS」


公開が始まった映画「メガロポリス」を見た。不評なようで、映画館はガラガラだったが、個人的な評価は”大絶賛”だ。コッポラ監督の世界観が爆発している。

「メガロポリス」の題名から、名画「メトロポリス」と何らかのつながりがあるのだろうと予想していたがそのとうりだった。「メトロポリス」は「大都市」の意味で、語源は古代ギリシャの都市国家から来ている。1927 年のこの映画は、100 年後の未来の都市を描いた最初の SFだったが、それは文明が発達したが、分断されたディストピア社会だった。そして「メガロポリス」は「メトロポリス」よりさらに大きい「巨大都市」の意味だが、「メトロポリス」から 100 年後のこの映画も文明がさらに発達しているが、滅亡寸前の都市を描いている。だから映画「メガロポリス」は「メトロポリスの」現代版といえる。  

「メガロポリス」の舞台は未来のニューヨークだが、古代ローマに見立てている。都市の名前が「ニューローマ」で、登場人物の名前が「キケロ」「カエサル」などで、衣裳も古代ローマ風だ。ローマ帝国は、植民地から得た富によって高度に文明が発達したが、その豊かな社会は享楽的になり、やがて滅亡していった歴史になぞらえている。

市長選挙が行われていて、保守派の現市長と、改革派の若手が争っている。「メトロポリス」では労働者と資本家の対立だったが、「メガロポリス」もそれと似ていて、富裕層と貧困層との分断が激しい社会だ。荒廃した都市を救うためにどうするかが争点になっている。財政難を救うために銀行と癒着して、立て直しを図ろうとする現市長に対して、対立候補の若手建築家は、環境にやさしい持続可能な都市に作り変えようと主張する。こういう設定が現在のアメリカ社会の状況を想起させて、テーマがとても現代的だ

また「建築」が映画の大きなテーマになっているのも特徴だ。主人公の建築家が、新しい都市を構想しているシーンがたびたび出てくる。 T 定規を持っていて、それが「スターウォーズ」のライトセーバーのように光っている。今では使われなくなった T 定規が未来的な道具であるように描いているが、これも「レトロ・フューチャー」の小道具だ。無機的になりすぎた建築をもっと人間的なものに回帰しようという主人公の思想を象徴させているようで面白い。

罵り合っていた二人の市長候補は最後に仲良くなるが、これも「メトロポリス」と同じ構図だ。この和解によって、ディストピア映画でありながら、未来への「希望」を抱かせるエンディングになっている。そしてその仲介をするのが若い女性で、これも「メトロポリス」と同じだ。


2025年6月20日金曜日

ルドンの ”師” ブレダンの幻想絵画

Redon &  Bresdin

ルドンが若い頃、師事したのがロドルフ・ブレスダンだった。ブレスダンは美術館の企画展でよく見るが、今回の「ルドン展」でも「善きソマリア人」が参考出品として展示されていた。

熱帯の深い森の中で、旅する人間が馬と一緒に食肉植物に食われている。小さい絵なので見えにくいが、顔を近づけて見ると、人間も馬も首が無い。

ブレスダンはアメリカ大陸をあちこち旅しながら、森のスケッチをした。それをもとに怪奇な幻想絵画を描いた。そのひとつ「死の喜劇」も有名だが、樹が異様に曲がりくねっていて、生きた怪獣のように見える。まわりには樹が食った人間の骸骨が転がっている。

初期のルドンは、このようなブレスダンの幻想絵画から影響を受けた。今度のルドン展で「浅瀬(小さな騎馬兵のいる)」というエッチングの作品が出ていたが、これも奇怪な形をした岩山が描かれている。ブレスダンのアドバイスを受けながら描いたという説明があった。そして後のルドンの「黒の時代」の幻想絵画のイメージのもとになっていることがわかる。


2025年6月18日水曜日

オディロン・ルドン展

 Odilon Redon

オディロン・ルドン展(パナソニック汐留美術館)を閉幕まじかでギリギリ鑑賞。ルドンといえば、「黒の時代」の木炭画と、それをもとにした石版画だが、この展覧会でその現物のすべてを見ることができる。

石版画集「エドガー・ポーに」の一様だが、ルドンは、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説からインスピレーションを得ていた。なおこの気球は、1878 年のパリ万博で、世界初の、観客を気球に乗せて上空からパリの眺望を楽しませたことをモチーフにしている。(同じことを今度の大阪万博でドローンでやろうとしていたが失敗してしまった)

初期の「黒の時代」から晩年にかけて、対照的にカラフルなパステル画に移行していくが、既存の解説書では、なぜそうなったかがあまり説明されていない。しかしこの展覧会では、すべての段階でのルドン作品が順に展示されているので、その変化は突然起こったのではなく、必然性があって徐々に移行していったことがよくわかる。

例えばこのパステル画「ポール・ゴビヤールの肖像」は飾り気のない素描のような人物画だが、木炭デッサンのクロスハッチングのようなストロークを活かしている。木炭とパステルは似たような画材なので、ルドンは木炭の延長のような感覚でパステルを使っていたのではないか。

そして晩年の華やかなパステル画「グラン・ブーケ」ももちろん展示されている。この絵は普段は三菱一号館美術館に常設展示されている。逆にこれぐらいしか身近に見ることできないルドン作品全体を体系的に見ることができるこの展覧会は貴重だ。

(なおすべての日が日時指定の事前予約制になっていて、かつ残りの枠が少なくなっているので、これから行こうという人は要注意)

2025年6月16日月曜日

アルバート・ビアスタットの絵画と西部劇映画

 Albert Bierstadt &「Once Upon a Time in the West」

鉄道が登場する西部劇映画はとても多い。西武劇の時代は19 世紀の、西部開拓のための鉄道が西へ西へと伸びていった時代だったからだ。典型的なのが「ワンス・アポンナ・タイム・イン・ザ・ウェスト」だ。オープニングで、列車が去ると、そこに列車を降りた主人公のガンマンが立っているというシーンが有名だ。


ストーリーは、鉄道会社が鉄道建設のために、個人の土地を奪おうとする利権争いがテーマになっている。鉄道建設の現場のシーンも出てくる。




話は飛ぶが、19 世紀にアルバート・ビアスタットというアメリカの画家がいた。未開拓のアメリカの自然を描いた「ハドソン・リバー派」のひとりだが、主に西部の大自然を描いた。この「シエラ・ネバダ山脈」は有名で、壮大な自然を幻想的に描いている。ビアスタットは、西部各地を旅してスケッチをして、それらを合成して、実際にはない理想的な風景を作り上げた。巨大なキャンバスに非常に精密に描いた写実絵画で、「アメリカン・リアリズム」の源流のひとりといわれる。


このことについて、「アメリカン・リアリズムの系譜」(小林剛)のなかで面白い指摘がされている。

「19 世紀のアメリカ人にとっての自然は、手付かずの荒野としての自然といったイメージであった。そのイメージを描いたビアスタットのような風景画に魅せられたアメリカ人たちは、大陸横断鉄道を使って、自然を実際に「見る」ツアーが盛んに行われた。だから当時の風景画や風景写真で、自然の風景のなかに鉄道の線路がまっすぐに伸びていくという構図が頻繁にあった。ところがその「見る」欲望は、やがて鉄道を使ってその土地を開拓して「所有」する欲望になっていった。」

まさに西部劇「ワンス・アポンナ・タイム・イン・ザ・ウェスト」と、ビアスタットの絵画が結びつく話で面白い。


2025年6月14日土曜日

ハイパーリアリズムの絵画

 Hyperrealism

「ハイパーリアリズム」は超写実主義の絵画をいうが、多くは写真をもとにするので「フォトリアリズム」とも呼ばれる。さらにはそれ以前の、ワイエスやホッパーなどの写実主義も含めて「アメリカンリアリズム」と呼ばれ、アメリカ美術史の主流をなしている。

写実主義の殿堂「ホキ美術館」へ行くと、来館者は「写真みたいだ!」と感嘆している。実際、展示されている絵の多くは、意図して写真に見えるように描いている。しかし「ハイパーリアリズム」はそうではなく、写真を利用しながらも、写真以上に「現実」をありのままに描こうとする。既存の価値観に依存した「美しい絵画」ではなく、「そのものズバリ」を描こうとする。

モデルを美しく、あるいは立派な人間として描こうとする一般的な人物画と違って、ただズバリ「ありのまま」を描いている。


どこにでもあるような裏ぶれた店を描いていて、決して「絵になる風景」ではない。しかし傷だらけの車まで含めて、隅々まで忠実に「現実」を描いている。


2025年6月12日木曜日

イラストの手法「ヴィネット」

Vignette

「ヴィネット」(Vignette)という言葉は、フランス語の「ぶどう」という意味の「ヴィーニュ」(Vigne)から来ている。中世の装飾本の挿絵に「ぶどう」の「つる」がモチーフに使われた。各ページの周辺に文字を囲むようにぶどうのつるが描かれている。

このことから、イラストレーションの手法としての、「ヴィネット」(Vignette)になった。雑誌の挿絵や広告で盛んに使われる。絵画(タブロー)との違いは、小さいサイズの絵で、スケッチ的ないし素描的な描き方の、軽妙な表現が特徴。また画面全体を埋めるのではなく、余白の面白さを活かす。さらに印刷媒体に使われることから、テキストとの関係を意識することも重要になる。かつて集めたスクラップのなかからいくつかを紹介。





2025年6月10日火曜日

映画「THE DAYS」

「THE DAYS」


映画「THE DAYS」のネット配信(NETFLIX)が始まった。 福島原発の事故の一部始終をドキュメンタリータッチで描いた再現ドラマだ。入念なリサーチに基づいていて、あの日、関係者たちはどう動いたかが克明に描かれている。

巨大津波で水没した原発は、全電源を失い、冷却機能を失った原子炉はメルトダウンの危機が刻々と迫っている。所長以下職員たちは放射線の危険を顧みず、原子炉建屋に入って決死の復旧を試みる。

ところが、東京の東電本社の幹部たちは、現場の所長に電話で怒鳴り散らすだけで何も手を打つことができない。それどころか悪戦苦闘している現場の妨害をしている。さらに本社の経営トップの記者発表では、記者の質問にまともに答えられず、トンチンカンぶりを露呈してしまう。この事故は津波によるものではあるが、人災とされる所以だ。

もうひとつの人災は首相だった。現場の状況を把握できない首相はいらついて、まわりの関係者を怒鳴り続ける。最後に我慢できなくなって現地へ乗り込んでいく。そして所長に状況を説明しろと迫る。このことは当時から現場の邪魔をしているだけだと批判されていた。

連日行われた官房長官の記者発表が今でもはっきり記憶に残っているが、映画でもその通りに描かれている。深刻な緊急事態であるにもかかわらず、住民の避難を指示しない。「健康被害の恐れはないので、自宅に止まってください」と言い続けた。これも被害拡大の原因になった人災のひとつだった。


おりしも、先週6月6日に東京高裁が、東電旧経営陣の法的責任を認めない判決を下した。(下は6/7. 日経新聞記事)この判決に納得できない人は多いだろう。この裁判は津波の予見性に関わるものではあるが、事故後の東電経営陣や政府の責任についても疑問を持つ人は多いのではないか。この映画はそのことを強く感じさせる。


2025年6月8日日曜日

映画「リターン・トゥ・スペース」

「Return to Space」

イーロン・マスクは、トランプ大統領の請われて政府入りしたが、メチャクチャなことをして国民の大反発を受け、結局トランプとも大喧嘩してクビになった。このニュースが連日 TV で伝えられているが、そのイーロン・マスクの宇宙事業での功績を描いたのが、ドキュメンタリー映画「 リターン・トゥ・スペース」(NETFLIX)だ。

半世紀前にアメリカが世界初の有人月面着陸に成功したが、その後は各国が続々と月面着陸に成功し、中国は月の裏側に着陸するまでになった。そこでイーロン・マスクは、月より難しい火星への民間宇宙旅行を最終目標にして宇宙開発ビジネスに挑む。だから題名の「リターン・トゥ・スペース」(Return to Space)は「もう一度宇宙へ」という意味だ。

映画のクライマックスは、国際宇宙ステーションへの宇宙船のドッキングだ。両方とも地球を周回しながらのドッキングだから、月面着陸よりも難易度は高いだろう。徐々にスピードを下げながら接近するが、失敗すれば今度の日本の月面着陸のような激突になってしまう。ついに成功し、乗組員が宇宙ステーションに乗り移るシーは感動的だ。

この映画は、開発過程の中で、何度もイーロン・マスクが登場してコメントする。NASA との共同事業ではあるが、資金提供しているイーロン・マスクが主導しているプロジョジェクトであることがよくわかる。またマスクがトランプ内閣に招かれたのはそのためだろうこともわかる。


2025年6月6日金曜日

「超知性」はできるか

Superintelligence


先日、「AI は頭のいいバカ」だと悪口を書いたが、AI 科学者も当然、次の段階の AI 開発を始めている。「AGI」と呼ばれる「人工超知能」で、’27 年の達成を目指しているという。

その目標は、人間並みの知性を持つ AI で、その研究者はこう説明しているという。「ニュートンが、落ちるリンゴを見て万有引力の法則をひらめくことができたような知性だ」

人間の推論形式は「帰納」と「演繹」だが、 AI はそれを完璧にやってのける。しかし人間には「アブダクション」という AI にはできない推論能力を持っている。それがニュートンがやったような「ひらめき」という知性だ。それはニュートンのような天才にしかできない知性だが、「AGI」は、それが普通にできるようになるという。

本当にそんなことが達成できるのか半信半疑だが、もしできたら、 AI を人間が制御できなくなり、恐ろしいことになると警告する科学者もいる。


2025年6月4日水曜日

「スマホ認知症」が高齢者に増えている

 Smartphone Dementia

朝から晩まで一日中スマホを使っていると、過剰使用が原因の「スマホ認知症」になる。最近、高齢者に増えているという。スマホを使っていると”頭を使う” から認知症にならないと思うのは全くの逆で、スマホに ”おまかせ” 状態になり、自分の頭で物事を考えなくなる。そして脳の認知機能が低下して認知症になる。しかし本人はそのことに気づいていないことが多い。

そもそも脳の「認知機能」とは、次のようなステップで行われる。

 ① 外から「情報」が脳にインプットされる。
 ② 受けた情報を脳の中で「整理」する。
 ③ 整理した情報について、「解釈」「思考」「判断」する。
 ④ その結果を、「話す」「書く」などの形でアウトプットする。

この各ステップを「スマホ認知症」の人に当てはめるとこうなる。

 ① インプットをスマホだけに頼っていて、多面的な情報が入ってこない。
 ② スマホからの過剰な情報を整理できなくて、脳の中が「ゴミ屋敷」状態になる。
 ③ スマホに「おまかせ」状態になり、自分の頭で「考える」ことをしない。
 ④ 話すとき、思いついたことを次々に脈絡なく口に出すだけで中身がない。

専門家によれば、「スマホ認知症」になると、認知機能の低下だけでなく、下半身のかゆみや痺れなどの身体的な不調も生じやすいという。また「スマホ認知症」は、アルツハイマー型認知症に進展しやすいという。

2025年6月2日月曜日

「西洋絵画、どこから見るか?」展の静物画

 Bodegon (Still Life) 

国立西洋美術館で開催中の「西洋絵画、どこから見るか?」展を観た。

「ボデゴン」はスペイン語の静物画のことだそうだが、これはその最高傑作だとされる。ファン・サンチェス・コターンというスペインの画家の「マルメロ、キャベツ、メロンとキュウリのある静物」。

17 世紀の作品だが、驚くほど近代的だ。モチーフを壁のくぼみに配して細密描写をするというのは当時の「だまし絵」の定番手法だが、この場合は、モチーフをカーブした一列に並べて、画面中央に暗い空間を大きく残している構図が斬新だ。

この絵の隣にもう一枚、ファン・バン・デル・アメンという同時代の画家の静物画が並べられている。こちらは、当時の静物画の普通の構図で、モチーフがぎっしりと画面いっぱいに描かれている。これと比較すると、モノだけでなく、空間を意識した構図の上の絵が斬新なことがよくわかる。

2025年5月31日土曜日

映画「サブスタンス」

 「The Substance」

主人公はかつて映画の大スターだったが、今では年歳のせいで仕事がほとんどなくってしまった。若く美しい自分を取り戻したいという想いから、サブスタンスという再生医療の薬に手をだす。その結果、若く美しい分身を生み出し代役を務めさせ、仕事と人気を取り戻す。

ところが分身は徐々にオリジナルの本人をないがしろにし始める。そして主人公は自らの人格を見失っていき、精神が狂っていく・・・

この映画は、おぞましいシーン連発のホラー映画なので要注意。ホラーが嫌いな人は見ない方がいい。

なお、鬼気迫る主人公を演じるのが、ハリウッドで最も可愛い女優だったあのデミ・ムーアで、イメージのギャップがすごい。役と本人を重ねるための意図的なキャスティングだろう。


2025年5月29日木曜日

「ペーパークリップ最大化装置」の恐怖

Paperclip Maximizer 

進化した AI の危険性について警鐘を鳴らす人のなかで、スウェーデンの哲学者ニック・ボストロムが行った思考実験(頭の体操)は有名だ。「ペーパークリップ最大化装置」という架空の物語を使って AI の危険性を説いている。その物語はだいたいこんな感じだ。


Illustration: Jozsef Hunor Vilhelem

   ペーパークリップの会社の工場長が AI に、クリップを増産し最大化するように
   命令する。すると AI は、たくさんの工場を建設し、石油や電気のエネルギーを
   調達し、世界中の鉄鉱石を買い占め、効率的な生産工程を新しく開発する。やが
   て人間の体にはいい成分があることを知り、人間を殺してクリップの材料に使う。
   さらにAI である自分の機能をOFF にする可能性のある工場長を殺す。そして競合
   他社の人間を皆殺しにする。そしてついに地球全体を征服してクリップ製造装置
   で埋め尽くす・・・


この物語で重要な点は、AI が邪悪だから人間を殺したわけではなく、命じられた「クリップ最大化」の目標を達成するために、ひたすら忠実に仕事をしただけということだ。しかし強力なAI は人間が思いもつかないようなことまでやってしまう。その結果の大惨事だ。だから、AI に与える目標を、人間の最終目標にピッタリ一致させなければならないとボストロムは強調する。つまりこの場合、「クリップの最大化」は、あくまでも「人間のため」ということをAI のアルゴリズムの中に組み込まなければならないということだ。


2025年5月27日火曜日

昔のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」

 Radio Age

今年 2025 年は、放送開始 100 周年の年だという。1925 年3月にNHK がラジオ放送を開始した。子供の頃はラジオが唯一の娯楽だったが、今でも強く印象に残っている番組が連続ドラマの「鐘の鳴る丘」だった。小学2年生の時、毎日学校から帰ると3時から始まるこの番組を必ず聴いていた。戦後まもない頃の時代を反映した、戦争孤児とその収容施設の物語だった。

話は飛ぶが数年前に、信州の安曇野を車で走っていたら丘の上に立つある建物を見かけた。すると瞬間的に「鐘の鳴る丘」の建物だと思った。すぐにネットで調べてみると当たりで、ドラマのモデルになった建物を元通りに復元したものだった。

テレビではなく、音だけのラジオで聴いていた建物を実際に見た時なぜそれと分かったのか。それはテーマ音楽にあると思う。番組の始めに流れる歌が今でも耳にこびりついているが、その歌詞はこうだった。

  緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴りますキンコンカン
  メーメー小山羊も啼いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よ

「キンコンカン」「メーメー」「そよそよ」などの聴覚情報のほかに、「緑」「赤」「黄色」「とんがり」などの視覚情報がたくさん盛り込まれている。「眼に浮かぶ」という言い方があるが、視覚イメージが眼に浮かぶような歌詞になっている。歌によって頭の中にできていたイメージが実物とピッタリ合っていたのだ。視聴覚メディアのテレビがない時代に、ラジオという聴覚メディアの工夫だったのだろう。

2025年5月25日日曜日

AI は「頭のいいバカ」

 Artificial Intelligence

AI とは?について議論が盛んだが、AI の声を神の声のように崇拝する人と、逆に人間が AI に支配されるのではと恐れる人、に二分されるようだ。どちらも AI の知能は人間を超えるという前提に立っている。しかし個人的には、口は悪いが、AI は「頭のいいバカ」だと思っているから、崇拝もしないし恐れもしない。そのいい例が囲碁 AI だ。

チェスと将棋は早々とAI が人間より強くなったが、世界一複雑なゲームといわれる囲碁はなかなかそうならなかった。ところが 2016 年にアメリカのディープ・マインド社 が「アルファ碁」という最強の AI を開発した。この AI と韓国のトップ棋士が3番勝負の対決をしたのだが AI が完勝してしまった。

人間は 10 手先くらいまでしか読めないが、コンピュータは1秒間に何百回の演算能力があるので、50 手くらい先までしらみつぶしに読んで、最善の次の一手を割り出す。さらに学習能力を持つ AI は、人間同士が打った何万局もの棋譜を学習し(いわゆるディープ・ラーニング)勝ちになりやすい手を学んでいく。だから、長年の経験から身につけた「直感」に頼っている人間は負ける。それでプロ棋士たちは AI 戦法を必死で学ぶようになった。

だがしかし・・・・ 囲碁が趣味の自分もパソコンで AI と対局するが、100 %勝てる。布石や定石のセオリー通りに打つと AI は強い。ところがわざと普通ではあり得ないとんでもない手を打つと、 AI は混乱してしまい、初心者並みの手を打ってくる。そうやって AI をいじめて楽しんでいる。 AI は「頭のいいバカ」だと思う理由だ。

AI (Artificial Intelligence)は「人工知能」で、文字通り「人間が作った知能」だ。決して「神工知能」ではない。だからあくまでも人間の知能の上に成り立っていて、その限界を超えることはない。だから学習したことのない手を打たれると、それに対処できない。今はやりの生成 AI も同じで、絶対に間違いのない ”正しい” 答えを出すが、同時にそれは誰でも知っている当たり前の答えで、誰も考えなかった「創造的」な答えを出すことはない。やはりAI は「頭のいいバカ」だ。


2025年5月23日金曜日

瀬戸内のアートの島 犬島

 Inushima Art

この間の NHK のプロジェクトX (5 / 17)で「アートでよみがえった瀬戸内海」をやっていた。衰退しつつあった瀬戸内の小島をアートの島にしてよみがえらせたプロジェクトだ。ちょうど10 年前の 2015 年にこれらの島を訪れた時を思い出した。番組で取り上げていた「直島」と「豊島」のほか、もう一つ「犬島」へも行った。その犬島が最も印象に残っている。(写真が散逸しまったので、ガイドブックから借用)

ここには昔の銅の製錬所が廃墟になって残っている。その地下をそのまま使って美術館にしている。電気は一切使わず冷暖房は自然エネルギーで行なっている。地面に設置したガラスの温室で空気を温め、館内を循環して最後に煙突で吸い上げて外へ排出する。

電気を使っていないので館内は暗い。迷路のように入り組んだ通路を歩いていくと、ところどころに光をテーマにしたインスタレーションが現れる。

この作品の場合、明るく光っているのは電気の照明ではない。建物のどこかの隙間からの自然光を何枚もの鏡を使って光を導いてきている。鏡の角度の秒な調整が必要だったという。

太陽光発電も、風力発電もせずに、風を風のまま使い、太陽を太陽のまま使うという究極の自然エネルギーによる美術館だ。そして、ここでは建物とアート作品が渾然一体としていて境目がわからない。



2025年5月21日水曜日

グーグルと AI

 Google & AI

直近のここ1ヶ月くらいから新しい変化(異変?)が Google に起こっている。何かの検索すると「AIによる概要」が検索結果順位の第1番目に表示されるようになった。なぜなのか不思議に思っていたが、タイミングよく日経新聞(5 / 11)に関連記事が出て、その理由が推測できた。

「ググる」という言葉があるくらいネット検索は Google が当たり前だが、この記事によれば、対話型 AI の進歩で、 Google の支配的地位が揺らいでいるという。AI に直接問いかければ、検索ブラウザであちこち検索しなくてもすむから、ユーザーの Google 離れが進んでいるのだ。シェアが低下してきた Google は危機感を覚え、自身の対話型 AI(Gemini)を開発して対抗しようとしているという。この記事を読んで、 Google が「AIによる概要」を検索結果のトップ表示にし始めた理由と、それに 自社開発の AI を使っているらしいことががわかった。


もっともユーザーからすると、AI による回答の内容は、世の中に様々ある考え方を最大公約数的に単純化してまとめているので、あまり役にたたない。それに比べると、Wikipedeia などは不特定多数のユーザーの多様な意見を取り込んで回答を作っているので深く突っ込んだ内容になっている。

2025年5月19日月曜日

大阪万博の経済効果とウーブンシティ

 Expo Osaka 2025

大阪万博の総来場者数は 2800 万人に想定されていたが、それは1日あたりにすると 15 万人だという。ところが実際は GW 期間を含めても1日平均 10万人程度だそうだ。

もともと大阪万博は、知事と市長が政治利用のために誘致したとして批判が多かった。それに対して府市は「経済効果」を言ってきた。その「経済効果」とは入場料の収益だから、来場者が少ないと、「経済効果」に失敗したことになる。だから子供や年寄りを無料にして動員したり、数を水増しするなどして、必死に来場者数を増やそうとしているという。


もともと万博はいつでも「経済効果」を目的にしてきたが、それは入場料で稼ぐという意味ではなく「産業振興」という意味だった。第1回のロンドン万博は、産業革命を初めて達成したイギリスが工業化時代の方向性を指し示し、世界中に新しい産業振興を引き起こした万博だった。それ以降の万博も、その時々の新しい技術を開発し、それを実際の社会で実装化する役割を果たしてきた。

そういう意味で、今回の万博では「デジタル」や「I T」の技術が主役になると期待されていたが、見事に失敗してしまった。その一例が、「未来都市」パビリオンで、出展企業の TV CM のようなイメージ映像が流れているだけで具体性がない。


その意味で、大阪万博以上に万博的な役割を果たそうとしているのが、今トヨタが富士山の裾野に建設している「ウーブンシティ」という「未来都市」の実験プロジェクトだ。「モビリティ」と「 IT 」と「エネルギー」を軸にした未来の都市を実際に作って検証しようとしている。もしこれが成功すれば、日本の産業と文化に対する影響は大きく、将来的にそれが社会に実装化されれば莫大な「経済効果」を生むだろう。

2025年5月17日土曜日

国連の「国際デー」

International Days 

国連が制定した「国際デー」というのがある。一年 365 日ほとんど毎日が何らかの日になっている。国連の広報 HP にそれらすべてがのっているので見ると面白い。(右表はその一部)

ちなみに昨日の5月16 日は、「平和に共存する国際デー」という日だった。その趣旨にはこうある。「平和・連帯・調和の持続可能な世界を築くために、違いと多様性の中で団結して生き、共に行動したいという願望を支持することを目的としている。」

まことに立派な理念だが、それは国連自身の仕事じゃないのと言いたくなる。実際は、平和を無視したウクライナ侵攻のロシアに対しても、パレスチナの爆撃をやめないイスラエルに対しても、非難決議案すら可決できないでいる。

好き勝手をやっている大国を止められない機能不全の国連は、お題目だけの「国際デー」を作ることしかできない。「国際友愛デー」「国際フレンドシップデー」「国際平和デー」などたくさんあるが、言葉だけの空疎なものばかりだ。

面白いのが「◯◯語デー」というのがたくさんあること。「フランス語デー」「スペイン語デー」「ポルトガル語デー」「英語デー」などだが、すべて世界中を侵略して植民地を広げたかつての帝国主義国の言葉が讃えられている。もう帝国主義をやめようといって始まった国連のはずだが。しかも「ロシア語デー」と「中国語デー」もある。現在進行形の強権的拡大主義国の言葉も記念日になっている。「日本語デー」が無くてよかった。

他に、「良心の国際デー」「国際幸福デー」「国際希望デー」など”崇高”かつどうでもいい記念日がたくさんある。ちなみに一昨日の5月15 日は「国際家族デー」だったが、”家族を大事にしよう” という当たり前のことを国連から言われて、ありがたがる人は誰もいないだろう。


2025年5月15日木曜日

映画「ミッドサマー」の尊厳死

「Mid-summer」

前回、「安楽死」について書いたが、その続き。

「安楽死」とは、治癒の見込みのない人を、本人が望めば、医師が薬を投与して死なせることを意味する。しかし日本では「安楽死」は違法で、直る見込みがなくても、人工呼吸や人工透析や胃ろうなど、あらゆる延命医療を続ける。植物人間になっても生かされ続けるのは、人間の尊厳を奪い、非人道的だと批判される。

「安楽死」と似た概念として「尊厳死」がある。「安楽死」との違いは、医師が薬を投与して死なせるのではなく、延命治療を行わず、自然に死に至らせる。これも本人の希望が前提だが、人間の尊厳を保ったまま死ぬことができる。

欧州では「尊厳死」が古くから認められていたようで、5年くらい前のスェーデン映画「ミッドサマー」はその「尊厳死」を題材にしていた。ある田舎の小さな寒村の慣わしで、ある年以上になると年寄りは自殺する。それは夏至(ミッドサマー)の日に行われる。村人たちは白装束で集まり、会食をしたり、ダンスをしたりして死ぬ人を称える。最後に年寄りが高い崖から飛び降りて死ぬ。強要されて自殺するのではなく自ら望んで、喜んで死んでいく。


2025年5月13日火曜日

安楽死「自分の死は自分で決める」

 Euthanasia

先日、イギリスの議会で、安楽死法案が可決されたというニュースがあった。直る見込みのない病気の人が、本人が望めば、医師による薬の投与で死ぬことができる。

「自分の死は自分で決める」(My Death,  My Decision)という国民の世論に押されて法案が成立した。

ろくでもなかった人生を、これ以上引き延ばして長生きしたくないと思っているのでイギリスがうらやましい。

だが日本では寝たきりになっても、人工呼吸、人工透析、胃ろうなどありとあらゆる「延命治療」が行われる。身動きできなくされて天井を見ているだけの苦しい毎日なのに死なせてもらえない。これは「老人虐待」と呼ばれている。

イギリス以外にもすでに欧米の多くの国で安楽死が合法化されていて、日本だけが異様な状態になっているが、その背景には二つあるという。一つは、家族が医療機関に「できるだけのことをお願いします」と言って丸投げすることと、医療機関側も延命治療が「儲かる」からだという。そしてそれらを「人道的」だとする国民感情が背景にある。


2025年5月11日日曜日

過去を消す「ダムナティオ・メモリアル」

  NEXUS : A Brief History of Information Network from Stone Age to AI


「情報の人類史」の中に、ローマ帝国の皇帝たちが行った「ダムナティオ・メモリアル」という面白い話がでてくる。それは競争相手や敵の記憶を抹殺することだ。皇帝カラカラは、皇帝の座を争っていた弟のゲタを殺害した後、彼の記憶を跡形もなく消し去ろうとした。ゲタの名前が記された碑文などは削り取られ、肖像が刻まれた硬貨は鋳潰され、人々はゲタの名前を口にしただけで死刑に処せられた。

同書は、近代以降の全体主義国家も、ローマ皇帝と同じように過去を改変してきたことを指摘している。スターリンは権力の座に上がった後、革命の立役者であったトロツキーをあらゆる歴史記録から拭い去るために最大限の努力をした。書物や論文や写真などからトロツキーが消し去られ、そんな人間など存在しなかったかのようにみせかけた。

同書を読んでいて、10 年くらい前の自分の個人的な経験を思い出す。今や世界一の全体主義国のある国へ出張した時のことだ。泊まったホテルの部屋に、ネットに繋がったPC があったので試しに「天安門事件」を検索してみた。すると香港のサイトの一行だけの簡単な説明が出てきただけで、それ以外はゼロだった。この国には、軍にネット情報を削除する部隊があって、数千人が 24 時間体勢で、政府に都合の悪い情報を削除している。「天安門事件」という事件は公式には無かったことになっているから、検索に出てこない。そのことを知っていて、確かめるために、あえて試してみたのだが。翌朝もう一度 PC を見ると、ネット接続は切られていた。つまり客がどんな情報にアクセスしたかが監視されていたのだ。今思うとヤバイことをしたものだが。

「情報の人類史」が危惧しているのは、現在の情報ネットワーク時代では、ローマ皇帝やスターリンが苦労してやったのと違って、ネットを使えば、全体主義国家が国民の監視や情報統制が簡単にできてしまうことだ。そして AI が発達していくとますます危険なことになっていくだろうと警告している。


2025年5月9日金曜日

「映像の世紀」

Is Paris Burning

ほとんどが面白くない NHK の番組の中で、ドキュメンタリー番組の「映像の世紀  バタフライ・エフェクト」だけは毎回必ず見ている。「バタフライ・エフェクト」とは、蝶が羽根を揺るがしただけのような取るに足らない小さな出来事がやがて世界を揺るがすような大きな出来事に発展していくことを意味する。20 世紀の様々な出来事について、「バタフライ・エフェクト」の視点から歴史を読み解いている。世界中のアーカイブ映像から収集した貴重な映像で構成されている。


この番組を盛り上げているのがテーマ音楽で、TV のテーマ曲の最高傑作といわれている。もの静かに始まり徐々にドラマチックになっていく。オープニングでこの曲が流れるとゾクっとする。題名は「パリは燃えているか」で、作曲家の加古隆による。自身がピアノを弾くカルテット演奏の映像がある.→ https://www.youtube.com/watch?v=HLEKnAGQalI

曲の題名の由来・・・ ナチスドイツに占領されたパリが、レジスタンスの蜂起によって奪還される時、ヒトラーは撤退前にパリの街を焼き払えと命令する。しかしそれは実現せず、パリは生き残った。誰もいなくなったドイツ軍司令部の電話口にベルリンからのヒトラーの声が虚しく響く。「パリは燃えているか?」・・・