2025年6月24日火曜日

エリック・デマジエールの「塔の中の図書館」と、映画「薔薇の名前」

Erik Desmazieres  

日経新聞(6 / 23)の文化欄のコラム「塔のものがたり」でエリック・デマジエールの「塔の中の図書館」が取り上げられていた。それで 10 年ほど前に買ったデマジエールの画集を眺めている。

この「塔の中の図書館」はデマジエールの最も有名な作品だが、架空の図書館の迷宮的イメージを描いている。何階層もある高い塔の内部の壁にぎっしりと本が並んでいる。上と下に渡り廊下があって、人が行き来している。

この絵に感じる目がくらむようなスケールの大きさは透視図法から来ている。天井は真上に見上げるほど高いが、ちらっと見えている真下の床面ははるかに遠い。上下の視野角がほぼ 180° なのが 目がくらむ理由だ。手すりのない渡り廊下を書物を持って通っている人たちは奈落の底へ落ちてしまわないかと想像してしまうのも目のくらみを増幅している。

この作品は、アルゼンチンの作家ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」をもとに描かれている。その小説は、中央に巨大な換気孔を持つ六角形の閲覧室の積み重ねになっていて、それが上下に際限なく続くなど、迷宮的な図書館が緻密に描写されている。デマジエールはその小説を視覚化している。

我々には、図書館に対するこのような迷宮的なイメージは全くないが、ヨーロッパでは古くからかなり普通だったようだ。そのことがわかるのが映画「薔薇の名前」だ。この映画もボルヘスの小説「バベルの図書館」がもとになっている。中世のイタリアが舞台で、ある修道院で起こった連続殺人事件の謎を解き明かすために主人公の修道僧がやって来る。やがてそれを解く鍵は、修道院の中にある図書館に所蔵されているある本にあることを突き止める。そしてその本を探すために図書館へ侵入する・・・

そこはまさに迷宮で、通路と階段が複雑に入り組んだ構造になっている。あちこちには人が入れないような仕掛けがしてある。デマジエールの絵画とまったく同じイメージだ。

中世では、図書館は修道院の中にあったが、それは人に本を読ませる場所ではなく、逆に本を読ませないように隠す場所としての図書館だった。古今東西の「知」が集積した図書館の本を読むことで人々が目覚め、キリスト教による世界の支配に対する疑念が湧くことを恐れた。

 

2025年6月22日日曜日

映画「メガロポリス」

 「MEGALOPOLIS」


公開が始まった映画「メガロポリス」を見た。不評なようで、映画館はガラガラだったが、個人的な評価は”大絶賛”だ。コッポラ監督の世界観が爆発している。

「メガロポリス」の題名から、名画「メトロポリス」と何らかのつながりがあるのだろうと予想していたがそのとうりだった。「メトロポリス」は「大都市」の意味で、語源は古代ギリシャの都市国家から来ている。1927 年のこの映画は、100 年後の未来の都市を描いた最初の SFだったが、それは文明が発達したが、分断されたディストピア社会だった。そして「メガロポリス」は「メトロポリス」よりさらに大きい「巨大都市」の意味だが、「メトロポリス」から 100 年後のこの映画も文明がさらに発達しているが、滅亡寸前の都市を描いている。だから映画「メガロポリス」は「メトロポリスの」現代版といえる。  

「メガロポリス」の舞台は未来のニューヨークだが、古代ローマに見立てている。都市の名前が「ニューローマ」で、登場人物の名前が「キケロ」「カエサル」などで、衣裳も古代ローマ風だ。ローマ帝国は、植民地から得た富によって高度に文明が発達したが、その豊かな社会は享楽的になり、やがて滅亡していった歴史になぞらえている。

市長選挙が行われていて、保守派の現市長と、改革派の若手が争っている。「メトロポリス」では労働者と資本家の対立だったが、「メガロポリス」もそれと似ていて、富裕層と貧困層との分断が激しい社会だ。荒廃した都市を救うためにどうするかが争点になっている。財政難を救うために銀行と癒着して、立て直しを図ろうとする現市長に対して、対立候補の若手建築家は、環境にやさしい持続可能な都市に作り変えようと主張する。こういう設定が現在のアメリカ社会の状況を想起させて、テーマがとても現代的だ

また「建築」が映画の大きなテーマになっているのも特徴だ。主人公の建築家が、新しい都市を構想しているシーンがたびたび出てくる。 T 定規を持っていて、それが「スターウォーズ」のライトセーバーのように光っている。今では使われなくなった T 定規が未来的な道具であるように描いているが、これも「レトロ・フューチャー」の小道具だ。無機的になりすぎた建築をもっと人間的なものに回帰しようという主人公の思想を象徴させているようで面白い。

罵り合っていた二人の市長候補は最後に仲良くなるが、これも「メトロポリス」と同じ構図だ。この和解によって、ディストピア映画でありながら、未来への「希望」を抱かせるエンディングになっている。そしてその仲介をするのが若い女性で、これも「メトロポリス」と同じだ。


2025年6月20日金曜日

ルドンの ”師” ブレダンの幻想絵画

Redon &  Bresdin

ルドンが若い頃、師事したのがロドルフ・ブレスダンだった。ブレスダンは美術館の企画展でよく見るが、今回の「ルドン展」でも「善きソマリア人」が参考出品として展示されていた。

熱帯の深い森の中で、旅する人間が馬と一緒に食肉植物に食われている。小さい絵なので見えにくいが、顔を近づけて見ると、人間も馬も首が無い。

ブレスダンはアメリカ大陸をあちこち旅しながら、森のスケッチをした。それをもとに怪奇な幻想絵画を描いた。そのひとつ「死の喜劇」も有名だが、樹が異様に曲がりくねっていて、生きた怪獣のように見える。まわりには樹が食った人間の骸骨が転がっている。

初期のルドンは、このようなブレスダンの幻想絵画から影響を受けた。今度のルドン展で「浅瀬(小さな騎馬兵のいる)」というエッチングの作品が出ていたが、これも奇怪な形をした岩山が描かれている。ブレスダンのアドバイスを受けながら描いたという説明があった。そして後のルドンの「黒の時代」の幻想絵画のイメージのもとになっていることがわかる。


2025年6月18日水曜日

オディロン・ルドン展

 Odilon Redon

オディロン・ルドン展(パナソニック汐留美術館)を閉幕まじかでギリギリ鑑賞。ルドンといえば、「黒の時代」の木炭画と、それをもとにした石版画だが、この展覧会でその現物のすべてを見ることができる。

石版画集「エドガー・ポーに」の一様だが、ルドンは、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説からインスピレーションを得ていた。なおこの気球は、1878 年のパリ万博で、世界初の、観客を気球に乗せて上空からパリの眺望を楽しませたことをモチーフにしている。(同じことを今度の大阪万博でドローンでやろうとしていたが失敗してしまった)

初期の「黒の時代」から晩年にかけて、対照的にカラフルなパステル画に移行していくが、既存の解説書では、なぜそうなったかがあまり説明されていない。しかしこの展覧会では、すべての段階でのルドン作品が順に展示されているので、その変化は突然起こったのではなく、必然性があって徐々に移行していったことがよくわかる。

例えばこのパステル画「ポール・ゴビヤールの肖像」は飾り気のない素描のような人物画だが、木炭デッサンのクロスハッチングのようなストロークを活かしている。木炭とパステルは似たような画材なので、ルドンは木炭の延長のような感覚でパステルを使っていたのではないか。

そして晩年の華やかなパステル画「グラン・ブーケ」ももちろん展示されている。この絵は普段は三菱一号館美術館に常設展示されている。逆にこれぐらいしか身近に見ることできないルドン作品全体を体系的に見ることができるこの展覧会は貴重だ。

(なおすべての日が日時指定の事前予約制になっていて、かつ残りの枠が少なくなっているので、これから行こうという人は要注意)

2025年6月16日月曜日

アルバート・ビアスタットの絵画と西部劇映画

 Albert Bierstadt &「Once Upon a Time in the West」

鉄道が登場する西部劇映画はとても多い。西武劇の時代は19 世紀の、西部開拓のための鉄道が西へ西へと伸びていった時代だったからだ。典型的なのが「ワンス・アポンナ・タイム・イン・ザ・ウェスト」だ。オープニングで、列車が去ると、そこに列車を降りた主人公のガンマンが立っているというシーンが有名だ。


ストーリーは、鉄道会社が鉄道建設のために、個人の土地を奪おうとする利権争いがテーマになっている。鉄道建設の現場のシーンも出てくる。




話は飛ぶが、19 世紀にアルバート・ビアスタットというアメリカの画家がいた。未開拓のアメリカの自然を描いた「ハドソン・リバー派」のひとりだが、主に西部の大自然を描いた。この「シエラ・ネバダ山脈」は有名で、壮大な自然を幻想的に描いている。ビアスタットは、西部各地を旅してスケッチをして、それらを合成して、実際にはない理想的な風景を作り上げた。巨大なキャンバスに非常に精密に描いた写実絵画で、「アメリカン・リアリズム」の源流のひとりといわれる。


このことについて、「アメリカン・リアリズムの系譜」(小林剛)のなかで面白い指摘がされている。

「19 世紀のアメリカ人にとっての自然は、手付かずの荒野としての自然といったイメージであった。そのイメージを描いたビアスタットのような風景画に魅せられたアメリカ人たちは、大陸横断鉄道を使って、自然を実際に「見る」ツアーが盛んに行われた。だから当時の風景画や風景写真で、自然の風景のなかに鉄道の線路がまっすぐに伸びていくという構図が頻繁にあった。ところがその「見る」欲望は、やがて鉄道を使ってその土地を開拓して「所有」する欲望になっていった。」

まさに西部劇「ワンス・アポンナ・タイム・イン・ザ・ウェスト」と、ビアスタットの絵画が結びつく話で面白い。


2025年6月14日土曜日

ハイパーリアリズムの絵画

 Hyperrealism

「ハイパーリアリズム」は超写実主義の絵画をいうが、多くは写真をもとにするので「フォトリアリズム」とも呼ばれる。さらにはそれ以前の、ワイエスやホッパーなどの写実主義も含めて「アメリカンリアリズム」と呼ばれ、アメリカ美術史の主流をなしている。

写実主義の殿堂「ホキ美術館」へ行くと、来館者は「写真みたいだ!」と感嘆している。実際、展示されている絵の多くは、意図して写真に見えるように描いている。しかし「ハイパーリアリズム」はそうではなく、写真を利用しながらも、写真以上に「現実」をありのままに描こうとする。既存の価値観に依存した「美しい絵画」ではなく、「そのものズバリ」を描こうとする。

モデルを美しく、あるいは立派な人間として描こうとする一般的な人物画と違って、ただズバリ「ありのまま」を描いている。


どこにでもあるような裏ぶれた店を描いていて、決して「絵になる風景」ではない。しかし傷だらけの車まで含めて、隅々まで忠実に「現実」を描いている。


2025年6月12日木曜日

イラストの手法「ヴィネット」

Vignette

「ヴィネット」(Vignette)という言葉は、フランス語の「ぶどう」という意味の「ヴィーニュ」(Vigne)から来ている。中世の装飾本の挿絵に「ぶどう」の「つる」がモチーフに使われた。各ページの周辺に文字を囲むようにぶどうのつるが描かれている。

このことから、イラストレーションの手法としての、「ヴィネット」(Vignette)になった。雑誌の挿絵や広告で盛んに使われる。絵画(タブロー)との違いは、小さいサイズの絵で、スケッチ的ないし素描的な描き方の、軽妙な表現が特徴。また画面全体を埋めるのではなく、余白の面白さを活かす。さらに印刷媒体に使われることから、テキストとの関係を意識することも重要になる。かつて集めたスクラップのなかからいくつかを紹介。





2025年6月10日火曜日

映画「THE DAYS」

「THE DAYS」


映画「THE DAYS」のネット配信(NETFLIX)が始まった。 福島原発の事故の一部始終をドキュメンタリータッチで描いた再現ドラマだ。入念なリサーチに基づいていて、あの日、関係者たちはどう動いたかが克明に描かれている。

巨大津波で水没した原発は、全電源を失い、冷却機能を失った原子炉はメルトダウンの危機が刻々と迫っている。所長以下職員たちは放射線の危険を顧みず、原子炉建屋に入って決死の復旧を試みる。

ところが、東京の東電本社の幹部たちは、現場の所長に電話で怒鳴り散らすだけで何も手を打つことができない。それどころか悪戦苦闘している現場の妨害をしている。さらに本社の経営トップの記者発表では、記者の質問にまともに答えられず、トンチンカンぶりを露呈してしまう。この事故は津波によるものではあるが、人災とされる所以だ。

もうひとつの人災は首相だった。現場の状況を把握できない首相はいらついて、まわりの関係者を怒鳴り続ける。最後に我慢できなくなって現地へ乗り込んでいく。そして所長に状況を説明しろと迫る。このことは当時から現場の邪魔をしているだけだと批判されていた。

連日行われた官房長官の記者発表が今でもはっきり記憶に残っているが、映画でもその通りに描かれている。深刻な緊急事態であるにもかかわらず、住民の避難を指示しない。「健康被害の恐れはないので、自宅に止まってください」と言い続けた。これも被害拡大の原因になった人災のひとつだった。


おりしも、先週6月6日に東京高裁が、東電旧経営陣の法的責任を認めない判決を下した。(下は6/7. 日経新聞記事)この判決に納得できない人は多いだろう。この裁判は津波の予見性に関わるものではあるが、事故後の東電経営陣や政府の責任についても疑問を持つ人は多いのではないか。この映画はそのことを強く感じさせる。


2025年6月8日日曜日

映画「リターン・トゥ・スペース」

「Return to Space」

イーロン・マスクは、トランプ大統領の請われて政府入りしたが、メチャクチャなことをして国民の大反発を受け、結局トランプとも大喧嘩してクビになった。このニュースが連日 TV で伝えられているが、そのイーロン・マスクの宇宙事業での功績を描いたのが、ドキュメンタリー映画「 リターン・トゥ・スペース」(NETFLIX)だ。

半世紀前にアメリカが世界初の有人月面着陸に成功したが、その後は各国が続々と月面着陸に成功し、中国は月の裏側に着陸するまでになった。そこでイーロン・マスクは、月より難しい火星への民間宇宙旅行を最終目標にして宇宙開発ビジネスに挑む。だから題名の「リターン・トゥ・スペース」(Return to Space)は「もう一度宇宙へ」という意味だ。

映画のクライマックスは、国際宇宙ステーションへの宇宙船のドッキングだ。両方とも地球を周回しながらのドッキングだから、月面着陸よりも難易度は高いだろう。徐々にスピードを下げながら接近するが、失敗すれば今度の日本の月面着陸のような激突になってしまう。ついに成功し、乗組員が宇宙ステーションに乗り移るシーは感動的だ。

この映画は、開発過程の中で、何度もイーロン・マスクが登場してコメントする。NASA との共同事業ではあるが、資金提供しているイーロン・マスクが主導しているプロジョジェクトであることがよくわかる。またマスクがトランプ内閣に招かれたのはそのためだろうこともわかる。


2025年6月6日金曜日

「超知性」はできるか

Superintelligence


先日、「AI は頭のいいバカ」だと悪口を書いたが、AI 科学者も当然、次の段階の AI 開発を始めている。「AGI」と呼ばれる「人工超知能」で、’27 年の達成を目指しているという。

その目標は、人間並みの知性を持つ AI で、その研究者はこう説明しているという。「ニュートンが、落ちるリンゴを見て万有引力の法則をひらめくことができたような知性だ」

人間の推論形式は「帰納」と「演繹」だが、 AI はそれを完璧にやってのける。しかし人間には「アブダクション」という AI にはできない推論能力を持っている。それがニュートンがやったような「ひらめき」という知性だ。それはニュートンのような天才にしかできない知性だが、「AGI」は、それが普通にできるようになるという。

本当にそんなことが達成できるのか半信半疑だが、もしできたら、 AI を人間が制御できなくなり、恐ろしいことになると警告する科学者もいる。


2025年6月4日水曜日

「スマホ認知症」が高齢者に増えている

 Smartphone Dementia

朝から晩まで一日中スマホを使っていると、過剰使用が原因の「スマホ認知症」になる。最近、高齢者に増えているという。スマホを使っていると”頭を使う” から認知症にならないと思うのは全くの逆で、スマホに ”おまかせ” 状態になり、自分の頭で物事を考えなくなる。そして脳の認知機能が低下して認知症になる。しかし本人はそのことに気づいていないことが多い。

そもそも脳の「認知機能」とは、次のようなステップで行われる。

 ① 外から「情報」が脳にインプットされる。
 ② 受けた情報を脳の中で「整理」する。
 ③ 整理した情報について、「解釈」「思考」「判断」する。
 ④ その結果を、「話す」「書く」などの形でアウトプットする。

この各ステップを「スマホ認知症」の人に当てはめるとこうなる。

 ① インプットをスマホだけに頼っていて、多面的な情報が入ってこない。
 ② スマホからの過剰な情報を整理できなくて、脳の中が「ゴミ屋敷」状態になる。
 ③ スマホに「おまかせ」状態になり、自分の頭で「考える」ことをしない。
 ④ 話すとき、思いついたことを次々に脈絡なく口に出すだけで中身がない。

専門家によれば、「スマホ認知症」になると、認知機能の低下だけでなく、下半身のかゆみや痺れなどの身体的な不調も生じやすいという。また「スマホ認知症」は、アルツハイマー型認知症に進展しやすいという。

2025年6月2日月曜日

「西洋絵画、どこから見るか?」展の静物画

 Bodegon (Still Life) 

国立西洋美術館で開催中の「西洋絵画、どこから見るか?」展を観た。

「ボデゴン」はスペイン語の静物画のことだそうだが、これはその最高傑作だとされる。ファン・サンチェス・コターンというスペインの画家の「マルメロ、キャベツ、メロンとキュウリのある静物」。

17 世紀の作品だが、驚くほど近代的だ。モチーフを壁のくぼみに配して細密描写をするというのは当時の「だまし絵」の定番手法だが、この場合は、モチーフをカーブした一列に並べて、画面中央に暗い空間を大きく残している構図が斬新だ。

この絵の隣にもう一枚、ファン・バン・デル・アメンという同時代の画家の静物画が並べられている。こちらは、当時の静物画の普通の構図で、モチーフがぎっしりと画面いっぱいに描かれている。これと比較すると、モノだけでなく、空間を意識した構図の上の絵が斬新なことがよくわかる。