2025年10月31日金曜日

オリンピックのシンボルマークと、大阪万博の「ミャクミャク」

Symbol Mark 

このあいだ(10 / 19)ピクトグラムデザインについて書いた中で、大阪万博のピクトグラムのひどさに触れた。

国際イベントで「ピクトグラム」と並んで重要な「シンボルマーク」についても大阪万博はひどかった。「ミャクミャク」というシンボルマークを大阪では、子供だけでなく大人も「オモロイ!、オモロイ!」と言って大喜びしていたが、さすが「吉本興業的オモロイ文化」の大阪だ。

万博やオリンピックで、開催国の文化を凝縮して象徴的に表現するのが「シンボルマーク」で、それはいわば「日本代表」の役割を担う。だから各開催国は「シンボルマーク」のデザインに力を入れる。しかし今回大阪は「ミャクミャク」というおバカデザインを採用してしまった。そして日本の恥さらしだと猛批判されたが「そんなことはどうでもええやんけ」というのが大阪の感覚だった。

シンボルマークの重要性を再認識するために、万博ではないが、同じ大規模国際イベントであるオリンピックのシンボルマークについて見てみる。下の表は 2020 年の東京オリンピックの際に、歴代オリンピックのシンボルマークを調べて年代順に並べたもので、当時、当ブログに投稿したがもう一度再掲する。

この表で注目されるのは、1964 年の東京オリンピックを境にして、その以前と以後でデザインの傾向がはっきり違っていることだ。東京以前では開催国のモニュメンタル建築などをモチーフにした記念切手的なデザインだが、東京オリンピックでは日の丸の赤い丸だけの究極の単純幾何図形だ。このような抽象的な図形だけでその国らしさを表現したのは東京オリンピックが初めてだった。それ以降、各国のオリンピックもそれに倣うようになり、シンボルマークが各国の「デザイン力」=「文化力」を競う場になった。

     パリ       アムステルダム   ロサンジェルス
ベルリン  ロンドン ヘルシンキ  メルボルン  ローマ
  東京  メキシコシティ   ミュンヘン モントリオール モスクワ
ロサンジェルス    ソウル  バルセロナ アトランタ シドニー
アテネ   北京    ロンドン  リオデジャネイロ 東京

抽象化した図形でシンボルをデザインするのは、日本の伝統で、それは紋章に現れている。ヨーロッパの紋章は、鷲やライオンを具象的に扱うが、日本では抽象的な幾何図形化している。この抽象化力の伝統が、オリンピックのシンボルにも繋がっている。しかし大阪万博がそれをぶち壊しにしてしまった。



2025年10月29日水曜日

モネの「ウォータールー橋」

Monet

モネはロンドンの 「ウォータールー橋」をモチーフに多くの絵を描いた。




モネの絵はいつも遠近法(透視図法)が正しく描かれているが、この絵でもアーチ橋の楕円が正確だ。それを確かめるために下図の作図をしてみた。円の遠近法を知らないと、楕円の長軸を垂直に描いてしまいがちだが、モネの絵はちゃんと傾いている。


円の遠近法で、楕円の長軸は傾くということの説明に「Perspective Made Easy」という超初心者向け教本におあつらいの図があったので引用する。

2025年10月27日月曜日

空気遠近法の魅力

 Trevor Chamberlain & Aerial Perspective

遠近法といえば、普通は「線遠近法」だが、他にもいろいろな遠近法がある。その中でもっともポピュラーなのが「空気遠近法」だ。「空気遠近法」の意味がよく分かるのが、広重の「東海道五十三次」のなかの「庄野」だ。


この絵で、風になびいている竹林が描かれている。それは手前から奥へ、近景→中景→遠景の順に3段階が重ねられ、遠くへいくほど明度・彩度が弱められている。奥ほど自分との間にある空気の層が厚くなるから、フィルター効果が増してこうなる。さらにこの絵では空気の中に混じった雨の水滴が、フィルター効果をいっそう強めている。「空気」を描くことによって遠近の奥行きが表現されている。

水彩画の世界第一人者、イギリスのトレバー・チェンバレンの絵はすべて、空気遠近法を活かした魅力的な絵だ。この都会の川を描いた風景画で、「空気」を使って空間の広がりを見事に表現している。


手前のボート→対岸の工場→遠くの高層ビル、と遠くにいくにつれ明度・彩度が弱まっていく。この「空気遠近法」によって、「遠近感」だけでなく、「空気感」= 空気の存在を強く感じさせる。この場合は、ボートの煙や工場から出る排気ガスなどが混じった都会らしい濁った「空気感」だがそれを見事に表現している。「空気感」と雰囲気のことで、水彩画はその表現にもっとも適している。(画像は画集「Trevor Chamberlain」より)

これもチェンバレンのパリの街を遠望している絵だが、雨の日の霞んでいる遠景をムードをたっぷりに描いている。「雰囲氣」とは「大気」のことであり、「ムード」という意味でもある。「空気遠近法」を使うことによって「大気」を描くことができ、「ムード」を表現できる。


2025年10月25日土曜日

「我々はどこから来て, 今どこにいるのか」 トッドとゴーギャン

Emmanuel Todd  &  Gauguin

前回、エマニュエル・ドットの「西洋の敗北と日本の選択」について書いたが、同氏の3年前のベストセラー「我々はどこから来て、今どこにいるのか」についても、2023 年に投稿した。それを再編集してもう一度書く。


ドットに一貫している「西洋の敗北」思想は、人類の文明史的な観点からの研究にもとづいていて、それが「我々はどこから来て、今どこにいるのか」の題名になっている。そしてトッドの研究アプローチは斬新で、各国の「家族構造」がその国の「政治体制」を決定づけてきたとしている。そして、各国の「家族構造」を次の3つの類型に分類している。以下にごく簡単に概要を紹介する。

第1は「核家族」で、アメリカイギリスがその代表。
子供達は成人すると親から自立し、やがて結婚して自分の家族を築く。そのため自力で社会の上方を目指して頑張る。それが欧米の個人主義の基盤になっているが、同時に自分中心の社会になり、さらにはアメリカのような分断社会が生まれる。

第2は「共同体家族」で、ロシア中国がその代表。
家族全員が父親の権威に服従する家父長制家族で、家族が大きな共同体を作っている。西欧の個人主義と違って、家族あっての個人だという家族観だ。そして国レベルでも、権威主義的リーダーのもとに国民が従い、団結力が強い。

第3は「直系家族」で、ドイツ日本がその代表。
父親が死ぬと長男だけが家を継ぎ、長男は家業の維持のために懸命に働く。だから職人も農民も親の技術をしっかり継承して次代へ繋いでいく。そのことがドイツと日本のものづくりの強さの基盤になってきた。また親は、家を継がない次男三男を自立させるために、高等教育を受けさせる。そのため日本人の大学進学率は世界一高い。それがドイツと日本の科学技術力の高さにつながっている。しかし女性のステイタスは低く、女性の社会進出率が低いが、その代わり女性は子供の養育に集中するので、子供の教育レベルが高い。

こうしてみると、トッドのいう「家族構造」がその国の「政治制度」を決定づけるという意味がよく理解できる。

           ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

ところで、上図のように、この本の上下2巻の表紙の絵を繋げると、一枚の横長の絵になる。これはゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という長い題名の絵だ。


ゴーギャンは西洋の近代文明に失望して、人間が自然と共生して生きるタヒチへ渡った。そこで描いたこの絵はタヒチの人間をモチーフにして、人間の一生をシンボライズしている。右側の女性と子供は生命の始まりで、果物を収穫している中央の若者は成人期、左の老婆は終末期を表している。そして奥にいる青い彫像は、人間の行く末を決めている超越的な神を象徴している。

そしてこの絵は、人間の一生になぞらえて、栄えている西洋の文明社会がやがて衰えてゆくことを暗示しているという。そのゴーギャンと同じく、「西洋の没落」という世界観を持つトッドは、本の題名を、ゴーギャンの絵の題名を借りて「我々はどこから来て、今どこにいるのか」にした。


2025年10月23日木曜日

「西洋の敗北と日本の選択」

After the Empire : The Breakdown of the American Order 

先月出たばかりの、エマニュエル・トッドの 新著「西洋の敗北と日本の選択」をさっそく読んだ。歴史的に重大な出来事の数々を予言してすべて的中させてきたトッドだが、今回は日本に焦点を当てている。

トッドのいう「西洋の敗北」とは、これまで世界を支配していた「自由主義的西洋」の崩壊を意味している。そのことが現在のアメリカに顕著に現れているとしている。経済の基本である産業やモノづくりをおろそかにして、金融による富の力で世界の覇権を維持しようとしている。トランプはその間違いに気づいたものの、その対策が、自国産業を守るために、友好国に対しても高関税をかけるいうとんでもない方向へ行ってしまった。

そしてアメリカはヨーロッパに対して防衛費をもっと増やせと要求して、米欧の分裂が始まった。その結果がウクライナ戦争に現れているとトッドは言う。ウクライナはヨーロッパが守るべきで、その代わりに自分は停戦の仲介役をやってやるというのがトランプの態度だ。だからトッドは、ウクライナ戦争は、絶対にロシアが勝つと断言している。

このような「西洋の敗北」という歴史観の上に立って、トッドは日本の進むべき道を提言している。将来の日本の危機において、経済力も軍事力も衰えたアメリカが、日本を助けてくれることは絶対にない。だから日本は、自力で国を守るために、「核武装」すべきだ、と断言している。


2025年10月21日火曜日

絵画「空っぽの椅子」とゴッホ

 Painting leaving person

日経新聞. 文化欄の「〜の絵画 10 選」のシリーズはとても勉強になるが今回は、「去り行くものを描く 10 選」だった。去ってゆく人を惜しむことをテーマにした絵画10 作品の解説がされている。その中で、ゴッホの「ゴーギャンの肘掛け椅子」が興味深かった。


ゴッホは一時期、大親友のゴーギャンと同居していたが、しばらくしてゴーギャンは去ってしまう。絶望したゴッホは自分の耳を切ってしまう有名な事件を起こしたが、その直前に描いたのがこの絵だという。ゴーギャンが去ってゆくのを予感し始めたゴッホは、ゴーギャンがいつも座っている椅子の上に燭台のローソクを置いて描いた。その光が、ゴッホのわずかな希望の象徴だったという。

この「去り行くものを描く10 選」にもうひとつの絵が紹介されていた。サミュエル・ルーク・フィルズという人の「空っぽの椅子」だ。この画家は知らなかったし、こんな絵も初めて見る。この絵が、上記ゴッホの絵と重要な関連があるという。


ゴッホは若い頃、英国の絵入り新聞「ザ・グラフィック」を愛読していたそうだ。それに魅了されて一時は自分も挿絵画家を志したほどだったというから面白い。その新聞に掲載されていたのが、このルーク・フィルズの「空っぽの椅子」で、絶大な人気のあった文豪ディケンズが死んだ時に、追悼のために描いたのがこの作品だという。ディケンズの椅子にはもう誰も座っていない。

ゴッホはこの絵に感銘を受けていた。後に盟友ゴーギャンが去った時に、愛惜を込めて描いたのが冒頭の「ゴーギャンの肘掛け椅子」で、この絵の影響だったそうだ。

2025年10月19日日曜日

大阪万博のトイレのピクトブラム

 Pictogram of Expo

大阪万博が終わったが、「オール・ジェンダー・トイレ」のピクトグラムがひどいと批判を浴びているというので、ネットで見てみたが、なるほどビックリだ。下図のように、何やら怪しげな人間の姿が並んでいる。これを見て意味を理解できる人はいないだろう。どうやらいろんな国の衣装を着た男女の姿を描いているらしい。


最近、ジェンダー平等の社会的な流れのなかで、公共施設でオール・ジェンダー・トイレを見かけるようになった。そのため、従来の「男子」「女子」のほかにもうひとつ新しい「ピクトグラム」が必要になり、いろいろなデザインが試みられている。下はその例だが、まだ決定打がないようだ。

ピクトグラムは「視覚言語」と呼ばれる。案内表示板で日本語と英語と中国語の言語表示だけでは、その他の国はどうしてくれるんだ、となってしまう。だから言語に頼らないで、見ればわかるピクトグラムという「視覚言語」が必要になる。特にオリンピックや万博のような国際イベントでは重要だ。

世界標準機構(ISO)は工業製品の世界標準化を推進している国際機関だが、その中にピクトグラムの標準化をはかる部門がある。たくさんのピクトグラムが世界標準に制定されて、国際的に使われている。この世界標準化で、日本はたくさんの貢献をしてきた。1964 年の東京オリンピックで、文字に頼らず見るだけで意味が理解できる「ピクトグラム」の開発が行われた。日本のトップデザイナーが集結してデザインされたピクトグラムは、やがて世界標準になり、その後の各国のオリンピックや万博で使われ、また各国の空港や駅などの公共施設でも使われている。



もうひとつ有名な例をあげると、「非常口」のピクトグラムだ。世界標準機構が標準を決める時に、各国デザイン案のコンペになった。結果的に日本提案のデザインが標準として採用されて、現在では世界中で使われている。この時、日本は緻密な検討を重ねてデザインを進めた。例えば火事が起きて施設内に煙が充満した時のピクトグラムの見え方=「視認性」を確かめるために、実際に煙を出して見る実験まで行った。ちなみに下図左は日本案と競ったソ連案だが、複雑すぎて「視認性」が劣る。


日本は、今から 60 年も前の東京オリンピックで、先駆的役割を果たして以来、ピクトグラムデザイン先進国として世界に認められてきた。大阪万博でも、「オール・ジェンダー・トイレ」のピクトグラムの決定版を作り、世界標準化を目指すべきだったが、大阪にはもともとそんな意識などなかった。だから大阪万博は「時代遅れ万博」と呼ばれていた。


2025年10月17日金曜日

映画「トロン」の CG 技術

 Tron

「トロン」の新作「トロン アレス」が公開された。「トロン」のこれまでの3作の公開年を調べたら以下のようだった。1作目からもう33 年もたっている。

1作目 「トロン」      1982 年
2作目 「トロン・レガシー」 2010 年
3作目 「トロン・アレス」  2025 年

3作に共通したテーマは「デジタル」だが、前回書いたように、デジタルの中身が時代とともに変わってきた。そして画像表現技術としての 3D CG 技術の進歩が大きい。

最初の「トロン」は3D CGとはいえワイアフレームのままで、現在からすればとんでもなく原始的だった。しかしこれでも、1982 年当時には、デジタル時代の始まりを感じさせてじゅうぶんに画期的だった。


やがて1990 年代に入るとパソコンの性能が上がり、個人でも3D CG が作れるようになった。当時自分でも国産の3Dソフト「SHADE」を使って3D CG を勉強していた。しかし当時は1枚の静止画をレンダリングするのに数時間かかるのは当たり前だった。だから3D CG の動画を作ることなど夢のまた夢だった。


やがて、ゲーム機で3D 動画が作られるようになるが、それは単色ベタ塗りの塗り絵のようで質感が全くない。それを打ち破ったのがソニーの「プレイステーション」だった。「テクスチャー・マッピング」をした質感のある画像をリアルタイムで動かすことができる「リアルタイム3D CG」だった。ちょうどその時代に第2作の「トロン レガシー」が公開されて、今日と同じレベルの3D CG 映像が実現した。(下はワイアフレームの画像と、それにテクスチャー・マッピングされた画像。)


この頃になると、個人用の PC でも3D CG 動画を作れるようになった。モデリングした画像にテクスチャー・マッピングをするとリアルな画像ができる。そして動きの設定をして、再生ボタンを押すと、動く!  ハリウッド映画に比べたらずっと幼稚だが感動だった。

今度の第3弾も今までと同じく「バイク」が登場する。しかしデザインは今までよりもはるかに強力で迫力満点だが、表現する CG 技術も格段に進歩している。



2025年10月15日水曜日

映画「トロン アレス」と、AI の危険性

「Tron Ares」

「トロン」の最新作「トロン・アレス」が公開された。前作までの「トロン」が、現実世界の人間がデジタル世界へ足を踏み入れてバトルをする、という設定だったが、今回は逆で、デジタル世界が現実世界に襲来して、人間と闘うという構図になっている。そのデジタル世界とは「AI」であり、現在の世界の問題を反映させた主題になっている。

「AI」に対する議論が盛んだが、「AI」は人間のプログラムに忠実に従っているだけで、人間から学習したこと以上のことをできるわけではないし、極端に忠実ゆえに人間にとって良くない指示に対しても、それを自律的に判断して指示に逆らうことをしない。だから政治家や企業が自分の目的に合うようにプログラムした「AI」を使うと恐ろしいことになる、という警告がたくさんされきた。

この映画は、まさにその警告になっている。ある IT 企業の社長が業界の覇権を握るために、強力な「AI」の開発に成功する。それは人間を害することも厭わない「AI 兵士」だ。一方でその「AI兵士」を無力化するためのプログラムを開発している良心的なエンジニアがいる。その両者の壮絶なバトルが映画のストーリーになっている。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なおこの映画の理解の参考に、以前の投稿('25 /5/ 29)を以下に再掲する。

進化した AI の危険性について警鐘を鳴らす人のなかで、スウェーデンの哲学者ニック・ボストロムが行った思考実験(頭の体操)は有名だ。「ペーパークリップ最大化装置」という架空の物語を作って AI の危険性を説いている。その物語はだいたいこんな感じだ。

Illustration: Jozsef Hunor Vilhelem
   ペーパークリップの会社の工場長が AI に、クリップを増産し最大化するように
   命令する。すると AI は、たくさんの工場を建設し、石油や電気のエネルギーを
   調達し、世界中の鉄鉱石を買い占め、効率的な生産工程を新しく開発する。やが
   て人間の体にはいい成分があることを知り、人間を殺してクリップの材料に使う。
   さらにAI である自分の機能をOFF にする可能性のある工場長を殺す。そして競合
   他社の人間を皆殺しにする。そしてついに地球全体を征服してクリップ製造装置
   で埋め尽くす・・・

この物語で重要な点は、AI が邪悪だから人間を殺したわけではなく、人間に命じられた「クリップ最大化」の目標を達成するために、ひたすら忠実に仕事をしただけということだ。しかし強力なAI は人間が想定しなかったことまでやってしまう。だから、AI に与える目標を、人間の最終目標にピッタリ一致させなければならないとボストロムは強調する。つまりこの場合、「クリップの最大化」は、あくまでも「人間のため」ということをAI のアルゴリズムの中に組み込まなければならないということだ。

2025年10月13日月曜日

「アンパンマン」の やなせたかし氏

 Takashi Yanase

毎回参加しているグループ展(凡展)が今年も始まった。今回は、やなせたかし氏の特別展示がされている。NHK の連続ドラマで「あんぱん」が放映されてきたことから、当グループ展のメンバーだったやなせたかし氏を記念しての展示だ。


やなせたかし氏は学校(戦前の東京高等工芸学校)の大々先輩で、我々同窓生のこのグループ展に 20 数年にわたり出展し続けた。「アンパンマン」などの原画などを出展されていたが、亡くなられてから12 年になる。氏の年譜も展示されていて、素晴らしい業績の数々をあらためて知ることができる。



2025年10月11日土曜日

絵画の起源

Origin of Painting

日経新聞の連載コラム「去り行くものを描く」の第1回目で、デヴィッド・アランという18 世紀の画家の「絵画の起源」という絵が紹介されている。古代ギリシャの神話にもとづく絵で、戦場に出てゆく恋人の面影を残すために、女性がろうそくの光で壁に映った影をなぞっている。「影をなぞる」というのが絵画の始まりだったといわれている。

その後もこれと同じ題材の絵が何度も繰り返し描かれてきた。,左はエデユアルド・デジエという人の「絵画の発明」(1832 年)で、右はアンヌ=ルイ・ジロデという人の「素描の起源」(1829年)。題名もほとんど同じだ。(写真は「影の歴史」より)

これらの絵に共通していることは、顔を「横顔」のシルエットで描いていることだ。シルエットで顔の正面を描いても人による差が出にくい。目鼻立ちの特徴を描くには横顔にせざるを得ない。

だから肖像画は横顔で描くというのが長い間の常識だった。これはルネッサンス期になっても続き、例えば有名なボッティチェリの「若い女性の像」も横顔で描かれている。影のシルエットではなくなったが、表現は平面的だ。

正面から描いて本人らしさを表現できるようになるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」からだった。それは、遠近法と陰影法の発達によって、顔の立体表現が可能になったからだ。


2025年10月9日木曜日

なぜ人間は物を見て立体感を感じるのか

 Stereoscopic Vision 

ひと昔まえに「立体映画」がはやった。立体感を極端に増強した映像で、手前に物が飛んでくると思わず顔をのけぞらせてしまうほどだったが、見せ物的な面白さだけなので、すぐにすたれてしまった。映画館の入り口で渡される立体メガネを掛けて見る。左目には赤色、右目には青色、のフィルターのメガネだ。メガネをはずして見ると、赤色の映像と青色の映像の2つが少しずれて見えている。メガネをかけると、左右の両眼それぞれがその片方だけが見えるようになる。

人間は「両眼視」による両眼の見え方のズレ(視差)によって立体感を感じている。認知心理学者のギブソンはこの立体視のメカニズムについて「視覚ワールドの知覚」の中で詳しい説明をしている。右図のようにピラミッド型の物体を見ている場合、右目と左目では、少し違う角度から見ている。その二つの映像が脳の中で融合されて一つの立体像として認識している。立体映画はそのしくみを利用している。

ギブソンは、そのほかにも「両眼視」についてたくさんのことを書いている。例えば下図は、右目と左目の視野と、その重さなりを示している。両方が重なっている白い領域が立体視を感じる範囲になる。しかしその範囲はかなり狭い。グレーの部分では単眼視になり、少しぼやけて見えている。


そして、ソファに横たわっている自分の姿を、右目を閉じて、左目だけで見ている状況を描いた絵を紹介している。足のつま先が画面中央まで伸びている。そしてこの絵の右端に白いものが見えているが、これは自分の鼻だ。鼻が左目の視野のはじっこに見えている。自分でも片目で見てみると確かに自分の鼻が見える。そんなことに気が付いていなかったから面白い。この鼻は上図のグレーの範囲内で見えている。普通は両眼で白い範囲を見ているから、そこから外れている鼻は見えていない。


このように人間は、両眼視によって立体感や遠近感を感じているが、ギブソンは、それはたくさんある方法の一つにすぎず、ほかにも人間はたくさんの方法を使って立体感や遠近感を感じとっていることを説いている。だから「遠近法」には一般に知られている以上に、13 種類もあることを主張していることは、先日(9 / 30)書いた。→https://saitotomonaga.blogspot.com/2025/09/blog-post_9.html

ギブソンは、ほかにも面白いことをたくさん書いている。例えば、馬の目は顔の両側面についていているため、両眼視はできない。馬のような草食動物は、肉食動物から身を守るために、全方向を見渡せるように、視野角が全周 360° になるように進化してきた。それに対して人間は、視野角の広さを犠牲にして、前方だけを集中して見る能力を高めるように進化してきた。人間が両眼視によって立体視をできるのはそのおかげだ。


2025年10月8日水曜日

坂倉準三の「神奈川県立近代美術館」

  Junzo Sakakura

日経新聞の連載コラム「共同体の建築 10 選」で「旧神奈川県立近代美術館」(10 / 8)が取り上げられていた。この建築については、当ブログでも書いたが、これを機にもう一度再掲する。


以下は、2024 / 1 / 29 の投稿再掲

坂倉準三は好きな建築家の一人で、地元の神奈川県立近代美術館(今は他の美術館に変わっている)へよく出かける。坂倉準三はコルビュジェの弟子だったので、その影響を受けている。この建物は、建物全体を柱で浮かせるコルビュジェの「ピロティ」の手法を取り入れている。しかし「ピロティ」の軒が、池の上まで張り出していることによって、軒下に、ゆらゆらと動く池の波紋が反射している。この軒下が波紋を映し出す ”映像スクリーン” になっている。写し出される波紋の動きは見ていて見飽きない。


モダニズム建築の巨匠コルビュジェの弟子でありながら、坂倉準三の建築は、桂離宮などの日本建築を思わせる。自然環境との一体感をコンセプトにしていてとても日本的だ。


2025年10月6日月曜日

「重なりの遠近法」と「大小の遠近法」

Perspective in Japan 

日本絵画では「線遠近法」はあまり発達しなかったが、代わりに「重なりの遠近法」と「大小の遠近法」が日本独特の遠近法として発達した。

伊藤若冲の「群鶏図」は「重なりの遠近法」の代表作とされる。たくさんの鶏が手前から向こうへ重なって描かれ、「重なり」によって奥行きを表現している。しかし鶏の大きさに「線遠近法」的な大小変化はない。


広重にも「重なりの遠近法」の絵がある。「名所江戸百景」の中の「日本橋通一丁目略図」という絵が面白い。建物が線遠近法なので、それに合わせて、遠くの人間も小さくなっているのだが、傘をさしている人々が重なっている。重ねることで遠近感を強調している。




その広重の「名所江戸百景」には「大小の遠近法」がたくさん使われている。「水道橋駿河台」で、3匹の鯉のぼりが描かれているが、手前の鯉のぼりは、画面全体を覆うほど大きい。向こうの鯉のぼりは小さい点ほどで、極端な大小の差が遠近感を強く感じさせる。


手前の松が画面全体を占めていて、枝の間から遠景が見えている。枝の形の面白さで画面構成をしている。このように「大小の遠近法」は、絵の大胆な構図を生み、印象派に大きな影響を与えたことはよく知られている。


同じく「江戸百景」の「高輪うしまち」も同様で牛車が極端に大きい。後ろに牛が描かれているが、線遠近法的にいえば、小さくすぎる。風景画というより画面の構成の面白さをねらっている絵だ。なおこれらは「近像型構図」と呼ばれることもある。



2025年10月4日土曜日

屋根付きの橋 「田丸橋」と「マディソン郡の橋」

 Roofed Bridge

日経新聞の連載コラムの「共同体の建築 10 選」で、「田丸橋」という橋が紹介されていた。愛媛県の内子町というという町の農村地帯の田んぼの中にある小さな橋だ。日本にも屋根付きの橋があったのかと驚いた。長さ14m の木造の小さい橋で、戦前からあるのだが、なんのために屋根付きにしたのはよくわかっていないそうだ。臨時の農機具置き場に使われたのではとか、農作業中の休憩場所に使われたのではなどと推測されているという。


屋根付きの橋と聞いてすぐに映画「マジソン郡の橋」を思い出した。クリント・イーストウッドとメリル・ストリープが演じた名画だが、改めて橋の画像を検索してみた。田丸橋と同じ木造だが、構造の違いがとても大きい。マディソン郡の方は、橋が完全に覆われてトンネルのようだ。内部もガッチリとした木組みの構造になっている。あらためてこれと比較すると、「田丸橋」の、まわりの風景が見渡せ、風通しがいい、軽快な造形に、小さい橋ながら日本建築らしさが凝縮されているのを感じる。