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2023年8月24日木曜日

パステルで描く「朝」

 Morning landscape with pastel

パステルは、風景のムード(雰囲気)を描くのに向いている画材だ。春夏秋冬の季節感、晴れ・雨・曇りの天候、朝昼晩の時間帯などによって変わる風景の表情を表現できる。

その例として、「朝」をテーマにした風景をあげてみる。朝の光は魅力的だが微妙で、移ろいやすい。日の出から昼の光になるまで数分しかない。その間の一瞬をとらえて絵にする。以下の作例は、初心者向けのパステル画入門書から取り上げた。


「朝の光」 日が昇り始める前の一瞬。あたりは暗いが、地平線の彼方だけがかすかに明るい。(Creative Painting withe Pastel より)     

「早朝の夢」 明るくなり始めた森。樹々の輪郭は曖昧で、まだ覚め切らず、まどろんでいるような風景。(Pure Color,  The Best of Pastel より)


「朝霧」 朝霧に霞んでいる幻想的な森の風景。(Randscape Meditation より)

「朝の沼地」 水辺の枯れ草だけに朝日が当たっている。空も森もまだ暗い。(Creative Painting withe Pastel より) 


2020年12月12日土曜日

ホッパーの絵画「線路ぎわの家」

 Regionalism and Edward Hopper

アメリカの画家たちもご多分にもれず、パリへ行って勉強していたが、2 0 世紀になるとヨーロッパ的な絵画から脱却してアメリカ独自の絵画を創り出そうとする。モダニズム絵画もそうだが、もう一つは「リージョナリズム」(地方主義)の流れだった。近代化されていない素朴で昔ながらのアメリカらしい「アメリカン・シーン」を描いた。アンドリュー・ワイエスもその一人だった。

エドワード・ホッパーも代表的なリージョナリストで、例えば「線路ぎわの家」は有名だ。コロニアル様式の古風な建物が、何もない平原に取り残されたように、「ポツンと一軒家」的に建っている。寂しくもあり、ちょっと不気味でもある。


この絵の影響は大きかった。映画で古い田舎が舞台の時にこのイメージがときどき使われる。ヒッチコックはホッパーの絵からインスピレーションを得て「サイコ」のセットを作ったという。人里離れた山奥に一軒だけ建っている家で起きるホラーの舞台として、この古風で不気味な家がぴったりだった。


もう一つの明らかにホッパーの影響を受けたといわれる映画は「天国の日々」。2 0 世紀初頭のテキサスの田舎の農場に働きに来る季節労働者と、裕福な農園主との話だが、農園主の邸宅がホッパーの絵にそっくりだ。大草原の中にぽつんと建っていて、まわりの風景と全くそぐわない異様さも似ているが、それがこの映画の物語をシンボライズしている。


2020年11月14日土曜日

1 8 0 年前の積みわらの写真と、モネの「積みわら」

Early photograph and Monet's 「Haystacks」

イギリス人写真家のトルボットという人が ! 9 世紀中頃に出した「自然の鉛筆」が史上初の写真集といわれている。 「鉛筆」という題名からもわかるが、デッサンや素描のように、対象を素直に写し取ろうとしている。

「開いた扉」は、納屋の入り口を撮った写真だが、誰かがほうきを置いて中に入っていったことを物で感じさせている。長い露光時間を要したので、動いている人間を撮ることができなかった。しかしほうきや壁やバケツなどの質感のリアルさは写真ならではだ。


「積み藁」は、藁の一本一本までディテールがはっきり撮られている。対象を写実的に再現するという点では、絵画はここまでできない。


強力な写実力のある写真の出現で、それまでの自然をリアルに再現するという絵画の意味がなくなってしまう。絵画は写真を超えたリアルを表現しようとする方向へ向かう。上と同じ「積みわら」だが、モネは藁そのものよりも、藁を包んでいる大気の空気感を描いている。「積みわら」シリーズは光と色を変えて 2 5 作あるというが、そのことからも刻々と変化する空気感を描こうとしたことがわかる。


2020年10月3日土曜日

裏通りの魅力を描く K さんの水彩画

"Turn the corner" 

「街角を曲がる」(大山敏男)という本は、散歩の途中で角を曲がって裏通りを歩くことの魅力について書いている。車が行き交う大通りを散歩したいとはあまり思わない。広い道は視界が広く、先々まで見通せてしまうので、何があるのだろうかという期待感がわかない。だから角を曲がって、裏道、脇道、小道を通ってみたくなる。すると昭和の古い建物があったり、庶民の生活が息づいていたり、場合によっては謎めいた光景を見つけたりする。

そのような裏道の風景を描いた絵画を探してみたが、意外にない。遠くまで見通せるまっすぐな道を一点透視で描いたような絵が多い。しかし知人の水彩画家 K さんは、東京の古い下町の裏通りを専門に描いている。開発で消えてゆく懐かしい風景を絵にとどめておきたいと自身が言っている。絵も魅力的だが、場所の空気感が伝わってきて、実際に歩いてみたくなる。絵のタイトルがすべてその場所の住所になっているので、散歩ガイドにもなっている。
上から「中央区月島3丁目」「文京区湯島聖堂」「文京区本郷4丁目 鎧坂」 画像は「小林征治・水彩画集」より)




2020年6月25日木曜日

西洋の魚の絵と高橋由一の「鮭」

Allegory of Fish

キリスト教がまだローマ帝国の迫害を受けていたマイナー宗教だった頃、信者が一本の円弧を描くと、もう一人が2本目の円弧を加えて魚の図にした。これが信者同士の合言葉だったという。

魚がキリストのシンボルとされたのは、ギリシャ語で、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」という言葉の頭文字をつなげると、「魚」という文字になることからきたそうだ。だから宗教画にはよく魚が登場した。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のテーブルの料理は拡大すると魚料理であることが分かるそうだ。 1 7 世紀の寓意画が盛んだった頃の絵には魚のモチーフがよく使われた。この「魚売りの老夫婦」も宗教的な寓意が込められているという。


高橋由一の「鮭」は日本初の西洋画として有名だが、これについて荒俣宏が面白いことを言っている。もし当時、魚の寓意に慣れている西洋人がこの絵を見たら、魚が半分身を切られてぶら下げられているから、十字架にかけられたキリストの処刑の図であると思って、ひれ伏して涙を流しただろうという。もちろん高橋由一自身はそんなつもりはなく、単純な静物画として描いている。見る側も単にリアルな絵だと感心して見ていた。日本では、絵とは純粋に「見る」もので、そこから何かの言語的な意味を「読み取る」ようなものではなかった。

2020年5月22日金曜日

”死んだ都市”の絵(その2)クレリチ

Clerici

クレリチ の ”死んだ都市” のなかでいちばん有名な「水のないヴェネチア」。ヴェネチアは、海の干潟(ラグーン)に無数の杭を打って、その上に島を作り家を建て、島どうしを橋で繋いで、現在の「水の都」ができた。この絵は、水が干上がって街が宙に浮いてしまう悪夢を描いている。

「竜巻」では、大きな都市が竜巻に襲われて、家々は屋根が吹っ飛び、壁がむき出しになり、街は砂に埋もれて砂漠化している。クレリチ がトルコのアナトリア半島を旅した時のスケッチをもとに描いたというが、その地では、歴史上たくさんの文明が発祥しては、滅びた。自然の変動によって、文明が没落するヴィジョンを描いている。


2020年5月20日水曜日

”死んだ都市” の絵(その1)クノップフ

Khnopff

クノップフの「見捨てられた町」は、死んでしまった都市を描いている。建物のドアや窓は閉じられ、銅像は台座だけが残っている。海水がひたひたと地面を侵食している。人は誰もいない。

貿易港として栄えたベルギーのブリュージュが、土砂の堆積で港の機能を失い、町は海水に侵食されて、死の町になっていったイメージを幻想的に描いている。

自然災害などで都市が滅ぶという終末論的な没落イメージは、ダ・ヴィンチの「大洪水」をはじめたくさんあるが、クノップフは「無人風景」を描くことで、死んだ都市を表現した。

3年前の「ベルギー奇想の系譜」展では、「ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院」が来ていた。これもテーマは同じで、建物の半分が水に浸かった死んだ町の一角を、静まりかえった無人の風景として描いている。


2020年5月12日火曜日

ワインで飲み会 フェルメールとホーホ

Vermeer & Hooch

二つの絵を比べてみる  フェルメールとホーホの室内画

フェルメールと同時代の室内画で、一番人気だったホーホ。ワインで飲み会をやっている絵で、気軽な "インスタ写真" のような感覚なのだろう。

フェルメールの方は造形性が高く、いわば "芸術写真" 。 2 0 世紀になってから、両者の評価は逆転する。最近のフェルメール展で、よくホーホの絵が比較対象として展示される。引き立て役にされてかわいそうだが、比較すると確かにフェルメールはすごさがわかる。
このフェルメールは、ホーホと同じく、男女がワインを飲んでいる似たモチーフなので、比較しやすい。

画面構成が緊密で、どの部分も1mmも動かせないくらい、構図が計算されている。その点、ホーホの方は ”ゆるい”。まわりに余分な空間を作らないフレーミングも画面密度を高めている。また、女性の上半身を明るくしたり、壁や床の明るさを微妙に変化させたりなど、明暗の配分が絶妙。

2020年5月6日水曜日

写真 vs 絵画、アングルとゴッホの人物画

Ingres & Gogh

2つの絵を比べてみる   絵画への写真の影響、アングルとゴッホの人物画

アングルの肖像画は、上流階級の女性を格調高く描いている。注文主であるモデルを立派に見せている。

この時代に写真が発明されて、写真家という商売が始まる。写実絵画のチャンピオンだったアングルは、写真が画家の仕事を奪うとして、写真業を禁止するように政府に求めることまでしたという。しかし裏ではこっそりと、写真家にモデルの写真を撮らせ、それをもとに、このような肖像画を描いていたそうだ。

アングルの他にも写真を使って描いた画家は多かったらしく、ある研究によれば、マネ・コロー・ミレー・ドラクロワ・クールベ・ドガ、など、そうそうたる人たちが写真利用派だったという。

写実絵画には写真が重宝がられたが、写実よりも、画家の感じたものを描くことに重点を置く人たちは、写真利用を否定した。それは、ルドン・ゴーギャン・ムンク・ゴッホ・マティス、などだったという。

写真は、透視像の正確さで勝っているが、当時の写真は白黒で、しかも白黒コントラストが強く、中間調を再現できなかった。だから画家たちは、写真にはできない、絵画の強みを活かそうと考えて、光と色の絵に進んでいった。それが印象派を始めとした近代絵画誕生のきっかけの一つになった。
(以上、黒田正巳「空間を描く遠近法」による)

2020年5月2日土曜日

マティスの二つの窓の絵

Matisse

2つの絵を比べてみる ⑤    マティスの2つの窓の絵

マティスに「コリウールのフランス窓」という同じ題名の絵が二つある。1作目は 1 9 0 5 年の作で、2作目は 1 9 1 4 年の作だが、同題名でありながら、9年の間に絵は一変する。

1作目は、華やかな色調と軽いタッチで、いかにもマティスらしい。南フランスの海を、別荘らしき部屋の窓越しに描いていて、明るい雰囲気が伝わってくる。
2作目は一変して夜の風景で、中央が黒で塗りつぶされている。具象性が消えて、題名が「窓」でなければ、窓に見えない。垂直線が画面を4つの平面に分割していて、抽象絵画になりかけている。

 1 9 1 4 年といえば、カンディンスキーの抽象主義絵画などの、絵画の変化が始まった時期だから、その影響があると思う。


2020年4月30日木曜日

フェルメールの本物とニセ物

Vermeer & Meegeren

二つの絵を比べてみる ④ 本物のフェルメールとメーヘレンのニセ物

フェルメールのニセ物を作ったメーヘレンは、2 0 世紀最大の贋作画家といわれる。新発見のフェルメールと偽って高額で売った。その1枚がナチスのゲーリングに渡って、「ナチスを騙した男」として有名になった。

右はメーヘレンの「ヴァージナルの前の女と紳士」で、下はフェルメールの「合奏」。テーマやモチーフをそっくり真似ていて贋作とはなかなか見抜けない。しかし、ある研究者によると、メーヘレンにはフェルメールとの大きな違いが一つあるという。それは暖色系の色がほとんど無い点で、だから寒々とした印象を受ける。比べると確かにフェルメールの方が活気がある。


「ナチスの愛したフェルメール」は、メーヘレンの伝記ドラマで、なかなか面白い映画だ。

メーヘレンが贋作を始めたのは、高名な批評家が自分の絵を酷評したことへの復讐だった。この批評家がメーヘレンの贋作をフェルメールと信じてしまい絶賛するが、やがてメーヘレンの作と証明される。同じ人間が描いても、「メーヘレン」だと酷評し、「フェルメール」だと賞賛することを暴露したのだ。映画は、絵の価値とは何かを問いかけている。「巨匠」だからとか「名画」だからなどで人は絵を評価して、自分の目で絵の価値を判断していないということを。

ちなみにメーヘレンの最高傑作とされる「エマオの食事」は、現在でもオランダの美術館に「メーヘレン作」として展示されている。つまり、フェルメールでないことが分かっても、絵そのものの価値を認めている。

2020年4月28日火曜日

マネとモンドリアン

Manet & Mondrian

2つの絵を比べてみる     マネとモンドリアンの平面構成絵画

マネの「バルコニー」は、まるで人物の形に切り抜いた紙を窓ガラスに貼り付けたように平面的に見える。空間の奥行きや立体感を重視する伝統的絵画に逆らって、絵を平面化している。だから当時この絵は、非難ごうごうだったという。

マネの伝記映画に、この絵の制作過程が出てきた。まず窓とバルコニーを描いておき、その後でモデルを一人ずつ、すき間を埋めるように描いていった。この描き方からマネのねらいがよく分かる。対象を平面的に並べる「平面構成」をしている。だから人物も陰影をつけずに、立体感を無くしている。平面構成は、面を分割する線が大事だが、この絵では窓とバルコニーの直線がその役割をしている。

究極の平面構成がモンドリアンで、垂直水平の直線で平面を分割している。マネの絵から人物を消して、窓とバルコニーの直線だけを残すとモンドリアンになる。


2020年4月24日金曜日

カラヴァッジョの「ナルキッソス」と 宮本三郎

Caravaggio & Saburo Miyamoto

2つの絵を比べてみる ①    カラヴァッジョの「ナルキッソス」と宮本三郎の「饉渇」


宮本三郎の「饉渇」は、世田谷の宮本三郎記念美術館で見ることができるが、印象の強い絵で、負傷した兵士が水たまりの水を飲もうとしている。水に映った像で、目をぎょろつかせた苦痛の表情がわかる。戦争中に軍部に協力して描いた戦争画だが、そのことを別にすれば、絵はデッサン力随一の宮本三郎らしい。
カラヴァッジョに「ナルキッソス」という絵がある。題材のナルキッソスは、ギリシャ神話に出てくる美少年で、泉の水に映った自分の姿に恋してしまう。これが自己愛や自己陶酔を意味する「ナルシシズム」の語源になった。

宮本三郎は、この絵からヒントを得ているはずだ。手をついたポーズや、地面と水の境目が画面中央を横切っている構図もカラヴァッジョと共通している。

2020年3月11日水曜日

ハドソン・リバー派とマットペイント

Hudson River School & Matte Paint

イギリスの植民地だったアメリカが、独自の「アメリカ絵画」を確立したのが 1 9 世紀の「ハドソン・リバー派」からだと言われる。トーマス・コールなどがハドソン川流域の自然を描いたが、現場での断片的なスケッチを合成して、いかにもありそうな幻想の風景を作り上げた。その「崇高な風景」が、人々の自然観として根付いていった。

 現代は映画にも受け継がれ、「ハドソン・リバー派」にそっくりな幻想風景がよく使われる。この「スター・ウォーズ」の例のように、マット・ペイントや C G でも「崇高な風景」が頻繁に出てくる。「現実が空想になり、空想が現実になる、ファンタジーランド」の国アメリカらしい。「優しい里山」的な風景に囲まれた我々日本人にはなかなか描けない。

2020年3月9日月曜日

「ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ 5 0 0 年史」とハドソンリバー派

「Fantasyland,  How America Went Haywire」

アメリカという国を、狂気と幻想の「ファンタジーランド」だとしていて、アメリカの様々な現象の「なぜ?」が分かって面白い。現実と空想の境目が曖昧な幻想の世界が生み出され、人々もそれを積極的に求める。それを「根拠なき熱狂」と呼んでいる。「科学を否定するリベラル派」「狂信化するキリスト教」「ガンクレイジー」「幻想で商売する娯楽ビジネス」「ファンタジーランドのウェブ世界」「巨大テーマパーク化する社会」などのキーワードが並ぶ。

絵画についての部分をちょっと紹介。18 世紀アメリカの絵画として「ハドソン・リバー派」が有名だが、それが生まれた時代背景に触れている。彼らは現実の風景から集めた断片的な素材を合成して幻想の風景を描いた。現実と空想が混ざった、いかにもありそうな風景だが、人々が抱いているアメリカの理想の自然像だ。アメリカ移住時代に「恐怖と不安」だった自然が、荒野が切り開かれ、人が住むにつれ、「崇高」な自然に変わり、このような絵が生まれたという。たしかにハリウッドのファンタジー映画や S F 映画などにもこういうイメージがよく出てくる。


2020年3月6日金曜日

マックス・エルンストの「少女が見た湖の夢」

Max Ernst

個人的に大好きなマックス・エルンストは森の絵が多いが、横浜美術館のコレクションに「少女が見た湖の夢」があり、コレクション展があると見ることができる。

中央にある湖は真っ黒で、その周りを不気味な森が囲んでいる。この森はじつは怪物の集まりで、近くでよく見ると一本づつの樹に眼があるのが分かる。(下は、中央にいる牛のような頭をした怪物)

ドイツでは、森は敵意を持った樹々に閉じ込められた恐怖の場所とされている。だからグリム童話では、「赤ずきん」や「ヘンゼルとグレーテル」などのように、暗い森で少女が怖い目にあう。この絵は、そんな少女が見る幻想の怖い森だ。

2020年3月2日月曜日

「関根正二展」

SEKINE Shoji : A Retrospective

関根正二は、名前を知っている程度だったが、初めてじっくりと観た。大正時代の初めに5年間だけ描いて、わずか 20 才で死んでしまった天才画家の回顧展。100 年前とは思えない、現代的な絵に感じる。(神奈川県立近代美術館)



2020年2月23日日曜日

カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの世界観

Casper David Fredrich

ある電機メーカーの広告に使われている写真だが、人物(たぶん合成)の効果で、「風景」が「人が見ている風景」に変わる。ドイツ・ロマン主義の巨匠カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの「雲海の上の旅人」を思い出した。

印象派などは特にそうだが、絵は自然を美しく優しいものとして描く。だがフリードリッヒは、崇高で畏れ多い、人間を超越したものとして自然を描いた。近寄り難い存在なので、第三者的に外から見ている。だから風景を見ている後ろ姿の人間を描いている。







代表作の「海辺の修道士」でも、暗くなりかけた空に向かって修道僧が祈っている。崇高な自然と、ちっぽけな人間が対比されている。

2020年2月6日木曜日

水彩画家 K さんの個展

知り合いの Kさんの個展を今年も観にいった。光の美しい、水彩の魅力たっぷりの作品ばかり。現場主義だが、1枚に2日かけているそうで、1日目は2時間くらいデッサンだけやり、翌日にまた出かけて2時間くらいで彩色をするという面白いやり方をしている。

(写真:「小林征治・水彩画集」より)

2020年1月25日土曜日

「ハマスホイとデンマーク絵画」展

Vilhelm Hammershoi and Danish Painting of the 19th Century

12 年前に初めて見て衝撃的だったハマスホイがまた来た。(東京都美術館、~ 3 / 26 )その室内画は、無人のがらんとした部屋で、静まりかえっている。人がいても彫像のような後ろ姿で、部屋に生活があることを感じさせない。絵から物語性や情緒性を排除して、ひたすら室内の空間だけを描いている。右の場合、額縁・壁・家具の垂直水平の直線で画面を構成しているが、そのプロポーション感覚が鋭い。

下では、4つの部屋が描かれているが、ドアがすべて開いていて、空間が奥へ向かって繋がっている。引越しの荷物を積み出して、これから家を出て行こうとしているかのような、家具も人もいない部屋だが、純粋な画面構成を邪魔するものを削除している。なお中央のドア上部が歪んでいるのは何故なのか謎だったが、今回解説があり、キャンバスの張りムラが原因とのこと。