2025年8月5日火曜日

プラトンの「洞窟の壁に映る影」は映画

 Plato

7 / 24 日の投稿で、「洞窟の壁に映る影」について書いたが、その補足を。

壁に映る「影」をなぞって人間の肖像画を描いていたギリシャ時代に、哲学者プラトンが「国家」のなかで、同じく「影」について書いている。有名な「洞窟の壁に映る影」という例え話しだ。それをかいつまんで要約するとこうなる。

『 地下にある洞窟の中に住んでいる人間がいる。彼らは子供の時からずっと手足を縛られていて、動けずに洞窟の奥の方ばかり見ている。彼らの後ろにはろうそくの火が燃えていて、その光と人間の間には台があって、そこで人形使いが、人形やいろいろなものを操っている。その影が洞窟の奥の壁に投影される。外の世界の現実を見たことがない人々は、「虚像」であるその影を「真実」だと思い込む。』

この文章に書かれた状況を、文章どうりに図に描いてみたが、こんな感じだろう。


こう描いてみると、これはまさに映画だ。暗い洞窟は映画館であり、洞窟の奥の壁はスクリーンであり、そこに映った影はフィルムの像を光で投射した映像に当たる。それを観客たちが見ている。

プラトンの時代にはもちろん映画はないが、プラトンがこの例え話しで言いたかったのは、洞窟の外にある現実の世界を知らない人々が、投影された「虚像」を「真実」だと信じてしまう人間の認識能力の頼りなさを指摘している。

プラトンがこの洞窟の話しを「国家」という本の中で書いていることにだいじな意味がある。市民による民主主義政治が行われていた古代ギリシャを見ていたプラトンは、本当の真実をみることのできない市民が、目先のことだけでワアワアと騒ぐだけの民主主義政治を否定し、一人の賢く強い指導者が大衆を引っ張る専制政治が「国家」の理想的な姿であると考えていた。その大衆の ”わかっていない” 無知ぶりを説明するためにこの洞窟の話しを書いた。

しかし現代の人々とって映画は、洞窟の人たちとは違う。映画館に閉じ込められているわけではなく、外界の現実を知っている。そのうえで、映画が「虚像」であることを承知のうえで、世界に対する自分の認識を時空を超えて広げてくれるものとして見ている。だからこの洞窟の話しは「映画」に例えるよりもむしろ「スマホ」に例える方がいいだろう。洞窟の奥の方ばかり見ている人々は、一日中スマホばかり見ているスマホ依存の現代人に当たる。そしてスマホの画面に映る SNS の物語や画像という「虚像」を人々は簡単に「真実」だと信じてしまう。

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