2025年12月30日火曜日

「かたちと人類」

 Homo Sapiens with Forms

「かたちと人類」という本が出たので、タイトルにひかれて買った。さまざまなキーワードごとに、絵画やデザインや建築などの「かたち」を収録している。帯にある「5万年の歴史と未来を描く」というほどには内容は深くないが、網羅的なので事典的に使うには便利だ。

一例として「権威の軸」という項目の概要を簡単に紹介する。

古代エジプトのレリーフでは、シンメトリーの構図が多く、中心に権威ある王がいて、両側に従者などを配している。そこには「中心軸」の概念があり、それが、権力者の権威・威厳を表した。

この権力の象徴としての「中心軸」の強調が現代でも行われている。パリの街がその例だ。19 世紀のパリでは、暴動が頻繁に起きていたが、路地が迷路のように張り巡らされ、軍隊が鎮圧しづらい。そこでナポレオン三世は、パリの大改造を命じた。それでルーブル美術館と凱旋門の間を結ぶ広い直線道路ができた。現在のパリの姿は、もともとはナポレオンの権威の象徴だった。新しく建てられた新凱旋門もこの「中心軸」上にある。

権威の象徴としての一直線の中心軸にこだわったのがヒトラーの総督官邸だった。外国との首脳会談を総統室で行うが、ドイツ代表と外国代表は向かい合って座るが、ヒトラーだけはドイツ側には座らず、中央の司会席に座る。部屋自体が威圧するようなシンメトリーだが、その中心軸に座って、権力の上下関係を認識させるねらいだった。実際ヒトラーは、ヨーロッパの小国首脳をこの部屋に呼びつけて脅迫し、ドイツに従属させた。

同書は、もうひとつナチス党大会の記録映画「意志の勝利」の例をあげている。広場の両サイドには兵士の群れが整列して、中央に直線道をかたち作り、そこをヒトラーと幹部の3人が歩く。この荘重な儀式の映像を撮ったのが有名な女性監督のリーフェンシュタールだ。このシーンを完璧なシンメトリー構図で撮影し、「総統道」と呼ばれた中央一直線の「中心軸」でヒトラーの権力を強調している。

そしてこの映像を引用したのが「スターウォーズ  エピソード4」のラストシーンだった。両側に整列した兵士のあいだの一直線の道を3人のヒーローが歩いて、レイア姫の顕彰を受けるシーンだ。上の映像では3本のハーケンクロイツの垂れ幕が正面に掲げられているが、こちらではその代わりに5本のサーチライトが光っている。サーチライトも、ヒトラーのお抱え建築家のシュペーアが権力の象徴としてよく使った手法だ。

2025年12月29日月曜日

「ジェット・ストリーム」の CD

「JET  STREAM」 

地元の商店街で、CD 屋の露天の店が出ていた。30~40 年くらい前の古い CD ばかりで、足を止めているのはお年寄りばかり。つられて、なにか ”昔懐かし” 的なものはないかとみたら、「ジェット・ストリーム」が目について思わず買ってしまった。

もう 40 年前くらいの昔になろうか、FM の深夜放送でみんなが一生懸命聴いていたこの番組は、JAL がスポンサーで、外国旅行への憧れをかき立てていた。ジェット旅客機が空港を飛び立つキーンという音から始まり、城達也の”しみじみ”としたナレーションが入る。例えば、ミッシェル・ルグラン楽団の「パリの空の下」や「ラ・セーヌ」などのノスタルジックなムード・ミュージックを聴くと、憧れのパリの街角を歩いているような気分 になったものだ。

しかし外国旅行が普通になった現在、昔のような ”憧れのパリ” といった感覚になる人はいないだろう。そもそもパリの街の真ん中に日本人観光客向けのラーメン屋があるくらいだから。だからこの CD を今聴くと、城達也のナレーションもわざとらしく聞こえてしまう・・・ 


2025年12月28日日曜日

ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」と映画「サクリファイス」

The Adoration of the Magi 

前回書いた映画「サクリファイス」のオープニングで、レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」の絵の一部分がアップで映し出される。聖書のイエス・キリストの生誕の物語を描いている絵で、祝福する人たちがキリストを抱いた聖母マリアを取り囲んでいる。

映画「サクリファイス」は、核戦争で滅びる運命の人間の恐怖を描いている。人々は神の救済を求めて祈る。そのとき登場人物のひとりである「マリア」という女性に救いを求める。その「マリア」はこの絵の「聖母マリア」に重ねられている。だから映画全体のテーマを象徴するものとしてこの絵を使っている。


上がダ・ヴィンチの絵の全体。下半分は祝福する人たちで埋まっているが、背景には戦争で破壊された教会があり、まだ戦闘を続けている人たちがいる。映画「サクリファイス」は核戦争が始まり、滅びる運命の人間を描いているが、この絵にそれを象徴させている。「黙示録」は、人類の「終末」と、救世主キリストによる「救済」の物語だが、この絵はそのヴィジョンを視覚化している。


2025年12月27日土曜日

映画「サクリファイス」

「Sacrifice」

何年ぶりかで、タルコフスキー監督の名画「サクリファイス」を観た。冒頭のシーンで、湖のほとりで男が、枯れて倒れた木を起こして植え直している。そばの小さい息子に毎日水をやれば木は生き返るよ、と言う。そしてラストで、息子が水をやって、木を見上げているシーンで終わる。

この象徴的な二つのシーンで、タルコフスキーの世界観を表現している。二つに挟まれたストーリーは、黙示録にある、人類の「終末」と「再生」の物語だ。

もと役者の主人公の誕生日に家族と親友が集まっていると、突然 TV の臨時ニュースで、核戦争が始まったことを伝える。人々は地球が絶滅する恐怖におののく。女がパニックになり泣き叫んだり、死を覚悟して神に祈り続けたりする。

そのとき、主人公は友人から意外なことを言われる。神の救済を求めるために家政婦の「マリア」と寝なさいというのだ。「マリア」は、人間を救う「聖母マリア」と、罪深い女である「サクラダのマリア」の両方をかけた名前だ。そして言われたとおり男はマリアの家に向かう・・・ そして映像は、現実と幻想がいり混じって曖昧になる。

そして黙示録的な恐怖の幻想にかられた主人公は、神の救いのために、自分の全てを捧げる決心をして、自宅に火をつけて燃やしてしまう。

タルコフスキーは「西洋の文明は物質的進歩によって絶滅する」という信念があり、映画の最後で主人公に同じセリフを言わせる。この映画が作られたのはチェルノブイリの原発事故の頃で、黙示録的恐怖が現実のものになった時代だった。


2025年12月26日金曜日

スマホの無い一日


前回、「スマホはどこまで脳を壊すか」というスマホの害について書いた脳科学者の本を紹介したが、その中で著者自身が、まる一日完全にスマホなしで過ごすとどうなるかを実験をして、その結果を書いている。

その日は、車をドライブして、ある田舎のレストランへ行って食事をするという目的を決めた。スマホナビが使えないので事前に地図帳を持った。(そういえば昔は車のグローブボックスには必ず地図帳を入れていたものだ)そして途中で時々車を止めて地図帳で道を調べる。一直線に行けるナビと比べると、不便極まりない。しかも地図帳はページを移動することがあり、しかも続きが次のページにあるとは限らない。地図を見ることにも頭を使う。(これもあるあるだ)その代わり紙の地図からは、いろいろな情報を読み取れる。途中に何か面白そうなものを見つけて、寄り道をしたりすると、意外な面白いものに出会ったりする。効率一辺倒のナビにない良さだ。

目的地へ着いて写真を撮るのもスマホの代わりに持ってきたカメラで撮る。スマホにのっている ”インスタ映え” するお決まりの写真にとらわれることなく、オリジナルな写真が撮れる。

この経験をSNS にのせる時も、”自分の目” で見た ”自分の感想” を書ける。これもスマホを使わないことの良さだと実感したと著者は言う。

2025年12月25日木曜日

「スマホはどこまで脳を壊すか」

 Smartphone Idiot

スマホの使いすぎで「スマホ馬鹿」になるというのは、今や常識になっている。スマホ使用制限を法律で定めようとする国も増えてきた。スマホ依存になると、子供の場合は成績が悪くなり、大人の場合は認知症になりやすい。最近出た「スマホはどこまで脳を壊すか」という本で、脳科学者の著者が、スマホ依存の害を科学的に説いている。

脳の領域のなかで「前頭前野」という部分が、何かを考えたり、理解するような、「認知機能」を担当している。ところが、この前頭前野は加齢とともに萎縮しやすい。そのため、高齢者は認知機能がどんどん失われて、認知症になりやすいという。

脳の萎縮を防ぐには、脳の運動不足を防ぐこと、つまり「脳を使うこと」に尽きると著者は言う。ところがスマホを使うとき、手間をかけずに情報を得られるので、人間は「脳を使っていない」状態だという。そのことを以下のような実験で立証している。

ある難しい言葉を与えて、その意味を調べるという課題を、被験者を二つのグループに分けてやらせる。一つはスマホを使って調べるグループで、他方はスマホ以外の紙メディアを使って調べる。その間、脳波を測定して、脳の活動状況を調べる。するとスマホのグループは、スマホがすぐに答えを出してくれるから、人間の脳は全く働いていない。いっぽう紙のグループはあれこれ調べてそれらを総合して答えを出さなければならないので、脳は活発に活動する。

つまりスマホを使っている間、脳は寝ているのと同じ。だから、何かというとスマホに頼るスマホ依存の人は、脳の機能をスマホに「外注」しているようなものだという。著者は「ラクをするな、頭を使え!」と言っている。


2025年12月24日水曜日

ターナーの「死に神」

The Pale Rider

デューラー展にあった「4人の騎士」は、聖書の「ヨハネの黙示録」のビジョンを描いている。4人の騎士はそれぞれ、武器を持って馬に乗り、人間を襲っている。人間に厄災をもたらす恐ろしいものが現れるという、黙示録の予言を絵にしている。

4人のうちの、「蒼白い騎士」 (図左下の赤線)が「死に神」で、デューラーは、この絵を描く前に、「死に神」の習作スケッチを描いている。骸骨姿で人間を狩る大鎌を持ち、痩せこけた馬に乗っている。人間を倒した死に神は、次の獲物を狙っている。


デューラーが描いたこの「死に神」は、後々の時代まで多くの影響を与え、いろいろな画家が、さまざまな形の「死に神」を描いた。「黙示録---イメージの源泉」(岡田温司)にそのような作品を紹介しているが、19 世紀のターナーまでが「死に神」を描いたそうだ。それがこの「蒼白い馬に乗る死」という絵。ターナー独特の、モノと空気が溶け込んで、輪郭がはっきりしない絵だが、馬の背中に骸骨の「死に神」が仰向けに乗っている。右手の骨は虚空をつかもうとしている。


ターナーの絵はデューラーの近代版といっていいが、このような黙示録の「死のイメージ」は近代までずっと生き続けてきた。それは西洋の美術史の大きな底流のひとつになっている。