2025年8月15日金曜日

映画「星つなぎのエリオ」

 Elio

ディズニーの新作「星つなぎのエリオ」を見た。ディズニー映画は、いつも学校が夏休みの間に公開されるが、今回もシネコンはちびっ子たちで、あふれかえっている。

主人公のエリオは両親が亡くなり、叔母に育てられている。「誰からも愛されていない」「自分の居場所がない」と感じている孤独な少年は「人とのつながり」を求めて、宇宙に行って異星人に会いたいと思う。やがて願いがかなって宇宙船が迎えに来る。着いた星は「コミュニバース」で、いろいろな惑星から来た異星人たちが仲良く平和に暮らしている。そしてエリオは、自分と同じく孤独である子供の異星人「グロードン」と仲良くなる。ところがその父の魔王は暴力でコミュニバースを支配しようとしている。エリオはその魔王に立ち向かう・・・

この映画には、宇宙に関する最新の動向が反映されているのが面白い。2019 年にアメリカは、陸軍、海軍、空軍に続いて、「宇宙軍」を創設した。宇宙空間での敵対勢力に対する防衛をになうためで、アメリカ各地に宇宙軍基地がある。映画にはその基地が登場する。そしてエリオの叔母は、その宇宙軍基地に務める「宇宙軍少佐」だ。

話は変わるが、「ディズニー変形譚研究」という本がある。「譚」とは深みのある話のことで、ディズニー映画はすべて、グリム童話や、ギリシャ神話や、言い伝えの昔話しや、聖書の物語、などを原型にしながら、それらの時代や場所の設定を変えて物語を作っている。それが「変形譚」で、同書はその観点からディズニー映画を研究をしている。

同書はディズニーの「変形譚」の種類を次のように分類している。
「ディズニー恋愛譚」(「眠れる森の美女」など)
「ディズニー家族譚」(「アナと雪の女王」など)
「ディズニー友情譚」(「モンスターズ・インク」など)
「ディズニー空想譚」(「不思議の国のアリス」など)
「ディズニー聖書譚」(「塔の上のラプンツェル」など)

これに照らし合わせると「星つなぎのエリオ」は、「空想譚」と「友情譚」の両方にまたがって相当している。そして同書が強調しているのは、これら「変形譚」のすべてに、聖書の「福音」思想が影響を与えていることだ。人間の愛と夢の力は魔法使いや魔女の魔力を打ち破って。奇跡を起こし、幸福を生む、という福音思想で、まさに「星つなぎのエリオ」のストーリーがそれだ。

2025年8月13日水曜日

「錯視完全図解」 錯視とだまし絵

Optical Illusion  

デザインをする人にとって錯視は大事な要素だ。直線と曲線が隣合わせに並んでいる時に、何もしないと直線が曲線に影響されて曲がって見えるから、直線もわずかにカーブさせて補正するなどだ。(形の錯視)

絵を描く人も、錯視を利用することがたくさんある。同じ色のものが明るい部分と陰の部分にまたがっている物を描くとき、同じ色に見えるように明るさを変えるなどを普通に行う。(明るさの錯視)

Newton 別冊の「錯視完全図解」は、錯視の種類や事例について系統的に整理している。「動く錯視」「明るさの錯視」「あらわれたり消えたりする錯視」「形の錯視」など全てが網羅されている。また錯視に脳が騙される心理学的なメカニズムについて詳細に解説している。「鎌倉不思議立体ミュージアム」を見学したのを機に、久々にこの本を読んでみた。

最後に「錯視」と「だまし絵」は同じものか?」という興味深い章がある。「知覚の不一致によって見る人を驚かせるという点では共通している。しかし心理学というサイエンスからみると、両者は別物である。」そしてエッシャーの「上昇と下降」の例をあげて、「実際にこのような階段を作ることは不可能だが、部分部分では間違ったところがなく、正しい知覚と言える。」としている。なるほど、正しいものを間違って知覚するのが錯覚だから、両者は逆のものだ。

そして「だまし絵」のひとつとして、「メタモルフォーシス」をあげている。図形が連続的に変化していいき、別の図形に変わっていくものだ。これの例は、やはりエッシャーの名作「メタモルフォーシス」(題名がズバリそのまま)だろう。


2025年8月11日月曜日

絵画の「影」 映画の「影」

 A Short History of the Shadow

山水画にしろ浮世絵にしろ、日本絵画には伝統的に影がまったくない。それに対して西洋絵画では影が重要な役割をになっている。影そのものが絵画全体の主題になっている例も多い。「影の歴史」(ヴィクトル・ストイキツァ著)という本で、美術(絵画・映画)における「影」の意味と歴史についての詳細な研究が行われていて、とても勉強になる。その中から、いくつかを紹介する。画像のみだが、くわしい解説は同書をどうぞ。


⚫︎分身としての影

ギリシャ時代に絵画が発明されたが、それは人間の横顔に光を当てて、壁に映る影をなぞることで始まった。このことをテーマにして、後世の人たちがたくさん絵を描いたが、19 世紀のエデュアルド・デジュという人の「絵画の発明」もそのひとつ。出征する若者の横顔を恋人の女性が描いている。「影」で分身を残している。







横顔のシルエットで分身を表す伝統は現代でも続いている。アンディ・ウォーホルの「影」で、右側に本人がいて、左側に分身としての横顔の影が描かれている。







⚫︎存在感の影 

ゴッホの「タラスコンへ行く画家」は、ゴッホ自身の姿を描いているが、本人以上に強い影がゴッホの存在感を強めている。日本語で存在感のないことを「影が薄い」というが、これはその逆で、足を地に踏みしめて歩くゴッホの自信を「影」で示しているのだろう。







ディズニー・アニメの「ピーターパン」で、ピーターパンの「影」が本人の足元から離れて、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。恋人のウェンディーがピーターパンに「存在」感を与えるために、影を捕まえて足元に縫いつけてあげる。

⚫︎まなざしの影 

ピカソの「影」で、裸婦を描いているキャンバスに重ねて、ピカソ自身の影を描きこんでいる。モデルを見る画家自身の「まなざし」を影で間接的に表している。










今まで気がつかなかったが、ルノワールの「デザール橋、パリ」で、画面下に影が描かれている。画面の外にある手前の橋の影だ。その橋の上でこの風景を見ている人たちの影があり、そのなかの一人がルノワール自身の影だ。






⚫︎他者性の影」

これはシャネルの男性用香水のポスターだが面白い。シャワーを浴びたばかり男性が、ローションの瓶を奪い取ろうとして、影と張り合っている。影は本人の姿と関係なく、攻撃的なポーズをとっていて、影の他者性を強調している。 










漫画「ラッキー・ルーク」の主人公のカウボーイは、「自分の影より早く引き金を引くことができる男」だ。すでに弾丸が影に命中して胸のあたりに白い穴が開いている。本人の浮いた帽子は動きの素早さを示しているのに対して、影の浮いた帽子は驚きを表している。

⚫︎不安の影 

ムンクの「思春期」は、自分の病弱な妹を描いたといわれている。壁に映った影は、大きな黒い雲のかたまりのようだ。それは少女の不安な精神状態を表している。










ミステリー映画の名作「第三の男」は夜のシーンが多く、「影」がミステリアスな雰囲気を高めている。「影」だけしか見えない第三の男の正体をつかむことができず、見る人の不安を煽る。


⚫︎不気味な影

映画「カリガリ博士」は、ドイツ表現主義映画の最高傑作といわれる歴史的名作だが、全編が影の映画といっていいほど「影」が主役をつとめている。このシーンは主人公の博士に横から光が当たり、拡大された巨大な影が壁に映っている。手は歪んで、カギ形になっている。影によって奇怪な博士の心の内面があらわになっている。



キリコの「街路の憂鬱と神秘」で、フープで走っていく少女の向かう先に影が見えている。影の本人の姿は建物の影に隠れて見えていないが、それは巨大で、棒のようなものを持っているようだ。影だけしか見えないことが、不気味さをかき立てる。少女にこれから起きるかもしれないことを想像させる。








2025年8月9日土曜日

写真展「トランスフィジカル」の「絵画の模倣」的な写真

 Tokyo Photographic Art Museum : TRANSPHYSICAL

数年ぶりで東京都写真美術館へ行き、写真展「トランスフィジカル」を見た。写真が発明された19 世紀から、写真がデジタル化された現代までを振り返り、これからの写真がどういう方向へ進むのかを考えさせる展覧会だ。

その中の第1室のテーマが「撮ること、描くこと」で、写真と絵画の関係に焦点を当てている。以下にそのいくつかを紹介。(写真は同展の図録より)

入るといきなりあるのが「アジャンの風景」(1877 年)で、どう見ても印象派の絵画のように見える。実際に印象派全盛の時代の作品で、よく言われるように、生まれてまもない初期の写真は絵画を追いかけていたということがよくわかる。「絵画の模倣」(ピクトリアリズム)の時代だった。なおカラーフィルムがない時代だったのに色がついているのは、3原色それぞれに着色したゼラチンの層を3枚重ねるという方法をとっているという。


「5月の収穫」(1862 年)という横長の大作で、合成写真をやっている。背景の森の写真のネガを一部を切り抜いて、そこに人物の写真のネガをはめ込んでいる。右下の少女の部分のはめ込みパーツも展示されている。


「美濃笠の男、比叡山」(1906 年)は、明治時代の日本人の作品。構図といい、霧の表現といい、日本の伝統的な山水画的な絵画的効果が見事。


「バレエ公演の観客」(1950 年)は、 20 世紀に入ってからの新しい作品。抽象絵画風だが、もはや「絵画の模倣」ではない。絵の具の代わりに、写真という画材を使って、写真でなければできない、絵画的な表現をしている。写真でもあり、絵画でもある、両者の融合だ。


2025年8月7日木曜日

「鎌倉不思議立体ミュージアム」

Kamakura Optical Illusion Museum

鎌倉駅から歩いて3分、小町通りに入ってすぐという便利な場所にある、最近できたばかりの「鎌倉不思議立体ミュージアム」へ初めて行ってみた。


様々な「錯視」を展示しているが、全部が小さな原理模型だけで、錯視について知って人にはものたりないだろう。例えば、有名な「ペンローズの階段」も小さな模型だけだから、原理を知っている人は「不思議」に思わない。エッシャーがこの原理を使って「上昇と下降」というアート作品にしたが、変だと思いつつも、まったく自然に見える。どこか「不思議」だが、どこが「不思議」がわからないことが「不思議」という、エッシャーのトリック隠しのすごさをあらためて思う。


2025年8月5日火曜日

プラトンの「洞窟の壁に映る影」は映画

 Plato

7 / 24 日の投稿で、「洞窟の壁に映る影」について書いたが、その補足を。

壁に映る「影」をなぞって人間の肖像画を描いていたギリシャ時代に、哲学者プラトンが「国家」のなかで、同じく「影」について書いている。有名な「洞窟の壁に映る影」という例え話しだ。それをかいつまんで要約するとこうなる。

『 地下にある洞窟の中に住んでいる人間がいる。彼らは子供の時からずっと手足を縛られていて、動けずに洞窟の奥の方ばかり見ている。彼らの後ろにはろうそくの火が燃えていて、その光と人間の間には台があって、そこで人形使いが、人形やいろいろなものを操っている。その影が洞窟の奥の壁に投影される。外の世界の現実を見たことがない人々は、「虚像」であるその影を「真実」だと思い込む。』

この文章に書かれた状況を、文章どうりに図に描いてみたが、こんな感じだろう。


こう描いてみると、これはまさに映画だ。暗い洞窟は映画館であり、洞窟の奥の壁はスクリーンであり、そこに映った影はフィルムの像を光で投射した映像に当たる。それを観客たちが見ている。

プラトンの時代にはもちろん映画はないが、プラトンがこの例え話しで言いたかったのは、洞窟の外にある現実の世界を知らない人々が、投影された「虚像」を「真実」だと信じてしまう人間の認識能力の頼りなさを指摘している。

プラトンがこの洞窟の話しを「国家」という本の中で書いていることにだいじな意味がある。市民による民主主義政治が行われていた古代ギリシャを見ていたプラトンは、本当の真実をみることのできない市民が、目先のことだけでワアワアと騒ぐだけの民主主義政治を否定し、一人の賢く強い指導者が大衆を引っ張る専制政治が「国家」の理想的な姿であると考えていた。その大衆の ”わかっていない” 無知ぶりを説明するためにこの洞窟の話しを書いた。

しかし現代の人々とって映画は、洞窟の人たちとは違う。映画館に閉じ込められているわけではなく、外界の現実を知っている。そのうえで、映画が「虚像」であることを承知のうえで、世界に対する自分の認識を時空を超えて広げてくれるものとして見ている。だからこの洞窟の話しは「映画」に例えるよりもむしろ「スマホ」に例える方がいいだろう。洞窟の奥の方ばかり見ている人々は、一日中スマホばかり見ているスマホ依存の現代人に当たる。そしてスマホの画面に映る SNS の物語や画像という「虚像」を人々は簡単に「真実」だと信じてしまう。

2025年8月3日日曜日

影が人間に存在感を与える      アニメ「ピーター・パン」

 Cast Shadow

絵画で人を描くとき、「影」が絶対的に重要になる。影が無いと、人は宙に浮いているように見えてしまうし、そもそもその人の存在感自体も感じなくなってしまう。人間の身体、人間の体重、影と地面の地面との結びつき、などで人間の存在を感じることができるが、「影の喪失」は人間の存在感自体を無くしてしまう。絵画でも写真でも映画でも影の表現が重要だ。

ディズニーのアニメ「ピーター・パン」(1953 年)で、その「影の喪失」の場面が出てくる。ピーター・パンの影が足元をはずれて、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。その時、ウェンディーが、ピーター・パンに「存在」感を与えるために、影を捕まえて、足元に縫い付けてあげる。とても面白いシーンだ。