2025年4月1日火曜日

ファンタジーアート展

Fantasy Art

ファンタジーアート展(横浜  アソビル)を見た。ゲームやアニメのキャラククターのデザインを手掛けいる天野喜孝の個展だ。繊細かつ精緻で浮世絵の美人画の流れを感じる。


ゲームやアニメでよくある SF 的未来都市だが、これもどこか日本的な感じがする。


アメリカのファンタジーアートといえば、SF 映画によく登場するが、必ずスーパー・リアリズムの CG で描かれる。下は「スターウォーズ」にでてくる未来都市だが、これと比べると違いがよくわかる。


2025年3月30日日曜日

「ユリシーズ」の山本容子の挿画

 「Ulysses」and illustrations

ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を何十年ぶりかに新訳版で読んでいる。旧訳版にはなかった挿画が入っていて、版画家の山本容子が描いている。ジョイスと山本容子とは意外な組み合わせだが、言葉遊びのような言葉が連発する、都会的で洒落た本文と、この挿絵はたしかに合っている。

この「ユリシーズ  1-12」は、題名のとうり、超長編の原作の半分だけの第 1章から第12 章までの訳だが、各章ごとに12 枚の挿絵が挿入されている。


2025年3月28日金曜日

「情報」とは?

 「Information」

「情報」とは何か?、について一般的な定義では、①ある物事についての知らせ ②それを通してなんらかの知識が得られるもの、とされている。ネットメディアの普及で、誰でもが「情報」を発信できる時代だが、そこで発せられる「情報」は、上記の定義に照らしたとき、本当に「情報」といえるのかどうか?


「ブロガー」と称する人たちが毎日「情報」を発信して、「フォロワー」と称する人たちの膨大な数のアクセスがある。試しに人気No.1というブログを検索してみたら、こんな感じだ。

『 チャオーーーーーーーー!!!
 三連休、弁当ないと、ホッとする
 こんなに喜んでくれるんだもの・・・これからも頑張って作りたいと思いまぁぁぁぁす(げふんげふん)・・・・・・・・・』

といった調子の話がえんえんと続く。主婦らしい人が日常のありふれたことを書いているのだが、上記の情報の定義に照らすと、読む人にとってどうでもいい「知らせ」であり、「知識を得る」などの役にたつものでもない。あるいはまた、雑学的知識を「いいことを教えてあげますよ」ふうに書くのが専門のブログもあるが、それは誰でも知っている知識で、今さら何の役に立つものではない。こういう「情報」の価値のない情報は、「情報のゴミ」と呼ばれる。

2025年3月26日水曜日

実写版「白雪姫」

 Snow White


今月公開された実写版の「白雪姫」を観たが、なかなかの出来だ。しかしこの映画は物議を醸している。ネット上で炎上していて、新聞(日経新聞  3 / 23)までがこの問題を大々的に取り上げている。

問題とされている最大の点は、白雪姫役にヒスパニック系の女性を起用したことだ。雪のように白い肌だから「白雪姫」と呼ばれているのに、小麦色の肌は原作のイメージと違いすぎると批判されている。

近年ハリウッドは、白人中心的すぎることを批判されている。だから、「多様性」を求める時代の流れに沿って、マイノリティの俳優を主役にすることが多くなってきた。特にディズニーは人種差別的な作品が多いと批判されてきたので、アニメを実写版にリメイクするときに、白人以外の俳優を起用する傾向がある。3年前の「リトルマーメイド」で、人魚姫役を黒人にしたのもその例だ。

しかしアメリカには、多様性を求める社会の流れに反発する保守的な国民も多い。だから「リトルマーメイド」は、そういう社会層の攻撃で炎上したし、今回の「白雪姫」もまたそれを繰り返している。アメリカ社会の反動的な傾向は、トランプ大統領のヒスパニック系移民への攻撃を支持する層が多いことでもわかる。「白雪姫」への反発も、そういう傾向が背景にあることを感じる。

「白雪姫」が批判されているもうひとつの点は、脚色されすぎて、原作とイメージが違いすぎるということだ。住民に対する女王の専制政治を批判して、公正で平等な社会を作りたいという白雪姫の意志が映画全編で強調されている点だ。政治なメッセージ性が強いことが反発を受けている。原作アニメが作られたのはもう90 年近くも昔(1937 年)のことで、童話をもとにしたおとぎ話だった。しかしそれに対して、リメイクでは時代に合わせて現代風に脚色するという制作側の意図は理解できる。


2025年3月24日月曜日

ヤマガミ ユキヒロの フォト・リアリズム

 Photo-Realism

「フォト・リアリズム」は、写真をもとにして、細密描写をする超写実主義の絵画だが、必ずしもただ写真のとうりに描くだけではない。ヤマガミ  ユキヒロという人は、写真を使いながら、新しい視覚体験を生み出すことを試みている。

これは絵のもとにする写真だが、同氏の制作プロセスがわかる。川沿いの建物のつながりだが、左右の視角が相当広い。実際のこの風景を見た時、視野角の中に全部が一度に見えることはないはずだ。左右に視線を動かして見ないと、こうは見えない。だからいくつかに分割して撮った写真を繋げている。


同氏のサイトでそのことを紹介している。部分部分を撮った写真をもとに全体を描いている。


下図(「Perspective  a new system for designers」より)は、横に長い建物を広角レンズで撮ると生じる透視変形の原理を示している。垂直水平の線を保っているのは建物の中央付近だけだ。だから同氏は透視変形が起きないように、おそらく望遠レンズで狭い範囲を撮っている。そしてそれを繋げているから、右から左まで全ての建物が垂直水平を保っている。


2025年3月22日土曜日

映画「トゥルーマン・ショウ」

 「The Truman Show」

主人公のトゥルーマンは、ある離島の街に暮らしている。彼は保険会社のセールスマンとして平凡だが平和な毎日を過ごしている。ところが彼は孤児で、生まれた時からテレビ局のプロデューサーの養子になったのだが、大きくなっても本人はそのことを知らない。

そのプロデューサーは、トゥルーマンを主人公にした「トゥルーマン・ショウ」という TV のリアリティ番組を制作している。トゥルーマンの生活を隠しカメラで毎日 24 時間撮り続けていて、そのライブ映像がそのまま TV で放映されている。それは人気番組で、主人公の子供時代から現在までずっと続いている。

ところが、番組で登場する彼の妻も両親も友人も、すべてニセ者で、俳優が台本のセリフをそのまま喋っているだけなのだが、本人だけがそのことを知らない。しかも街全体が巨大なドームの中に作られたセットなのだ。主人公は作られた世界の中で、作られた生活を生きているあやつり人形のようなものだ。

やがて主人公は何かがおかしいことを感じ始める。そしてついに「真実」を求めて、ヨットに乗って島を出て行く。・・・はずだったが、ヨットは壁に突き当たる。海は本物そっくりに作られたセットで、空と雲はセットの壁に描かれた絵だった。

そこで彼は最後の決断をするのが映画のラストシーンだ・・・



この映画に関して、小林剛という大学教授が面白いことを書いている。授業でこの映画を見せてから学生に質問をするというのだ。それは「皆さんがもしトゥルーマンだったとしたら、島を出て行きますか? それとも島に留まりますか?」という質問だ。すると圧倒的多数の学生が「島に留まる」と答えるという。その理由を聞くと、本当の「現実」は悲惨で過酷なことが多いので、それならばたとえ作られた嘘の世界であるとわかっていても、それが平和で快適なものであれば、現状の世界に留まっていたいというのだ。

この結果は驚きだが、現在は TV 以上に仮想世界を作り上げているネットメディアの現実を見ていると、そのことがなるほどと思えてくる。朝から晩までスマホをいじって、ネット空間の中にどっぷり浸かっている人たちは、ネット空間こそが「真実」の世界だと信じている。だからトゥルーマンのように、本当の「真実」を求ようとは思わないし、仮に思ったとしても、それもまたネットで検索するだけだ。トゥルーマンが脱出したつもりでも島から抜け出せなかったのと同じだ。

2025年3月20日木曜日

フォト・リアリズム

 Photo-Realism

「アメリカン・リアリズムの系譜」という本の表紙が、銀座の風景の絵だったので、作者を調べたら、ヤマガミ ユキヒロという日本人だった。超精密描写のフォト・リアリズム絵画だが、こんな作家がいるとは知らなかった。

この表紙絵には、面白い試みがされている。表紙の絵は、白黒の絵で、人も車もいない無人の銀座風景が写実的に描かれている。一方で、本のカバーは透明フィルムのシートで、そこには同じ場所で撮ったカラー写真が印刷されている。写真には人間や車が写っている。この二つが重なると、生き生きとしたリアルな銀座の風景が現れる。人間が半透明であるため、それが写真のブレであるように見えて、実際に歩いているように見える。



この絵の、2枚の画像を重ねるという手法は、画像処理ソフトの Photoshop の「レイヤー」の概念と同じだ。絵画であるが、写真の画像処理と同じことをやっている。

「フォト・リアリズム」は、超写実主義の絵画で、日常的な風景をあえて感情を混えず、没個性的に描く。しかしそれは、写真をそのまま再現することではなく、写真を素材にして、写真とは違った「リアル」を創り出すことだといわれる17 世紀にすでに、フェルメールが「カメラ・オブスクラ」を使って超写実絵画を描いたが、「フォト・リアリズム」はその現代版とも言えるかもしれない。