2025年7月2日水曜日

パステル画公募展を卒業

Pastel Painting 

約 20 年間参加してきたパステル画専門の公募展(現代パステル協会展)を今年でやめた。しかし、お絵描きおじさんたちの仲良しクラブ化している多くの公募展の中で、ここだけは公募展本来の目的である研究的な雰囲気を残しているから、今までとても勉強になった。

同展の応募規約に面白い項目がある。「パステルの使用割合が 60%以上であること」というもの。このことは逆にいうと、パステル画というものは、アクリルなど他のメディウムを併用して描くのが当然で、 100% パステルだけで描くことはあり得ないという前提に立っている。


パステルは粉なので、色のスキマから紙が透けて見え、完全に隠蔽することができず、スカスカしてしまう。だから、あらかじめ下に同系色を塗っておく必要がある。それが上記のような規約になる理由だ。さらに、下地色を工夫することで、いろいろな効果が出せる。例えば補色を塗っておくとか、明るい部分に暗い色を塗っておくとかするなどで、パステルを乗せたとき、面白い効果がでる。下塗りをどう利用するかによって、人それぞれのパステル画が生まれる。以下は下塗りの事例。(2014 年に投稿したものの再掲)



ところが近年、自分の関心のあるモチーフが建築や工場などのハードなものになってきた。すると、パステル画のやわらさや優しさなどよりも、力強さを求めるようになった。それで、アクリルの下塗りの比率が増え、パステルの使用比率が下がってきた。最近では、パステルは最後におまけのように使うだけで、応募規定の 60%以上をクリアするのが難しくなってきた。

以上がパステル画の公募展を卒業することにした理由だが、しかしパステル画自体は好きなので、これからも続けるつもりだ。

2025年6月30日月曜日

見逃した「ミロ展」

 Miro

「ミロ展」が昨日で終わった。最終日に行くつもりだったが、真夏日に上野駅から都美術館までの”遠い道のり”を歩く勇気がなくてあきらめた。代わりに現代美術史の本で、ミロについて読んでいる。

高階秀爾の「近代絵画史」のミロの解説にはこうある。「自然に対する素朴な念を、天真爛漫に歌い続けた。太陽や月や星などの自然の世界を、奔放な造形力を駆使して、画面に翻訳していった。また女性や動物などの形が登場するが、それらはほとんど記号化されている。」

これはミロに対する定番的な見方だが、ジョルジュ・ケぺシュの「The Visual Arts Today」には、やや違ったことが書かれている。「縄跳びをする少女と女性と小鳥たち」(カラー写真をネットで探したが見つからなかった)が載っていて、それについて解説している。

今度のミロ展にこれがあったかどうか知らないが、ちょっと不気味な絵で、ミロの普通のイメージとはだいぶ異なる。優雅な題名と違って、少女の顔には黒いシミのようなものが重なっている。縄跳びの縄は地面に落ちたままだ。

その文章の中で、「cruel grace」という言葉が出てくる。直接的な意味は「残酷な優雅さ」だが、一見すると美しく見えるものが、実は残酷な本質が隠されていることを表す際に使われる。例えば悲劇的な運命に翻弄される人物や、過酷な状況で戦う人間の気高さを表現するときなどに使われる。

そして著者は、現に見たものよりも、見たものの裏に隠れているそれ以上の「リアル」をミロは描いている、と言っている。この絵の場合、それが具体的に何を指しているのかは言及していないが、推測するに、この絵が終戦直後の 1947 年の作であることから、同じスペイン人のピカソが「ゲルニカ」を描いたのと同じく、戦争の悲劇を描いていると思うのは、うがちすぎだろうか。

2025年6月28日土曜日

「コンストラクション」

 「Construction」

建設中のマンションの風景。むき出しになっている鉄骨が面白くて描いた。公募展に出品。 「コンストラクション」  アクリル 50 号



2025年6月26日木曜日

日本の銅板画作家 清原啓子

 Keiko Kiyohara

前々回、ブレスダンについて書いたが、翌日の同じ日経新聞(6 / 25)の文化欄コラム「塔のものがたり」に銅板画作家の清原啓子が紹介されていた。この人はまったく知らなかったので初めて見る作品だがすごい。

「魔都霧譚」という作品だが、戦前の魔都・東京のイメージを描いているという。奇怪な塔が3本あり、手前には日比谷公園の噴水があり、遠くには高層ビルの夜景が見える。幻想絵画だが、ミステリー小説の「魔都」からイメージを得ているそうで、彼女自身の精神世界を表しているという。

前々回書いた同じく銅版画作家のブレスダンから影響を受けたそうで、似た作品もある。下の作品はネットよりの画像。怪奇的幻想絵画といえる、日本人には珍しい作家だが、38 年前に31 歳で夭折したという。




2025年6月24日火曜日

エリック・デマジエールの「塔の中の図書館」と、映画「薔薇の名前」

Erik Desmazieres  

日経新聞(6 / 23)の文化欄のコラム「塔のものがたり」でエリック・デマジエールの「塔の中の図書館」が取り上げられていた。それで 10 年ほど前に買ったデマジエールの画集を眺めている。

この「塔の中の図書館」はデマジエールの最も有名な作品だが、架空の図書館の迷宮的イメージを描いている。何階層もある高い塔の内部の壁にぎっしりと本が並んでいる。上と下に渡り廊下があって、人が行き来している。

この絵に感じる目がくらむようなスケールの大きさは透視図法から来ている。天井は真上に見上げるほど高いが、ちらっと見えている真下の床面ははるかに遠い。上下の視野角がほぼ 180° なのが 目がくらむ理由だ。手すりのない渡り廊下を書物を持って通っている人たちは奈落の底へ落ちてしまわないかと想像してしまうのも目のくらみを増幅している。

この作品は、アルゼンチンの作家ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」をもとに描かれている。その小説は、中央に巨大な換気孔を持つ六角形の閲覧室の積み重ねになっていて、それが上下に際限なく続くなど、迷宮的な図書館が緻密に描写されている。デマジエールはその小説を視覚化している。

我々には、図書館に対するこのような迷宮的なイメージは全くないが、ヨーロッパでは古くからかなり普通だったようだ。そのことがわかるのが映画「薔薇の名前」だ。この映画もボルヘスの小説「バベルの図書館」がもとになっている。中世のイタリアが舞台で、ある修道院で起こった連続殺人事件の謎を解き明かすために主人公の修道僧がやって来る。やがてそれを解く鍵は、修道院の中にある図書館に所蔵されているある本にあることを突き止める。そしてその本を探すために図書館へ侵入する・・・

そこはまさに迷宮で、通路と階段が複雑に入り組んだ構造になっている。あちこちには人が入れないような仕掛けがしてある。デマジエールの絵画とまったく同じイメージだ。

中世では、図書館は修道院の中にあったが、それは人に本を読ませる場所ではなく、逆に本を読ませないように隠す場所としての図書館だった。古今東西の「知」が集積した図書館の本を読むことで人々が目覚め、キリスト教による世界の支配に対する疑念が湧くことを恐れた。

 

2025年6月22日日曜日

映画「メガロポリス」

 「MEGALOPOLIS」


公開が始まった映画「メガロポリス」を見た。不評なようで、映画館はガラガラだったが、個人的な評価は”大絶賛”だ。コッポラ監督の世界観が爆発している。

「メガロポリス」の題名から、名画「メトロポリス」と何らかのつながりがあるのだろうと予想していたがそのとうりだった。「メトロポリス」は「大都市」の意味で、語源は古代ギリシャの都市国家から来ている。1927 年のこの映画は、100 年後の未来の都市を描いた最初の SFだったが、それは文明が発達したが、分断されたディストピア社会だった。そして「メガロポリス」は「メトロポリス」よりさらに大きい「巨大都市」の意味だが、「メトロポリス」から 100 年後のこの映画も文明がさらに発達しているが、滅亡寸前の都市を描いている。だから映画「メガロポリス」は「メトロポリスの」現代版といえる。  

「メガロポリス」の舞台は未来のニューヨークだが、古代ローマに見立てている。都市の名前が「ニューローマ」で、登場人物の名前が「キケロ」「カエサル」などで、衣裳も古代ローマ風だ。ローマ帝国は、植民地から得た富によって高度に文明が発達したが、その豊かな社会は享楽的になり、やがて滅亡していった歴史になぞらえている。

市長選挙が行われていて、保守派の現市長と、改革派の若手が争っている。「メトロポリス」では労働者と資本家の対立だったが、「メガロポリス」もそれと似ていて、富裕層と貧困層との分断が激しい社会だ。荒廃した都市を救うためにどうするかが争点になっている。財政難を救うために銀行と癒着して、立て直しを図ろうとする現市長に対して、対立候補の若手建築家は、環境にやさしい持続可能な都市に作り変えようと主張する。こういう設定が現在のアメリカ社会の状況を想起させて、テーマがとても現代的だ

また「建築」が映画の大きなテーマになっているのも特徴だ。主人公の建築家が、新しい都市を構想しているシーンがたびたび出てくる。 T 定規を持っていて、それが「スターウォーズ」のライトセーバーのように光っている。今では使われなくなった T 定規が未来的な道具であるように描いているが、これも「レトロ・フューチャー」の小道具だ。無機的になりすぎた建築をもっと人間的なものに回帰しようという主人公の思想を象徴させているようで面白い。

罵り合っていた二人の市長候補は最後に仲良くなるが、これも「メトロポリス」と同じ構図だ。この和解によって、ディストピア映画でありながら、未来への「希望」を抱かせるエンディングになっている。そしてその仲介をするのが若い女性で、これも「メトロポリス」と同じだ。


2025年6月20日金曜日

ルドンの ”師” ブレダンの幻想絵画

Redon &  Bresdin

ルドンが若い頃、師事したのがロドルフ・ブレスダンだった。ブレスダンは美術館の企画展でよく見るが、今回の「ルドン展」でも「善きソマリア人」が参考出品として展示されていた。

熱帯の深い森の中で、旅する人間が馬と一緒に食肉植物に食われている。小さい絵なので見えにくいが、顔を近づけて見ると、人間も馬も首が無い。

ブレスダンはアメリカ大陸をあちこち旅しながら、森のスケッチをした。それをもとに怪奇な幻想絵画を描いた。そのひとつ「死の喜劇」も有名だが、樹が異様に曲がりくねっていて、生きた怪獣のように見える。まわりには樹が食った人間の骸骨が転がっている。

初期のルドンは、このようなブレスダンの幻想絵画から影響を受けた。今度のルドン展で「浅瀬(小さな騎馬兵のいる)」というエッチングの作品が出ていたが、これも奇怪な形をした岩山が描かれている。ブレスダンのアドバイスを受けながら描いたという説明があった。そして後のルドンの「黒の時代」の幻想絵画のイメージのもとになっていることがわかる。