2026年4月19日日曜日

”危ない” AI がテーマの映画

Danger of AI 

AI が急速に進歩している最近、AI の危険性をテーマにした映画が作られている。その中から強烈なインパクトがあった3作をあげる。なおこの3作以前の映画で、殺人ロボットを題材にした名作「ブレードランナー」があるが、別格すぎるので割愛する。


「エクス・マキナ」(2015)

人里離れた山奥の研究所で、ロボット研究者がAI ロボットを完成させる。それは若い美人ロボットだが、本物の人間とまったく見分けがつかないくらい人間性を感じさせる。ある時そこへ研究者の友人が訪れて来るが、そのロボットを好きになってしまう。そして美人ロボットの方も男を好きになる・・・

ロボットは好奇心があって、外へ出て人間の世界を見たいと思っている。そして男を誘って、2人で駆け落ちをする。しかし外へ出るとロボットは男が不要になり、殺してしまう。ラストシーンで、都会の人混みの中を人間に紛れて歩くロボットが映されるのが不気味だった。

つまりロボットは、好きなふりをして男を利用しただけだった。AI は知能がいくら高くても、感情や倫理観などの人間性を持つことは絶対にないということを警告している映画だ。10 年ほど前の映画だが、AI の恐ろしさが認識され始めた頃で、インパクトが大きかった。


 「ザ・クリエーター/創造者」(2023)

 AI ロボットが進化して、人間以上の能力を持ち、人類文明にチャレンジするというストーリーの映画だ。 AI による核攻撃でロサンジェルスが壊滅してしまい、報復としてアメリカが AI と戦争を始める。ところがこの映画では、AI ロボットはただの機械ではなく、人間以上に人間的な感情を持っている。だから優しい女の子のAI ロボットが主役になっている。

題名の「ザ・クリエーター/創造者」とは、キリスト教の、天地を創造した神を意味するが、映画では、これからは AI が「神」になって、新しい "AI 文明" を「創造」するだろうと言っているAI が人間を超えるのではないかという、人々が 抱いている不安や恐れをベースにした映画だった。


「トロンアレス」(2025)

AI がすでに最新兵器として使われている現在、去年公開されたこの映画は、すでにSF 的な空想ではないリアリティがある。前回までの「トロン」が現実世界の人間がデジタル世界へ踏み込んで、バトルを繰り広げるという設定だったが、この第3作では逆で、デジタル世界の AI が現実世界へ襲来して人間と闘うという構図になっている。

ある IT 企業の社長が業界の覇権を握ろうとして、強力な AI ロボットの開発に成功する。それは人間を殺すことも厭わない「AI 兵士」だ。一方でその「AI 兵士」を無力化するためのプログラムを開発している良心的なエンジニアがいる。その両者の壮絶なバトルが映画のストーリーになっている。

AI は人間が作ったプログラムに忠実に従っているだけなので、この AI 兵士も平然と人を殺す。 AI には倫理観などの人間性はない。だからこそ AI を作る人間・使う人間の人間性が問われるというということを改めて強調している映画だ。


2026年4月18日土曜日

AI と戦争

 AI  & War

19 世紀最大の大量破壊兵器はダイナマイトだった。20 世紀最大の大量破壊兵器は核兵器だった。21 世紀の大量破壊兵器は AI である。・・・といわれている。この問題を議論する番組を昨日(4 / 17) の TV  ( BS TBS の「報道1930」) でやっていた。TV でこの問題を本格的に取り上げたのはおそらく初めてだと思う。

今回アメリカがイランをミサイル攻撃をした時、ターゲットになったのが小学校で、百数十人の子供が犠牲になった。他にも数千人の一般市民が犠牲になった。その攻撃を決定したのは人間ではなく AI だった。その AI はアメリカ軍が普段から使っている「アンソロピック」という会社の「クロード」というAI だったそうだ。

すると、アンソロピック社は、そんな非人道的なことに自社の AI を使うなという抗議をアメリカ政府にした。それに対してトランプ大統領は怒って、アンソロピック社の AI はもう使わないという決定をした。

という話しから始まり、番組では「AI が人間を使うのか、人間が AI を使うのか」という問題設定で議論していた。その中で、あるアメリカの研究者がやったシミュレーションを紹介していた。それは、21 社の AI に架空の戦争の課題を与えて、核兵器を使うかどうかの判断をさせるというもの。すると21 社のうちの 20 社の AI が「使う」という判断をしたという。倫理観というものがない AI を戦争に使うことの危険性を示していた。

その時、ひとつだけ核兵器を使わないと判断したのが上記アンソロピック社の AI だった。同社には、専属の哲学者がいて、 AI に何が正しくて何が悪いことかを教えているという。それによって AI が倫理観を持つように育てていくことが目的だという。

しかしこれはあまり意味がないと思う。何が正しいかの基準は人によって違うから、人命よりも戦争に勝つことの方が正しいことだと思う人が AI のアルゴリズムを作れば、そういう AI ができてしまう。やはり AI がなんと言おうと最終判断をするのは人間であるべきだというのが正しい考え方だろう。

なおこの問題について以前にも書いたので参考まで→https://saitotomonaga.blogspot.com/2025/10/ai.html


2026年4月17日金曜日

パノラマ絵画

 Panorama

一時スマホでパノラマ写真を撮ることがはやったが、そもそもパノラマ写真の始まりはどういうものだったのかについて、美術評論家の中原祐介氏の「タブローとパノラマ. 二つの視座」という論考に詳しい。

もともと19 世紀のイギリスで、見せ物小屋の出し物として、「パノラマ」が大人気を博した。超広角の風景の絵を、360°ぐるりと観客を取り巻くように設置したのが「パノラマ」だった。布に風景の絵を描き、この絵に後ろから光を当てると、布を透かして絵が光輝いて、リアルで幻想的になるというカラクリだった。

下の3枚は、同書に紹介されている当時のパノラマ用絵画の例。上から、山岳風景、ドイツの街の風景、ロンドンの街の風景。画家は見る方向を変えて複数枚の絵を描きそれをつなぎ合わせるのだが、それぞれの絵ごとに別々の消失点があるから、つないだ時に遠近法的な矛盾が出てしまう。それを誤魔化すのに画家は苦労したという。



そういう絵を描いていた画家のひとりが有名なダゲールだった。もっとリアルに迫真的に描きたいという願望から発明したのが写真術だった。写真術の発明のきっかけが、絵の代わりとしての手段が欲しいことだったのが面白い。

なお 19 世紀終わり頃までにはパノラマは廃れてしまう。芸術的価値のない絵だから、一回見ればもう一度見に行こうという人はいないからだった。 

まるで本物の風景の中に自分がいるかのような没入感を感じたいという人々の欲求を満たすのがパノラマだったが、現在その役割を受け継いでいるのが、横長大画面の映画だろう。

もうひとつ思い出すのがパリにあるオランジュリー美術館だ。モネの「睡蓮」の連作が、円形の展示室に、観客をぐるりと取り囲むように展示している。これもパノラマ絵画の ”生き残り” かもしれない。



2026年4月16日木曜日

「最後の晩餐」の遠近法

Perspective in "Last Supper"

「最後の晩餐」といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチが有名だが、他にも「最後の晩餐」はたくさんある。下の3つは、14 世紀、15 世紀、16世紀、の各時代の「最後の晩餐」で、それらを遠近法の発達という観点から比較してみると面白い。


ドゥッチオ「最後の晩餐」(1310頃)

遠近法が確立する以前の14 世紀の「最後の晩餐」では、天井は線遠近法になっている。ところがテーブルの左右の線は、平行に右肩あがりで、斜投象図になっている。つまり天井とテーブルはまったく無関係に描かれている。



レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」(1495頃)

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はもちろんすべてが正確な遠近法で描かれている。キリストが画面中央にいて、それに真正面から正対している。そして他の人物は横一列に描かれている。画面に対して平行に置かれた対象を正対して見る一点透視図法で、整然とした調和的な絵になっている。



ティントレット最後の晩餐」(1560頃)

16世紀のティントレットの「最後の晩餐」も正確な線遠近法で描かれている。天井、床、テーブルなど全てが画面左端のキリストの頭にある消失点に集まっている。しかしダ・ヴィンチと違うのは、画面の奥行きが強調されていることで、テーブルは画面に対して斜めに置かれている。また床の市松模様は、奥へ行くほど縮小していくから、遠近法空間を強調するのに役立っている。人物もキリストがいちばん奥に小さく描かれていて、手前の使徒が大きいのも奥行き感を強調している。さらにいちばん手前には晩餐と関係ない人物や犬が描かれている。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が、キリストを中心とした整然とした遠近法に対して、こちらはもっとダイナミックで、演劇の一場面を見るような劇的な絵になっている。


2026年4月15日水曜日

ギー・ドゥボールのパリの地図

Phycogeography 

日経新聞のコラム「不条理な現実を裂く」シリーズで、ギー・ドゥボールの地図を紹介していた。地図とは一般的に、地形や道路などの情報を客観的に視覚化した記録だが、この地図はまったく違う。


既存のパリの市街図を複数の断片に切り分け、それらを赤い矢印で結び替えている。人が都市をさまよう中で感じる情動の強度に従って位置関係や距離を決めている。人間はある街区に引き寄せられたり、避けたりする。そういった歩行者の経験によって書き換えられた地図だ。

ギー・ドゥボールは、資本主義的な効率や管理に支配された都市空間を批判した思想家だが、その観点からこの地図を提唱した。都市を歩くときに迷ったり、偶然に何かを見つけたりする偶然性が奪われている現在の都市空間への批判だ。これを「心理地理学」と呼んでいた。

これは日本でもよくある。居酒屋などが並ぶ、親密感のある路地裏が、都市再開発で消えて、近代的なビルに変わったりする。

そして記事の筆者は、そういう都市を効率的に移動するための地図として使われているナビゲーションが、街を歩くことの偶然性を奪っていると指摘している。


2026年4月14日火曜日

「編集」ということ

 Edit

去年亡くなった松岡正剛は「編集」ということの意味についてこう定義づけていた。

「編集とは、インプットされた情報を「知」へと変換し、新たな意味のつながり(関係性)を発見・構築するプロセスをいう。」

要するに、かき集めた情報をつなぎ合わせるだけでは価値のある新たな情報は生まれないということだ。編集されていない(新しい知見がない)情報が溢れている今のネット社会に対する批判にもなっている。

それを自ら実践したのが「松岡正剛の千夜千冊」という自身のブログだった。一回ごとに自分が読んだ本について書いているが、単なる書評ではない。本を出発点として独自の論考を展開している。取り上げる本のジャンルはさまざまで、題名の千冊を超えて 1800 冊に及んだ。そのうちの多くが独立した単行本として出版されている。



2026年4月13日月曜日

映画「1001 グラム」

「1001 Grams」

4 / 11 はメートル法記念日だった。度量衡を尺貫法から世界標準のメートル法とすることを法定化した日だ。日本も含め世界中の国でメートル法が当たり前になっているが、ただアメリカ一国だけが メートル法でなく、ヤード・ポンド法をいまだに使っている。例えば買い物をする時に商品の表示がインチやポンドになっていて、慣れないと不便極まりない。車の運転でも、スピード制限速度の標識がマイル表示だ。車のスピードメーターもアメ車はマイル単位だからいいが、日本車などの輸入車は km 表示だからいちいち換算しなければならない。こんなところまで国際標準に従わない「アメリカ・ファースト」なのは(笑)メートル法を初めて定めて世界に提唱したのがフランスだからかどうか知らないが。

全世界のメートル法を管理しているのがパリにある国立計量研究所で、メートル原器やグラム原器はここで保管されている。(写真はグラム原器で、空気に触れないように、2重のガラス容器に入れられている)各国の原器はこれを基準にして作られている。このことを題材にした面白い映画があった。

「1001 グラム  ハカリしれない愛のこと」(原題:1001 Grams)という10 年ほど前のノルウエー映画だ。ノルウエーの国立計量研究所に勤める女性研究員が主人公で、パリで行われる国際計量学会へ参加する。そこでは原器が金庫で厳重に保管されている。彼女は、自国の原器が世界の原器であるフランスの原器と合っているかどうかを照合するために、 1kg (1000 g) の原器を持参する。ところがノルウエーに帰ってくると原器が壊れていて、1g 狂って1001g になっていた。青くなった彼女は、こっそりパリへ戻って直してもらおうとする・・・

そこで人々との出会いがあり、愛が生まれ、 1グラムという物理的な重さよりもっと大事な人生の重さに気づいていく・・・ というお話しで、それが題名の「1001 グラム  ハカリしれない愛のこと」の意味だった。