2022年11月28日月曜日

パステル画のイロハ・・・

 Pastels for Beginners

パステル画の初心者向け教科書で、まず最初に出てくるイロハが「ストローク」についてで、パステルを寝かせて塗る「サイドストローク」と、立てて塗る「ラインストローク」の2種類がある。普通この両方を組み合わせて描く。


いずれの場合も、表面がザラザラしたパステル画用紙のおかげで、色がベタに塗りつぶされずに、色が ”粒立つ” 。それが溶剤を使う水彩などとの違いで、顔料の粉(色の粒)を直接紙の上に置いていくパステル画の最大の特徴であり魅力だ 。

しかし初めのうちは、指でこすってストロークを消してしまいがちになる。指でこすると、ソフトで滑らかな色のグラデーションができるので、それが ”パステルらしい” と勘違いしてしまう。しかし逆で、パステル特有の色の ”粒立ち” が消えて ”ベタ色” になってしまい、ノッペリした死んだ絵になってしまう。「こすらない」ことがパステル画上達の第一歩になる。

プロのパステル画家の作品で、それがよくわかる。もちろん1ヶ所もこすっていないから、ストロークが生きていて、色彩が鮮やかなパステルらしい活き活きした絵になっている。

上段:帽子の白色のサイドストロークによる ”粒立ち” で、ハイライトが光輝いている。
中段:メロンのオレンジと黄色をこすって混色していないので、色が鮮やか。
下段:力強いラインストロークをそのまま生かしているから、色の純度を保っている。

(図は「Creative Paintingu with Pastel」 より)



2022年11月26日土曜日

ルネ・マグリットの「大家族」

 Rene Magritte

日経新聞の「空を見上げて  十選」にルネ・マグリットの「大家族」が選ばれていた。選者の哲学者  小林康夫氏がこの絵を解説している。


同氏はこの絵について、『暗い空は「今日の曇り空」で、明るい空は「明日の青空」を意味し、「わたし」は遠くの広大な「明日の青空」を夢見ている・・・』といった哲学的(?)な「物語」を語っている。

この絵は、暗い空に鳥の形をした青空が描かれているが、これはシュールレアリズムの用語でいう「デペイズマン」にあたる。それは『事物を日常的な関係から追放して、あるはずがないところに物がある、というような人間の理性や合理性を超越した状況の表現を意味する』と説明されている。

それは、絵の裏にある「物語」を読み取ることで、その絵を「理解」できたとする伝統的な絵の見方を拒否している。現代の絵画は「物語」を排除して、純粋な視覚の芸術を追求している。抽象絵画もそうだが、マグリットは、トリックアートのように視覚を裏切ることによって、合理的な「物語」で解釈されることを拒絶している。

しかしこの解説者はそうしない。鳥の下の方にある小さな黒い部分についてこう言っている。『なんというヘマだ !  「明日の青空」の中に「今日の曇り空」のかけらが取り残されてしまっているではないか ! ! ! 』 もちろんこれは簡単な勘違いで、鳥の脚と尾の間の空間に背景の暗い空が見えているだけのことだ。自分が作った「物語」に引きずられて、素直に絵を「見る」ことができなくなっている。


2022年11月24日木曜日

「空を見上げて 十選」になかった空の絵

日経新聞の連載コラム記事 「空を見上げて  十選」シリーズが終わった。空の絵などは無数にあるから、 1 0 点だけを選ぶのは苦労したと思う。選者は哲学者の小林康夫氏で、”哲学的な” 観点から絵を解説している。

取り上げられた 1 0 点は、コンスタブル、ジョルジョーネ、屏風絵、クロード・ロラン、ターナー、ゴッホ、ホイッスラー、古賀春江、イブ・クライン、ルネ・マグリット


これ以外にも「空を見上げた」絵は、優れたものがまだまだあるので、補足してみる。


フリードリヒの「海辺の修道僧」は、海辺で修道僧が空を見上げている。これ以上に「空を見上げる」絵はないと思うが、十選に漏れている。暮れかけた空は暗く、海は真っ黒だ。広大な空を見あげている修道僧は豆粒のように小さい。圧倒されるような自然の崇高さと、人間のはかなさを想いながら修道僧は瞑想している。

人々が暗雲で覆われた暗い空を見上げている。ドイツの現代画家リヒャルト・エルツェの「期待」が描かれたのは 1 9 3 5 年で、大恐慌まっただなかで、ヒトラーが政権を握り、戦争がやがて始まることが予兆される不安な時代だった。この絵は、そのような人々の不安な気持ちを空に託して幻想的に描いている。

「空を見上げる」ということは、見る人の関心が地上より上の方向に向いているということだが、そういう視線で描いた画家はたぶんロイスダールが初めてではないか。空の面積を大きくとるために縦長の画面にしている。地上の物たちは、空のスケールの大きさを強調するための引き立て役にすぎない。


2022年11月21日月曜日

反ワクチン運動と地球平面説

 Flat Earth Theory

5回目のワクチンを打ちに行ったが、接種会場への送迎バス発着場の目の前で某政党の反ワクチン演説が行われていた。けっこう人気があるようで、人だかりがしていた。


アメリカの反ワクチン運動は、強い影響力を持っている。運動の母体はキリスト教原理主義者たちで、”宗教国家” と呼ばれるアメリカで政治的にも強い影響力を持っている。神様が創った人間の体に、ワクチンで手を加えることは聖書に反することで、とんでもないと考える。彼らはまた極端な自由主義者でもあるので、ワクチンという科学を使って政府が国民を統制しようとしているとして強く反発する。

彼らはワクチン以外でも科学すべてを強く否定する。そのひとつが「地球平面説」だ。中世の画家ヒエロニムス・ボスが、聖書の「天地創造」を描いた有名な「快楽の園」の扉の外面には、球形の宇宙の中心に円盤状の地球が浮いている。しかし、ガリレオなどが地動説や地球球体説を唱え始めると、神さまが地球を創ったとする聖書の教えに反することになるから、教会から異端として弾圧された。聖書が絶対とする人たちは 2 1 世紀の現在もそれを続けている。


このような反科学主義は、他にもダーウィンの「進化論」なども否定するが、ワクチン反対やマスク反対の運動もその延長線上にある。彼らに科学的な証明を示しても意味がない。それは宗教の問題だから、信者に対して神様なんていないよというのと同じで無意味なことだ。だから、そのような社会的素地がない日本でのワクチン反対運動は、どうしても違和感がある。


2022年11月16日水曜日

ターナーの「奴隷船」

 Turner & The Sea

日経新聞の文化面に連載されている「空を見上げて  十選」シリーズに、ターナーの「奴隷船」が登場した(1 1 / 1 5 付)。記事はこう書いている。『右下には、海に投げ出された死体に群がる魚たち。ターナーの絵画はとうとう「死」を直視した。その「恐ろしい美」によって絵画史が転換した。』


「TURNER & THE SEA」はターナーの海景画の画集だが、この絵についてこう解説している。『台風で海が荒れ狂い、奴隷船が翻弄されている。船の”積荷” を軽くするために、奴隷を生きたまま海に投げ出す。その屍体に魚が群がっている。描かれた1 9 世紀中頃には、奴隷制度への反対運動が高まっていたが、ターナーはその背景でこの絵を描いた。』

ターナーは嵐で荒れ狂う海の風景を描くために、自分を船のマストにくくりつけてもらってスケッチしたというのは有名な話だが、その経験がこの絵に活かされているのだろう。

「TURNER & THE SEA」には、そういう海景画の素材として使われることになるクイックスケッチがたくさん紹介されている。鉛筆や水彩で、2 0 cm くらいの小さいスケッチブックに描いている。見事なものだ。




2022年11月12日土曜日

江戸の首都防衛体制

 1 9 世紀初めに外国艦船がたびたび日本近海に現れるようになり、危機感を抱いた幕府は国防体制を固める。首都防衛のために東京湾を囲む東京、神奈川、千葉、の沿岸に軍隊を配備する。アメリカのペリー艦隊来訪頃の東京湾海防を示したこの図から、軍備体制がかなり整っていたことがうかがえる。


上段は、幕府が指名した海防を担当する大名たちの名前と分担場所の一覧表。分担場所として神奈川県側では、浦賀、三崎、横浜、本牧、金沢、神奈川、などの地名が記載されている。下段は、その配置場所を示す地図。三浦半島が実際より大きく描かれていて、東京湾海防の要だったことがわかる。

江戸近くには台場がたくさん描かれている。横須賀の猿島は天然の台場で、砲台があった。第二次世界大戦時にも使われて、その遺構が今も残っている。

この絵は瓦版で、浮世絵ではない。江戸時代、浮世絵は検閲制度があり、このような軍事機密に関わるような出版物は認められないため、瓦版という形をとったという。(神奈川県立近代歴史博物館編「横浜浮世絵」による)

2022年11月8日火曜日

映画「ホモ・サピエンスの涙」

スェーデンのロイ・アンダーソン監督による映画「ホモ・サピエンスの涙」は、映画の常識を破っている実験的な作品。

映画の冒頭で出てくるショットで、中年の夫婦が丘の上のベンチに座っている。二人は別々の方向を向いていて、お互いに視線を合わせることもなく、会話も無い。妻はどうでもいいといった感じで足を投げ出している。二人はこの姿勢のままでまったく動かない。それが延々と 7 0 秒も続く。まるでスチル写真のようだ。


 列車から降りた女性が、誰もいなくなったホームで、一人だけポツンと座っている。迎えにくるはずの人を待っているのだが、来ない。このショットも1分近く続くが、その間、女性は身じろぎもしない。


バスに満員の乗客が乗っている。一人の男がなぜか泣いているのだが、誰も無関心で彫像のように前を向いたままで動かない。バスもドアが開いたま止まっている。このショットも約 6 0 秒続く。


1時間ちょっとの映画だが、こういうショットが次々に現れるだけ。そして各ショットは人物も場所もバラバラで、お互いに関連がない。だから全体を通じたストーリーがない。

「ショット」は映画の最小単位で言語の「単語」に相当し、ショットが集まったのが「シーン」で「文章」にあたり、文章が集まった「シークェンス」は「パラグラフ」に当たる。というのが普通の映画理論だが、この映画は 3 0 以上のショットが羅列されているだけで、シーンもシークェンスもない。単語を並べただけの文章のようだ。

普通、映画は編集やモンタージュによってショットをつなぎ合わせることで、映像の意味を生み出す。この映画ではそれがないのだが、人との繋がりを欠いた人間たちの虚しさ語っていることはじゅうぶんに伝わってくる。