2025年2月27日木曜日

「小田原評定」

 The Congress dances, but it doesn't progress

よく行く小田原だが、小田原城を見るたびに「小田原評定」の言葉を思い出す。「評定」(ひょうじょう)とは「会議」のことで、豊臣秀吉が攻めてきた時、小田原城で北條家の家臣たちが、籠城するか反撃するか降伏するかで会議をするが、3日続けても結論が出せず、その間に滅ぼされてしまったという話は有名だ。

現在でも会社などで「決められない会議」のことを「小田原評定」と言ったりする。日本人なら誰でも知っているこの言葉だが、小田原市民にとっては屈辱だろう。だからか小田原城の公式 HP の歴史の記述に、この言葉はひとことも出てこない。

これに似た言い方は海外にもある。秀吉の小田原侵攻どころでないプーチンのウクライナ侵攻だが、それへの対応で NATO 諸国はひとつにまとまれずにいる。話しあいばかりやっていて行動を起こさないから「NATO」は「No Action, Talk Only」だと皮肉られる。それは国連も同じで、何度会議を開いてもまともな決議ができず、機能不全におちいっている。

歴史上最も有名な小田原評定は「会議は踊る」だろう。ナポレオン失脚後に、欧州各国首脳がが集まり、戦後体制を決める「ウィーン会議」が開かれる。しかし各国の思惑が食い違って、まとまらない。だが連夜に派手な舞踏会が開かれる。そこで生まれたのが「会議は踊る、されど進まず」という有名な言葉だ。

これを題材にした 1931 年の映画「会議は踊る」は有名で、「ウィーン会議」に出席していたロシア皇帝が、連日の会議に飽き飽きして、街娘と逢瀬を楽しむというミュージカルだ。それほど会議が悠長だったことの証拠だろう。


2025年2月25日火曜日

映画「伝説の映画監督 ハリウッドと第二次世界大戦」

「Five Came Back」 

この映画は、ハリウッドの巨匠監督5人の第二次大戦中の活躍を描いたドキュメンタリーだ。5人はいずれも志願して戦場へ行って映画を撮った。それらの戦争ドキュメント映画や戦争プロパガンダ映画は、戦争に無関心だったアメリカ人の戦意高揚に大きな役割を果たした。(5人と当時の作品)

ジョン・フォード    「ミドウェー海戦」
ウィリアム・ワイラー  「メンフィス・ベル」
ジョン・ヒューストン  「アリューシャンからの報告」
フランク・キャプラ   「我らは何故戦うのか」
ジョージ・スティーブンス「ダッハウ強制収容所」

この映画は、5人が戦争の悲劇を目の当たりに経験したことで、戦後になるとそれぞれの作風が大きく変化したことに触れている。彼らの映画が戦争に大きく影響を与えたと同時に、戦争が彼らに大きな影響を与えた。

ジョン・フォードは戦前の「駅馬車」などの西部劇で有名だが、戦後になると、同じ西部劇でも単純な活劇でなく、「捜索者」のように人間を描くようになる。

ウィリアム・ワイラーは、自らの体験をもとに、復員兵の苦悩をテーマにした社会派ドラマ「我らの生涯の最良の年」を作った。

ジョン・ヒューストンは、「白鯨」などの文学作品の映画を撮った。

フランク・キャプラは、コメディ的な作風だったが、戦後はハートウォーミングな「素晴らしき哉、人生」を撮った。



2025年2月22日土曜日

インテリア デザイナーが主人公の映画  3選

 Interior designer in movie

映画のシーンで、インテリアデザインが重要な役割を果たしている例は多い。登場人物のキャラクラーを説明するのにインテリアが使われたりする。インテリアは、そこに住む人の生き方や価値観と密接に関係しているからだ。そういう映画のなかで、インテリア デザイナーが主人公の映画を3つあげる。


「ジョンとメリー」

モダンデザインの発祥の地はバウハウスだが、学長のグロピウスのオフィスはモダンデザインの象徴だ(写真右)。飾り気のない白い壁、幾何学的な窓、機能だけの照明器具、色は黄色いソファだけ・・・ 温もりや居心地の良さよりも、機能に徹したデザインだ。映画「ジョンとメリー」は、このようなモダンデザインの特質を利用している。

ジョン(ダスティン・ホフマン)はインテリアデザイナーで、アパートの最上階のペントハウス的な家の室内を徹底したモダンデザインにしている。真っ白な壁や家具などで、色があるのは茶色のソファだけだ。まさにグロピウス的モダンデザインのセオリーどうりだ。


ジョンはバーで女の子と偶然知りあう。二人とも飲みすぎてしまい何も覚えていないが、朝起きて気がつくと二人はジョンの部屋にいた。そのまま夕方まで一緒にいるが、女の子が去る時に、初めてお互いの名前を聞く。「僕はジョン」「私はメリー」。

まる一日つき合った二人だが、相手の名前にさえたいして関心がない。名前の「ジョン」と「メリー」も「太郎」と「花子」みたいな、どこにでもいる平凡な名前で、アノニマス(無名性)な現代人を象徴している。この映画は、人間関係が希薄な現代社会を、機能に徹しているだけで温もりのないインテリアデザインで視覚化している。


「インテリア」

原題が「Interior」でなく、複数形の「Interiors」であることに重要な意味がある。「インテリア(Interior)」には、「家の室内」の意味だけではなく、「人間の内面」という意味もあり、この題名にはその両方の意味が込められている。この映画は家のインテリアと、そこに住む人間との関係をテーマにしていて、「インテリアデザイン」というものの本質を扱っている。


主人公の女性は優秀なインテリアデザイナーだ。自宅のインテリアは彼女のデザインだが、家族の好みよりも、彼女自身の厳しい美学の追求に徹している。壁の色はすべて寒色寄りのオフホワイトの「アイスグレイ」で統一している。知的であり、秩序のある美しさがあるが、冷たく、人を寄せ付けない雰囲気がある。

このインテリアは、他人に対して心を閉ざしている主人公自身の精神の象徴になっている。そしてまた、温かみのない家族関係も象徴している。娘の家にまで行って、インテリアに文句をつける。その完璧主義はやがて家族の崩壊をもたらす。彼女は夫から離婚を言い渡されるのだ。

夫は再婚するが新しい妻は、主人公とは正反対で、明るく陽気な女性だ。彼女は真っ赤なドレスで現れる。白だらけのインテリアの中でそれは鮮烈で、この家の秩序を壊そうとするかのようだ。それを見た主人公は・・・



「ル・コルビュジェとアイリーン  追憶のヴィラ」

主人公の女性アイリーン・グレイは 20 世紀前半に活躍した実在のインテリアデザイナーだ。アイリーンは建築にも手を広げ、自分の別荘を設計した。それがこの映画の舞台になっているヴィラだ。

アイリーンはコルビュジェと交友があり、この別荘でも二人はいろいろと関わりあいながら設計を進めていく。アイリーンはコルビュジェの影響を受けながらも、その機能主義とは少し距離を置いている。コルビュジェの有名な言葉「住宅は住むための機械である」が映画でも出てくるが、それに対してアイリーンは「住宅は愛の営みを包む殻だ」と言い返す。この立場の違いが、この別荘が完成したとき、結果として現れる。純粋の機能主義とは違う、温かみのある人間寄りのデザインだ。


この建築は評判をよび、アイリーンは一躍有名になる。それに嫉妬したコルビュジェは壁に壁画を描いてしまう。そしてこの家は自分が設計したものだと宣伝する。コルビュジェが名声欲の強い俗物人間であることを映画は暴いている。

この建築はまだ現存している。そしてアイリーンのデザインした家具がたくさん登場する。100 年前のデザインだが、今でも売られている名作の数々だ。


2025年2月20日木曜日

映画「フェイブルマンズ」

Fabelmans

2年前のスピルバーグの映画を、もう一度ネット配信で見た。スティーブン・スピルバーグ監督の自伝的映画で、子供の頃に親からもらった8ミリカメラで 遊んでいた時代から、青年になって映画監督の助手に採用されるまでを描いている。後に傑作を次々に生み出していくスピルバーグの原点がわかって興味深い。

中学生の時に家族でキャンプに行ったとき、その一部しじゅうを撮影したエピソードが出てくる。帰ってから編集機で編集していると、撮っている時には気づかなかったことが写っている。いっしょに行った父親の友人が母親とキスをしているのが画面の片隅に写っているのだ。ショックを受けるが、母親思いのスピルバーグはそのシーンはカットして家族に見せる。映画は必ずしも真実を語るわけではない、ということを自ら体験したのだ。

もう一つは高校生時代のエピソードで、ユダヤ人のスピルバーグはいじめにあう。いじめるのはハンサムでカッコいいクラスの人気者だ。撮影係を任されていたスピルバーグは、卒業記念パーティーで思い出ムービーを上映する。そこには、いじめっ子がアホのような姿に描かれている。実写フィルムであっても、編集の仕方で事実とは正反対の意味を持たせることができるという「映画の力」を実感する。

映画作りをあきらめきれないスピルバーグ青年は、大学を中退して、大手映画会社に監督助手として採用される。その監督があこがれの巨匠ジョン・フォード監督だ。初めて挨拶に行った時のエピソードがラストで出てくる。おどおどしながら部屋に入っていくと、壁じゅうにフォード監督の映画のポスターが貼ってある。「駅馬車」「捜索者」「静かなる男」「怒りの葡萄」など名作の数々に圧倒される。

フォード監督は、壁の写真のうちの2枚を指さして、これについて説明しろという。「馬に乗った2人の男が遠くを眺めていて〜」などと言うと「バカもん!」とフォードにしかられる。「一枚は地平線が画面の下の方にあり、もう一つは上の方にある。絵画では、真ん中に地平線がある構図は最低だが、映画も同じだ。映画は絵画と同じ芸術だということを忘れるな。」と言われる。「じゃ頑張れよ」と言われて部屋を出るまでわずか3分間だが、スピルバーグの映画人生を決定づける瞬間だった。


2025年2月18日火曜日

「80 歳の壁」の読み方


3年前に、和田秀樹という医師が書いた「80 歳の壁」が超ベストセラーになり、その後も女性向けの続編が出てまたヒットしている。なぜこんなに人気なのか、それは今まで出ている”高齢者向け健康ハウツー本” のたぐいと全く違う視点で書かれているからだ。

普通の本が「健康で長生きするためにはどうするべきか」という観点なのに対して、著者の本に一貫しているのは「人間はやがて死ぬのは当たり前だから、長生きばかりを考えず、残りの人生を楽しく生きる方がいい」というスタンスだ。だから「80 歳の壁」を超えてもっと長生きする秘訣を教える本ではない。

「高齢者は健康診断を受けるな」と強く主張していることに、著者の考え方が凝縮されている。健康診断では、たとえば血圧について、健康な人の平均数値と比べた数値データだけで健康度を判断する。しかし著者は、高齢者は血圧が高いのが当たり前で、そんなことで我慢や自制の生活をするのは馬鹿らしいと言っている。

だから著者は「お酒の好きな人は高齢になったからといって控えるのではなく、飲み続けなさい。」と言っている。そのことで寿命が縮まるかもしれないが、飲んで毎日を楽しく暮らした方がよっぽどいい、ということだ。食べ物にしても、塩分や脂分が多い食事は控えろとよく言われるが、そんなことは気にぜず、食べたいものを食べて幸せに過ごそうと著者はいう。つまり健康診断は、あれはダメこれはダメと言って、高齢者が好きなことをすることに制約をかけるから受けるなという意味だ。

この主張について、間違った理解をする人もいるから気をつけたい。例えば、自分は長生きしたいから、もう健康診断を受けるのは止めよう、と思ってしまうことだ。著者は長生きするために検診を受けるなと言っているわけではない。著者が一貫して、「高齢者は『幸齢者』になれ」と言っているのは「長生きを考えるよりも残りの人生を『幸せ』に暮らそう」ということだ。もっというと、「寝たきりになってでも長生きしているほうが『幸せ』ですか?」ということだ。


2025年2月16日日曜日

製鉄会社の工場見学

Steel factory tour 

日本製鉄の US スチール買収計画が政治問題化してゴタゴタが続いている。それで、数年前に製鉄工場の見学をしたことを思い出した。湾岸道路を走っていると、川崎のあたりで JFE の大きな工場が見える。いつか見に行ってみたいと思っていたら、チャンスが来た。「夏休み子供工場見学会」の募集があったので、保護者を装って子供たちに紛れこんで見学した。

製鉄の全工程が見られるが、圧延工程がいちばん迫力がある。真っ赤に溶けた鉄がローラーの上を行き来して薄い板にしていく。騒音と熱がすごい。

しかし、工場全体すべてが写真撮影禁止になっている。百年以上も続いている成熟産業の製鉄に今さら企業秘密があるのかと不思議に思った。しかしラインの途中に板で覆って見えなくしている場所がある。この箇所が特に機密性が高いらしいと察した。そして、まだ製鉄にもイノベーションの余地があるらしいことを感じた。

US スチールが日本の製鉄会社に買収されることを望んでいるのは、日本にしかない高度技術を供与してもらうためだといわれている。それは普通の鉄の3倍もの強度があり、自動車のシャーシなどの重要部分に絶対必要な高性能な鉄の製造技術だという。工場見学のとき、板で隠されていたのは、そのような核心的な工程だったのかもしれない。

「溶鉱炉」

2025年2月14日金曜日

「エッシャー完全解読」その2

M.C.Escher 

前回の続き。「エッシャー完全解読」の第2章で、有名な「物見の塔」を解析している。

この絵は、「ネッカーの立方体」を元ネタにしているというのは有名だが、絵の左下に「ネッカーの立方体」をいじっている若者を描くことで、エッシャー自身もそのことを認めている。しかし漠然と見ているだけでは、その不可能図形を使ってなぜこんなにいかにもありそうな自然な絵を描けたのかはわからない。それをこの本は、手品師のトリックを暴くように解析している。簡単にそれを紹介することはできないので、図だけを示しておく。関心のある向きは本を読んでいただきたい。


2025年2月12日水曜日

「エッシャー完全解読」

 M. C. Escher

「エッシャー完全解読」というすごい本が出た。著者によれば、エッシャーの絵には、よく知られている程度のトリックではなく、もっと複雑な仕掛けがあり、エッシャーはそのことを生涯隠し続けていたという。医学者である著者は科学的な方法でその謎を解き明かしている。

まだ読み始めなので、第1章の「上昇と下降」を紹介する。この作品は、不可能図形として有名な錯視図形「ペンローズの階段」をヒントにしている。見るからに不自然な「ペンローズの階段」と比べてエッシャーの「上昇と下降」は、本当にありそうなリアリティがある。それはエッシャーの絵が透視図法で描かれているからだと指摘している。気が付かなかったが、言われてみれば確かにそうだ。


以上は簡単すぎる紹介だが、本にはもっと詳しい説明がある。おすすめの本だ。


2025年2月11日火曜日

今日は「建国記念の日」

 

今日 2 / 11 は「建国記念の日」だ。「建国記念日」でなく、あいだに『の』が入った奇妙な記念日だ。どこの国にも建国記念日はある。アメリカはイギリスから独立した「独立記念日」、フランスはフランス革命の「革命記念日」、中国は毛沢東の共産主義政権成立の「国慶節」など、革命や独立の日を建国記念日にしている。だから記念日の日付ははっきりしているが、日本の場合、なんの日をもって「建国」にするか統一的な考え方がないために、とりあえず戦前の「紀元節」だった 2 / 11 にした。

戦前の「紀元節」は、神武天皇が紀元前 660 年の 2 月11日に即位したという「古事記」の記述を根拠にしていた。しかし紀元前 660 年といえば、縄文か弥生の時代で、ほとんど神話の世界だ。学術的な証拠がない「紀元節」だが、軍国主義時代に国民の愛国精神を高めるために利用された。

戦後に GHQ の命令で「紀元節」は廃止されたが、その後その復活を求める声が上がりはじめる。しかしそれに反対する層も多く、政治的対立の争点になった。その結果出来上がった妥協の産物が、「建国記念日」でなく、「建国記念の日」だ。

国によれば、この日の趣旨は、「建国を祝い、国を愛する心を養う」とされているが、その言葉どうりにする人は一人もいないだろう。


2025年2月10日月曜日

「肌理(きめ)の遠近法」を使った絵画

Texture perspective


人間は環境を「視知覚」で認識しているが、J. J. ギブソンの名著「生態学的視覚論」は、そのメカニズムを詳しく研究している。その中に「肌理(きめ)」の話が出てくる。ガラスのように均質で滑らかな面の物質は例外的で、ほとんどの物質の表面は細かい斑点状の肌理をもっている。写真はギブソンがあげているいろいろな物質の肌理の例。(木目、雲、草、布地、水面、小石)



絵画で遠近法といえば、普通は「線遠近法」だが、他にも「空気遠近法」など色々な種類があるが、「肌理の遠近法」もそのひとつ。草原の草や、砂利道の石などによる地面の肌理(きめ)を、近くを大きく粗く、遠くを小さく密に描くと、人間は遠近感を感じる。右はその原理図。建物などの直線要素がない風景では線遠近法が使えないから、この方法が役に立つ。「肌理の遠近法」を使った絵画の例を探してみた。

ゴッホの「夕日の麦畑で種子をまく人」は分かりやすい例で、手前と遠景とで、麦畑の地面の肌理の粗密を変えて、遠近感を出している。


ワイエスの「クリスティーナの世界」は、草原の手前の草を一本一本細かく描いているが、遠くはイエロー・オーカーのほぼ均一な色面になっている。


水面の肌理の例は、モネの「ラ・グルヌイエール」がある。手前のさざ波が荒く、遠くへいくほど細かく密になっていく。


ピサロの「ルーヴシェンヌの乗合馬車」は、雨に濡れた道路が光を反射して、美しい肌理が見えている。


ミレーの「子供達に食事を与える女性」の家の石壁で、手前の肌理が粗く、向こうにいくにつれて細かくなっていく。




比較のために、「肌理の遠近法」を使っていない例として点描画のスーラの「グランド・ジャット辺のセーヌ川」をあげる。同じ大きさの点を、同じ密度で全体を埋めていて、肌理が均一になっている。だから奥行き感のない、平面的な絵になっている。スーラが、空間より色彩を重視しているためだ。


2025年2月8日土曜日

相関関係と因果関係の混同

Correlation & Causation 


例えば

朝食を摂らない子供は、学校の成績が悪い傾向がある』は「相関関係」で、
朝食を摂らないと、子供の成績が悪くなる』は「因果関係」だ。

つまり

『統計的にみて、朝食を摂る / 摂らないが、子供の成績に影響している傾向がある』 
が「相関関係」
『朝食を摂らないことが「原因」で、子供の成績が悪いという「結果」をもたらす』 
が「因果関係」

ところが

このふたつは混同されやすい。「相関関係」を聞いた親が、今まで食べなかった子供に朝食を食べさせたとしても、ほとんど成績が上がる結果にはならないだろう。朝食を食べないことが原因で成績が悪くなるという「因果関係」は何ら証明されていないためだ。成績が悪い原因は例えば、そもそも勉強嫌いなどで、朝食は関係ない可能性が高い。

2025年2月6日木曜日

絵本「猫と悪魔」

「 The Cat and the Devil」

大昔、子供が小さい頃に買った「猫と悪魔」という絵本が出てきてびっくりした。こんな本があったことはすっかり忘れていたが、著者がジェームス・ジョイスだったということにまたびっくりした。 20 世紀文学に革命を起こしたジョイスが絵本を書いていたとは今では忘れていたが、当時は「ユリシーズ」を読んでいたので、その関係でこの絵本を買ったのだろう。

この本は旧仮名遣いで訳文が書かれている。例えば「いつでも川を渡れるやう、橋をかけてあげませう」などで、訳者の円谷才一が正しい日本語で書くためだと後書きで主張している。他にも幼児向け絵本でありながら、漢字をそのまま使っていたりして、文学者である円谷才一のこだわりが詰まっている。

挿絵がジェラルド・ローズという、たくさんの有名絵本の絵を手がけた絵本画家の第一人者だ。


2025年2月4日火曜日

建築家が主人公の映画 3選

Architect in movie

新しく公開される「ブルータリスト」は、建築家が主人公の映画だ。そこで、建築家が主人公の映画で、強く印象に残っている作品を3つあげてみる。 


「摩天楼」

ラストは自分が設計した建物の屋上に
「どうだ!」という
ポーズですっくと
立っていて、
それを恋人がうっとりと
した表情で見上げている

主人公は天才的な建築家で、先進的な建築を設計しているのだが、それを理解できない大衆から批判されている。クライアントも一般受けするデザインを要求する。そしてついに主人公の設計を勝手に変更してしまう。それに怒った主人公は建設中のビルを爆破してしまう。逮捕されて裁判にかけられた主人公は、滔々と自己の主張をする。「無知な大衆は、社会のために働いている有能な人間の足を引っ張らずに黙っていろ!」そして無罪を勝ち取る。

政治思想家でもあるアイン・ランドが、自身の小説をもとに脚本を書いた。裁判での建築家の演説は、アイン・ランド自身の思想そのままを代弁させている。古い映画だが、現在では「新自由主義」と呼ばれる思想の先駆けだったアイン・ランドが、その主張をしている一種の政治プロパガンダ映画だ。「新自由主義」は、政府が経済に介入することなく、市場原理に任せるという考え方だ。だから社会福祉のように、税金を使って国民を平等に幸福にすることに反対し、豊かになりたい人は国に頼らず、自分が努力すればいいという思想だ。そして映画の主人公が言うように、有能な人間が自由に力を発揮できる社会を理想とする。レーガンやサッチャーの時代がそれで、経済が大発展したが、その代わり国民の貧富の格差が広がった。


「ハウス・ジャック・ビルト」

見るからに知的な風貌の主人公で、
建築の仕事も殺人も緻密に計算
しながら自分の理想を追い求めている
ランス・フォン・トリアー監督のこの映画は、「サイコ・ホラー映画」で、主人公の男は残虐なやり方で次々と人殺しをする凶悪な連続殺人鬼だ。見ていて嫌悪感を覚えるが、それは殺しの手順が事細かに詳しく描かれていて、殺した後の死体の処理の仕方までこれでもかとリアルに描いているからで、「イヤーな」映画なのだ。

しかし題名を直訳すれば、「ジャックが建てた家」となる。サイコ映画なのになぜ「家」なのか。それは主人公のジャックが建築家だからで、映画の途中で家を設計している場面がしばしば挿入される。

この映画の意図は、トリアー監督の他の作品を見ればわかる。例えば「マンダレイ」では、黒人の人種差別に反対する知的な女性の社会活動家が、最後に狂ったように黒人をムチで打ち続けるという異様な映画だった。同監督の映画に共通しているテーマは、理性的な人間の内面に潜んでいる反理性的な「本性」をあばき出すことだ。

この映画の主人公も知的で理性的な建築家で、自分の考える理想的な家の実現へ向かって、何度もやり直しながら執念を燃やす。それと並行して行う殺人も、理想的で完璧な殺し方を求めて次々と殺す。主人公にとって殺人は、建築と同じく目標達成のための合理的な行為なのだ。

 
「海辺の家」

家が完成すると、真っ赤な太陽が
水平線に沈んでゆく風景が美しい。
主人公の死を象徴するかのようだ。
主人公は建築家だが、設計に PC を使わず、手描きの図面と手作りの模型で仕事をしている。そして時代遅れになった彼は設計事務所をクビになってしまう。離婚した彼は、息子とも離れて、海辺の古びた家に一人で生きている。そしてガンで余命が短いことを告げられている。コミュニケーションが途絶えている息子にせめて何かを残したいと考え、家を建て直す決心をする。

元妻と息子に、家を建てるひと夏の間、戻ってきて建てるのを手伝わないかという呼びかけに二人は嫌々ながら従う。そして家を一緒に建てている間に父と息子の心の距離が縮まっていく・・・

壊れた家族の絆を再建しようとするヒューマンドラマで、よくあるパターンの映画ではあるが、「家を建てる」という題材を使っている点がうまい。「家」が「家族」のシンボルであり、「家」を建て直すことが「家族」を建て直すことを意味している。原題の「Life as a House」(人生は家のようなもの)はその意味だ。

最後に家が完成し、家族の絆も取り戻すが、それと同時に主人公は余命が尽きてしまう。


2025年2月2日日曜日

映画と A I

Butalist 

今年のアカデミー賞の最有力候補にノミネートされている「ブルータリスト」が、日本では今月(2月)公開されるようだ。面白そうなのでぜひ観ようと思う。

それは別にして、この映画で A I が使われていることが問題になっている。制作スタッフが自らそのことを認めているという。主人公のハンガリー人が話すハンガリー語の発音を完璧なものにするために、音声生成 A I を利用した。もうひとつは主人公の建築家が描く建築図面を画像生成 A I を使ってもっともらしく描いたという。

2023 年にハリウッドの俳優と脚本家の労働組合が大規模なストライキを行ったが、そのときの争点が映画でのA I 技術の利用の是非だった。最終的に組合はA I 技術から労働者を守る規定を勝ち取った。それだけにこれが大問題になっている。

A I を愛用している最大の利用者は役人だといわれている。頭で考えることを A I におまかせしてすむ仕事だからだが、役人と正反対のクリエィティビティが命の映画でそれは困る。ストの時の組合の主張は、A I によって人間が失業する「脅威」を訴えていたが、むしろ A I に頼ることで人間の頭脳の考える力が「退化」してしまうことのほうが恐ろしい。そうなれば映画は何の魅力もないものなってしまう。