Architect in movie
新しく公開される「ブルータリスト」は、建築家が主人公の映画だ。そこで、建築家が主人公の映画で、強く印象に残っている作品を3つあげてみる。
「摩天楼」
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ラストは自分が設計した建物の屋上に 「どうだ!」というポーズですっくと 立っていて、それを恋人がうっとりと した表情で見上げている
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主人公は天才的な建築家で、先進的な建築を設計しているのだが、それを理解できない大衆から批判されている。クライアントも一般受けするデザインを要求する。そしてついに主人公の設計を勝手に変更してしまう。それに怒った主人公は建設中のビルを爆破してしまう。逮捕されて裁判にかけられた主人公は、滔々と自己の主張をする。「無知な大衆は、社会のために働いている有能な人間の足を引っ張らずに黙っていろ!」そして無罪を勝ち取る。
政治思想家でもあるアイン・ランドが、自身の小説をもとに脚本を書いた。裁判での建築家の演説は、アイン・ランド自身の思想そのままを代弁させている。古い映画だが、現在では「新自由主義」と呼ばれる思想の先駆けだったアイン・ランドが、その主張をしている一種の政治プロパガンダ映画だ。「新自由主義」は、政府が経済に介入することなく、市場原理に任せるという考え方だ。だから社会福祉のように、税金を使って国民を平等に幸福にすることに反対し、豊かになりたい人は国に頼らず、自分が努力すればいいという思想だ。そして映画の主人公が言うように、有能な人間が自由に力を発揮できる社会を理想とする。レーガンやサッチャーの時代がそれで、経済が大発展したが、その代わり国民の貧富の格差が広がった。
「ハウス・ジャック・ビルト」
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見るからに知的な風貌の主人公で、 建築の仕事も殺人も緻密に計算 しながら自分の理想を追い求めている |
ランス・フォン・トリアー監督のこの映画は、「サイコ・ホラー映画」で、主人公の男は残虐なやり方で次々と人殺しをする凶悪な連続殺人鬼だ。見ていて嫌悪感を覚えるが、それは殺しの手順が事細かに詳しく描かれていて、殺した後の死体の処理の仕方までこれでもかとリアルに描いているからで、「イヤーな」映画なのだ。
しかし題名を直訳すれば、「ジャックが建てた家」となる。サイコ映画なのになぜ「家」なのか。それは主人公のジャックが建築家だからで、映画の途中で家を設計している場面がしばしば挿入される。
この映画の意図は、トリアー監督の他の作品を見ればわかる。例えば「マンダレイ」では、黒人の人種差別に反対する知的な女性の社会活動家が、最後に狂ったように黒人をムチで打ち続けるという異様な映画だった。同監督の映画に共通しているテーマは、理性的な人間の内面に潜んでいる反理性的な「本性」をあばき出すことだ。
この映画の主人公も知的で理性的な建築家で、自分の考える理想的な家の実現へ向かって、何度もやり直しながら執念を燃やす。それと並行して行う殺人も、理想的で完璧な殺し方を求めて次々と殺す。主人公にとって殺人は、建築と同じく目標達成のための合理的な行為なのだ。
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家が完成すると、真っ赤な太陽が 水平線に沈んでゆく風景が美しい。 主人公の死を象徴するかのようだ。 |
主人公は建築家だが、設計に PC を使わず、手描きの図面と手作りの模型で仕事をしている。そして時代遅れになった彼は設計事務所をクビになってしまう。離婚した彼は、息子とも離れて、海辺の古びた家に一人で生きている。そしてガンで余命が短いことを告げられている。コミュニケーションが途絶えている息子にせめて何かを残したいと考え、家を建て直す決心をする。
元妻と息子に、家を建てるひと夏の間、戻ってきて建てるのを手伝わないかという呼びかけに二人は嫌々ながら従う。そして家を一緒に建てている間に父と息子の心の距離が縮まっていく・・・
壊れた家族の絆を再建しようとするヒューマンドラマで、よくあるパターンの映画ではあるが、「家を建てる」という題材を使っている点がうまい。「家」が「家族」のシンボルであり、「家」を建て直すことが「家族」を建て直すことを意味している。原題の「Life as a House」(人生は家のようなもの)はその意味だ。
最後に家が完成し、家族の絆も取り戻すが、それと同時に主人公は余命が尽きてしまう。