2021年1月31日日曜日

ウィルスが変異してワクチンも効かなくなり・・・「アイ・アム・レジェンド」に見るその結末は?

Apocalypse in「I Am Regend」

小説「アイ・アム・レジェンド」(1 9 5 4 年)を原作にした、同名の映画「アイ・アム・レジェンド」(2 0 0 7 年)にその結末が出てくる。

流星の地球への衝突や、大洪水や、疫病の大流行などで人類が滅亡するという、黙示録を基にした映画は、設定をいろいろ変えてたくさん作られてきたが、この映画もその一つ。聖書の黙示録には、神が人間たちの悪行に怒って、罰として人類を絶滅させる(終末)が、わずかな善い人だけには救世主が迎えに来て(召命)、天国へ導かれ(ノアの箱舟)、彼らが新しい善い世界を創る、という未来の予言が書かれている。

この映画のストーリーも、そのとおりの流れになっている。ウィルスが突然変異によって強力化して、殺人ウィルスになる。地球上の人類の9割が死滅し、残り1割の人間も凶暴なゾンビ化して、生き残った人を襲う。一人だけ
感染していない医師が、廃墟になったニューヨークで、治療薬の開発をしている。ついに成功した彼は、生存者たちが密かに暮らしているコロニーがあることを知り、そこへ薬を届けるように、もう一人の生存者の女性に託す。そして、人類は絶滅の危機から救われる。しかし彼自身は襲って来たゾンビたちを殺すために、自爆して死んでしまう。主人公の医師は「救世主」であり、コロニーは「ノアの箱舟」に当たる。
ラストの、コロニーへ女性が薬を届けに来たシーンで、人々は平和に暮らしているが、中央に「教会」があり、「星条旗」が掲げられていて、周囲を「軍隊」の兵士が守っているのがはっきりと見える。この違和感のあるシーンの意味について、西洋思想史が専門で、美術・映画にも詳しい岡田温司氏は次のように解説している。

黙示録はキリスト教社会の根底でずっと生きてきた思想だが、9.11 以降は性質が変化した。イスラム教徒のテロによって崩壊した貿易センタービルの映像は、黙示録の終末のシーンとしてアメリカ人に衝撃を与えた。その結果、キリスト教を絶対とするキリスト教原理主義と、外敵からアメリカを守るという排外主義が結びつき、黙示録が政治的な色合いを持つようになった。この映画のラストシーンが「教会」と「星条旗」と「軍隊」であることは、アメリカ人であり、キリスト教徒である人間しか、この「ノアの箱舟」に乗せないこと、そしてそれ以外の人間は力で排除するということを意味している。(この説明は、アメリカの前大統領の政治を考えると納得がいく)


2021年1月29日金曜日

巨匠たちのパステル画の技術

Pastel techniques of masterpieces

パステル画といえば、ドガとルドンだが、他にもピカソ、ゴッホ、シャガール、スーラ、マネ、など有名な巨匠たちもパステル画を描いている。しかしパステル画では、彼らの油彩とはまったく違う画風の絵になるのが面白い。油彩や水彩の絵の具は、顔料を油や水で溶いたものだが、パステルは純粋な顔料そのものを紙に乗せていくので、色の鮮やかさが特徴だし、そもそも筆も使わない。だから自然に画風が違ってくるのだろう。

ドガはパステル画の名手だが、色を塗りつぶさずに、ハッチング的に描いている。パステルの先端を使って線で描くので、色どうしが混ざらず、それぞれの色が活き活きしている。例えば背中の部分で、補色どうしのピンクとグリーンの線の両方が混ざることなく、彩度が活きている。(「浴盤」)


対照的なのがクレーで、黒線で区切った各部分を単色で塗りつぶしている。しかし目の粗いカラーペーパーに描くのがパステル画の基本なので、塗りつぶしても紙の色が透けて見える。この場合は、濃い青色の紙を使っているが、その青がピンクの下に透けて見えていて、色の鮮やかさを際立たせている。(「ヴェネチアの小部屋」)



とかくパステル画ではソフトな感じにしようと指でこすってしまいがちだが、こすると色が混じり合って単調になってしまう。ルドンは例えばこの絵のバックで、ピンク・黄色・紫色などをこすってはいるが、色が互いに混ざらないようにしている。それが単調さを防ぎ、微妙な色の変化をもたらしている。(「青い花瓶の花」)


ムンクのパステル画は素描的だが、繊細でしかもスピーディな線の重なりが素晴らしい。コンテや木炭に似て、
速写性もパステルの特徴の一つだ。(「病める子」)



ピカソにもパステル画がある。しかし油絵的なのは、
油性パステルでも使っているのかもしれない。普通のピカソ風ではないのは、”ちょっとスケッチ” のつもりだろうか? たしかに戸外でのスケッチには簡便なパステルは向いている。



2021年1月27日水曜日

マドリードのソフィア美術館の現代絵画

 Paintings in 「Limits of Control」

「リミッツ・オブ・コントロール」というスペイン映画は、ある男を暗殺せよという指示を受けて、殺し屋の主人公が最後に目的を果たす・・・というサスペンス映画風のストーリーだが、観客を最後まで煙に巻く。誰を何のために殺すのかという「目的」が全く示されず、それを実行するまでの「手段」だけを淡々と事細かに見せるだけ、という実験的な映画だ。

映画で美術館の絵画が重要な役割をしている。謎の人物が要所要所で現れて、スパイもどきに暗号のメモを渡すのだが、それには美術館でこれこれの絵を見よという指示だけが書いてある。その美術館は、マドリードの「ソフィア王妃芸術センター」で、ピカソの「ゲルニカ」などスペインの近現代絵画を展示している。映画では、以下の4作品が登場する。(アントニオ・ロペス・ガルシア以外は知らなかった

ファン・グリスの「ヴァイオリン」(キュビズム絵画)

ロベルト・フェルナンデス・バルブエナの「裸婦」(”魔術的リアリズム”と呼ばれる)

アントニオ・ロペス・ガルシアの「カピタン・アヤ通りから見たマドリード」

アントニ・タピエスの「大シーツ」(シーツの皺の質感だけを超リアルに描いている)


2021年1月25日月曜日

歪んだ人間関係を映す凸面鏡 映画「召使」

 Convex mirror in「The Servant」

凸面鏡やガラス球に映った球面反射像は歪んでいるので、現実と違う ”異界” を映しだすような感覚がある。前々回書いたが、おとぎ話しの魔女の鏡や、占い師の水晶球などがそうだし、絵画でもガラス球に映った像で死後の世界を暗示したものがある。映画でも、メガネに映った球面反射像で殺人のシーンを撮った作品(ヒッチコックの「見知らぬ乗客」)があるが、凸面鏡がもっと大活躍する例がある。

「召使」(1 9 6 3 年)は、主人と召使、そしてそれぞれの恋人の4人が同居している豪邸で繰り広げられる倒錯した異常な愛の世界を描いた心理ドラマ。広間にある凸面鏡が、事あるごとに登場するが、そこに映った歪んだ像は、4人の歪んだ人間関係を映し出している。


登場人物たちの精神状態が狂い始め、主人と召使の、支配・被支配の関係が逆転してしまう。最後に、主人の心理状態が破滅して、自分が分からなくなってしまう場面で、ガラス球に反射した像を見つめる。そこには自分の歪んだ顔が映っている。


主人の恋人も召使によって精神的に破滅させられる。最後に彼女が家を出ていくシーンで、カメラは腕のブレスレットをクローズアップする。その金属球のブレスレットにぼんやりと映った室内は、そこで起きた悪夢の表象のようだ。


(この映画はあまり有名ではないが、脚本を書いた劇作家のハロルド・ピンターという人は、後の 2 0 0 5 年にノーベル文学賞を受賞している。)

2021年1月23日土曜日

活人画

Tableau vivant 

「活人画」とはあまりなじみのない言葉だが、人間が名画の通りの衣装を着て、絵と同じポーズをとって絵を再現するものだが、宮廷のパーティで客をもてなす娯楽として行われた。フランス語の「タブロー・ヴィヴァント」は「生きた絵画」という意味。

ゴダールの「パッション」は、映画を制作しているところを映画にするという珍しい映画だが、制作しているのは、活人画を撮る映画で、おなじみの名画の活人画が登場する。レンブラントの「夜警」では、原画通りにこだわる監督が、中央の女の子の照明が明るすぎると言って何度もダメ出しする。絵は画家のイメージで描いたものだから、その通りに再現するのは至難のワザだろう。原画と、映画の活人画のシーン。


美術史の本のように名画が次々に登場する。ゴヤの「裸のマハ」の原画と活人画。活人画で演じているのは本物の人間だから、これ以上の「リアル」はないはずだが、絵の方がずっと「リアル」だ。比較してみると絵画の力がよくわかる。


映画を撮っているところを撮る映画だから、こんな場面も。ゴヤの「18 0 8 年 5 月3日」を撮っている後ろを、同じくゴヤの「パラソル」の女性が横切るのが画面に入っている。


アングルの「水浴の女」の原画と活人画。映画では、
部分のクローズアップだけで、原画と同じフルフレームで映すことはない。


2021年1月21日木曜日

アイデンティティーの分裂を映す鏡  オーソン・ウェルズの「市民ケーン」

 Mirror in movies 「Citizen Kane」

オーソン・ウェルズの「市民ケーン」(1 9 4 1 年)は 8 0 年も経った現在も、歴代名画 No.1に選ばれる。主人公の新聞社の社長が、発行部数を増やすために、フェイクニュースを流して世論を操り、政治を動かす。政治家が S N S を利用して世論を動かす今の時代と同じで、トランプ前大統領はこの映画が大好きだそうだ。そしてこの映画が画期的だったのはテーマだけでなく、映像表現技術の新しさだった。

絶大な金と権力を手に入れた主人公だが、最後にその生い立ちや人物像が謎に包まれたまま死んでしまう。映画は、証言者たちに聞き取りをして主人公の真実の姿を探っていくのだが、人によって言うことがバラバラで、最後まで分からないまま終わる。ラストの死の直前に主人公が住まいの大宮殿を去っていくシーンが有名で、鏡の回廊を歩いて出ていく時、両側の鏡が反射し合って、何重にも像が重なっている。主人公の統一した人間像が浮かび上がってこないことの象徴になっている。



人間の内面を象徴的に表すために、鏡に映った像を使うことが映画ではよくある。登場人物の人格を映し出すものとしての鏡であったり、見かけと異なる隠れた人間像を暴き出す鏡であったりする。オーソン・ウェルズはその手法の元祖だった。

やはりオーソン・ウェルズの「上海から来た女」(1 9 4 7 年)もそんなラストシーンが有名だ。富豪の夫婦が両方とも、密かに相手を殺そうとしている。最後は計画がバレて、直接二人の殺し合いになるが、その場所が遊園地の「鏡の間」で、無数の鏡が並んでいる。どれが実物かわからないまま鏡の像に向かってやみくもに撃ち合う。最後は鏡がこなごなに砕けるが、その破片にも二人の姿の断片が映っている。無数に砕けた鏡の像が、彼らの砕けてしまった精神状態を暴いている。


2021年1月19日火曜日

凸面鏡が映す ”歪んだ” 像

 Convex mirror

昔、画家たちは「クロード・グラス」という小さな凸面鏡を持ち歩いた。描く場所へ来るとクルリと背を向けて、この鏡を見ながら描いた。凸面鏡は細かいところまでは映らないので、細部にとらわれずに、大づかみな雰囲気を描くことができた。「クロード」という名前は風景画の大家クロード・ロランから来ていて、クロードのように描けるという意味だった。

そもそも 1 7 世紀くらいまでは平面鏡はなく、もっぱら凸面鏡が使われていたという。(大きくて平面度のあるガラスが作れなかったから?)1 5 世紀のヤン・ファン・エイクの有名な「アルノルフィニ夫妻の肖像」で、壁に掛かっている鏡は凸面鏡だ。凸面鏡だから、小さくても室内全体が映っている。

おとぎ話しに出てくる鏡も凸面鏡で、「白雪姫」の魔女が「鏡よ鏡、世界で一番・・」というのも凸面鏡だし、「鏡の国のアリス」の悪の女王もそうだ。そもそも西洋の占い師は水晶球という凸面鏡に映った像で未来を占う。凸面鏡の像は、現実と違う歪んだ像なので、魔女たちが ”異界” を呼び出すのにぴったりな道具なのだろう。

1 7 世紀のオランダのピーテル・クラースという人の「バイオリンとガラス球」は「ヴァニタス」の絵で、「人生の虚しさ」を表す寓意画だ。人は必ず死ぬことを自覚しながら生きよとして、享楽的な生活を戒めている。死を意味するドクロの他に、 ”滅び” を象徴するモチーフが描かれている。弦の切れたバイオリン・破れた楽譜・ひっくり返ったワイングラス・壊れた懐中時計などの ”虚しい” ものを並べている。
さらに左側にガラス球が描かれていて、それが凸面鏡の役割をして、室内の様子を反射している。よく見るとイーゼルにキャンバスを立てて描いている画家自身の姿があり、手前にはモチーフの品が球面反射した歪んだ形で映っている。歪んだ形は死後の世界の象徴だが、中央にいる画家は歪んでおらず、現実の姿通りに映っている。この凸面鏡は、今生きている世界と死後という”異界”をつなぐ役割をしている。

映画にも、 ”異界” や ”死”と結びつきやすい凸面鏡の性質を利用した例がある。ヒッチコックの「見知らぬ乗客」で、狂気じみた男が女性の首を絞めて殺すシーンで、地面に落ちた女性のメガネを画面いっぱいにクローズアップする。メガネが凸面鏡の役割をして、そこに首を絞めている男が映る。人間はいっさい撮らず、メガネに映った歪んだ像だけで人間の ”歪み” を暗示しているのがヒッチコックらしいうまさだ。

2021年1月17日日曜日

アンドレイ・タルコフスキーの「鏡」

 Andrei Tarkovsky 「Mirror」

アンドレイ・タルコフスキーの代表作の一つ「鏡」は自伝的映画で、「映像の詩人」と呼ばれる通り、その映像に魅了される。子供の頃の記憶をたどっていく映画だが、ストーリーで語るのでなく、映像に語らせている。断片的な映像が脈絡なくつながっていくが、その中のいろいろなシーケンスで、題名どおり「鏡」が重要な役割をしている。現実と幻想、現在と過去、などを交差させる道具として「鏡」の使い方が見事。たくさんの鏡が登場するが、以下の3場面は特に有名だ。


母親が髪を洗ったあと下着だけでいるとき、初めて母親に女性を感じるシーンで、カメラは母親自身と、鏡に映った母親とを同時に写す。実物の方は優しい母の顔だが、鏡に映る横顔の像は妖艶で、今まで見えていなかった母親が鏡を通して見えている。


タルコフスキーが大人になってから、亡くなった母親が幻影として現れるシーンで、透明人間のようにドアをすり抜けて室内へ入ってきて鏡に近寄る。そして鏡に映った自分の姿に手を当てる。自分がまだ生きていることを確かめているかのようだ。


お金がなくて食べ物にも困るほどだったころ、母親が金持ちの家を訪れて、自分のイヤリングを買ってもらう相談をする。その間、待っている少年はふと鏡に映った自分の姿をまじまじと見るという初めての体験をする。薄暗い鏡の中にぼんやり映る少年の像をカメラはズームアップする。思春期の少年が初めて自己と向き合い、自分とは何かという自己認識が生まれ始めた瞬間を見事に描き出している。


2021年1月15日金曜日

「鏡」が登場する絵画いろいろ

Mirrors in painting

ピエール・ボナールの「洗面台」という絵で、鏡に映った妻の裸を描いている。妻は画家の向けている視線の方向とは反対の後ろ側にいるが、それを鏡を通して見ている。だからのぞき見的な、あるいは隠し撮り的な感覚が生じている。


マネの傑作「フォリー・ベルジュールのバー」は、画面いっぱいの大きな鏡の前にいる女性を描いている。鏡のおかげで、女性と、女性が見ている空間(1 8 0 度反対の空間)が同時に見えている。画面右端に映っている紳士は女性に話しかけているように見えるが、実はそうではないことが最新の研究でわかったという。絵全体の空間関係を解析すると、紳士が視線を向けているのはバーテンダーの女性ではなく、鏡の中で遠くに見えているショーを見ている白い服の女性だという。この紳士も、目をつけている女性を、鏡を通して盗み見しているということらしい。


印象派の女流画家メアリー・カサット の「母と子」で、母が子に手鏡をかざしている。鏡の中の子は鑑賞者の方を見ているので、子の正面の顔と、実物の横顔の両方が見えている。一方、後ろにある大きな鏡には母親の横顔が写っていて、実物のほぼ正面の顔と補完しあっている。4つの顔が親子のつながりの濃密さを表している。


美術史上最も有名な鏡の絵は 1 5 世紀ベルギーのヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」だろう。夫妻の真ん中の壁に丸い鏡がかかっているが、そこにこの絵を描いた画家自身とその妻が映っている。これは夫婦の婚礼の儀式に画家が立会人として参加しているシーンを描いたものだという。鏡の像をよく見ると、両夫妻が向かい合っていることがわかる。絵の中に画家は見えなくても、この場にいたことを証明するかのように鏡の像として描いている。そして念入りに(?)鏡の上の壁にサインをしている。


全く有名でないがこんな絵がある。1 8 世紀のジャン・バティスト・グルーズという人の「割れた鏡」で、床に落ちて砕けた鏡を若い女性が悲しげに見ている。この鏡は、彼女が失ったもの(処女性)の象徴だという。



2021年1月13日水曜日

ピストレット の「鏡絵画」

 ”Mirror Painting” by M.Pistoletto

ミケランジェロ・ピストレット の「鏡絵画」(Mirror Painting)は、鏡が絵画作品として美術館の壁に展示されている。まわりの空間とそこを行き交う観客たちを鏡に映し出すが、その鏡には等身大の後ろ姿の人物の絵があらかじめ描かれていて、その前に立つと、鏡に映る自分と描かれた人物との間に何らかの交流が生まれるように感じる。


金網入りの鏡の上に女性の後ろ姿が描いてある。鏡に映った観客の男性と金網越しに会話しているように見える。リアル(実際の人間)とヴァーチャル(描かれた人間)を鏡が結びつけている。 (ピストレット は、2 0 1 3 年度 「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞した)


2021年1月11日月曜日

ロトチェンコ の写真革命

Rodchenko's photograph revolution

ロシア・アヴァンギャルドのロトチェンコは写真に革命を起こした。それまでの写真は「絵画的写真」(ピクトリアル・フォト)といわれるように、絵画的な美しさを理想にして、絵画の追随をしてきた。ロトチェンコはそれを否定して、絵画にはできない、写真独自の可能性を追求した。

「絵画は、観察した様々なイメージを総合することで、普遍性と永続性を追求するが、科学技術によって絶えずゆり動き、変化する時代に、唯一不変の永遠なるものなど存在しない。写真は、いろいろな状況での偶然的な一瞬だけをスナップショットで切り取ることによって、真実を描くことができる。」と言っている。(「ロトチェンコ の実験室」より)

遠近的な絵画の視覚ではなく、真上や真下からのショットを多用した。それによって、造形性の強い平面構成的な写真を生み出した。(「階段」1 9 3 0 年)


ロトチェンコは光と陰影の強いコントラストによる造形写真が多い。写真ならではの強烈な訴求力がある。(「ライカを持った娘」1 9 3 4 年)


工場、機械、鉄塔など、構造物の構成美を力強く表現した。それによって従来の美意識におさまりきれない、異質な眺めを作りだした。(「火災避難ばしご」1 9 2 5 年)


2021年1月9日土曜日

横顔の肖像画とヒッチコックの「めまい」

 Portrait in profile

「横顔」は文字通り横から見た顔のことだが、その人の経歴や特徴を説明する時の「人物像」という意味でも使われる。英語でも「プロフィール」は「横顔」であり「人物像」でもある。横顔がなぜその人の特徴を表すのかは肖像画の歴史からわかる。


ギリシャ時代、遠くへ去る恋人の面影をいつまでも留めておこうと、ろうそくの光で壁に映った影をなぞって顔を描いたのが、絵画の起源だといわれている。この時、正面の影ではただ丸いだけの影になってしまうので、目鼻立ちの輪郭がはっきりして、その人の特徴をとらえるには横顔でなければならなかった。


その後も横顔で描くことはずっと続き、特にルネサンス期、肖像画はすべて横顔で描かれた。例えばボッティチェリの「若い女性の肖像画」などが典型。やがて遠近法と陰影法が発明されると、やっと正面から描いても顔の特徴を表現できるようになる。ダ・ヴィンチの「モナリザ」は正面の顔だから画期的だった。
1 8 世紀に、絵画ではないが顔の特徴を研究する「観相学」が盛んになる。そのためにギリシャ時代にやったのと同じ、横顔の影のシルエットで顔の特徴抽出をした。そのための「シルエット製造機」なる機械まで発明されたというから面白い。(ストイキツァ「影の歴史」より)






このような、本人を特定する決め手として「横顔」が重要であることを軸にした映画がある。ヒッチコック監督の「めまい」は、ある男が自分の妻を自殺に見せかけて殺そうとするが、それを友人に目撃させて、自殺であることを証言させる計画を立てる。そして殺害に成功するが、その後目撃者の男は、別のよく似た女性が妻になりすまして、自分はだまされていたのではないかと気がつき、真相を調べはじめる・・・

偽物を探すことが話の軸なので、女性の顔の特徴が重要な要素になっているが、そのシーンでカメラは必ず横顔をクローズアップで撮る。若い頃画家志望だったヒッチコックは絵画について詳しい知識を持っていて、顔の特徴は横顔にもっとも現れることや、肖像画が横顔で描かれていた歴史を知った上での演出だという。(岡田温司「映画は絵画のように」より)

男が初めて妻に会う時のシーンでカメラは横顔だけを撮っていて、正面の顔を見せない。


街中で偶然見かけた女性の横顔を見た時、彼女が殺された妻の偽物ではないかと気づく。


女性の本性を見極めようとする時、横顔のシルエットになり顔の輪郭がはっきり見える。


(ついでだが、主役のキム・ノヴァクが一人二役をやっていると観客は信じてしまうが、実は最初から最後まで一人一役で、本当の妻は一度も出てこなかったことに最後に気づく。←ネタバレ)