2023年2月23日木曜日

映画「ベネデッタ」

「Benedetta」 

キリスト教の歴史に関する知識がないと、意味がわかりにくい映画だ。17 世紀イタリアで実在した若い修道女ベネデッタを主人公にして、当時の修道院や教会の聖職者たちの世界が生々しく描かれている。

修道院長は信者たちに高額の寄付を要求し、寄付できない貧しい人たちには、神の救いがなく地獄に落ちると脅迫する(最近どこかで聞いた話と似ている)。また聖職者たちは、教会内の地位上昇を目指して権謀術数を尽くしている。神に仕えるべき聖職者たちが、権力闘争に明け暮れている。(この時代、キリスト教会が堕落して、金儲け主義と権威主義に落ちいっていて、それが宗教改革運動の原因になったという歴史の事実にもとづいている。)

そのような世界に入った信仰の篤いベネデッタは、イエスに対面する聖体験をするが、そのために聖女としてあがめられ、若くして修道院長に登り詰める。しかしこれに嫉妬する前院長は、ベネデッタの聖体験は嘘だとローマ教皇に訴えて、ベネデッタを失脚させようとする・・・

ペストが猛威を振るっていた17 世紀が舞台だが、この小さな町だけは感染者がいないので、外から人が入ってくるのを防ぐため城門を閉めてロックダウンする(コロナの今と同じ)。ところが、ベネデッタの審問のためにローマから来た教皇の使いが感染していて、同じくローマから帰ってきた前修道院長も感染していた。人々に救いを授けるはずの聖職者が逆に不安と恐怖をもたらしたことで人々の怒りが爆発する・・・

ベネデッタは、聖女でありながらも、生身の人間としての欲望を持っている女として描かれていて、聖体験の奇蹟も前修道院長の言う通り、出世するための自作自演の嘘だったことを映画はそれとなく暗示している・・・


2023年2月21日火曜日

映画「バビロン」が描く、 サイレントからトーキーへの時代変化

「Babylon」 

「バビロン」は、ハリウッドの夢を追う若者たちのドラマだが、サイレントからトーキーへと変わる映画の大転換の時代を背景にした彼らの盛衰を描いている。”ハリウッド映画史” として見ることができ、じつに面白い。

20 世紀初めに映画会社は、雨があまり降らず土地が広く、野外ロケに適したカリフォルニアに映画スタジオを作ったのがハリウッドの始まりだった。「バビロン」でその野外撮影シーンが出てくる。戦闘シーンで、自動車にカメラマンと監督が乗って、疾走する騎士に並走しながら撮影している。移動撮影用の専用機材などまだなかった時代だ。


1920 年代に入ると、トーキーが始まり撮影方法が一変する。セット撮影で、映像と音の両方を同時に記録するカメラのモーター音が大きく、防音しないことにはそれ自身のノイズを拾ってしまうので、カメラマンや監督は完全防音したブースに入って撮影する。「バビロン」でそのような撮影現場のシーンがあるが、スタッフの足音やら時計の音やらが入ってしまい何度も何度も撮り直しが続く。そのうち密閉されたブースで撮っていたカメラマンが酸素不足で気絶してしまったりする。


そういう技術的なことよりもっと大きな変化は、「見世物性」が強かった映画が、俳優が喋ることによって「物語性」が強くなっていったことだった。ただ活劇をやっているだけで人気だった大スターがトーキー化とともに ”演技” をしなければならなくなる。「バビロン」で、ブラッド・ピット演じる大スター俳優が、その時代の変化についていけず、凋落していく。映画批評家から面と向かって「あなたはもう時代遅れよ、思い上がらないで」と言われてしまう。


2023年2月19日日曜日

映画「バビロン」

 Babylon

「バビロン」は古代都市バビロンのように、映画が栄華を極めていた時代のハリウッドへのオマージュのような映画だ。20 世紀初めに映画会社が、広大な土地があり、雨が降らず野外ロケに適したカリフォルニアに映画スタジオを次々に作ってできたのが「ハリウッド」の始まりだった。当時の映画は、下層階級の人々向けに、見世物小屋で演芸などの合間に見せる ”見世物” で、俳優や監督など作る側も、金儲けしか考えない無教養でいかがわしい人間たちだった。彼らが連夜繰り広げる狂気の乱痴気パーティー場面が映画の見せ場のひとつになっている。


「バビロン」はそのような時代に、映画で一旗あげようといういう夢を持ってハリウッドにやってきた若者たちを主人公にしている。女優になりたくて田舎から出てきた無知な女の子がひよんなことから大スターになってしまう。また、映画を作りたいという野心でメキシコから移民してきた青年が偶然の幸運に恵まれてプロデューサーに出世してしまう。

しかしやがて、トーキー時代になると映画は一変する。俳優はセリフをしゃべらざるを得なくなり、演技の仕方が根本的に変わってしまい、今までの人気スターは対応できず、落ちぶれていく。また映画自体もたんなる見世物小屋の出し物ではなくなり、豪華な劇場で上映される芸術になっていく。観客はドレスアップして映画を観にいく上品な人たちになり、俳優も監督も知的な芸術家に変わっていく。

かつての栄華が終わり、「バビロン」の人気スターたちは、酒やギャンブルに溺れるようになり、悲劇的な結末を迎える。


2023年2月17日金曜日

エゴン・シーレ展

Egon Schiele 

エゴン・シーレ展 @東京都美術館



エゴン・シーレといえば人物画ばかりと思いきや、風景画や静物画もある。初めて見た。

いろいろな家をパッチワークのように組み合わせた風景
エゴン・シーレらしかぬ(?)装飾的な花の絵。金箔はクリムトの影響(?)

2023年2月11日土曜日

美術作品のネットワーク地図

 Aby  Warburg's Memory Atlas

情報デザインの分野で最近、写真画像どうしの関連性をネットワーク図として可視化する研究がされている。例えば、1枚の写真に同時に写っている2人は友人である可能性が高い。だからこの2人が写っている写真をたくさん集めると、二人を中心にした交友関係のネットワーク図を作ることができる。関係性が近い人ほど近い距離に表示され、関係性の重要な人ほど大きな点で表示される。また点をクリックすると、その人の顔写真が表示される。顔認識や AI などのデジタル技術がこれを可能にしている。


 20 世紀はじめに、これに近いことをアナログ的にやった人がいる。アビ・ヴァールブルクというドイツの美術史研究家で、古今東西の美術に関する自身の幅広い知識をもとにして、古代から 20 世紀にいたる美術作品の図を配置して、それらの相互関連性を可視化した。何らかのテーマのもとに関連する絵画を大きなパネルに配列して表示した。この例では、「情念の過剰化」というテーマで、「ベツレヘムの嬰児虐殺」という聖書の物語を描いた絵を中心にして、それと関連性がある絵が周囲に並べられている。同じテーマのより古い作品や、テーマに関係する新しい作品などで、中央の絵が大きく、周辺に行くほど小さくなるのは、上記の交友関係ネットワークと同じだ。配列の ”アルゴリズム” はヴァールブルク独自の世界観にもとずいている。それは美術史をネットワークとして表す”地図” になっていて、「図版アトラス」と呼ばれる。ヴァールブルクは講演会などでこれを見せながら話したという。今ならさしずめパワーポイントでプレゼンするようなものだろう。


これらのパネルは全部で 79 枚作られたが、原本は失われていて、現在は、ヴァールブルク文化科学図書館に写真が展示されている。なおこれについて「歴史の地震計 アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』論」(田中純著)に詳しく解説されている。

2023年2月9日木曜日

大倉山記念館

Yokohama Civic Art Gallery

大倉山の小高い高台のてっぺんにある大倉山記念館を初めて訪れた。巨大な神殿のような建物の形に驚かされる。ギリシャ建築風の3階建だが、最上階にも列柱がある。円柱は下細りで、下太りのギリシャ建築のエンタシスとは違う。これはギリシャ文明より古く、エーゲ海で栄えたクレタ・ミケーネ文明時代の建築様式になっている。建物ができたのは昭和7年で、設計したのは長野宇平治という建築家で、日銀本店(最近よくニュースに出てくる)も設計した古典主義建築の権威だった。

内部空間は、中央ホールが1階から3階まで吹き抜けになっている。各階の回廊に集会室やギャラリーやコンサートホールなどがある。

吹き抜け3階の天井は、円柱の足元に獅子と鷲のレリーフ下を見下ろしているデザインで、見事なもの。円柱が下細りであることがよくわかる。

いたるところに装飾レリーフが施されている。モチーフは全て正円と正三角形の幾何的図形。

1階の図書館が、この建物の主要施設になっている。昭和のはじめに ”人類文化の普遍的な価値を研究する” という目的で大倉邦彦(実業家で、戦前に東洋大学学長だった人)によって設立されたこの建物は、「大倉精神文化研究所」という研究施設だった。その名残りが現在も図書館というかたちで続いている。

2023年2月6日月曜日

佐伯祐三展

 Saeki Yuzo

佐伯祐三展   @東京ステーションギャラリー



個人的ベスト3(写真はネットより拝借)





2023年2月3日金曜日

映画「飛ぶ教室」

 「The Flying Classroom」

「飛ぶ教室」は、児童文学の最高傑作である、エーリヒ・ケストナーの原作をほぼ忠実に映画化している。時代を現代に置き換えているので、脚色に若干の違いはあるが、原作者の精神はそのまま引き継いでいる。

前回の投稿で紹介した、原作の「まえがき」の言葉がオープニングの字幕で出てくる。「どうして大人は子供時代のことをすっかり忘れてしまうのだろう。子供というのは時にひどく悲しく不幸になってしまうことを決して忘れて欲しくない。エーリヒ・ケストナー」 主人公は捨て子で、孤児院で育ったが、里親に拾われる。その親は船長で、年に一度しか会えないが、それでも幸福感を感じている。それはケストナー自身の生い立ちなのだが、この字幕の言葉にその思いが込められている。


雪の上の乱闘シーン。ケストナーは「やられたらやられっぱなしはダメだ。勇気と賢さを持ってやり返しなさい」と言っている。(左は原作の挿絵)

校則を破って、夜中に寮から抜け出して外出した子供を叱る先生だが、なぜ外出したか理由を聞く。対抗する他校の子供に仲間が拉致されて、それを救い出すためだった。先生はその説明を聞いて、処罰をしない。友情、正義、正直、の大切さをケストナーは説いている。

最後に、クリスマス学芸会で「飛ぶ教室」が親たちの前で演じられるが、決められた劇ではなく、子供達が勝手に作った自作自演のロックミュージカルを演じてしまう。「それが仲間、本当の友情だ」と歌う。それを見ていた先生は、封印していた若かりし頃の自分に思いをはせる・・・

子供たちだけでなく、親や学校の先生に見てもらいたい映画だ。特に校則で子供たちを縛ろうとする先生には。