Counter Culture Movie
「カウンター・カルチャー」とは「対抗文化」で、既成の文化に対して、立ち向かう、反抗する、反逆する、などの意味が込められている。 1 9 6 0 〜1 9 7 0 年代に、既存の価値観や社会体制に反発する若者たちの文化が始まりだった。同時にそれは、社会秩序を揺るがすものとみなされ、世の中の反発も招いた。
「ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間」は、1 9 6 9 年のウッドストックを記録したドキュメンタリーで、原題の副題が「Peace & Music」とあるように、この音楽イベントはベトナム反戦集会だった。集まった若者たちのファッションは、当時のカウンターカルチャーのシンボルだった。長髪、バンダナ、女性のホットパンツ、黒人のアフロヘアー、ジーンズ、などだ。とくに、肉体労働者の作業着であるジーンズをはくことには、階層社会への抗議が込められていた。また当時の大学ではジェンダー差別が普通で、女子学生のジーンズ着用を禁止していたから、女性のジーンズは差別反対のシンボルになった。こういうファッションは ”公序良俗” を乱すものとして、保守派の反感も大きかった。
「ヘアー」のヘアーは、カウンターカルチャーのシンボルだった長髪のことであり、ヒッピーたちが社会に与えたインパクトをテーマにしている。徴兵されて田舎から出てきた純朴な青年が、戦場に送られる直前にヒッピーたちに出会い、彼らの純粋で自由な生き方に魅了される。彼らは人間への愛を歌いながら招集令状を破り捨てている。これはベトナム戦争反対を訴える反戦映画だ。彼らの運動は政府を動かし、3年後にベトナムからの撤退が決まる。ラストで、ホワイトハウスを取り囲んだヒッピーたちの大集会が行われ、ピースマークの旗を掲げながら、勝利の大歓声をあげる。「フォレスト・ガンプ 一期一会」は、カウンターカルチャーと古き良き文化との対立を描いていて面白い。ベトナム戦争の泥沼化の時代、カウンターカルチャーは、反戦運動や反体制運動につながっていった。危機感を抱いたニクソン大統領がヒッピーなどのカウンターカルチャーを批判し、”良識的な” 若者たちに保守体制の維持を呼びかけていた。この映画は、ベトナム戦争に従軍した主人公を国に貢献した ”善い人” として描き、反戦運動にのめり込む女性を ”不良少女” として描いている。フォークシンガーの彼女が歌うのはウッドストックのジョーン・バエズの反戦ソングであり、裸の姿もウッドストックでの肌を見せる女性ファッションと同じで、それらを批判的に描いている。これは体制側に立った映画なのだ。
「イージー・ライダー」は、カウンターカルチャー映画の最高傑作だ。チョッパーと呼ばれる大型バイクもカウンターカルチャーのシンボルだったが、二人の若者がそれに乗って社会のルールを逸脱しまくりながらアメリカ大陸を横断する。途中でマリファナ、ヒッピー、ヒッチハイク、などカウンターカルチャーが次々登場するが、その中で、都会と田舎、若者と年寄り、自由主義と保守主義、などの新旧の価値観の対立が描かれている。最後はその対立が極端な形となって、衝撃的な結末に至る。
「いちご白書」は アメリカン・ニューシネマの名作のひとつに数えられる 1 9 7 0 年の映画で、日本でも同じ頃、東大の安田講堂事件などの学園紛争があり「いちご白書をもう一度」という歌が流行った時代だ。この映画は青春映画の形をとりながら、反体制のカウンターカルチャーである学生運動を描いている。大学でデモを行う学生たちに対して学長は「あんなのは、ボクいちごのケーキが好きと言っている子供のようで、取るに足らない連中だ」と言い放った(コロンビア大学で実際にあった実話)ことからこの題名がついた。権威主義の大学は、学生を排除するために警官隊を導入するが、これも安田講堂と同じだ。
「オン・ザ・ロード」はこれらより少し早いが、1 9 5 0 年代のビート・ゼネレーションと呼ばれる、戦後まもなくのカウンターカルチャー世代を描くロードムービーだ。小説家志望の若者が、仲間と一緒にオンボロ車に乗ってアメリア中を目的もなく走り続ける。既成の道徳に縛られる生き方を拒否して、ただ放埓な旅をする。原作者のケルアックはこの体験をもとに同名の小説を書いてベストセラーになる。後の 7 0 年代のカウンターカルチャーのヒッピーたちは、この小説から大きな影響を受けた。
「気狂いピエロ」はゴダール監督による強烈なカウンターカルチャー映画だ。映画には絵画がたくさん登場するが、監督はそれらにメッセージを込めている。時代はアンディ・ウォーホルなどのポップアートが、既成アートの権威主義を壊そうとしていた時代で、ゴダール監督はそういうアートを使って、良識社会への挑戦をしている。ほとんど全ての画面で原色の赤と青が隣り合わせで映し出される。”調和しない” 色使いは、伝統的絵画の美意識に対する挑戦であり、社会と”調和しない” 主人公自身の象徴でもある。最後は主人公自身がこの世に生きる価値は無いと、自爆してしまうという”気狂い”ぶりだ。