" 2001 : A Space Odyssey "
「2001年宇宙の旅」は、50年ちかく前の作品だが、映画史上の名画ベスト30くらいにはいつも入るし、SF映画部門では断然トップで、もう古典名画と言っていいと思う。今更ながらこの映画のことを取り上げようと思ったのは、いま公開中の「オデッセイ」を見たからだ。これは火星に取り残された宇宙飛行士をありとあらゆる科学技術の知識を総動員して救出するというSF映画。原題は「The Martian」(火星の人)だが、邦題の「オデッセイ」は内容と無関係なタイトルだ。( 本家の "2001:A Space Odyssey" 以降、宇宙ものであれば内容いかんにお構いなく「〜オデッセイ」とつけたB級映画がたくさんある。)
Odyssey(オデッセイ)とは、ギリシャ神話が語源で「長い旅」といった意味で使われる。「2001年宇宙の旅」では人類史を「長い旅」になぞらえた現代版の神話物語とでも言える壮大な映画だった。しかし今では惑星探査も宇宙船も現実のものになっているので、今度の「オデッセイ」はリアルすぎてそんなロマンはない。宇宙が舞台のサスペンス映画と思えばいい。
「2001年宇宙の旅」の公開当時は「難しい」と言われたようだが、50年経った今では意味が理解し易くなったと思う。スタンリー・キューブリック監督のメッセージは冒頭の猿のシーンに凝縮されている。まだ人類誕生以前の頃、猿の群れどうしが水飲み場の縄張り争いをしている。ある時一匹が動物の骨で物を叩くと強い力が出ることに偶然気がつく。彼らは全員が骨を持って相手に襲いかかり勝利する。動物の骨という「道具」を使うことによっ人類が誕生した瞬間だ。
それから人類は道具を進化させ、より強くなっていくという長い旅(オデッセイ)を続けてきた。骨が敵と戦う道具であったように、その後も人を殺す戦争の道具を進化させ、あるいは原子力のような恐ろしいものも作った。そしてこの映画に登場する究極の道具が人工知能を備えたコンピュータで、それが人間に逆らい敵対的になる。今度の「オデッセイ」が科学技術に対して楽天的なのとは対照的だ。
「説明」のほとんどないこの映画では観る人が意味を読み取らなければならないが、科学技術による道具の進化によって行き着く先の世界を暗示させている。人間が人工知能に支配され、人間自身もクローンのような人工物になってしまい、いわゆる「人間」は消滅してしまう。そして人間をそのように「進化」させるように導いてきたのは、実は高度な地球外生命体で、それが人間を支配する「神」のような絶対的な存在であった・・・
当時よりずっと「進んだ」今の時代、もう一度この映画を観る価値があるように思う。