2015年3月27日金曜日

ギャラリー閑人の「一点透視の絵画」展

一点透視の絵画は、見るひとの眼を画面の中へ吸い寄せるような強い求心力を持っています。そんな絵のいくつかの例を時代順に並べてみました。



レオナルド • ダ • ヴィンチ
「最後の晩餐」

天井や梁の線を延長すると消失点の位置はキリストの顔とぴったり一致しています。宗教画では、物語の主役に視線を集めるために一点透視が利用されました。


クロード • ロラン
「踊る農民たちのいる風景」

ロランは絵画から物語性を排除して「風景画」を始めた人として有名。一点透視で描き、消失点の位置に太陽を置いています。そこを最も明るい色にして、周辺に向かってだんだん暗くしていく。つまり遠近法と明暗法を連動させることで強い求心力を発揮させるという手法を発明したのです。



ピーテル • サーンレダム
「グローテ • オフ • セント • パーフオ教会の内部」

教会の内部空間を専門に描いたサーンレダムは、17世紀当時に進歩した遠近法の技術を駆使しました。一点透視を使うことで、広々として奥行きの深い壮大な空間を表現しています。




アルフレッド • シスレー
「サンマメス6月の朝」

一点透視の特徴は消失点が画面の中にあって、道路や並木や建物がそこへ向かって集まっていくことです。それは見る人の眼を誘い込むような効果があります。この気持ちのいい田舎の道をずっと先まで歩いて行きたくなります。




ジョルジョ • デ • キリコ
「街の神秘と憂鬱」


一点透視で描かれているのに、ひとつの消失点に収斂していず、ばらばらにたくさんの消失点があります。遠近法は人間が統一的な眼で世界を見るための方法ですが、この絵では自分の眼があちこち散らばっています。確たる自己を持てないでいる現代人の不安感を表現しているとされるゆえんです。







以上のうちのサーンレダムは、さほど有名ではない人ですが面白いので、次回もうすこし詳しく取りあげてみようと思います。 (当ブログは毎週一回、更新しています。)

2015年3月20日金曜日

ギャラリー閑人の「黒い森」展


前回投稿の「イントゥ • ザ • ウッズ」で、怖い場所としての「黒い森」について書きました。絵画の世界でも「黒い森」は永いあいだ描かれてきたのですが、それらのなかにグリム童話やディズニー映画のイメージの源を見ることができます。 (参考文献:マルセル • ブリヨン「幻想芸術」)


アルブレヒト • アルトドルファー
「森の中の聖ジョルジュ」1510

樹々が猛り狂ったように激しく繁茂していて、空をさえぎり、画面全体を覆いつくしています。森のすきまの眺望は後世の加筆で、元は洞窟の入り口があり、騎士がそこに棲む竜を退治しに入っていこうとしている絵だということです。。 
カスパー • ダビッド • フリードリッヒ
「森の中の猟兵」1814



森の中へ逃げこもうとしている敗軍の兵士が、威圧するような重苦しい樹々のかたまりを絶望的に眺めています。森という強大な自然の力を眼前にした無力な人間の恐怖をシンボライズしています。

ロドルフ • ブレダン
「善きサマリア人」1860

森の中に棲息する食肉植物が残酷な毒液で人間に襲いかかり、すでに人と馬の首は溶けているという恐ろしい絵です。ブレダンは、森の中でうごめく異形の生命がひき起こす、不安や嫌悪や恐怖を描いた人です。


アルノルト • ベックリン
「死の島」1886

ねじれた糸杉の森と岩で覆われた謎めいた島、その墓所へ棺をのせた小舟が入っていく。この幻想の森は神の象徴であり、死者が還っていく場所です。


マックス • エルンスト

「陰鬱な森と鳥」1927

20世紀に森を主題に描いたのがエルンストです。木々は黒こげに焼かれて石化した岩の塊のようです。得体の知れない不気味な森ですが、高層ビルの密集する現代都市のように見えます。逆さまに落下している鳥が時代の不安感を表しています。



これらの絵を見ると、森が単なる風景としてではなく、伝説 • 戦争 • 宗教 • 文明などとの関わりの中で描かれていることが分かります。「黒い森のグリム」で、森がヨーロッパの精神文化の根っこのひとつになっているという指摘がうなずけます。





2015年3月14日土曜日

映画「イントゥ • ザ • ウッズ」の    森のイメージ


「イントゥ • ザ • ウッズ」は期待したとおり面白い。ディズニー映画の多くは、「赤ずきん」「シンデレラ」「ラプンツェル」などのグリム童話がもとになっていますが、それらの主人公たちがいっせいに登場し、お互いに交錯しあいます。題名の「Into the Woods」つまり「森の中へ」のとおり、「森の中の出来事」が映画の軸になっていて、映画の主役は「森」だと言っていいでしょう。たしかにグリム童話 • ディズニー映画のほとんどは、女の子が森の中へ入っていって起る物語です。

「森へ行きましょう〜♫」という歌がありますが、この明るいメルヘン調の歌詞は日本人向け、子供向けにアレンジしたもので、オリジナルのポーランド民謡では全く違う歌詞だといいます。それは「森」という異界へ入っていった若い娘が体験した非日常の出来事を歌ったもので、まったくメルヘン調ではないそうです。日本人の森に対するイメージは、牧歌的であったり、癒しや恵みの場所であったりしますが、この映画で、ヨーロッパでの森のイメージがどういうものかを知ることができます。


大野寿子著「黒い森のグリム」は、グリム童話における「森」の意味について研究した本ですが、それによれば、グリム兄弟の国ドイツには「黒い森」と呼ばれる独特の森に対するイメージがあるといいます。「木々が鬱蒼と茂り光を通さない暗い森」「一度入ったらさまようしかない広大な森」「五里霧中で見通しの立たない不気味な森」「どこへ通じているか分からない不思議な森」といった「怖い森」です。映画でそれが見事にビジュアル化されています。


そのような森は、狼や魔女や巨人や小人、あるいは人間の言葉を話す動物などが住んでいる異質で不思議な場所。そしてそれらは人間に危害を加えたりする危険な場所です。これはグリム童話でおなじみです。映画ではメリル • ストリーブの魔女とジョニー • デップの狼が登場します。

ではどうして人はそのような怖い森へ入っていくのか。「黒い森のグリム」によれば、怖いと同時に、森は「冥界へ通じているかもしれない未知なる場所」「夢を探し求める場所」でもあるゆえに、人間は吸い寄せられ、勇気を出して森へ入っていくのです。映画でも、子供を授かりたい夫婦、牛を売ってお金を稼ぎたい少年、おばあさんにパンを届けたい少女、お城の舞踏会に行きたい貧しい娘、など「私の願いを叶えてもらう」ために怖い森へ入っていきます。しかし人間がひとたび森という無秩序な異界の中へ入ると、自分の欲するものを手に入れようとして、強欲や嘘や裏切りなどの悪を行ってしまいます。「黒い森」というのは、じつは人間の心の中にあるものだと、この映画は言いたいのかもしれません。しかし同時に、森の中でのさまざまな試練を経て最後に森の外へ帰還したとき、人間として再生するという善の部分も描いています。

「黒い森のグリム」で指摘しているのは、このような森のイメージがヨーロッパの精神文化の根っこのひとつになっているということです。そこで次回は、森が絵画においてどのように描かれてきたかを取り上げようと思います。